五月雨の・・・ (参)




「柚木清四郎?旗本の、かえ?」
雨湿りを嫌い、それならば井草よりはまだ木の感触の方が良かろうと廊下に胡坐を組んで座し、雫に濡れる庭を見ながら、八郎は胡散げに問い返した。
「番町に、屋敷を持っている奴だ」
「なら違いは無いだろうよ。二百石、小普請組だ」
だが即答とも云える八郎のいらえに、土方は眉根を寄せた。

 所謂旗本と呼ばれる者の数は、将軍にお目見え出来ない御家人と合わせれば二万はある。その内、四百石に満たない禄高の者が、全体の約半分を占める。小普請組とは、かの範疇における無役の者の、形ばかりの役職名だった。
そして尤も幅の広い、この数多の層の中で、即座に思い浮かべられると云うのは、よくも悪しくも、それだけ柚木清四郎の名が噂に上っていると云う証でもあった。
そしてそれは聞かずとも、世辞にも褒められるものでは無いのが、振り向いて此方を見た八郎の顔(かんばせ)の、隠せぬ懸念の色で分る。
土方の不機嫌は、その辺りを推し量ってのものだった。

「評判は、良くないようだな」
「知っているから、聞いたんだろう?」
「名前だけだ」
「だが俺は、他人の出来の悪さを、敢えて念押しさせられたんだ。良心を痛めた見返りは、きっちり貰うよ」
「良心があったとは、初耳だ」
「あんたよりはましさ。が、何故奴の事を聞く?」
「それが見返りか」
「さてね」
今一度、然して広くも無い中庭に目をやりながら嘯く横顔は、相手を焦らす先に、既に己の勝ちが見えているのか、憎らしい程に余裕の体を崩さない。

「柚木は、昨夜内藤新宿で総司に絡んだ奴だ」
だが土方も端から隠すつもりは無かったのか、いらえは思いの他あっさり返った。
「内藤新宿?・・総司が、か?」
土方をしかと捉えて問う八郎の目に、つい先ほどまで揶揄していた軽さは無い。
「それじゃ、あいつの足は柚木の仕業かえ」
「逃げる時に、捻ったらしい」
調子を強くした八郎に応えず、止まぬそぞろ雨へと視線を移した土方の双眸が、僅かに細められた。
だがそれは、総司に降りかかった災難が、この男にとって憤怒に値するものであるが故の沈黙だと、八郎は即座に判じた。

「俺を探して内藤新宿をうろついている姿が柚木の目に止まり、危うい処だったらしい」
「危うい?」
「奴の相手は、女ばかりじゃ無いと云うことさ」
凡その検討はつけながら、敢えて問うた八郎の胸中に去来する懸念を、土方は短い言葉で具象化した。
「それを助けたのが、山口一か・・」
再び視線を煙る雨に移し、常と変わらぬ洒脱な調子で呟いた八郎の面に浮かんだ険しさを、しかし室にいる土方の側からは窺い知る事が出来ない。
「山口一の事、総司が云ったのか?」
「相当使える奴だと、あいつは踏んだんだろうよ」
顔だけを、ゆっくりと土方へ向けて応えた八郎の双眸には、直前まで宿していた鋭い光りはもう無い。
「必ず何処かの道場で話を聞ける筈だと、信じているらしい。そいつの噂を拾って来いとさ」
「お前も暇潰しの仕事が出来て幸いだったな。が、その前に続きだ」
土方のいつにない急かし方は、柚木清四郎への警戒がさせているとは、八郎にも容易に知ることが出来た。
それ程に、柚木の評判は悪すぎる。
「このご時世、柚木の羽振りは大層なものだ」
事実、八郎の物言いも、淡々とはしているが、あくまで嫌悪雑じりの皮肉に徹している。
二百石取りの旗本と云っても、実収は八十石有るか無しか。
しかもその中から、家禄に応じて決められた数の家臣を雇わねばならない。
この禄高ならば最低五名と決められているが、米の相場も落ち着かず混乱が続く当節、常識から考えて、楽な内証とは云い難い筈だった。

