五月雨の・・・ (五) 「笹団子?」 「そう、嘗ては戦の際の、非常食だったと云う」 包んだ笹の端と端を、井草で縛った見慣れぬ菓子を手にし、初めて聞く名を繰り返す深い色の瞳の主に、堀内左近は笑みを浮かべて頷いた。 「越後に、長岡と云う城下がある。そこの人間が、昨日江戸へ出て来た折に、土産にと持参してくれた。中は塩餡ゆえ、普通の団子のように甘くは無いが、これが中々に旨い」 「堀内さまのお客さまなら、お酒と一緒に食べていそうです」 「当たりだ。持って来た人間は、これを肴にすれば幾らでも酒が進むと豪語し、実際良く食い良く呑んだ。が、それを目の前で見せ付けられていた私は、流石に閉口した。塩餡とは云え、菓子は菓子だからな」 峻厳な面構えを歪めての、うんざりとした堀内の物言いに、遂に堪え切れ無い笑い声が、総司の唇から零れ落ちた。 二年程前に溯るが、番町に屋敷を構える旗本堀内左近は、試衛館の内弟子であった総司を養子に欲しいと、隠居していた周斎と、道場主の勇に願い出た事があった。 しかし当時まだ宗次郎の幼名であった総司が、頑なにそれを拒み、堀内の希は叶う事無く終わった。 が、それ以後も縁は切れる事無く、時折こうしてふらりと尋ねて来ては、手合わせを楽しんだり、総司の方も、堀内家の裏庭にある桜の木が花をつける頃には屋敷を訪れ、むしろ親しいと云える付き合いを重ねていた。 一度は柳生流の後継者と目された程の人物が、何故四十半ばかそこらで、世捨て人のような隠居生活をしているのか―― その事情を嘗て土方が簡単に教えてくれたが、しかしそれは総司にはどうでも良い事だった。 天然理心流の他は知る機会のあまり無い総司にとって、堀内と竹刀を合わせ教えを受ける時は、常に興味深く楽しいものであった。 そして何よりも近藤のそれとも又違う、堀内左近と云う人物の醸し出す、包み込むような大きさが、どこか総司を安堵させた。 父とはこう云うものなのだろうかと、ふとそんな思いに捉われた事も、幾度かあった。 今日も珍しい土産の裾分けにとやって来た堀内は、風邪で臥している総司の室に案内されてくると、間の良い見舞いになったと嬉しそうに笑った。 「けれどそんな風に云ったら、折角遠い処から持って来られた方に、お気の毒です」 見知らぬ土地の名物と云う菓子に、瞳を止めたまま相手を庇う声音が、まだ可笑しさを消しきれない。 「罵詈雑言を四方八方から浴びせられても、何処吹く風と嘯いていられる神経の持ち主だ。これごときの皮肉、くしゃみのひとつにもならんだろう」 言葉とは裏腹に、堀内の笑い声にはその人物への親しさが籠められ、少しの険も無い。 「・・あの、ではもしかしたらその方は、堀内さまの処にいらっしゃるのでしょうか?」 だとしたら自分などの為に、遠方からの客を屋敷に独りにさせておくのは申し訳ないと、咄嗟に過ぎった懸念が、総司の面輪を困惑に染めた。 「いや、その者は、今の処は長岡藩藩士であるから、江戸藩邸のお長屋を暫時の居としている。だから気遣いは要らない」 「今のところ?」 「今の処と云う言い方が、一番当てはまるだろう」 怪訝に呟いた総司に向けられた双眸が、更に愉快そうに細められた。 「当人は藩主忠恭殿の学問指南役に命じられる程の逸材ながら、どうやら臍が曲がりすぎたきらいがあるらしく、周囲が呆れる程あっさりそれを辞退した。その後遊学と称し、暫し国元を離れていたが、昨年漸く長岡に戻った。そんな輩ゆえ、又いつ放浪癖が出るか分からん。が、その忠恭殿が、先々月寺社奉行に任命され、来月初めての月番が回ってくると云うので、急遽国元から召し出されたものらしい。難題に当った時の知恵袋だと、本人は豪語しているが、さてどのようなものか」 「寺社奉行さまの?」 その手並みを楽しみにしている風な堀内の語尾を取り、問う総司の瞳が、寺社奉行と云う言葉の厳(いかめ)しさに驚き瞠られた。 「そう、昨今江戸の町も宿場も、物騒が過ぎるからな。