五月雨の・・・ (四) 「もう少しすれば止むでしょう。そうしてからに、しなさった方が良い」 手拭いではたくようにして、着ているものの雨雫を拭いながら、先程一が佐平と名を教えてくれた老人は、総司に親しげな眼差しを向けた。 だが老人の帰宅は、思いもかけず過ぎてしまった時の経過をも総司に知らしめ、そうなれば後ろめたさを持つ心は、途端に落ち着かなくなる。 「けれど、黙って来てしまったから・・」 「そんなもの、とっくにばれているだろう。今更多少遅くなった処で変わりない」 気もそぞろに立ち上がった身の横で、此方は框に腰掛けた態を崩そうとしない一が、からかいともつかぬ宥め方をした。 「意地の悪い事を云うものじゃない。・・これはこんな無愛想な奴ですが、決して悪気は無いのです。勘弁してやって下さい」 言葉で一を咎め、そのまま総司に視線を移した佐平の顔には、厳しい言葉とは裏腹に、若い者への小言を楽しんでいるような笑みが浮かんでいた。 「一さんの意地悪には慣れました」 「それは、有り難い事です」 屈託の無い笑い声につられるようにして、向けられていた相好が崩れた。 「口の悪い用心棒で、雇っている方は、時折冷や汗をかきます」 「どうして一さんは、用心棒になったのですか?」 聞きたくて仕方の無かった、しかし当の本人からは終(つい)ぞ聞き出せなかったその経緯を、和やかな会話の流れに紛らせて、総司は自分を見ている老人に問うた。 「拾ったのでございますよ」 が、いらえは拍子抜けする程、あっさりと返った。 「・・拾った?」 「はい、拾ったのですよ」 濡れた手ぬぐいを、ささくれの多い柱の出釘に引っ掛けながら、佐平は再び事も無げに言い切った。 「腹が空いているのならついて来いと、拾われたのさ」 どう応えて良いのか分らず口ごもり、しかし何よりも驚きに瞳を見開いている総司に聞こえてきたのは、苦笑交じりの一の声だった。 「家を出たのはいいが、さて何処へ行くか思案して、この内藤新宿で二、三日過ごした頃、酔客に絡まれていた爺さんと、もうひとり夜鷹を助けた」 「夜鷹?」 「知らなくは、無いだろう?」 夜鷹とは、闇に身を隠し客を引く、私娼の事を指す。 が、そう云う世間と今の処疎い環境にある総司には、その存在を現の形在るものとして、もうひとつ把握出来ないようで、一を見ていた面輪が曖昧に頷いた。 「さっきあんたの事を教えに来てくれたのは、その夜鷹さ」 「この家作の一番入口にある、家の人なのですよ。柚木をかわして逃げた貴方が、一と一緒だと、だから私に聞けば行方が分かる筈だと土方さまに教えたのも、お甲さんなのですよ」 甲と云うのは一の云った夜鷹の事らしかったが、それよりも再び総司が瞳を上げたのは、思いもかけず土方の名が出た、その事への反応だった。 「その時爺さんに、腹が空いているのなら飯と寝る処をやるから、用心棒にならないかと誘われた」 だが流石に其処まで、総司の心裡を読み取る事は出来なかったようで、出会った時の事情を聞かせる一の面には、まだ記憶にそう遠くない過去を思い出し、苦い笑いすら浮んだ。 「寒い季節でしたから、どうやら懐も心許無いらしい恩人を、私も雪の中に放り出すのは少々後ろめたかったのですよ」 笑えば目尻の皺がよりくっきりと刻まれる顔を、佐平は更に楽しげに崩すと、喉の奥を鳴らすようにして笑った。 「それから、一さんはずっと此処に?」 一瞬心に起こった動揺は、砂に戯れる漣(さざなみ)のように尾を引き、それを悟られまいとの声音は、隠そうとする分だけ、ぎこちなく上ずる。 「はい。もう・・かれこれ、半年になりますか。物騒な世の中ですから、こんな老いぼれの僅かな稼ぎでも、狙おうとする輩はおります。それで腕は確からしい一に、用心棒を任せたのですが、これが思ったよりも頼みになりました」 そんな総司の葛藤を知らずして、佐平の静かな語りは続く。 