「金の出所は、内藤新宿か」
八郎に謎掛けの言葉遊びをさせる暇(いとま)を与えず、土方の問いは、要所要素だけを端的に突いて来る。
「柚木差配の花街が、内藤新宿の闇にはあるって噂だえ」
それでも焦らすように、核(さね)を曖昧にしたいらえだったが、しかし土方は直ぐさま其処に込められた意図を判じたようで、整いすぎた造作が苦く歪められた。
「が、柚木も馬鹿じゃない。寺社奉行へは其れ相当の見返りは呉れてやっている。それが半端な金でなければ、相手も出世の邪魔にならぬ限り、見て見ぬ振りくらいはしてくれるさ。寺社奉行とて、何も好き好んで降りがかる火の粉を浴びようとは思うまい」
まるで習い事を諳んじるかのような語り口は、総司と柚木の件は一旦裡に仕舞い込んで、今度は土方の面に表れる変化を楽しむにまで戻った、八郎の余裕だった。

――寺社奉行とは、町奉行、勘定奉行の三役の中で尤も位を高くし、譜代の大名が歴任する役職だった。
定員は四人。それが交互に職務に当たる。そしてこの役を経て、老中へと上り詰める、言わば出世街道に外せぬ要職でもあった。
それ故、八郎の云う通り、己が在職期間中はつつがなく勤めを全うする事に、寺社奉行となった誰もが重きを置く。しかもこの役の在任期間は意外と短い。
その事情を慮れば、これまでの寺社奉行が、幕府が禁止している岡場所もどきを、柚木清四郎が何処に作りどう差配していようと、自らに係りにならぬ限り、知らぬ事と目を瞑りたくなるのは至極当然だった。


「どうやらあいつの足の怪我は、幸いだったようだな」
苦笑がてらの声に、気難しげに腕を組み宙を見据えていた土方が、視線だけを動かして八郎を見た。
「あれでは当分、大人しくしている他あるまい?」
「山口一の事か」
総司の気性からして、再びその人物を探しに行くだろうとは、土方の裡にも確信としてある。
だが柚木清四郎の事を思えば、かの人間の蜘蛛の巣同様である内藤新宿に総司が立ち入る事は、それこそ飛んで火に入る夏の虫だった。
それを、八郎も同じように考えたのだろう。
今一度ちらりと向けた土方の視線の先で、その思案すら揶揄するように、品良く引き締まった口元の両隅を、僅かばかり上げた顔が笑っていた。
「ところで。・・出来るらしいな、そいつ」
忌々しげに横を向いた土方の、そんな態度など端から意に介する風も無く、不意に話題を変え問う声には、山口一と云う人間への、八郎の並々ならぬ興があった。
「実戦は知らん」
が、それに返った凡そ無愛想ないらえは、道場での剣術と、白刃の下のものはあくまで別と割り切る、土方の信念の一端を垣間見せていた。
「だが総司に、そいつの事を忘れろってのは無理な話だろうよ」
つと外へ目線を逸らせ漏れた八郎の呟きが、それまでの調子を崩さぬまでも、雨雫に濡れそぼる情景にも似て、何処か物憂げだった。




 牛込柳町にある試衛館から内藤新宿までは、いつもならば気にも止め無い距離だが、思うにならない左足を庇っての道程は、果て無く長いもののように感ずる。
しかも痛みは段々に激しさを増し、その分総司の焦燥も強くなる。

山口一と、彼を用心棒として雇っていると云う老人との出逢いから、既に十日が経とうとしていた。
その間忘れる事など一時も無かったが、捻った足の治癒には思いのほか時が掛かり、更にあの一件で、周りに心配を掛けさせてしまった後悔が、流石に二人を尋ねたいと打ち明けるのを、総司に躊躇わせていた。
そうして独り焦りの日々を送っていたが、図らずもその格好の機会は突然に訪れた。

