五月雨の・・・ (弐)




 建て付けの悪い戸が、幾度か滑る勢いを止められ、漸く半ば程開けられたその隙間から、白髪の老人の背後に立つ者の姿が視界に入った時、総司の瞳が驚きに瞠られた。
「・・・土方さん」
やがて我知らず動いた唇から零れたのは、決して見紛う事無き人の名だった。

「間違いは無かったようで」
老人は振り向くと、後ろの客に安堵まじりの声を掛けた。
「厄介をかけた」
土方は中にいる総司を一瞬鋭く捉えたが、直ぐに老人に向けて頭(こうべ)を低くした。
「なに、大した事はしちゃいません。それよりもむさ苦しい処ですが、話は中に入ってゆっくりされた方がいい。まさか此処まで柚木の奴等も追っては来ないでしょうが、用心に越した事はありません」
体を斜めにし、それで道を開ける事で先に入れと誘う所作に、土方も無言で頷き、長身を屈めるようにして敷居を跨いだ。
だがどのような経緯が二人にあったのかは分からぬまでも、今の会話から、すでに土方が、あの柚木清四郎と自分の一件を知っていると云う事実が、総司に大きな衝撃を与えていた。
「こいつを助けてくれたのは、あんたか?」
土間を踏むや否や、土方が最初に声を掛けたのは、総司の横に並び立っていた一へだった。
「一緒に逃げただけだ」
それまでどんなに素気無いものであっても、総司に対しては余裕の体を崩さなかった一が、短いいらえのその一言に、ずいぶんとあからさまな警戒を籠めた。

身に纏う落ち着きも、歳よりは大人びている一だったが、こうして土方と相対していると、若さ故の堅さ青さが際立つ。
それはどう隠したところで敵わぬ、歳月を経て会得してきた経験の差がものを云っているのだとは、戸口を背に立ち、互いの遣り取りを見ている老人の観測だった。
そしてその事を本能として承知して、殊更相手を意識した結果である一の不機嫌は、もう己の来し方も朧なこの老生にとって、何とも微笑ましいものであった。

「土方さん、どうして・・」
だがそんな一の事情など知らずして、土方の出現は総司の思考の全てを止めてしまったのか、呆然と立ち尽くしたままの唇から、不思議そうな呟きが漏れた。
「試衛館に帰ったら、お前が内藤新宿へ行ったきり戻らないと、源さんが血相を変えて探しに行く処だった」
「では土方さんは、橋本のお婆さまの事を井上さんからもう・・」
「ばか野郎っ」
急(せ)いて問うその途中を、思いもよらぬ怒号が打ち砕いた。
それに総司の身が一瞬びくりと竦み、次の瞬間には細い面輪が硬く強張った。
「お前みたいな奴が、こんな処に独りで来ればどうなるか、分かっているのかっ」
表情と云うものがおそらく読み取りにくい端正な面は、寡黙さがよりそれを助長していたが、突然堰を切ったような感情の迸りは、其処に居る者達に一瞬息を呑ませる程に激しく、この男の裡に秘める苛烈な気性を知らしめるに十分だった。
「けれど・・」
だが叱咤の激昂に萎れるとばかり思っていた老人の予想を裏切り、見るからに頼りない風情の若者は、憤る相手を、果敢にも真っ向から見据えた。
「けれど伝えに来なければ、橋本のお婆さまの事が、土方さんは分からないっ」
強い抗いの言葉を放った唇は、そのまま食いしばるように堅く噤まれたが、睨みつけるように土方を見る瞳は、勝気な色を宿して瞬きもしない。
「お前が来いなどと、誰が頼んだっ」
しかし総司の反駁は、更に土方の怒りに拍車をかけ、頬のひとつも張る勢いで踏み出そうとしたその動きを、それまで無言で見ていた老人が、すいと横に出した右手一本で阻んだ。
「どのような事情かは分りませんが、この老人に免じて、この辺りで仕舞いにしてやっては貰えませんか。そりゃあ、あれだけ血相変えて探しておられたんだ、それがご無事な姿を見た途端、安堵からお怒りに変わる気持ちは良く分かります。ですがとりあえずはこうして会えたと、ひとつ此処いらで・・」
老人の穏やかな語り口は、初め土方へのものだったが、最後は総司に向かい目尻の皺を深くして笑った。
そして静かな物腰にある包み込むような柔らかさは、互いに飛散させるだけだった攻撃の勢いをいつの間にか削ぎ、土方と総司を気まずく黙らせるにも十分だった。