・・そう云えば一昨日の夜も、内藤新宿の寺で刃傷沙汰があったと云う」 「・・内藤新宿で?」 それまで柔らかな笑みを浮かべていた面輪が、ここ暫くの間に急速に係わりを深くした町の名を聞いた途端、不自然に硬くなったのが、傍目でも十分に見てとれた。 「総司殿には、何か気がかりでも?」 その不意の変化を見逃さず、堀内の声にも不審と懸念が混じる。 「いえ・・内藤新宿は出稽古に行く時によく通るので、知った寺かと思ったのです。・・あの、その寺の名は何と云うのでしょう?」 笑い顔で誤魔化す言い訳は、不器用が邪魔をしてぎこちない。 「慈石寺と云う寺だが、・・知っているのだろうか?」 微かに首を振り、否と応える総司を見る堀内の面に、安堵の色が浮かんだ。 「あのような寺には、あまり関わりを持たない方が良い」 「あのような、寺・・?」 明らかにその場所を厭うている口調に、深い色の瞳が堀内を見上げた。 「慈石寺は、私の妻の墓がある寺だが・・」 「堀内さまの奥さまの?」 「左様。・・尤も墓と云っても、苔生した石がひとつ。其処に妻は多くの遊女達と一緒に葬られている」 堀内が唯ひとり妻と決めた女性は、事情があって苦界に身を堕とし、出世の邪魔となる事を恐れて自ら命を絶ったのだと聞いていた。 淡々と語る調子からは、裡に秘める感情の襞まで読み取る事はかなわないが、その事に堀内自身で直に触れられれば、何と応えて良いのか戸惑い、総司は瞳を伏せた。 「総司殿がそのような顔をする事は無い。妻が鬼籍の者となったのは、もう疾うの昔、貴方が生まれる前の話だ」 だがその様に慌てたのは堀内の方だったらしく、今にも項垂れかねない総司を、少しばかりからかうような笑い声が慰撫した。 「私が妻の死を知り駆けつけた時には、既に慈石寺に埋葬された後で、多くの遊女がひとつ石の下に眠る其処から、妻の亡骸だけを掘り起こす事は諦めねばならなかった。それから月の命日には墓参りに足を運ぶようになったのだが、一昨日は丁度和尚がおらず、寺小僧が前の晩に庫裏であった刃傷沙汰を話してくれた」 「庫裏で、刃傷沙汰があったのですか?」 庫裏とは、寺の住職たちが寝起きや賄をする、言わば内所のような処で、普通外部の人間は立ち寄らない。 曖昧な知識とは云え、総司の疑問はその辺りにあったらしく、怪訝な色を湛えた瞳が堀内を見た。 「寺と云っても、夜は無法者達の集まる賭場に変わるような処だ。庫裏も名ばかりで、荒くれ者達が稼いだ金を、一時集め置く場所だったらしい。そんなだから、刃傷沙汰など珍しくも無いのだろうが、たまたまその場を見てしまった小僧は、誰かに話したくて仕方が無く、うずうずしていたのだろう。それで顔を知っている私に、つい辛抱が切れて語ったらしい。斬られたのは旗本。それも賭場を仕切っていた主と云う事だ。斬ったのはまだ若い侍だったらしいが、どうやらその旗本に斬られた小間物屋の老人を、庇おうとしての事らしい」 一気に語り終え、苦々しさを露に眉根を寄せたのは、同じ旗本と云う立場にある者の為体(ていたらく)を腹に据えかねる、堀内の憤りなのだろう。 だが今の一言は、同時に、一瞬にして全身の膚が粟立つような緊張を、総司の裡に走らせた。 「その寺の人は、斬った相手の顔も見たのでしょうか」 「やはり総司殿は、何か気がかりがあるようだな。・・それは斬ったと云う相手の事を、案ずるものなのだろうか?」 袖を通さず、夜着の上から掛けていただけの羽織が、肩から落ちそうな勢いで、急(せ)いて問う姿を見る堀内の双眸が、つと厳しく細められた。 だがその途端、総司の後の言葉は詰まり、動揺をあからさまにした瞳がそれを悟られぬよう、曖昧に伏せられた。 「私には、云えない事なのだろうか」 が、堀内は静かに、その先を促す。 しかしその声には、総司がいらえを返すまで、待ち続ける覚悟の辛抱強さをも、共に孕んでいた。 「世捨て人同然の日々ながら、こんな人間でも、何かの役に立つ事もあるや知れん。