五月雨の・・・ (壱) 軒を連ねる宿の簾からは、透いた灯が、往来を昼と変わらぬ耀さに彩っている。 宵五ツの鐘をずいぶんと前に聞き、暗雲が月を隠した漆黒の闇にあっても、宿場の喧騒だけは一向途絶える気配が無い。 もう梅雨も間近のこの頃合、ねっとりと肌に纏わりつく風は、紙を翳せば水輪が出来るだろうと思う程に、重い湿り気を含んでいる。 だがその鬱陶しさすら心に無く、地からいずる根に足を絡め取られてしまったように立ち尽くす総司を、今唯一支配しているのは、胸を突き破らんばかりに激しく高鳴る、心の臓の刻み音だけだった。 それでもいつまでもそうしている訳には行かないと、怯む心を鼓舞し、漸く先へ踏み出そうとしたその途端、不意に頭上から降って来たけたたましい笑い声に、一瞬にして動きの全てが止まる。 臆して見上げた視線が、二階の障子に映る、酔客と遊女らしきふたつの影を捉えると、堅く結ばれていた総司の唇から、安堵の深い息が漏れた。 が、たったこれだけの事に、やっと奮い立たせた強気は、返す波よりも呆気なく引いてしまう。 更に一度萎えてしまった勢いは、もう容易な事では戻ってこず、それどころか今度は、その反動のように総司を不安の坩堝に陥れる。 止める井上に案ずるなと笑って試衛館を飛び出し、探す当てすら持たず、ただひたすらに足を急がせて此処まで来てしまったが、知っている筈の町は、昼とは全く別の貌を見せ、そのあまりの変容が、再び総司を惑わせ始めていた。 ――小野路村の橋本家から使いが来たのは、天道も大分傾いた頃合だった。 たまさか近藤は急な用事で留守にしており、食客とは名ばかりの居候の門人達も生憎皆出払い、客を出迎えたのは、井上と総司のふたりだけだった。 橋本家は土方の親戚筋にあたるが、どう云う訳か、土方はこの家の主道助の母には昔から優しい気遣いを見せていた。 その老婆が、この処の天候不順で体調を崩し臥せていたが、一昨日あたりからは、食事もはかばかしく取れなくなった。 直ぐにどうこうと云う事も無いが何しろ老体、一度土方が顔を見せてくれれば本人も喜び力が湧こうと、使いの者は、道助の母を思う気持ちを控えめに伝えた。 だが草鞋をも解かず、来た足でそのまま帰ると云う性急さが、病人の楽観の出来ない状態を物語っているのは否めなかった。 そして勾配のきつい坂を、尚も急ぎ足で下る客の後姿を井上と並んで見送りながら総司は、この時既に、内藤新宿にいる筈の土方を呼戻しに行くことだけに思考を奪われていた。 「・・どうしよう」 我知らず漏れた呟きが、ひどく心許ない。 闇を押し退け、享楽の宴を張る眩いばかりの耀さは、先に進もうとする心を悪戯に躊躇わせる。 けれど足を動かせない理由が、それだけでは無い事も総司は知っている。 土方を探し当てる事、それは即ち、最近出来たのだと八郎が教えてくれた土方の馴染みの女の姿を、否応なしにこの目で確かめる事でもあった。 否、もしかしたらそうしたかったが為に、最後は井上の手を振り切ってまでして、駆け出したのかもしれない。 だがいざその場に行って、一体自分はどうするつもりだったのか。 土方が恋しいと―― 胸の裡だけではもう収まり切れない想いに、嫉妬の焔を逆立て、あらいざま醜い自分を晒け出すつもりだったのか・・ 其処まで思い、ふと我に返り怯えたように首を振り、己の浅慮の結果を今頃知る情けなさに、総司はきつく唇を噛み締めた。 「ひとり、・・らしいな?」 一瞬忘我の淵に追いやられていた、その隙を突いたように掛かった声に、華奢な身が、似合わぬ俊敏さで振り向いた。 「そのように怖い顔をしなくとも良かろう、親切をしてやると云うに」 いつの間にか直ぐ近くにまで来、告げる男の身なりは悪く無い。 それどころか腰に差した二本の刀の鍔に施されている意匠は、ずいぶん贅をこらしていると夜目にも分る。 だがそれは到底実戦用とは云えず、昨今の泰平に馴れ、精神の緩みを指摘される旗本等に良く見られる、装飾品としての刀だった。 瞬きを一度繰り返すか否かの束の間で其処まで見極めると、総司にも漸く相手に対する余裕が戻った。 