昨日奉納試合の件で急な便りを受け取った近藤が、小野路村の小島家に出かけたのは、まだ夜も明けきらぬ早朝の事だった。
しかも土方も、一昨日から日野に帰っていた。
この時を逃しては、或いは二度と一に会えなくなるのではと、急く心で朝餉の片づけを手伝い終え、直ぐに試衛館を出たにも係らず、時刻はもう昼になろうとしているらしい。
だが天は厚い雲に覆われ、其れを教える真上からの陽射しは無い。
今年の季節の移ろい方は、常よりも幾分早いようで、新緑を眩く照らす晴天に恵まれたのは僅かばかりの間の事で、その後に続くしとしと雨の日々は、いつの間にか五月雨の様相を呈し始めていた。
近藤と土方、二人に知られてはならない秘め事は、誰にも気付かれぬ内に終わらせねばならない。
それなのに、もうほとんど日常には差し障りの無かった足が、少しばかり長い行程を行きかけた途端、疼き始めたのがもどかしい。
が、その総司の苛立ちも、宿場の賑わいを通り越し暫し行った処で、漸く見覚えのある古びた家作を視界に捉えると、我知らず漏れた安堵の息と共に霧散した。



「ごめん下さい・・」
遠慮がちに掛けた声にいらえは戻らず、暫く待っていても、黄ばんだ障子紙の向こうには掠める影も無い。
半ば予期していた事とは云え、それが現のものとなればやはり落胆を隠せず、立ち尽くす総司に疲れだけが重く圧し掛かる。
しかも空は急速に暗さを増し、吹く風も湿り気を孕み、急激な天候の崩れを教えていた。
その変調が、俄かに総司の胸の裡をざわめかせる。
今日の行く先は井上にも告げず、黙って出てきてしまった。
濡れぬ内に帰らねば、叉案じさせてしまうだろう。
それでも総司は五感の神経をひとつにそばだて、諦め悪く中の様子を探っていたが、やがてそうしている事にも根尽きたように小さな溜息をひとつ吐くと、一瞬起こった、束ねた髪を横に弄る程の強い一陣の風を切欠に、のろのろと踵を返した。
が、その足が、最初の一歩を踏み出す前に、ぴたりと動きを止めた。

「あんただったのか」
家作の始まる一番手前辺りで、遠方の影を見極めるように目を細め、それが総司だと分ると、然程驚いた風も無く山口一は声を発した。
「誰か尋ねて来たと云うから来てみれば、意外な客だったな」
「・・私は此処で、誰にも会わなかった」
「入口の家の奴が、裏から出て教えに来てくれたのさ」
瞳を瞠り、ひたすら驚きの中にいる総司の直ぐ際まで来て並び立つと、一は僅かに苦笑し、不思議のからくりを教えてくれた。
「そんな・・」
だがそうと知れば、見ず知らずの誰かに、自分の行動のつぶさを見られていた羞恥が総司を襲う。
「此処にいる奴は、皆余程の事が無ければ姿を見せない。だが其れは身を守る為で、悪気は無い」
「身を守る?」
「そうしなければならない、暮らしをしていると云う事さ。が、それよりも、俺はあんたに二度と来るなと云った筈だ」
面倒そうな物言いと仕草が、総司に次の言葉を噤ませる。
「ともかく入れ。用なら中で聞く」
相変わらず建て付けの悪い戸は、今にも降り出しそうな湿り気を木の節々まで隈なく吸い込み、更に引く手を煩わせているようだったが、一はそれを器用に宥めすかせ、大きな音も立てずに開くと、己の脇を空け、後に立つ総司に入るよう促した。


 天道の無い外の重鈍な色が余計にそうさせているのか、足を踏み入れた土間は、先夜来た時よりも、更にひっそりと静まり返り、裏寂しさすら感じさせる。
「あの・・お爺さんは?」
開けた戸は、閉める方が難儀するようで、何とか桟と桟を合わせ終え此方を向いた一に、総司は躊躇いがちに問うた。
「商いに行っている」
「・・あきない?」
「宿場女郎や飯盛り女を相手に、小間物を売っている。女達が店に出る仕度を始める今頃が、丁度商売どきと云う事だ」
「では一さんの商いは、そのお爺さんの用心棒なのですか?」
漸く自分を取り戻した総司の声が、いらえの揚げ足を取って、可笑しそうに笑っていた。
「爺さんが、云ったのか?」
「土方さんが・・・」
教えてくれたと言いかけて、総司は一瞬口ごもった。