「大声を出し、悪かった」
暫し所在無さげに沈黙を守っていた土方だったが、やがて我に戻れば、それすら大人気ない態度であると気付き、見上げている老人に詫びる声も、自嘲めいた苦笑でくぐもる。
「いえ、そんな事はかまやしません。・・ですがお連れさんは、何処か怪我をしてらっしゃるようだ」
「足を捻ったらしい」
その老人の懸念に応えたのは、土間に降り立ち下駄をつっかけた一だった。
「今冷やそうと思っていた」
「世話をかけたな」
「礼を言われる程の事はしていない」
愛想の無いいらえを返して土方の脇を通り過ぎ、外へ出てゆく一の背を見送りながら、しかし総司だけは、これらの会話とかけ離れ、独り困惑と狼狽の極みにいた。

この家の主らしい老人は、語る中で、土方が酷く案じて自分を探していたのだと教えてくれた。
だから無事な顔を見るなり、安堵よりも怒りが先にたったのだと・・・
だがそうだと知れば、ただ感情のままに当り散らしていた自分が情けない。
否、その抗いとて、土方が白粉の匂いのする誰かと共にいた事への嫉妬を、違う言葉に代えてぶつけたに過ぎないと、嫌と云う程承知している。
だからこそ、矛先を敢え無く手折られれば、どうして謝ったら良いのか、今度はその術を見つけられずに心が萎む。


「足を見せてみろ」
そんな自分にたまりかね、瞳を伏せかけたその時、思いもかけず近くで声がし、慌てて其方を見れば、既に土方は屈み込み、痛めた方の足首を掴もうとしているところだった。
「どうか上がって下さい。その方が怪我の具合も良く判る筈だ」
老人は先に立って履物を脱ぎ、僅かばかりの畳の間へ上がると、隅にあった行灯を引き寄せながら客を誘い、自分は再び土間へ下りた。
「今、一が水を汲んでくるでしょうから」
「いや、もう構わないでくれ。俺達も帰る」
その老人の好意を、この男にしては珍しく柔らかな口調で、土方は辞した。
「ですが・・」
「あんたも商売道具を放ったままではおけまい」
「まさかあんな紛い物ばかりが入った箱ひとつ、持って行く盗人もいないでしょう。それにこればかしの事じゃ、先日の恩返しにもなりやしません」
「恩を売った覚えは無い」
相変わらず足元に屈み、傷の具合を指で押さえて確かめながら、苦笑がてら返したいらえに、全く話の筋の見えぬ総司が、土方と老人の顔を交互に見遣った。
「私はこの方に、先日危うい処を助けて頂いた、大恩があるのですよ」
その総司の不思議に、慕わしげな目を向けて、老人が応えた。
「痛むか?」
更に分らぬ会話の中身を何とか推し量ろうと、瞬きも出来ずにいる瞳の主を見上げ、土方が問うた。
それに慌てて首を振った寸座、圧された箇所に鋭く走った痛みに、総司の唇から小さな呻き声が漏れた。

「骨までは行っていないようだが、だいぶ酷く捻ったな」
眉根を寄せ、くるぶしのくっきり浮き出た細い足首から漸く手を離すと、土方は立ち上がる事はせず、着いたつま先を軸にして、屈んだ姿勢のままくるりと背を向けた。
「さっさと負ぶされ」
その突然の所作の意味する処が分らず、立ち尽くしている総司を、振り向いた声が叱る。
「・・歩いて、帰られる」
「いい加減にしろっ」
先ほどの怒号とまでは行かないにしろ、それでも苛立ちを隠さぬ強い口調に、たちまち白い面輪が強張った。
「いつまでも此処にいれば、迷惑になるだけだ」
その総司の様に土方も、流石に度が過ぎたと舌打ちしたがもう後の祭りで、それどころか諭す調子は、己の後悔を隠そうとするから益々乱暴なものになる。
「うちは良いのです。いえ、いっそ朝まで待って、此処を出たら如何でしょう?」
このままでは埒のあきそうに無い二人の間に割って入ったのは、老人の穏やかな声だった。
「それではあんたが、目を付けられる」
「そんな事は構まやしません」
「あのっ・・」
土方と老人の会話を、総司が遠慮がちに阻んだ。
「すみません、・・あの、帰ります」
自分の駄々が、いかにこの老人に迷惑なものになるのか、それを察せず意地を張り続けていた頑なさが恥ずかしい。
せめてその厭わしい自分を隠すように、俯いて履物を脱ぐと、それでもまだ幾らかの躊躇いを残しながら、総司は向けられた広い背に手を回した。