大柄な体躯から見下ろす眼には、色街の華やかさが背中合わせに持つ、独特の物憂い陰りと荒んだ光がある。 「何処か行くあてを、探しているのか?」 「すみません、先を急ぐのです」 関りにならない方が良いと、横をすり抜けようとした身が、しかし突然出された男の右足に行く手を遮られた。 躓いた途端、普通ならば前へ体勢が崩れる処を、総司の身ごなしの鋭さはどうにかそれを堪えたが、しかし男は間髪を置かず、少しだけ傾いだ肩を掴むと、その勢いのまま叩きつけるようにして、建物の板塀に薄い背を押しやった。 「親切をしてやると云うに、逃げる事はなかろう」 打ち付けられた衝撃で、一瞬気の遠くなった耳に、粘り気を帯びた陰湿な声が誇張する。 「誰かを待っているのか?それとも誰かを求めて来たのか?」 更に耳朶近くにまで唇を寄せての囁きは、吐く息に交じる酒の匂いが執拗に鼻腔に絡みつき、思わず総司は顔を背けた。 それと同じくして身を反転させようとしたが、慣れぬ状況下での動揺が、普段ならば然も無い動きまでを侭ならなくし、辛うじての抗いも、男の腕一本で呆気く封じ込められる。 「怖がらずとも良い」 見下ろす目が好色さを増し、更に身を捩ろうとする総司に男は己の体を押し付け、それで板塀と挟み込んで幾ばくかの余地も失くすと、睨みつけていた瞳が驚愕に見開かれるその様すら楽しむように、細い頤に無骨な指をかけて上向かせた。 「もしや・・ここがどのような場所か、知らずに来たのか?だがそれはそれで、叉一興」 「離して下さい」 「離さぬ。折角良い拾いものをしたと云うに、そのような惜しい事が出来るか」 「私は貴方など知らない」 「これから知れば良い」 すっかり己の手の内に巻き込んだと踏んだ余裕が相手を大胆にしたのか、頤に掛けているのとは逆の手が総司の胸の袷にかかり、声を発する暇(いとま)も無くするりと忍び込むと、それはこなれた所作で鎖骨辺りを探り出した。 「何をっ」 怒りに震える声には応えず、膚の滑りを楽しんでいた指が止まり、やがて満足そうな笑みが男の顔に浮かんだ。 「余計に、離したくは無くなった」 「離さなければ・・」 「離さねば?」 耐え切れぬ憤怒で白から蒼へと染まる面輪の、それを面白がるような笑い声が漏れた。 「応えられぬのならば、仕置きにその口塞いでやろう」 云うや否や覆い被さって来た影で、視界の全てが闇と化した刹那、唇に触れた生ぬるい感触に、総司が一瞬強く目を瞑った。 が、次の瞬間、それまで微塵にも拘束を解こうとしなかった男の体が、弧を描いて弾かれ、後ろへ仰け反った。 「貴様っ・・」 呻き声のような言葉と共に、手の甲で乱暴に拭った唇からは、紅く盛り上がった血の糸が、みるみる顎まで筋を引いてゆく。 「・・見かけによらず強情な・・が、余計に気に入った」 舌を噛み切られ、まだ滴る血を止められずにいる口から、先ほどよりもずっと低い声が、強い視線を投げかけている面輪に向け迸り、細めた眸には、醒めた酔いの代わりに、現で見つけた獲物に牙研ぐ鈍い光が宿る。 その相手に、まるで小動物が全身全霊で威嚇するような激しい瞳で対峙しながら、総司の骨ばった左の親指が、腰に下げていた大刀の鯉口に触れた。 だがそれを切ろうとした刹那、後から凄まじい勢いでぶつかって来た何かが、その先の動きを阻んだ。 と同時に、身体ごと浚われるような感覚に襲われた総司の足は、行き先を定めず地を蹴っていた。 己の身に何が起こったのか―― それを判じさせる暇も与えず、強く引く力が、総司を走らせる。 掴まれている右腕の、更にその前には、今自分を拘束している主が、闇に渦巻く風すら切って先を行く。 後ろ姿だけを見せ走る影に、しかし総司は不思議と危惧を持たなかった。 もしかしたらそれは、つい先程までのおぞましい出来事を、わき目もふらず駆け抜ける事で、いっそ何もかも振り払ってしまいたいと念じる思いが、今は相手に対する警戒よりも勝っているのかもしれない。 だがそんな事をすら即座に忘れさせる勢いは、真っ向からの風に、前髪も、束ねた髪も、単の袖も、袴の裾も、全てが後ろへ後ろへと、瞬く間に追いやられる。 