「どんなものだかな」 が、直ぐに返ったいらえは、自嘲の裏返しのように愛想の欠片も無いものだったが、老人はそれを嗜めるでも無く、少しだけ双眸を細めた。 「一も何れは家に戻らねばなりませんが、ついつい私の我儘に付き合わせてしまっています」 「戻る家が無いのだから、俺も都合が良い」 「そんな事を云うものでは無い。自分が良かれとした行いとて、相手にはただ辛い思いだけをさせている事もある」 一瞬総司が息を呑み其方を見遣った程、それまでの穏やかさが嘘のような、厳しい佐平の口調だった。 「時が経てば、その内否応無しに忘れるさ」 「一っ」 鋭い叱咤は、既に一の事情を承知してのものだと判じられたが、二人の間に流れる剣呑な空気は他の者の介入を許さぬ険しいもので、無言で見つめる総司の面輪も強張る。 「本当の事だ」 「まだ分らないのかっ」 「分らなくて十分だ。・・・それよりも、客のようだぜ」 しかしこう云う遣り取りには慣れているのか、老人の怒りの矛先を軽くかわした一の視線が、そのまま戸口に流れ、束の間其処に止まっていたが、やがて何かを察したように、不意に隣の総司に向けられた。 「今度はあんたが、説教される番だな」 からかいにも似た言葉が最後まで終わらぬ内に、黄ばんだ障子紙が、長身の人影を映し出した。 それを一の横で、構えを作り息を殺して見つめていた総司の瞳が、しかし直ぐに大きく瞠られ、次の瞬間、框に掛けていた身がゆらりと立ち上がった。 佐平もどうやら特徴のある影だけで、相手の正体を判じたようで、急いで戸口に駆け寄ると、始めは用心して少しだけ隙を作り、やがてそれが思った通りの人の姿だと知るや、今度は急いで全部を開けて、客を招き入れた。 「叉、厄介を掛けていたようだな」 信じ難いように呆然と凝視している総司にではなく、土方は佐平に声を掛けた。 「私らの事を気遣って、来て下さったのです。あれから柚木に悪ささせられてはいまいかと、ずっと案じて下さっていたのでしょう。要らぬ心配をかけ、申し訳無い事をしてしまいました」 老人の言葉は、身じろぎも出来ずに立ち竦んでいる者への労わりに終始し、目元に浮かべた笑みは、強い叱責は勘弁してやってくれと、先回りして土方に訴えていた。 「・・あの、土方さん、どうして此処が・・」 だがその土方と老人を見ながら漸く掛けた総司の声は、当人自身が、今一度喉の奥に仕舞いこんでしまいたい程に、狼狽を露にして掠れた。 「お前の考えている事など、教えられなくとも分かる。昨日橋本の家に居たら、今日近藤さんが小野路村に来ると、小島の家から使いが来た。ならば俺も近藤さんも居ない今が、辛抱の切れ時だろうと思って寄ってみれば、案の定だ」 厳しい顔(かんばせ)から漏れた声は、聞かぬ者への憤りと、此処で巡りあえた事への安堵が複雑に絡み合い、常のそれよりもずっと低い。 土方は日野からの帰り道、己の勘に任せて此処に足を向けたらしく、身に纏っているものも、途中からの雨で強か濡れている。 「・・すみません」 自分の胸の裡も行動も、ひとつ残らず看破されていた事に、瞳を伏せて詫びる声が、不甲斐なさと羞恥でくぐもる。 「近藤さんが戻らぬうちに帰るぞ。俺はもうお前を庇うのは御免だ」 不機嫌を骨頂にしたような荒っぽい物言いに、細い頤の先にある顎を微かに引くだけで、総司は無言のまま頷いた。 「その方が良いでしょう。ご自分を案じてくれる方に、心配を掛けてはいけません」 その場の気まずい間を、ふと和らげるような声にやっと総司が瞳を上げれば、佐平は土間の片隅に立て掛けてあった傘を手に取り、それを土方に差し出す処だった。 「使い古したものですが、今位の雨ならば凌げるでしょう」 「返しに来るのは、先になるが」 「使って頂ければ、嬉しいのです」 「では借りる。行くぞ」 意外に皺の少ない老人の手から傘を受け取ると土方は、先程からひと処に立ち竦んでいる頼りない身を促した。 