・・話してはくれまいか?」 更に諭すようなゆっくりとした物言いが、総司に観念の際を教え、漸く上げられた深い色の瞳が、堀内を捉えた。 「・・多分、斬ったのは、私の友人です」 「友人?」 無言で頷いた面輪が、極限まで強張り、そして蒼かった。 「友人なのです。斬られたお爺さんと云う人も、良く知っている人なのです。だからもしも・・もしも堀内さまが、その事で他に何か聞いていられるのなら、教えて欲しいのです」 「落ち着きなさい」 詰め寄る身の薄い肩に軽く手を触れ、それで総司の焦燥を宥めると、堀内は宙に視線を置き、そのまま暫し堅く口を結んで沈黙した。 そうする事で、己の記憶の淵を探っているようだった。 だがそれも大した時の経過では無く、再び総司に向けた双眸には、些か難しい色があった。 「斬られたのは柚木清四郎と云う旗本だ。付き合いは無いが、屋敷が近いので顔だけは知っている。・・良い噂は聞かなかった男だ。が、その柚木家は、葬儀を出す訳でもなく何時もと全く変わり無い。此処に来る際に屋敷の前を通り過ぎ、聞いた話は嘘だったのかと、私自身不審に思っていた処だ。だが何故そのような真似をする必要があるのか、・・唯一考えられるのは、事件の一部始終を伏せる事で、時を稼いでいると云う事だ」 「時を稼ぐ?」 「そう、まだ当主の死を表沙汰にしては、何か都合の悪い事があるのだろう。それ故、全てが解決した処で、病死と届け出るつもりかもしれぬ。だとしたら斬った相手を、今柚木家では血眼になって探しているだろう」 「一さんをっ?」 「一、・・と云う名なのかな?総司殿の友人は」 思わず口走ってしまった名を繰り返した堀内の声には、もういつもと変わらぬ穏やかさがあった。 それはひとつの物事に捉われ、周りすら見えずに走り出す、若さ故の真摯を、己の来し方と重ね合わせて愛しむものだった。 「山口、・・山口一さんと云うのです。お爺さんは、佐平さんと云う名だと・・そう聞きました」 だが総司には、その堀内の心の機微を慮る余裕は無い。 傷を負っている佐平と、それを庇って何処かに潜んでいる一の身を案ずる思いは、此処にこうしている一瞬すらもどかしい焦燥に駆り立てる。 「待ち伏せていた老人が、柚木に斬りかかったのが事の発端だったらしいが、その時に、寺の小僧は誰かの仇だと叫んだのを聞いたそうだ」 「・・仇?それは柚木清四郎と云う人が、佐平さんの仇と云う事なのでしょうか?」 「そうらしい。其処から察するに、斬られたのを病死を届け出た後で、仇を討ったと名乗り出られれば、不覚を取られ横死した上、更に病死と嘘偽りをお上に届け出たのが明るみになり、二重に罪を重ねたと、柚木家の咎は免れまい。それ故、斬った相手を探し出し口を封じるまで、表向きは何も無かった事にしているのであろう。・・が、それだけに、相手は必死に二人を探している」 遠回しではあったが、堀内の声の重さは、悠長に待つ時が無いのだと知らしる。 それを何処か遠くに聞きながら、今総司の脳裏に浮ぶのは、佐平の過去の一端を語った時の、黙って見つめるしかなかった、一の物憂げな横顔だった。 雨だれの音よりも鮮明に耳に蘇るのは、一と暮らし始めた経緯(いきさつ)を、柔らかな目をして教えてくれた、佐平の静かな声音だった。 そして止まぬ五月雨に濡れる庭へと移した視線のその先に、自分を迎え入れてくれた二人の姿が、現の幻となって朧に霞む。 「・・・きっと」 「きっと?」 暫し強張りを解けず、沈黙の中から出なかった総司の唇から、漸く漏れた小さな呟きの続きを、堀内の強い声が促す。 「一さんも佐平さんも、きっと無事の筈です」 「そうだな」 ぎこちない笑い顔に、上手な嘘のつけぬ不器用さを垣間見、だが敢えてそれに騙された振りをし、堀内も又静かな笑みを浮かべて頷いた。 庭にひっそりとある草木が、翠息吹く季節の強さそのものに、雨の中で一層彩を鮮やかにさせているのを、せめて僥倖の導(しるべ)と受け止めて、総司は胸に秘めた決意に、きつく唇を噛み締めた。 