「厄介をかけた」
人ひとりを背負うたにしては、然程苦にもなっていないような動きで立ち上がると、土方はまだ憂いを解けないでいる老人に向き直った。
「本当に大丈夫でしょうか?」
「この界隈の事なら、あんたよりも詳しい」
「仰るとおりでした」
一瞬方頬だけを歪めた、自嘲ともつかぬ土方の軽口だったが、それにつられた老人の顔には、漸く安堵の笑いが浮んだ。


 見送る老人が先になり戸を開けてくれ、鴨居の低い入口を、背の高い土方がくぐるようにして外に出ると、其処に桶を手にした一が立っていた。
「・・ありがとう」
負われた自分の不甲斐ない様を見られるのが忍びないのか、総司は視線を逸らせるようにして、感謝の念を伝えた。
「もうこんな処には来ない事だな」
「でもっ・・」
「あんな目に合いたくなければ、二度と近寄るな」
一見乱暴とも聞こえる強い言葉に隠されているものが、あの狼藉者から受けた無礼を思い起こせば、未だ悔しさと憤りに震える自分への気遣いだと分かるだけに、総司には一の優しさが余計に辛い。

「俺もこいつも、牛込柳町の試衛館と云う道場にいる。近くで甲良屋敷と聞けば直ぐに分かる、気が向いたら来い」
その二人のぎこちない遣り取りの隙を縫って、土方が言葉を挟んだ。
「生憎そんな暇は無い」
「ならば作って来い」
言葉と共に、引き締まった唇の端に浮かんだ笑みに、若い負けん気が挑発されたのか、一の面に一瞬怒りにも似た険しさが走った。
「土方さんっ」
横柄な土方の態度を、後ろの総司が慌てて咎めた。
「牛込柳町の、試衛館だ」
だがその声すら届かぬように土方は、無言で対峙している主に向かい、今一度念を押すように言い切った。




 宿場を少し外れれば、凡そ物騒な田舎道を、灯りも無しに歩を進めるのは、あの柚木清四郎を警戒しての事だった。

「いい加減に、機嫌を直せ」
もう少し行けば、内藤新宿もすっかり外れると云う処まで来て、初めて土方が背中へ声を掛けた。
梢を弄る風すら音をひそめた闇の中、苛立ち紛れの乱暴な声音が、酷く不釣合いにしじまを震わせる。
それにすら応えず、総司はひたすら沈黙の中にいる。
「橋本の婆さんの処には、明日行く。それでいいだろう」
「・・そう云うのじゃない」
うんざりとした響きに抗うように、漸く小さな呟きが漏れた。
「ではどう云う事だ」
互いの目が交わる事の無い会話の行く先は、同じ方角を見ていても、どうにもちぐはぐに途切れる。
「あんな風に云うなんて・・」
ぽつりぽつり紡がれ始めた言葉は、先ほど土方が一へ見せた態度を責めていた。
「助けてくれたのに」
負われている広い背は、主の素気無さとは遠く違えて、安堵の温もりを与えてくれる。
ともすれば、それに全てを委ねてしまいそうになる自分を奮い立たせ、総司は続ける。
「・・一さん、怒って当たり前だ」
だが土方はいらえを返さず、ただ黙々と歩を進める。
その様が、たちまち総司を困惑の淵へと浚い、批難の声は勢いを失くし、臆する唇は噤まれる。