その爽快感に、総司の瞳が細められた。 「・・あんなところで、抜こうとする奴があるか」 板塀に背をつけ、それで身体を支えて、荒い息で言葉も紡げぬその脇で、此方もまだ滴る汗を手の甲で拭っていた長身の主が、初めて声を発した。 張りのある、意外に若いそれに、総司が閉じていた瞼を薄く開き、視線だけを横に流した。 「相手は旗本だ。しかも此処は寺社奉行の管轄だ、事を起こせば後が煩い」 「・・でもっ」 自分へ狼藉を働いた者の顔を思い起こした途端、新たな怒りが込み上げてきたのか、細い面輪にある瞳が勝ち気な色を浮かべた。 「あんなこと、許せない・・」 声を震わせ憤りを露にした強い調子の訴えに、辺りに油断の無い視線を巡らせていた相手が、漸く体ごと向き直った。 「あんたにそのつもりが無くとも、場所を考えれば、あの男の行動は満更責められるばかりのものじゃ無い」 互いの背丈の都合で、少し視線を下に落として語る主の顔貌は、往来からは死角になっている暗がりの所為もあり、細かな部分までは判別しにくいが、声と違わず思ったよりもずっと若かった。 「場所?」 だがその事よりも、総司には自分に無礼を働いた人間を庇う相手の心情が理解できず、問い返した声音が、俄かに硬いものになった。 「知らないのか?」 が、そんな総司の心の機微など、相手には全く頓着無いらしく、それどころか逆に問う物言いには、些か呆れた向きすらあった。 「あの辺りは昔陰間茶屋の多かった処だ。今は岡場所そのものが消えたから、それらしき店は見当たらない。が、店の構えが無くとも、岡場所も陰間茶屋も、此処には少しも変わらずある。だからその界隈に足を踏み入れたあんたを、相手も事の成り行きは承知の上と見たのだろう」 若者はもう息の乱れも無く、語る口調は淡々としている。 が、それを聞いている総司の面輪は、これ以上なりようが無いと思われる程に強張った。 「まさか・・陰間茶屋も知ら無いとは、云わんだろう?」 不意に押し黙ってしまった、総司のその変化に漸く気付いて問う声が、今度は訝しげにひそめられた。 ――幕府から唯一公認されている遊里は、浅草寺裏手の吉原だけであったが、所謂四街道が整備され、江戸からのそれぞれの出入口となる、品川、板橋、千住、内藤新宿の宿場町が賑わいを見せるようになると、娯楽を求める客に応えた形で、岡場所と呼ばれる遊女屋の溜まりも多く出来た。 そうなれば自然遊女の売買がらみの問題も多く発生し、幕府はその都度摘発に力を入れざるを得なくなり、やがて無認可の遊郭は次第に姿を消して行く事となった。 この内藤新宿もその例外では無く、目に余る風紀の乱れに、幾度か宿場廃止を繰り返して来た歴史がある。 だが結局の処、需要があればこれ等の生業も自ずと再生するのが自然の理で、表立って商いはせずとも、月華も届かぬ闇が辺りを包み込めば、それに身を隠し、人々は享楽に嵩じて現の桃源郷を作り出す。 そのひとつ。 陰間茶屋とは岡場所にあって、男娼専門の遊郭の事を云う。 「私はそんな者では無いっ」 細い頤の真中にある形の良い唇から、それに似合わぬ烈しい声が迸った。 「誰もあんたを、陰間などとは言ってはいない」 向けられた憤りを削ぐようなゆっくりとした調子で告げると、若者は総司の腰に重たそうにある二本に、ちらりと視線を流した。 「だがあの場所では、そう云う類の人間と思われても、文句は言えないと言ったまでだ。元々陰間茶屋が軒を連ねていたあそこら辺りは、今もその筋の手合いが引きも切らず集う。だからあんたのような見た目では、間違えられても不思議は・・」 それまでどちらかと云えば、素気無い程に淡々と語られていた言葉が不意に途切れ、所在無さげな沈黙がその後を引き受けた。 「間違えられても不思議は?」 だが口を噤む事を許さぬ硬い声音が、無理矢理続きを促す。 「・・悪かった」 強い色を湛えた瞳に睨みつけられ、暫し気まずい静寂が二人の間を支配したが、やがて若者は、思いの他あっさりと己の非を認めた。 