それまで会えた嬉しさだけが先立ち失念していたが、あの別れ際の土方の態度は、一にとって決して愉快なものでは無かった筈だ。
その事を咄嗟に思い出した深い色の瞳が、戸惑いを隠しきれずに揺れ動く。

「あいつ、爺さんを助けてくれたそうだな」
だがそう間をおかず返った声音は、思うほど険しいものでは無かった。
「爺さんから、聞いた」
伏せかけた瞳を慌てて上げた総司の視線の先に、此方を見ている一の、苦笑ともつかぬ笑い顔があった。
「又危ない目に合うといけないから送ると云ったら、家には用心棒がいるから大丈夫だと、お爺さんに断られたそうです」
「俺の代わりに、仕事をしてくれたと云う訳か。・・が、あんたの事で、あいつとは貸し借りは無くなったな」
告げる物言いは淡々としているが、しかしその中味は、相手に対して決して良い感情の先にあるものとは云えない。
それを聞いた途端、一を見る総司の瞳が翳る。
「俺は怒っている訳ではない」
だが一は、すぐさま総司の困惑を見取ったのか、言い訳する調子は凡そ愛想の無いものであったが、それを語る声には、憂いを濃くする者に、慰撫する術を見つけられずに戸惑う、ぎこちなさがあった。

「それより、今日は何だ?」
殊更振り切るような調子が、確かにまだ土方への拘りは捨て切れていないと、如実に物語っていたが、だがそうして話題を切り替えることが、一の自分への気遣いだと知れば、総司とてこれ以上固執する事は出来ない。
「お礼を言いに来たのです」
言い切って向けた面輪には、やはり不器用に作った笑みがあった。
「礼?」
「あの時のままに、なってしまっていたから」
「礼を云われるような事はしていない。来るな、とは云ったがな」
「でもっ」
「そんな事よりも・・」
総司の食い下がりを軽く遮り、一は華奢な足首に視線を移した。
「その足」
「え?」
「痛まなかったか?」
云われて慌てて自分の其処を見る総司の様に、半ば呆れたような吐息が聞えてきた。
「あれだけ走らせたのだから、それだけは気になっていた」
「あの位の捻挫や打ち身ならば、いつも稽古の時にしている」
応えた笑い顔が、漸く邪気の無いものに戻った。

「そう云えば、どこぞの道場にいると云っていたな」
腰に差した二本を抜き、上がり框に腰を下ろし、総司にも掛けろと目線で促しながら、一は土方の言葉を思い出しているようだった。
「牛込柳町の、試衛館です。・・知らないのでしょう?」
「道場なんぞ、掃いて捨てる程あるからな」
乱暴ないらえを返しながら、しかしそれが自分が知らなかった事への、申し訳なさの現われなのか、一の視線が決まり悪そうに逸らされた。
だがその一瞬、相手の表情の変化をつぶさに見つめていた深い色の瞳に、少々意地悪く、悪戯げな色が浮んだ。
「一さん、良い人なんだ」
「そう云うあんたは、危なっかしい奴だな」
「何故?」
「あまり迂闊に人を信じない方がいい」
「そうかな」
「俺はそうしている」
「でも助けてくれた」
「通りかかっただけさ」
「それでもいい」
「勝手にしろ」

まるで意地の張り合いのような、何処まで行っても交わりの見えない平行な会話であったが、何故かもう少しこのまま続けていたいと・・・
自分でも説明できぬ不可思議すら心地良いものにして、総司は不機嫌に歪められた横顔を嬉しそうに見ていた。