低い軒が邪魔をして、傾けざるを得ない傘から出ている肩に降りかかる霧雨は、衣を透し肌まで湿らせる。 「ご免下さい」 それをものともせず、総司は先程から、もう幾度掛けているのか分らない言葉を繰り返している。 だが木目のささくれが目立つ古い戸の向こうは、ひっそりと静まり返り、物音ひとつするでも無い。 「あのっ、・・一さん、いえ、山口さんの事で、聞きたい事があるのです」 遂に意を決し、一の名を告げた刹那、少しだけ中の空気が動いた気がした。 それは錯覚と云っても良い程に微かなものだったが、総司の勘は、その一瞬の変化を見逃さなかった。 「佐平さんと、一さんの事を教えて欲しいのですっ」 掴みかけた兆候を逃すまいと、必死に訴える声が上ずり、戸を叩く力は加減を失くす。 「二人の事を教えて下さい、お願いですっ」 それでも応えてはくれぬ相手に向けて、己が心を鼓舞して声を大きくした寸座、漸くことりと音がし、確かに人の気配が近づいて来るのが察せられた。 同時に、凝視する板戸の一点に、身の内のあらゆる神経が集められてしまったかのように、総司の動きの全てが止まった。 「・・そんなに叩かれたら、壊れちまう」 待ち望んでいた声は、あからさまな不機嫌を露にして低かったが、それでも戸は軋む音を立てて開けられた。 「あんた、このあいだ来た子だね」 甲と、佐平が名を教えてくれた女は、今しがた起きたばかりなのか、項のほつれ髪を億劫そうに掻き揚げながら、総司を見遣った。 「確か土方の旦那が、弟分だと云っていた」 勢いに任せて戸を開けさせたものの、いざ面と向かってしまえば、何から言葉にして良いのか分らず、狼狽の沈黙にいた深い色の瞳が、まさかの土方の名に、大きく見開かれた。 「驚く事はないさ、旦那とは客と夜鷹の付き合いだ」 更に口篭もる総司の様に、甲は可笑しそうに、くぐもった笑い声をたてた。 だが甲のその一言は、こんな時にあっても、総司の心の臓を棘の茨で縛り付ける。 「土方さんと・・?」 ようやっと自分を取り戻して問う声が、震える先にあるのは、妬心以外の何ものでも無いと知りながら、それを隠さなけれならない語尾が、少しだけ小さくなる。 「そんな顔をしなくてもいいよ、あたしとあの旦那とは一度きりさ。二度目に声を掛けてくれた時には、人探しに付き合わされた」 「人探し?」 「とてつも無い形相で、こう云う人間を見なかったかと。他所で聞いておくれと素気無くすれば、その場で張り倒されそうな勢いだった。後で聞いたら、それがあんたの事だったのさ。夜鷹相手でも、野暮って言葉位は知っているだろうに、とんだ話だよねぇ」 喉の奥だけを鳴らしたような笑い声は、だがその時を然程不愉快に思っている風情でもなかった。 「結局、あんたの事を見た人間を探し当てるまで、その晩は付き合わされちまった」 甲は然も無いように語るが、その者が柚木の狼藉から一に助けて貰って逃げるまでのつぶさを、土方と共にこの甲にも語ったと思えば、やはり総司は羞恥で顔を上げられない。 「・・あんた、爺さんと一の事、どうなっているのか知っているのかい?」 そんな総司の様子を暫し見ていた甲だったが、再び開いた口から漏れた声が、それまでの調子よりも幾分重くなった。 だがその言葉に、伏せていた深い色の瞳が弾かれたように上げられ、細い線で、ひとつひとつ丹念に細工された面輪がゆっくりと頷いた。 「お入りよ」 次のいらえを待ち無言の総司を、甲は自分の身を傾け脇を空ける事で、中へと促した。 造りは佐平と一の居た家と同じ筈なのに、女性(にょしょう)のそれと云うだけで、漂う空気の全く違う様に戸惑い、総司は敷居を跨いだ途端に立ち竦んだ。 「そんなに硬くならなくても、何もとって食うつもりは無いから安心おし。あんた、爺さんと一の処へ行きたいんだろう?」 「・・あの、佐平さんと一さんは、無事なのでしょうか?」 