「すまん、本当を云った・・いや、云おうと思った」 直ぐ先にある店に入る客が暖簾をかき上げたせいで、其処から漏れた灯りが後ろから照らし、悪気も無く云い終えて笑った顔が、総司の視界の中で、その貌(かたち)の全てを露にした。 今までは暗がりが邪魔をし、相手の様子の全部が分らなかったが、こうして細部まで観察できるようになると、確かに落ち着いてはいるが、多分自分とそう違わないだろう歳の近さが、頑なになりかけていた心を解きほぐす。 「別に・・怒ってなどいない」 そうして不満のぶつけ処を失くした勢いは、自ずと抗議の矛先をも鈍らせる。 更にこうも簡単に認められてしまえば、怒る自分の方が愚かしくなる。 その両方を持て余し、応える総司の声音に戸惑いが走る。 「悪気は無い、と云えば余計に無礼か・・」 「もう分かったから」 揶揄しているのではなく、心底言い訳に苦慮している顔を見せられて、総司の面輪にも諦めともつかぬ苦笑が浮かんだ。 「それよりも、此処何処だろう?」 一度冷めた頭になれば、急に今在る己の居場所に不安を駆られたらしく、漏れた呟きが心許ない。 「あんたが絡まれていた処からは、もっと西の外れだ」 それに返ったいらえは、この周辺の地理を良く把握している風だった。 「・・ところでその足、捻っているだろう?」 だがその総司の憂いを他所に、若者の右手が突然すいと伸び、左の足首を指差した。 その刹那、指摘した相手を咄嗟に見遣った瞳が、又別の意味で大きく見開かれた。 ――確かに板塀に身体を押し付けられたあの時、不意の衝撃を少しでもかわそうと、上半身に無理な体勢を強いた為、軸となった左足首に思わぬ負担がかかったようで、その時に一瞬痛みが走った。 が、その後の狼藉を交わすのに精一杯で、そんな事はすっかり忘れていたし、そしてそれは、あれだけの速さで走っている最中にも同じ事だった。 だが足を止め、乱れた息を整えている途中から、まるで機会を狙っていたかのように、確かに捻った箇所は疼き始めていた。 しかし何より、歩き出すなりの動きをした時ならばいざ知らず、一歩も踏み出さないこの状態から、それを察した相手の観察の鋭さ、推量の正確さに、総司は驚愕を隠せない。 「そんなに驚く事も無いだろう。腕を引いて走り出す寸座、あんたが僅かに左足を引いた。その時におかしいと思った」 「けれど自分でも忘れていたのに」 「夢中な時は案外にそんなものさ。だが今は痛むのだろう?」 「大した事無い」 笑いながら返したいらえだったが、板塀から背を離し足に力を入れた途端、総司の体勢が少しだけ崩れ、強気を言ったばかりの面輪が歪められた。 「そら見ろ。・・が、駕籠を呼ぶにしても、まだ目立つな」 それを見た若者の眉根が、この先どうするかを思案し、難しげに寄せられた。 「歩いて帰る」 「叉面倒を引き起こすつもりか?」 「・・面倒?」 問い返した声が、我知らず強いものになるのが、総司自身にも良く分った。 若者の口調には、己に降りかかった迷惑を厭うている気配は少しも無い。 だがだからこそ、まだ先程の件が尾を引いて過敏になっている総司の神経に、無遠慮に触れる。 「相手は柚木清四郎。あれでも二百石取りの旗本だが、人品行いはどうあれ、寺社奉行差配も、奴の横暴ぶりには見て見ぬ振りを決め込む性質の悪さだ。事を起こせば厄介この上ない」 「・・貴方は、あの人の事を知っていたのですか?」 総司の声に、更に険しさが籠もる。 「俺が一方的に奴の事を知っているだけだ。・・が、そろそろ本当に此処を離れた方が良さそうだな」 自分に向けられている、警戒と攻撃を露にした激しい視線に、苦笑がてらのいらえを返し、それとなく周囲を見回していた若者の声が、語尾に来て一段低くなった。 それにつられて、総司も賑やかな往来の方角に視線を移せば、確かに忘れもしない人の影が、今度はひとりではなく脇に二人ばかり、明らかに仲間と分かる輩を引き連れて、手近にあった店の敷居を跨ぐところであった。 「ああして店に上がりこみ、気に入らなければ乱暴の限りを尽くす。此処では奴の名を出して、眉根を寄せない者などいない。