――昼は過ぎたのだろうが、天道が行方知れずのこんな日は、時の流れすら緩慢なものに思わせる。
元々寡黙な性質らしく、聞かれた事には応えるが、一の言葉は酷く短い。
総司自身も、自分から話を作り出すような器用さを持ち合わせてはいないから、二人の間にはしばしば沈黙の挟間が生まれたが、それも互いに不快なものでは無いらしく、途切れながらも会話が仕舞いになる事は無い。

「・・あのお爺さん、一さんの本当のお爺さんでは無いのですか?」
「いや、違う。何故そんな事を思った?」
そんな風だから、傍で聞いていればずいぶん突然に思える総司のこの問いも、二人の間では然して不自然なものではなかったらしく、返ったいらえにもそれを厭う様子は無い。
「・・元は武士だったのかなと、思ったものだから」
「案外、いい勘をしているんだな」
意外そうな物言いは、見くびっていたと云わんばかりの遠慮の無さだったが、総司を見る目は笑っていた。
「すまん。悪気は無い」
「分っている」
だが直ぐに付け足した詫びの、慌てたその物言いにこそ、総司が小さく笑った。
「お爺さんの話し方や物腰は柔らかいけれど、でも相手にへりくだっているとか・・そう云うものではなかった。・・厳(いかめ)しいとも、又違うのだけれど」
伝えたい事柄を、上手く言葉に出来ないもどかしさに、総司の調子が次第に勢いを失くしてゆく。

老人には、確かに遊女相手に小間物を商っている人間とは思えぬ風格があった。
それは内から滲み出る品性に裏打ちされたものなのだろうが、総司は最初に受けたその印象を、武士(もののふ)の持つ威厳に近いものと感じ取っていた。
総司自身を取り巻く環境が、道場と云う特殊な世界ひとつであれば、対比させるのが其処一点に限られるのは仕方の無いことだった。

「爺さんの名は佐平と云う。・・高崎と云う処を知っているか?」
「高崎?・・中仙道の?」
「そうだ、その高崎だ。元々は、そこで藩の御用も預かる小間物問屋だったらしい。尤も本人の口から聞かされた訳では無い」
「一さんにも言わないって・・」
藩の御用も預かる大商人となれば、確かにあの人品も納得できるが、それを隠すと云うのは、佐平の過去にそうしなければならない何かがあったのだろうか。
他人の事情に踏み込む事を憚りながらも、総司の唇が躊躇いがちに動いた。
「言いたくないから言わないのだろう。俺も聞いた事は無い」
「ではどうして一さんは、その事を知ったのです?」
「出会って少しばかりした頃、この宿場で丁度すれ違った旅の人間が、爺さんを見るなり、担いでいた荷を放り投げる勢いで駆け寄って来た。・・旦那様、と叫んでな」
「旦那様?それではその人は、お爺さんの店の人だったのでしょうか?」
「爺さんは知らぬと、袖を掴んだそいつの手を振り払って逃げてしまったが、捕まった俺はしつこく居場所を聞かれた。そいつが云うには、元は爺さんの店の手代だったという事だ」
「でも一さんは、その人に何も話さなかった」
そうでなければ、今もこうして用心棒を続けている筈が無い。
それは総司の確信だった。
「話したいのならば、爺さんもあんな風には逃げ出さないだろう。だから余分な事は喋る必要は無い」
いらえは、やはり寸分も違わず予想した通りのものだったが、云い終えて黙した横顔が、少しだけ硬くなった様に見えるのは、果たして己の取った裁量が老人にとってそれで良かったのかと、未だその懐疑に捉われている一の憂慮のように、総司は思えた。
「・・降って来たようだな」
が、その沈黙を一は自ら破り、不意に視線を戸口に投げかけると、外の景色を濡らし始めているであろう雨の気配を、少しばかり鬱陶しげに総司に教えた。

同じように其方に瞳を向けながら、だがその時一は、手代と名乗った者から、触れられるを拒む老人の事情をきっと聞き出していると、総司はそんな気がしていた。
話の筋を逸らせるにしては、あまりに不自然な切り替えようが、隠し上手とは云えない一の不器用を物語っているようで、そしてそれに妙に安堵出来る自分を、総司は不思議な思いの中で感じていた。