苦笑交じりの呆れ声の中に、少しだけ混じる柔らかさに後押しされ、聞かずにいられなかった焦燥を、総司は直截に甲へぶつけた。 「幾ら雨でも、昼日中、あんたとあたしの二人連れは目立ちすぎる。夜になったら案内してやるよ。・・それが爺さんとの約束だからね」 「約束?」 向けた問いに返ったいらえは、是とも否とも取れる曖昧なものだったが、自分に係る約束を、佐平が甲にしていたと云う事実が総司を混乱させた。 「自分にもしもの事があった時は、あんたに一の事を知らせてやってくれと、そう云う約束をしていたのさ」 「佐平さんが?」 「柚木の追っ手をかわし、内藤新宿から一を逃がしてやってくれと、爺さんは、あんたに白羽の矢を立てたんだよ」 「もしもの時・・て?・・では佐平さんはっ」 色を失くした面輪には応えず、まるで雨音でも聞くように、甲はつと戸の向こうにある外へと視線を逸らせた。 「・・雨も、夜には上がるだろうよ」 呟いた物憂げな横顔が、家の薄暗さだけではなく、ひとつ翳りを深くしたのを、総司は言葉も無く、凝視していた。 提灯も持たぬ夜道は、しかもそれが林の中を行くものならば、地に蔓延る蔦に、油断をした途端に足を取られそうになる。 だが甲は慣れているのか、少しの覚束なさも見せず、ずんずん先を行く。 その後姿を見失わぬよう、総司も足元に神経を配りながら歩を進める。 そうしてどれ程の距離を来たのか・・・ 木立の深い闇に遮られていた視界が突如開放された途端、暗に慣れた目に、月輪の蒼が、あざとい程の眩さで射し込んだ。 「あそこさ」 家を出てから今まで、一度も振り返る事の無かった甲が、不意に足を止めると後に向き直り、先の一点を指差した。 つられて視線を移した其処に、確かに小屋のような小さな建物の影がある。 だが総司が思わず息を呑んだのは、数え切れない幾多の石仏が月光を浴び、まるでその辺り一面に、現の境すら失くしてしまいそうな、一種荘厳とも云える群青のしじまを作り出していたからだった。 「此処は慈石寺の裏の雑木林を抜けた処にある、無縁仏を葬った墓地さ。内藤新宿で命を削った沢山の遊女達が眠っている」 呆然と立ち尽くす総司の耳に、語り聞かせるしゃがれた声音が、不思議とこの静けさに相和して届く。 それは甲の言葉の裡に、哀しい生を送った、これら仏たちへの慈しみが込められているからなのではと・・ ふとそんな思いに捉われて、総司は、月華が映し出す女性(にょしょう)の横顔を見つめた。 ――暫し。 甲は石仏に視線を止めていたが、やがてその唇がゆっくりと動いた。 「いくよ」 押し殺すような低い声で告げると同時に向けた背が、侵し難い寂寞の中へ、無造作な一歩を踏み入れた。 「何しに来た」 相手の姿を識別するには、眸を細めなければならない暗がりの中、一は甲の後から入ってきたのが総司と分るや、もたれていた壁から直ぐに背を離して立ち上がり、苛立ちを隠せぬ声で、不意の訪問者を責め立てた。 「あたしが連れてきたんだよ。それが爺さんとの約束だからね」 ちらりと総司に流した視線を、直ぐに元に戻して告げた甲の声は、一の怒りを跳ね返して余りある強いものだった。 「約束?」 「そうさ、自分にもしもの事があった時には、この人の力を借りて、あんたを逃がすようにと・・爺さんが、あたしにさせた約束だ」 「馬鹿な事をっ」 吐き捨てた一の面が、苦しげに歪んだ。 だがそれもほんの一瞬の事で、すぐに又、険しい視線が総司に向けられた。 「あんたもこうしてやって来たのならば、事情は知っている筈だ。柚木の追っ手が此処を見つけるのは、もう間もなくだろう。奴等が狙っているのは俺だけだ。あんたまで巻き込まれる必要は無い、帰ってくれ」 「いやだっ」 しかし総司の唇を震わせ出たいらえは、苛烈とも云える激しさで返った。 「私は佐平さんに任された。だから一さんを無事に逃がすまで、此処を動かない」 深い色の瞳が、挑むように、真っ向から一を捉えた。 