その強い調子につられ、先を踏み出しかけた総司の足が、しかし躊躇するように一度止まり、腰掛けたままの一を見遣った。 「・・あの、又来ます」 「もう礼は聞いた」 「そうじゃ無い」 「あいつが、待っているぞ」 勢いが先走る訴えを遮ると、一は顎をしゃくる仕草で、既に傘を開き、此方を見ている土方の存在を教えた。 遠目でも十分に判じられる、かの人間の苛立ちが、深い色の瞳を困惑と狼狽に翳らせたが、だがそれすら振り切るように、総司は一の姿を自分の真正面に捉えた。 「又、来ます」 もう何を応える気も無いらしい主に一層強く言い切り、横に立つ佐平にも、深くこうべを下げて几帳面な礼を尽くすと、漸く遅れた分を取り返すかのように、薄い身が、土方に向かって駆け出した。 一度に引いてしまった人気の名残は、それがあまりに強く印象に刻まれたものであっただけに、横の板敷きに触れれば、まだ其処に確かな温もりがあるような錯覚すら呼び起こす。 その現と記憶の間にある曖昧に騙されて、ふと手を翳そうとした自分の愚かさを、一は声にせず苦く笑った。 「柚木に、会わねば良いが・・」 「それを避ける為に、急いだのだろうさ」 まだ戸口の際に佇み、出て行った者達を気遣って漏れた佐平の声に、板に触れようとした手指を握りこんだ一の、素気無いいらえが戻った。 「おまえにも素直になれる相手が出来て、私も安堵した」 それを怒る風も無く、振り返った顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。 「大した勘違いだ」 「勘違いならば、それでも構やしない。だがお前とあの若いお人とは、きっと良い関係でいられる。年寄りの言う事は、今は戯言と笑っても、幾つか歳を経る内には案外本当になるものさ」 佐平の語り口は、若輩者の驕りを諭す厳しさは少しも無く、あくまで静かに、それどころか己の思い込みの行く末を、何処か楽しんでいる風すらあった。 「そんな先の事など、考えても仕方が無いだろう。それより柚木の奴、今夜も慈石寺なのか?」 その話題を続ける事が癇性だったのか、一は乱暴に立ち上がった。 「一、・・」 脇に置いてあった大小を取り上げ、荒々しく腰帯に差込むまでを、佐平は無言で見ていたが、やがて自分の前を素通りしようとした長身を、少しだけしゃがれた声で止めた。 「今晩の見張りを終えたら、お前は此処を出て行け。高崎での訪ね先には、お前の事を知らせてある、だから何も案じる事は無い。そうしてほとぼりが冷めた頃に、親御さんの元に戻れ。・・・私の用心棒は、今夜を限りで仕舞いだ」 「俺は此処にいる。幾度も同じ事を云わせられるのは御免だ」 苛立たしげに吐き捨てた言葉の語尾は、力任せに開けた戸の軋む音と重なった。 だが二度と振り向かぬ背を見送る老人の双眸には、揺るがぬ意志を貫くと決めた者の、強靭な光が宿っていた。 ひとつ傘に、ふたつ身を寄せて歩く道は、絹糸のようにそぼ降る雨の静けさが余計にそうさせるのか、無口のままの時が続く。 それでも遂に辛抱の緒が切れ、傘を持つ土方を見上げた総司の面輪が、しかし会話の糸口を見つけられず、直ぐに又伏せられた。 その視線を分っても、暫し無言を決め込んでいた土方だったが、やがてそれの幾度目かに、とうとう根負けしたように、堅く結んでいた唇を開いた。 「今度は助けてやらんぞ」 待ち望んでいた声は不機嫌そのもので、意地の悪い言葉は、近藤から受けるであろう叱責の事を云っているのだとは、総司にもすぐさま判じられた。 「・・分かっている」 「分かっているのならば、どうして勝手な真似ばかりをする」 更に容赦無い責句に、ともすれば叉沈黙に入りたがる弱気な自分を叱咤し、総司は土方を仰ぎ見た。 「お爺さんと一さんに、迷惑が掛かっていないかずっと心配だった。