だがそれを咎める者も、又いない」 招かざる客を迎え入れた主の迷惑を代弁するかのように、風も無いのに諦め悪く揺れている暖簾を見ながらの呟きには、さりとて同情の類も無く、あくまで他人事と割り切っている乾きだけがあった。 「あいつらあんたの事も、聞き込んでいる筈だ」 暫しその動きを追うように、若者は柚木清四郎が消えた店に視線を据えていたが、もう出てくる様子も無いと見定めるや、漸く総司を振り返った。 「・・集めている・・って」 「蛇のような奴だと云うことだ。が、当分は出てこないだろう。俺たちも今の間に消えるさ。・・歩けるか?」 告げる若者の口調が、少しばかり早くなった。 それまで、見ようによっては悠長に構えているとさえ思われた相手の、その僅かな変化から、事は差し迫った状態にあると総司も察し、今度は抗う事無く細い顎を引いて頷いた。 「その足では少し辛いかもしれんが、痛みが堪えられないようになったら言え」 「あのっ・・」 云い終えるや否や踵を返しかけた背を、小さな、それでいてはっきりと聞き取れる声が止めた。 「沖田・・、沖田総司と云います」 立ち止まり振り返った相手に向かい、一瞬の躊躇の後、総司の唇が動いた。 「山口一だ」 「やまぐち・・はじめ?」 「覚えやすいだろう?」 この期に及んで今更名乗る間の悪さに、互いを見遣る顔に、気まずそうな笑みが浮かんだ。 「何処に行くのでしょうか?」 だが名を知った、ただそれだけで、相手に対する距離も驚く程縮む。 問う総司の声に、それまであった硬さが、いつの間にか抜けていた。 「一刻もすれば奴等も諦めるだろうから、それまで身を隠す」 「身を隠すと云っても・・」 「この近くの知り合いの処だ」 「けれどそれでは、その人に迷惑が掛からないのでしょうか?」 無礼の限りを尽くしたとはいえ、柚木清四郎は歴とした旗本だと云う。 しかも寺社奉行ですら、その横暴には知らぬ振りをしていると云う。 先程入って行った店の主の気遣いようも、とても尋常とは思えず、いかな世間に疎い井の中の蛙の総司にも、それだけでこの宿場に於ける柚木清四郎の権勢は推し量る事が出来た。 が、だからこそ自分を匿った事で、相手に余計な気遣いと難が降りかかる事を、総司は案じていた。 「こう云う事には、少なくともあんたよりは、余程に慣れている人間の家だ」 そんな懸念など気にする風も無く言い終えて、今度こそ歩を踏み出した後姿に、それでもついて行くべきか否か総司は暫し迷っていたが、ふと漏れる耀さに惹かれるように、深い色の瞳が賑わいの方角へ向けられた。 ――其処に土方がいる。 探さねばならないのは、橋本家の病人の事を知らせる為であった。 だが本当は、理由など何でも良いから土方を此処から呼戻したかった。 白粉の移り香を纏って戻る姿を朝まで待つには、闇の中で唇を噛み締める時は長すぎる。 今総司の足に枷しているのは、知らぬ相手について行く躊躇では無く、土方を求めてやまない諦めの悪さだった。 一向に後について来ない気配に、山口と名を教えてくれた若者が歩を止め振り向いた。 会話を交わすには既に二人の距離は出来すぎ、先で待つ姿は、動かぬ者を言葉掛けずに見つめている。 その無言の咎めに促されるように、漸く総司の右足が、痛めた片方を庇いながら踏み出された。 「留守に、こんな勝手をして良いのかな・・」 ともし油に熾された灯が、鈍い光の輪を描き、闇との境を曖昧に押し広げて行く。 その様を、戸口に立ち尽くしぼんやりと見ながら総司は、ひとつしかない箪笥の抽斗を、上から順に開けている後姿に声を掛けた。 「気にするな、居候が良いと言えば良いのさ」 「・・居候?」 探していたのは新(さら)の手拭いだったらしく、それを首尾よく見つけて振り返った顔が、事も無げに言い切った。 「俺が此処の居候と云うことだ。そんな事よりも、何時までも突っ立っていたら足が辛いだろう」 畳の敷かれている一間から、申し訳程度の板敷きまでやって来、其処から見下ろす一の視線が更に下げられ、総司の捻った左の足首で止まった。 「冷やした方がいい。