夜がひとつ、又更けたのか・・・
不意に起こった風が、頬を掠めて行った時、纏わりつくようにあった生ぬるい湿り気が、いつの間にか抜け、肌にひんやりと心地よい。
そう気付いても、土方の沈黙は、それを会話の切欠とする勇気を総司から萎えさせる。

要らぬ心配をかけてしまったのは、確かに自分だった。
昼間の宿場ならともかく、何処の店に上がっているのかも分からぬ土方を、ただ探し当てたいとの一念で、井上の制止も聞かず飛び出してしまった考えの無い行動が、今となっては愚かしい。
土方が怒ったのは、当たり前の事だった。
そして一への態度を引き合いに責めるその陰にあるのは、あの街の何処かで、見知らぬ誰かと過ごしていた土方への、未だ抜けきらぬ拘りに他ならなかった。
責めるべきは、罵るべきは、卑屈で疎ましい自分自身だった。


「忘れないだろう」
それを素直に詫びる事の出来ない己の頑なさに愛想がつき、遂に広い背に顔を伏せようとした寸座、まるでその心を見透かせたように、低い声がした。
「・・えっ?」
「ああ云えば、忘れる事は無いだろう」
慌てて顔を上げた総司に、土方は前を向いたままの姿勢を崩さず続ける。
「忘れない・・?」
「あいつが必要とする時、試衛館を思い出すと云う事だ」
「一さんが?けれど必要とする時って・・」
断片だけを繋ぎ合わせた言葉は、その意図が見えないだけに、総司を戸惑わせる。
「そんな事よりも、お前は当分外に出るな」
それに答えを返さず、又しても突如として命じた声が、今度は有無を言わせぬ程に厳しい。
「柚木清四郎の屋敷は、番町にある。試衛館とは遠い距離では無い。・・万が一と云う事がある」
その名を告げた時、負うている身が一瞬強張ったのを己の背で感じながら、闇の先を見据えた土方の双眸が、激しい憤りの色を湛え細められたのを、総司は知らない。

「・・あの人は、この辺の嫌われ者だと、けれど誰も何も云えないのだと、一さんが言っていた」
躊躇いがちに語り始めた総司の声は、近い距離であるにも係らず、土方が其処に神経を集めなければならぬ程に小さく聞き取り難い。
「だからどうした」
それを励まし先を促す調子は、つい強いものになる。
「私の事を知ったら、あのお爺さんに、何かしないだろうか」
「その為の用心棒だろう、あいつは」
即座に返ったいらえに、だが総司の瞳が大きく見開かれた。
「土方さん、一さんの事も知っているのですか?」
先程まみえた時、あの老人はともかく、土方と一は確かに初対面だった。
それは総司の目からしても、間違いは無かった。
互いに相手を見る最初の視線に、警戒と攻撃とその両方を兼ね備えていた。
だから今土方が、一の素性の一端でも知る素振りを語ったのが、総司にとっては驚愕以外のなにものでも無い。
そして同時にそれは、総司の裡にずっと蟠っていた、あるひとつの事柄へとすぐさま結びついた。
「土方さんはさっき、あのお爺さんの事を助けたと云っていたけれど・・」
「爺さんが役座者に難癖つけられているのを助けた時に、怪我をしていたから家まで送ってやると云ったら、自分には用心棒がいるから後の事は大丈夫だと、そう云ったのを聞いただけだ」
「・・用心棒?」
「ああしている処を見れば、あいつがそれだと思うだろう。が、それでお前を見つける事が出来た」
「一さんのお陰で?」
「あいつが柚木に絡まれたお前を助け、逃げるまでの一部始終を見ていた人間がいた。そいつが奴の顔を知っていて、あの爺さんの処にいると教えてくれた。・・偶然とは云え、妙な縁だったな」
不思議そうに黙り込んでいる総司に、これまでのからくりを打ち明ける土方の口から、初めて低い苦笑が漏れた。
「・・すみません」
だが少し間を置いて聞こえてきた総司の調子は、それまでの会話とは明らかに趣を違えるもので、訝しげに後ろを振り向いた土方の視界に、萎れた憂い顔があった。
「どうした?」
「心配を・・かけてしまったから」
更に続けられる言葉は呟きにも似て小さく、相変わらず伏せられたままの瞳は此方を見ようとしない。
「いやに素直だな」
笑いながら揶揄されても、総司の顔はまだ頑なに上げられ無い。