それにもう十日も経っているのだから、あの柚木と云う人だって私の事など忘れている」 「馬鹿野郎っ」 突然の怒声は、僅かばかりの言葉のやりとりで、安堵の内に心を置きかけていた総司の身を、びくりと強張らせた。 「ああ云う手合は、己の侭にならなかった者には固執する。奴の舌を噛み切って抗った挙句、逃げたお前の事を、そうそう簡単に忘れるかっ」 溜まり溜まっていた鬱憤を、全て其処にぶつけるかのような土方の激しさだったが、しかしそれに怯むよりも先に総司の心の臓を凍らせたのは、柚木に為された狼藉の一部始終を、土方がつぶさに知っていると云う事実だった。 いっそこの場から身を隠してしまいたい逆巻くような羞恥が、身の内を熱くする。 突然、地に絡めとられたように足を止めてしまった総司に、一歩先を進んだ土方が振り返った。 「どうした」 腕を伸ばし傘を差しかけてやりながら、訝しげに問う声にも、総司は唇を閉ざしたままで応えない。 雨に当たったのは瞬く間であったのに、もう前髪を濡らしている雫が、伏せた瞳の際まで滑り、その縁を辿って細い頤を伝い落ちる。 ――柚木の、乱暴に抗いきれず、口を吸われた事が悔しかった。 けれど何よりも、それを土方に知られてしまった事が、今どうしようも無い情けなさの渦中に、総司を浚っていた。 辺りを朧に霞ませるしとしと雨は、傘で凌いでも、ふわりと包み込むようにして身の芯まで濡らす。 「手の掛かる奴だな」 応えぬ頑なさを諦めた、吐息交じりの声が、俯いた総司の耳に届く。 「近藤さんには、俺を迎えに来た事にしておいてやる」 不意の言葉に籠められた意図を判じかね、漸く伏せられていた瞳が土方を見上げた。 「だからさっさと歩け。お前に付き合って濡れるのは御免だ」 一言、無愛想な顔のまま言い置くや踵を返してしまった広い背を、総司は暫しぼんやりと見ていたが、やがてそれが視界の中でずんずん小さくなると、置いていかれるのを怯えるように、止まっていた足が慌てて水輪を蹴った。 息を弾ませ追いついた身に、傘の輪が大きく傾けられた。 「それでは土方さんが、濡れてしまう」 「出迎えの、褒美だ」 前を向いたままの横顔も、素気無い物言いも、不機嫌な声も、待ってはくれない足の早さも、何ひとつ変わるでは無い。 だがそれこそが、自分が垣間見せてしまった動揺への、土方の労わりの限りだと知れば、総司の心の裡に、滋雨よりも優しい温もりが染み入る。 交わす言葉も無く、身を寄せ合うようにして行く道はまだ果てない。 出来るのならば、それが終わる時が来なければ良いと―― そんな想いの丈を気づかれぬよう、総司はほんの一瞬だけ、傘をかざす人の横顔を仰ぎ見た。 三日も天道を見なければ、短気が売り物の江戸っ子で無くとも、流石に鬱と滅入ってくる。 張り出しもだいぶ古びて傷んでいる軒下で、差して来た傘を一振りして雫を払うと、八郎は案内も乞わず玄関を上がり、勝手知ったる屋敷の中を、そう急ぐでもなく奥へと歩き始めた。 が、道場から聞えて来る掛け声に神経を集め、その中に探している者のそれが無いのを知ると、端正が際立った顔(かんばせ)を、少しばかり渋く歪めた。 「総司はいるかえ」 問うた相手は行儀悪く横になり、束の間まどろんでいたようだったが、突然の声に然程驚いた風もなく、肱枕に乗せていた頭だけを動かし、ちらりと八郎を見遣った。 だがそれも一瞬の事で、すぐに叉面倒くさそうに背中を向けた。 「総司はと、俺は聞いているんだぜ」 「寝ている」 「それは、あんただろう」 無愛想ないらえをひとつ返し、叉眠りにつこうとしている相手の邪魔をするように、遠慮なく室に踏み込み脇まで来ると、八郎は立ったまま胡乱に土方を見下ろした。 「夜通しあいつの世話をさせられた。寝かせろ」 余程に眠気が強いのか、億劫そうな声には、いつもの鋭さが無い。 「夜通し?総司、具合が悪いのか」 座り込んで問う八郎に、とうとう寝るのを諦めた土方が、漸くのそりと身を起こした。 「昨日雨に濡れて風邪を引き、夜は熱が高かった。