水を汲んでくる」 「あのっ・・」 土間に脱いであった下駄を無造作に引っ掛け、目の前を通り過ぎようとしたその背を、総司の慌てた声が止めた。 「・・あの、やはり私は帰ります」 云った途端、深い色の瞳が困惑げに伏せられた。 「気にするなと云った筈だ」 「けれど・・」 声に促されて上げた面輪が控えめに家の中を探り、そうして言葉は再び勢いを失くす。 ――どれ程歩いたのか、天道と月とが支配するのでは、まるで別の世のもののように貌を変えていた宿場の様子は、総司に刻んできた歩も時も、推し計る事を曖昧にさせてしまった。 次第に痛みの強くなる左足を庇いながら後に続き、どうにか辿り着いた此処は、夜目にも粗末と印象づけられる建物が幾つか軒を並べる家作だった。 そしてその一番奥の家の戸を、建て付けの悪さすら勝手知ったる風に、一は臆面も無く開け放ち総司を招きいれた。 外から察せられたとおり、家の中の造りは質素過ぎる程で、ようやっと人がひとり立って煮炊きの出来る土間と、上がり框を少しだけ広めに延ばした板張りと、それから畳が三枚程敷かれた間と・・・視線を一巡するまでも無く、灯が灯された途端、全てが視界の内に収まる狭さだった。 だが家の中は几帳面すぎる位に片付けられており、此処で人が生活しているとは思えぬ閑散とした空気があった。 だからこそ、総司は戸惑っていた。 「山口さん・・」 「一でいい」 「でも」 「名字で呼ばれるのは好きではない」 妙にすっぱり言い切られて、総司の面輪が翳る。 「・・総司、とか云ったな?確か。それでは俺もあんたの事を総司と呼ぶ、それで相子だろう?」 衒い無く告げながら、しかし否と応えるに何処となく躊躇わせる明瞭な物言いは、さりとて不快を感じさせるものでは無く、それどころか不思議と親しみすら覚えさせる。 「で、総司。聞きたい事は何だ?」 改めて問われ、しかし総司は、更に口籠もるように言葉を詰まらせた。 「女なら居ないから安心しろ」 咄嗟に上げられた瞳が、事も無げに言う顔を捉え、驚きに瞠られた。 「大方そんな事に気を遣っていたんだろう?だが此処の主は、生憎五十を疾うに超えた爺さんだ」 「あまり綺麗に片付いているから・・」 とんでも無い方向へと一人歩きした勘繰りを言い訳する声が、気の毒な程狼狽して小さくなった。 「綺麗に片付いている・・と云うよりも、何も無いと云うのが正しいだろう?」 片付いているから女性の住まいだと、即座に結びつけた、総司の稚気ともつかぬ短絡さに、一が苦笑した。 「あんた、幾つだ?」 堪えきれない可笑しさに、まだ十分に笑いを含んだ声が問うた。 「十九です」 それに応える総司の調子が、からかわれたのを承知して、又少しばかり硬くなる。 「・・十九、か」 が、そんな事などお構いなしのいらえが、一の口から意外そうに戻った。 「私が十九ならば、可笑しいのでしょうか?」 明らかに棘のある物言いだったが、しかしこれには言った総司自身が一番驚いていた。 自分がこんな風に、しかもさっき初めて会ったばかりの相手に、あからさまな感情をぶつけるなど、そしてそれを抑え切れないなど、信じ難い事だった。 理解出来ない自分の行動が、益々総司を困惑に追い込む。 「いや、俺も同い年だと思っただけだ」 「・・同い年?」 だがそれを躊躇する隙も与えず、叉も繰り出された事実に、総司が呆然と一を仰ぎ見た。 「あんたも俺も、十九には見えないと云う事だ」 まさかそれよりも遥かに下に見ていたとは流石に云えず、だが自分が歳よりも年長に見られる事を思えば、苦笑のひとつも自然と浮かび、一は不思議そうな眼差しを向けている深い色の瞳に、とってつけた言い訳をした。 しかし一時和んだ眼差しが、すぐさま鋭い光を宿して戸口へと向けられた。 ことりと、一度だけ、それも風の音だと云われれば是と頷いてしまう程の微かな音を、一も総司も人の気配と察して沈黙した。 「爺さんが戻って来た」 身を硬くした総司に、視線を戸口に据えたまま、一が告げた。 「・・が、客が一緒らしい」 続ける声が、まだ見ぬ人間への警戒を露わにし、少しだけ低くなった。 |