上げられる筈が無かった。
自分を探し当てるのに、土方がどんなに難儀をした事か・・
一部始終を見ていた人間が教えてくれたのだと、土方は簡単に言ったが、夜を知らない賑やかな宴が繰り広げられるあの街で、自分を見つけるまで、一体どれ程の時を費やさせた事か・・
それを思えば総司の裡に、申し訳無さなど遥かに超えて、ただただ辛い思いだけが逆巻く。

「帰ったら、源さんに謝っておけ」
吹き抜ける風の素気無さよりも愛想の無い声が、無口を決め込んでいる主を促す。
だがそれすら土方の優しさだと知れば、負われている背の温もりと相まって、総司の目の奥が熱くなる。
気を緩めればすぐさま零れ落ちそうになるそれを、慌てて二度三度瞬きして誤魔化すと、声にはせず、総司は縋る腕に力を込めて頷いた。




 やみそうでやまぬ漫(そぞ)ろ雨の鬱陶しさは、人の心の奥底までに湿り気を孕ませてしまうらしい。
それを言い訳にして遣る瀬無い息をつくと、総司は、甲高い掛け声が聞こえる方角に向けていた視線を、白い晒しが厚く捲かれている自分の左足へと移した。

――昨夜土方に背負われて内藤新宿を抜け、途中からは駕籠に乗せられ、試衛館に着いた総司を出迎えたのは、井上では無く、嘗て見たことの無い厳しい顔(かんばせ)の近藤だった。
勝手な振る舞いを咎め、如何に周りを心配させたかを叱る口調は、ともすれば声を荒げそうになる己を押し殺すのが精一杯のようで、時折調整しかねた勢いが言葉を詰まらせた。
その怒り様は、柱に凭れて師弟の様子を静観するに徹していた土方が、遂にはその位にしてやれと助け舟を出す程のものだった。
 
騒がしい時勢の所為か、最近の内藤新宿の治安の悪さは目に余るものがあり、暗くなってからの通行は、常識のある者ならば当然のように避ける。
剣の才は天凛とは云え、それだからこそ、ある種世間に疎い総司が独り行く場所では到底なかった。
すれ違いになってはと止まりはすれど、案じて待つ時は果てなく長く、それが無事な姿を見た途端、安堵が怒りに変わった近藤の心中は、土方にも察して余りある。
だが止めた本当の理由は、己の二番煎じをしている姿を見るのに、些か面映くなった土方の勝手な都合だとは、流石に近藤も知らない。
そして総司の足の晒しは、終始項垂れ顔を上げられずにいた愛弟子に、無骨な手で、近藤自らが巻いてくれたものだった。



「怪我したんだって」
不意の声と共に障子に映った影の主を、総司は伸ばした左脚はそのままに、顔だけを上げて迎えた。
「大した事無い」
「当分歩くのは無理そうだな。が、道場の奴らは皆さぞ喜んでいるだろうよ」
ほどんどが晒しに包まれ、出ているのは僅かに指先だけの足に、八郎は面白そうに目を遣った。
「そんなこと・・」
「お前の稽古じゃ、俺だって御免だね」
総司の稽古の激しさには定評がある、八郎の言葉はその辺りを揶揄していた。
しかしそれに関しては、総司の師である近藤が一番頭を悩ませているだろう事は、同じ道場主と云う立場の家に生まれた八郎にも、十分に察せられる。

総司の稽古は、ほどほどに余裕を持たせ、相手を遊ばせてやる事をしない。
それは実の処、あまり長い立ち合いには適さない、総司自身の脆弱な身体に問題があるのだが、本人はそれを認めたくは無いから、自然対する太刀筋は、一気に相手を倒そうと激しくなる。
だがそう云うものはあくまで敵と対峙した時の実戦用であって、人に技を習わせ上達させるのが基本の、指導とは対極を為すものだった。
人間と云うものは、九分九厘叱咤されても、一厘の誉め言葉で、叉精進する力が湧く。
当節道場を維持して行くには、上達せずとも世辞のひとつも云い、飽きさせず稽古に通わせると云う裁量が必要だったが、総司にはそれが全く出来無い。
むしろ己が今持つ精一杯の技量で対する事が、相手への礼節だと思い込んでいるから、それを諭す方は、逆に酷く後ろめたい気すら起こす。
おまけに近藤の養父の周斎が、総司に関してはそれで良しと目を細めている節があり、最近この若い塾頭の稽古は、あからさまに倦厭される向きすらあった。