身が熱ければ、夜具も剥ぐ。だから見張りをさせられた」 すっかり体を縦にして、八郎に向けた双眸は、もう常と変わらぬ隙の無い土方のそれだった。 「で、総司は?」 「だいぶ熱も引いたから、今は眠っているだろう」 「ならば後で顔を見に行くさ」 心裡で安堵の息をつきながら、しかし八郎の胸を一度暗くした翳は消えない。 この小さな町道場の塾頭は、頼りない見かけを裏切らず、周りが危惧する脆い肉体を有している。 もしも与えられた剣の天凛と引き換えに、それを授けられたのだとしたら、歳月とともに研ぎ澄まされて行く総司の技の鋭さこそ、八郎に取っては畏怖に値するものだった。 いつかこの天賦の才が、総司自身を儚きものとするのではと―― だが常に己につきまとう不吉な杞憂を、八郎は土方に視線を据えることで強引に振り払った。 「今日の用は、俺にか」 その八郎の面を真っ向から捉えて、土方が問うた。 「総司には、聞かせたくない話らしいな」 臥していると聞いたならば、こんな処には足を止めぬ八郎の日頃を思えば、こうして座り込んで動かぬ様に、土方が不審を抱いたのは至極当然の事だった。 「昨夜、柚木清四郎が斬られたよ」 それに直截には応えず、つい先日話題の端に上らせた人間の不幸を、まるで世間話のついででもするように、八郎は淡々と口にした。 「誰に」 いらえはすぐに返ったが、土方のそれにも又、然したる驚きは無い。 だがちらりと向けられた視線を待っていたように、八郎の唇の端が緩められた。 「山口一」 「もう少しましを云え」 「俺は本気だよ」 「奴が斬ったと云う証は」 「据えもの斬りのような、見事な一閃だったらしい」 「見ていた奴がいたのか」 「云った奴は其処に居合わせた柚木の手の内の者で、斬られたのは慈石寺と云う、くたびれた寺の境内だ」 土方の詰問に、殊更のんびりと応える八郎の調子には、仏になった者への悼痛は些かも無い。 「寺で殺られたのならば、後の始末に困るまい」 それに輪をかける遠慮の無い言葉は、此方も又、柚木と云う人間に対する土方の癇症だった。 だがその根底にあるのが、総司に係る一件だとは、八郎にも云わずと知れる。 「あいつが斬られたと聞いた時、俺はあんたがやったのかと思ったよ」 この男の稚気を片頬だけを歪めて揶揄しながらも、しかし仮に自分が柚木を斬る事になっても何の躊躇いも持たなかっただろう事を思い、八郎は浮かべた笑みを、自嘲のそれへと変えた。 「俺ならば斬った証を残すなど、馬鹿な真似はしない」 が、水を向けられた土方も、満更嘘でも無さそうに呟くと、かいた胡坐ごと身を回し、八郎に向き直った。 「その寺で、賭場でも開いていたのか」 「ご多分に漏れず、さ」 「柚木が、賭場主か」 「よく知っているねぇ」 己に狂気の恋着を強いる想い人が、唯一の者として追う主を捉えた八郎の双眸が、鋭利に細められた。 「周知の事だ」 だがその一瞬の挑発を知らず、土方の不機嫌面は直らない。 「ところがその先が、面白い」 「もったいぶらずに云え」 「表向き、柚木はまだ死んだ事にはなっていない」 「どう云う事だ」 謎掛けの明かしを促す声が、俄かに焦れる。 「寺社奉行が、頭を悩ませているんだろうよ」 「寺社奉行が?」 内藤新宿は、寺社奉行の管轄下にあった。 斬られたのが旗本とあらば、流石にただの刃傷沙汰で終わらせる訳には行かないと云うのは分る。 だが疾うに息の無い人間を、生きている事にしているその理由を推し量りかね、土方の眉根が寄せられた。 「今月の寺社奉行は、先だって老中になった板倉殿の後を継いだばかりの、若い井上河内守だ。この事件が明るみに出れば、今まで内藤新宿を意のままに動かしていた柚木の横行までもが露見し、何故気がつかなかったと責められるのは必定。着任早々貧乏くじを引いたと、今頃は慌てているだろうよ」 「ならばさっさと病死と認めれば、一気にけりがつこうに。