「余計な事だっ」 しかしそれに負けぬ強い声が放たれた時、物の像が闇の濃淡だけでしか判じられない奥の暗がりから、吐息ともつかぬ微かな呻きが聞こえた。 その寸座、素早く身を翻した一と、それを追うように草履を脱いだ甲の後に、僅かにも間を置かず、総司が続いた。 唯一顔貌(かおかたち)を判別できる蝋燭の灯りの下、老人は閉じた瞼の皮膚までをも薄鼠色にし、乾いた唇を堅く閉じて横たわっていた。 だが恐ろしく静かにゆっくりと刻まれる呼吸は、既に生を離れ、無への果てない傾斜の道を歩み始めた者のそれだった。 「連れて来たよ」 この女性(にょしょう)が、こんなに優しく囁く事が出来たのかと思える程に、柔らかな甲の声音だった。 その響きが届いたのか、凝視する総司の瞳の中で佐平の薄紫色の唇が僅かに動き、それにつられるように、ごく細く開いた瞼の奥から、力の無い眸がのぞいた。 「爺さん、苦しいのか?」 耳元に口を寄せて問う一の声に、しかし佐平は応えず、その代わりのように、もう焦点を結ぶことの無い視線を宙に彷徨わせ、何かを探しているようだった。 甲が、掛けられていた薄い夜具の端から老人の、血の通う事すら止めてしまったような冷たい手を取り出すと、それを総司に差し出した。 「あんたを探しているんだよ。一を頼むと、そう云いたいのさ。応えてやってくれないかい」 そう願う眸は、潤んでいるでも無く、物言いとて決して湿ったものでは無い。 だが辺りを包むしじまを邪魔せぬ声音の静けさは、しめやかに葉を濡らす雨の優しさにも似て、酷く哀しく胸に染み入る。 頷いた途端、目の奥が熱くなる自分の不甲斐なさを、慌てて瞬きする事で、総司は誤魔化した。 「・・佐平さん」 先程の仕草が限りだったのか、再び瞼を閉じてしまった老人を小さく呼んだ声に、もういらえは返らない。 「佐平さん」 節くれ立った無骨な指を握る手に、更に力を籠め、己の温もりの全てが移り行けと念じながら、総司はかの人の名を繰り返す。 「佐平さんっ・・」 いつの間にか又外を濡らし始めた雨雫は、神仏に届けよと叫ぶ声すら水の礫で包み込み、眠りにある者の魂を、次なる世へと誘うかのように、音もさせず、ただ寂々と降りそぼる。 ――そうして如何ばかりの時が流れたのか。 佐平の命数の尽きる時を、観念と、しかし天の采配への憤怒と、そしてそれを止める術を何ひとつ持たない己の無力さへの苛立ちに、誰もが無言で見守る中、ふと総司と一が同時に病人から目を離し、次の瞬間、身構えた二人の視線は、内と外を隔てる板戸へと向けられた。 「心配しなくてもいいよ。柚木の手の者が来たのなら、慈石寺の小僧が知らせてくれる。案内されて来たのは、土方の旦那だろうさ」 ひとり動きに煩わされず、佐平に視線を止めていた甲が、背中を見せたまま告げた。 「・・土方さん?」 だがその一言に、総司の瞳が驚愕に見開かれ、ついて出た声が上ずる。 「昨夜から教えろと、うるさいったらありゃしない。けどあの人に此処を教えりゃ、逃がす段取りはつけてくれるだろうが、この・・」 其処で言葉を一度止め、初めて甲が、佐平から一へと視線を移した。 「一が、素直になりゃしないだろう?だからあんたを先に此処へ連れて来るまで、旦那には辛抱してもらっていたのさ」 「俺は誰が来ようと、手を借りるつもりも、逃げるつもりも無い」 「何時までも、つまらない意地を張るんじゃ無いよ」 若い一本気を窘める声が、一層低く厳しくなった。 「あんたを逃がす。それが、あたしと爺さんとの約束だ」 思いの他ほっそりと長い指で、張りの失った皮膚に覆われた老人の瞼の上辺りに触れ、それで良いのだろうと、甲は眠りにいる者に囁くように問うた。 だがその声音の余韻も消えぬ傍から、建て付けの悪い戸が、かたかたと音を立て、浮いて沈むを繰り返しながら少しづつ開けられ始めた。 やがてどうにか全部が開かれた途端、其処に釘付けられた総司の双つの瞳が、闇とはあからさまに色を違える、白っぽい被布を纏った少年と、その後に土方の長身を映し出した。 