「ま、暫らくは大人しくしている事だな。それが近藤さんへの孝行だ」
見上げている瞳にある不満を軽くあしらい、八郎は勝手知ったる狭い室の真中に腰を下ろした。
「八郎さん」
「何だえ」
だが遠慮の無い言葉へ、更に抗議の矛先を向けると思った総司が、そうして八郎が落ち着くのを待っていたように、にじり寄った。
「山口一って人の名前、聞いた事無いかな?」
「山口?」
訝しげに問う八郎に、一縷の希を託すかのように、頷いた総司の面輪が幾らか硬くなった。
「それは何処かの道場で、と云う事か?」
事の前後を省いた、いきなりの切り込み様は、察するに早い八郎ならではの即答だった。
「心形刀流で無くても、八郎さんなら色々な道場の噂が耳に入るだろうから、もしかしたと思ったのだけれど」
「そいつがその・・、」
だが八郎は、いらえの代わりにつと視線を逸らせると、厚く巻かれた晒しの大仰さが、より華奢さを目立たせている足首に、それを据えた。
「痛い目の、係りの主かえ」
「・・・これは」
不意の問いに違うと言いかけ、しかし途中でくぐもる声が、隠し切れぬ総司の狼狽を露わにする。
足の怪我の理由と、山口一との縁を八郎に語るには、その原因となった、あの忌まわしい事柄をも話さねばならない。
それが総司に、口を噤ませる。

「まあいいさ、そいつは聞かずとも。・・だが山口一と云う奴の噂は耳にした事が無い。強いのか?」
その総司の動揺から、かの人物との係りは、本人から直に聞き出すよりは、後で土方から情報を得た方が早いと判じ、八郎は意図して話の筋を切り替えた。
「強い、と思う」
「頼りない話だな、歳は?」
「私と同じだと云っていた」
「若くて、腕の立つ奴ねぇ・・」
聞いた名に覚えは無かったが、それよりも総司の瞳にある真剣さが、八郎の興を動かしていた。
「声を掛けておけば、そのうち素性は分かるだろうよ」
返ったいらえが、自分に味方してくれるのだと知った瞬間、総司の面輪から硬さが解け、漸く安堵の笑みが浮かんだ。
「一さんは、内藤新宿で用心棒を・・」
だがそれに力を得、更に調べてもらう相手について、自分の知る得る限りを話そうとした総司の動きが不意に止まった。

「いたのか」
開け放してあった障子から顔を覗かせた土方は、室には入ってこず、敷居の前で立ち止まると、八郎に視線を向けた。
「生憎だったねぇ」
「顔をかせ」
「俺ので、いいのかえ?」
土方の様子から、どうも総司には聞かせたくない事柄が用件だと察した声が、からかうように笑っていた。
「仕方が無いだろうさ」
一言だけ不機嫌に云い置き、後は無言で踵を返した広い背を、総司の両の瞳が瞬きもせず追うのをちらりと見遣り、やがて八郎も億劫そうに立ち上がった。

「内藤新宿で用心棒をしている山口一、・・・だったな」
上から掛けられた声に、消えた後姿の先に視線を留めていた総司が、慌てて八郎を見上げた。
「そうです。・・あの、すみません」
これから掛けるであろう面倒を詫びる声が、申し訳無さそうに小さくなった。
「・・分かるかな?」
漸く土方の現われる直前の話題に戻り、心許なく問う瞳が揺れる。
「さて、どんなものか」
それに返すいらえの、少しばかり意地の悪い言い回しは、堪えられぬ妬心がさせていると、十分に承知している端正な面が、己の稚気を苦く笑っていた。









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