「一さんの事を、何処かで聞けはしないかと思っていたけれど、駄目だった」
音も無く、粛々と地を湿らせる雨の静けさが、余計に閑散さを感じさせる殺風景な家の中で、ふたり並んで框に腰掛け、途切れかかった会話を繋げたのは総司が先だった。
「何処かで、とは?」
「何処かの道場で、誰か一さんを知っている人はいないかと思って、聞いてもらったのです」
八郎に頼んだ事柄を、当の本人を前に打ち明けるには後ろめたさが先立ったが、しかしそれよりも、隠し事をしたくないと云う思いが、総司に勇気を強いた。
「俺が修業をしていたのは、無外流の小さな道場だからな。大きな流派とは縁が無い」
勝手な探りを入れていた事を怒るでもなく、いらえは驚く程すんなりと返り、更に言葉の終わりには低い苦笑すら交じった。
「無外流?」
「知っているのか?」
「名前だけ」
「だろうな、当節流行の流派じゃない」
唇の端に、僅かに笑みの名残を留め、此方を向いた一の物言いには、皮肉な言葉とは裏腹に、自嘲めいたものは微塵も無い。

 無外流は、禁欲的なまでの精神性の高さを追求する教えだった。流派を継ぐものは代々独り身を通し、その後は又弟子の中から優れた者を選んで後継者とする。
しかし極限まで精神的な鍛錬を強いる厳しさは、太平楽に慣れた世の人間には次第に倦厭されるようになり、流派自体も衰退を辿っていったと云う経緯がある。

「・・が、今は俺流だ」
つい今しがた、己の流派を語る中に誇りすらあった一の口調が、間違いかと思われるほんの一瞬重いものになったのを、総司は聞き逃さなかった。
「それは道場に、行っていないと云う事ですか?」
多分その事は、一にとって触れられたく無い部分なのだろうと察しつつも、敢えて問う総司の面輪が、必死に自分を鼓舞しても、まだ足りない躊躇で強張る。
「あんたがそんな顔をする事は無いだろう」
だがあまりに真剣過ぎる瞳に見つめられた一の方は、些か面食らったようで、発した声がそれまでと調子を違えて慌てた。
「別に俺は、破門になった訳では無い」
補いの言葉は、それで相手を慰撫するつもりだったらしいが、凡そ素っ気無い物言いは、後悔にいる総司を益々追い詰める結果になってしまったようで、遂に深い色の瞳が申し訳なさそうに伏せられた。
「俺が好きで家を飛び出したから、道場にも足を向けていないだけだ」
更に付け足された言い訳は、思いもかけず真実を曝け出す結果となり、驚いて上げた総司の視線の先に、もう隠す事を諦めた、一の苦い笑い顔があった。

「好きでっ・・て・・」
「家は兄が継いだ。だから俺は身軽だと云う事だ」
淡々と言い切る声はひどく乾き、だがそれだからこそ、この一言が、一にとって如何に語り辛いものであったかを総司に知らしめる。
「・・・そんな言い方。黙って出てきてしまったのなら、一さんの家の人達は、きっと心配している」
真っ直ぐに向けられた視線は、逸らす事の出来ぬ真摯さ故に、それを受ける側は、少なからず気まずい思いに駆られる。
「あんたも、大概な節介焼きだな」
己の裡にふと立った感情の逆波を悟られまいとの語り口は、意図せずとも不機嫌なものになるのを、一自身も禁じ得ない。
「そうかな・・・けれど私の兄は、いつも気に掛けてくれている」
それに臆する風も無く応える総司の脳裏に即座に浮んだのは、姉光の良夫、林太郎の穏やかな笑い顔だった。
「兄?」
「義理の兄なのです。私は上がふたりとも姉だから」
「ではあんたが跡取なのか?」
「そうじゃない。家は義兄が継いでくれているから、何も心配はいらないのです。それに姉と云ってもずいぶん歳が離れているし、私には母みたいなものだから」
「親は?」
「父は顔も思い出せないし、母の事も、もうあまり覚えていない」
「余計な事を、聞いたようだな」
「けれどその分、今は賑やかなところにいる」
云ってしまってから後悔にいるらしく、気まずく押し黙ってしまった主に、総司の屈託の無い笑い顔が向けられた。
「・・でも。兄も姉もあんなに良くしてくれるのに、私は不孝者で、ふたりに何も返すことが出来ない」
そこが触れられて心痛な処だったのか、それまで一を見ていた深い色の瞳が、曖昧に伏せられた。
「俺に比べれば、どんな奴でもましさ」
重いだけだった一の物言いが、不意に和らいだと思ったのは一瞬の錯覚だったのか・・
それでも総司は、今の一言を自分への気遣いと受け止め、顔を上げた。