そしてもう一人。 更に深い色の瞳を大きく見張らせたのは、土方の更に後ろに立つ、八郎の姿だった。 「お甲さん、お連れしました」 「ありがとうよ」 駄賃は渡してあったのか、寺小僧は中の様子を探ろうするでも無く、軽く頭を下げると、すぐさま踵を返し、雨の中に駆け出した。 「てめえらの賭場の裏とは、流石に奴等も気がつかないだろうよ」 小さくなるその後姿にちらりと視線を流し、さんざ待たされた挙句の案内だったのか、苛立ち紛れの皮肉が、八郎の唇を忌々しげに歪ませた。 だが土方は雨露に濡れた身を拭おうともせず無言で進むと、土間に下りていた総司の際まで来、一瞬後ずさろうとした身の二の腕を掴んだ。 嘗て見た事の無い険しい双眸に射竦められ、息ひとつするも侭なら無い程に、硬く強張る身をどうする事も出来ず、総司は土方の峻厳な顔(かんばせ)を凝視している。 そしてその土方の胸の裡を支配しているのは、鎮まりを見せず、交互に渦巻く怒りと安堵だった。 が、最後に辿り着いたのは、やはりこの者を見つける事の出来た後者の念だった。 「ばかやろうが・・」 短く発せられた声は、土方の憤怒の有り丈を知らしめるかのように、聞き取り難い程に、低くくぐもった。 薄い肉の腕は、握った指の先に骨が当たる。 それを砕かんばかり強さで、掴んでいる手指に今一度力を込めると、土方は総司を乱暴に突き放した。 拘束からの不意の解放に、均整を失った身が大きく揺らいでも、総司の視線は逸らされる事無く、厳しい顔(かんばせ)を見上げていたが、やがてその瞳も気弱に伏せられた。 「・・すみません」 そうして形の良い唇が、戦慄くように震え、漸く小さな声を作った。 雨は宵を過ぎても降りやまず、辛うじて屋根と板壁で風雨を凌ぐあばら屋の内にも、湿り気を孕んだひんやりとした冷気が覆い始めた。 「爺さんの本当の名は真砂屋佐平、高崎で小間物問屋をやっていたそうだ。息子夫婦を早くに亡くし、孫娘ひとりが唯一の肉親だったと云っていた。その孫娘の縁談も決まり、嫁に行く前に、一度江戸を見たいと言い出した駄々に負けて出てきたのが、三年前の春。 ・・若い娘なら、そう思うのも仕方の無い事さ」 甲は目覚めぬ病人に、時折無言の相槌を求めるように目をやりながら、静かに語る。 「けど人の定めって奴は、時々あこぎな悪戯をするもんさ。高崎のお殿様の御用を預かっていた事もあって、爺さんが藩邸に機嫌伺いに行っている最中、千代田のお城を見物しに出掛けた孫娘が、桜見の人ごみの中、供の者とはぐれちまった。・・其処へ親切ごかしに声を掛けたのが、柚木清四郎さ」 「大層な外面に、騙されたか・・」 「相手は身なりのいい旗本だ。それがどんな中味だろうが、乳母日傘の田舎娘には分かりゃしないよ」 眉根を寄せた八郎に、甲のいらえは淡々と返る。 「騙され、手篭めにされ、そうして宿にしていた家の離れで喉を突いている姿が見つかるまで、ほんの半日か其処らの出来事だったと・・けれど自分の時は、いくら経っても其処から一向進みはしないのだと、爺さんは云っていた。それから高崎の店を畳み、孫の敵と柚木を狙い、あいつの動向を探る為に、爺さんは内藤新宿に住み着いたのさ」 老人の面に視線を置いて、総司は少し掠れた声音の、甲の語りを聞いている。 哀しみなどと云う生易しい言葉で伝えられぬ、紅い血潮の噴出す傷口を抱えたまま、時を止めてしまっている佐平の心情を、自分のような者が慮ると云うのは、不遜な事なのだろう。 そのまま横に逸らせた瞳が、一を捉えた。 以前一は、佐平の店の手代だった者に偶然まみえた事があり、その際に身元を知ったのだと云っていた。 だとしたら、今語られた全てを、聞き及んでいたのかもしれない。 否、きっとそうに違い無い。 そしてその時から、一の裡で、佐平の仇討ちを成就させてやりたいとの思いは、ひとつ決りごとのように胸に刻まれたのだろう。 老人に向けている、一の厳しい横顔を、総司は掛ける言葉も無く見つめていた。 |