ご大層な事だな」 それをせず、未だ当人が生きているかのように見せねばならない役人の事情を、土方は面倒くさそうに吐き捨てた。 「斬った山口一を、警戒しているのさ」 「まさか自分が斬りましたと、名乗り出る馬鹿はいるまい」 「柚木に最初に斬りつけたのは、老人だったらしい」 「老人?」 「その老人を返り討ちにした柚木を、山口一が斬った」 途端に、聞いていた土方の顔に厳しいものが走ったのを視界の端に捉えはしたが、しかし八郎は語りを止めない。 「しかもその老人、孫の仇だと叫びながら、柚木の前に飛び出したそうだ。老人は柚木に斬られたが、そのまま山口一と姿を消した。寺社奉行が病死届けを阻んでいるのは、全てが終わった後に、老人と山口一に、あれは仇討ちだったと名乗り出られるのを恐れているのさ。仮にそうなれば、柚木の悪行と、横死を病死にした事を黙認した二つの嘘が、同時にばれちまう」 寺社奉行が、何故時を稼いでいるのか―― 八郎の云う通り、斬った相手の所在が掴めず、今後を懸念しての事ならば、柚木家では一刻も早く二人を探し出し、止めを刺そうと躍起になっている筈だった。 そうしなければ、柚木家は取り潰される。 土方の脳裏に、からくりの糸が繋がった途端、もうひとつの杞憂が頭をもたげた。 「井上河内守は、あと三日、時を稼いでいるのさ」 だが土方の思惑の更にその先を、八郎は端的についた。 「交代か」 「そうだ。月が替われば、後は次の奴に任せてしまえる」 寺社奉行の定員は普通四名、それが月番で交代する。 それ故、あと三日で月が替われば、面倒な処理を後に任せて逃げられると、八郎は云っていた。 「それからその老人だが、斬られた傷は深く、今生きているかどうかも、定かで無いらしい。・・・俺の聞いたのは、其処までだ」 一部始終を語り終え、そぞろ雨に濡れる庭に向けていた目を、八郎は漸く土方に戻した。 昨夜の出来事の詳細を、ここまで正確に集められる伊庭八郎と云う男の、諜報力の広さ、迅速さには驚嘆すべきものがある。 それを思いながらも、表情ひとつ変えるでも無い土方は、しかしこの一件に関し、八郎を根底で動かしているものが、総司への飽くなき恋着だとはまだ知らない。 「さて、そろそろ目も覚めた頃か」 鬱陶しい長話を自ら仕舞いにすると、八郎は当初の目的の為に、切れの良い身ごなしで立ち上がった。 「伊庭」 その後姿に、短い声が掛かった。 「この事」 「云わないよ」 病人には知らせるなと、口止めする言葉を遮り踵を返した背が、億劫そうに応えた。 八郎が去った後も、土方は暫し軒を叩く音が強くなった雨雫を見ていたが、やがてゆっくり立ち上がると、物憂げな表情のまま室の敷居を跨いだ。 そうして縁に出、十分すぎる湿気を吸っても、まだ軋む板張りを踏みしめる脳裏に、佐平の顔が蘇る。 些細な因果で知り合った老人は、遊びに通う宿場で、その後幾度か出会う事があった。 短い言葉を交わすようになったある日、話の最中に突然神妙な顔になり、自分に何かあった時、もしもそれが耳に入ったのならば、用心棒として雇っている山口一と云う若者を、この宿場町から逃してやって欲しいと、驚く程の金を握らせようとした。 その時は端から聞く耳を持たなかったが、思いもかけず総司が係る事になり、更に事態が老人の云った通りの展開になったとあらば、最早知らぬ振りして通り過ぎる訳には行かない。 確かに。 気をつけて見ていれば、佐平は柚木の縄を張った範疇でのみ商いをし、その動向を探っていた節があった。 だが今自分を面倒の渦中に飛び込ませようとしているのは、必ず又山口一を訪ねて行くであろう総司が、二人の危難を知る前に、全てを解決しておきたいと云う、土方自身でも呆れる厄介な感情だった。 さても、佐平と山口一の居所は掴めるのか・・・ 視界の先を朧に煙らせる五月雨を見ながら、土方はどうにも遣る瀬無い憂鬱の息をついた。 |