「一さんが此処にいる事は、本当に誰も知らないのですか?」
「知らせたくないから、出てきたんだろう」
呆れた笑い声が、雨湿りの土間に零れ落ちた。
「俺の両親は子に恵まれず、兄を養子にした。が、皮肉なもので、その途端に俺ができた。・・兄は俺の父親の上役の二男だったが、無理を云って貰った子だった」
漸く笑いは止まったが、それでもまだ語る声にはその名残が有る。
「親爺には、実子が生まれたからと云って、兄を差し置いて俺に家を継がせるつもりは無かった。だが兄は違った。兄は俺が家督を継ぐのを邪魔せぬよう、何れは自分から身を引くつもりだったらしい」
「お兄さん、一さんの事を大事に思っていたんだ」
「俺の兄にしておくには、出来が良すぎる」
語尾に自嘲めいた響きがあったのは、その優しさに応えられぬ己自身へ向けた、一の憤りなのだと総司には思えた。

「・・その兄が、嫁を貰う事になった」
「それならば一さんも、もう気にする事は無いのでしょう?」
妻を娶とるとならば、いずれ家督を継ぐのは当然となる。
「そう上手く行けば、問題は無かった」
不思議そうに聞く総司に視線を合わせず、土間の一隅に視線を据えて語る一の声音は、天の気まぐれに弄ばれる人の定めに怒り、だがそれを疾うに諦めているように物憂げだった。
「その時に兄の実家が、これも丁度良い機会だと、援助を惜しむものでは無いから御家人株を買わないかと云って来た」
「御家人株を?」
「御家人株と云ってもそう高い位のものではない。だが名前だけでも御家人ならば、今の家禄とは雲泥の差がある。兄の実家は内証が良く、養子に出した子に何かをしてやりたいと、それも親心なのだろうな」

――御家人とは、旗本と同じく将軍家の直参家臣を指すが、その中でも将軍に御目見え出来ない家格に位置付けられた者達を云う。
又小禄であることから、当節その身分は売買の対象となり、継承する家格によって相場が決まっていた程であった。

「買ったのですか?それを・・」
「いや、兄自ら断った。援助を受けて御家人株を買えば、もう親爺は兄の実家に何も云えなくなると、判断したのだろう。しかも援助してくれると云うその金で、自分は大坂にある蘭学塾に行き、学問を勉強したいと言い出した。・・全ては、親爺や俺に対する気遣いからだ。だが俺はもう、そんな兄を見ているのが嫌だった」
「それで家を?」
そうだと敢えて云わぬまでも、途切れた言葉を繋がぬ沈黙が、何よりも一の真実を物語っていた。
「・・けれど、お兄さんは一さんの事を、きっと案じている」
迷いにいる者に、遠慮がちに告げたそれは、我が身と置き換えて言い切れる、総司の確信だった。

「上手く、行かないものだな」
それが世の中の理(ことわり)なのか、それとも自分の不器用さを云っているのか・・・
そのどちらとも言わず、一は唇の端を歪めただけで笑った。








事件簿の部屋      五月雨の(四)