五月雨の・・・ (六) 瞼を開かぬまま、まるで現に止(とど)まっていた最後の証を抜き去るように、一度だけ深い息を吐くと、もう鼻腔も唇も再び呼吸を繰り返す事無く、佐平の魂は、見守る者達と別つ世へ静かに旅立った。 降り止まぬ雨の中、それでも一段薄くなった闇が、夜明けを教える早暁の事だった。 暫し。 残された誰もが、無言から出ること無く沈黙を守っていたが、それまで気配すら感じさせなかった雨雫が、出て来た風に押されたのか、不意に強く軒を叩いた。 「・・一、」 それが切欠のように、甲が視線を向けた。 「さあ、あんたは行くんだよ。それが爺さんが、あんたに残した仕事だ。明日になり月が変われば、寺社奉行も変わる。そうなれば柚木の家の奴等は、余計に事が運び辛くなると、今頃血眼になってあんたを探している筈だ。此処も直き、見つけ出すだろう」 諭す甲に鋭い一瞥をくれた一の唇が、何かを云おうと開きかけたそれを遮るように、かの女人は、土方と八郎に向き直った。 「これを・・」 艶の無い、翳りを濃くする面差しとは少々不釣合いな、細いたおやかな指で襟の袷を探ると、甲は其処から何かを包んである油紙を抜き出し、二人の前に置いた。 「もしも柚木に捕まった時の用心にと、爺さんから頼まれ預かったものだけれど、あたしが持っていたって何の役にも立ちゃしない」 「これは?」 問う土方は、その一方で、既に手にした油紙の包みを解き始めている。 「爺さんが、柚木の悪さの限りを書き記したものさ。・・慈石寺のような隠し賭場。一見旅籠と見紛うけれど、金で売られてきた女達を、地獄の釜で焚くようになぶり殺す遊女屋。みんな叩けば埃以上のものが出る、いつか柚木を討った時に、奴のような人間を野放図にしていた、お上の怠慢さをも責めるつもりで、爺さんが命がけで調べ上げた、内藤新宿のもうひとつの顔さ」 甲の語りは一度の淀みも無く、言葉が孕む悲愴さすら、時に曖昧にしてしまう程に淡々としている。 だがそれだからこそ、もう怒りや嘆きや哀しみや、そう云う負の感情に揺り動かされない、精神の強靭さを作り出した凄惨な土壌が、この女の来し方にあったのだと知らしめる。 「これを、どうして俺達に?」 書き記しを目で追いながら、疑問を質す土方の物言いに、訝しさは無い。 それは甲という人間の言動行動の全てが、この一件に関し、佐平の意志を何よりも優先させると承知している証でもあった。 「さて、どんな気まぐれだか」 静かに告げた声が笑い、つと逸らされた甲の視線が、佐平の面で止められた。 「・・番町の旗本、堀内の旦那を知っているだろう?」 「堀内さま・・?」 佐平を見つめたまま甲が告げた、思いもかけぬ人の名に、総司の唇から驚きの呟きが漏れた。 「初めて会ったのは、あたしが内藤新宿の女郎屋に売られて来てすぐの、六つの歳の秋だった。墓参りに来た旦那は、店の主に叱られ、慈石寺の境内の隅で泣いていたあたしを見て、一緒に謝ってやると、頭を撫でてくれた。それから月に一度、奥方の墓に香華を手向けにやって来る姿を、幾つ見て過ごしたことやら・・・数えるのもうんざりする程さ。よっぽど奥方に惚れているのか、それとも律儀を通り越した変わり者なのか、さっぱり分りゃしない」 だがそう云って笑う、甲のくぐもった声音には、揶揄する相手への慕わしさがあった。 「その堀内の旦那が、寺で起きた刃傷沙汰の事を、知っているのなら話して欲しいと、一昨日の夕方尋ねて来た。何故そんな事を知りたいのかと聞いたあたしに、旦那は、柚木の残党に追われている人間を、身内が探しているのだと、気まずそうに笑っていた」 堀内が云った身内とは、違う事無く自分を指しているのだと判じた総司の瞳が瞠られた。 「でもあたしは意地が悪いから、そんな話しは知らないと云ってやった。それなのに旦那は帰りがけに、もしもその人間の事を何処かで知る事があったら、自分の屋敷を教えて其処に来るよう伝えて欲しいと・・この辺りに隠れているよりは、見つかる心配が少ないだろうからと、そう言付けて行った。まったく、嘘のひとつにも騙されてくれやしない」 忌々しげに言いながら、しかし甲の片頬に浮かべられた笑みには、偽りに偽りを重ねても、尚透けてしまう心で交わした遣り取りを、何処か楽しんでいる風情があった。 「旦那の元に行けば、其処からの逃げ道は、必ず手配してくれるだろう。・・あの人は出来無い事を口にする人じゃない」 語る甲の眼差しが、それに同意を求めるように、もう物云わぬ佐平へ、静かに向けられた。 「・・爺さんが云っていた。あんたと一は似ているんだと」 「私と?」 束の間出来た沈黙の後、又も気紛れに逸らされた話に、深い色の瞳が訝しげに甲を捉えた。 「そう。あんた達は、他人へも自分へも不器用すぎると、そう云っていた。だから互いを見ると、まるで自分を見ているようで、嫌なんだろうとさ」 揶揄するように細めた甲の目が、ちらりと一を見遣り、そして総司に戻された。 「けど、それだからこそ、惹かれ合うもんだって、そうも云っていた。爺さんの目は当りだ。こうしてあんたは一を助けに来た。・・・それから一、」 言葉の終わらぬ内に、甲は先程から一言も発せずにいる一に改めて視線を向け、次に帯の間に仕舞っていた細い剃刀のような刃を抜き出すと、それで佐平の髪を、髷を結った元結辺りで少しだけ切り取った。 「これをあんたに、高崎にある貞永院と云う寺に、届けて欲しいと云う事だよ。其処に、爺さんの孫娘の墓があるそうだ。・・共に髪の幾筋かだけれど、一緒に眠らせて欲しいと、そうあんたに伝えてくれとの事だった。爺さんの、もうひとつの遺言だよ」 懐紙に置かれた白い髪は、老人の気性そのもののように少しの縮れも無く、しかし触れる者を労わるように、柔らかに婉曲していた。 受け取った其れを己の掌に置き、一は暫し無言で見ていたが、やがて硬いまま眉のひとつも動くことの無かった横顔が、僅かに歪められた。 「・・畜生っ」 長い沈黙の後、絞り出すように漏れた声は、聞き慣れたそれよりもずっと低く、今裡に逆巻く憤怒、辛苦、そう云う全てを、たったひとつの言葉にしか置き換える事の出来ない、一の激情の迸りのように、総司には思えた。 「伝える事は、無いのかえ」 最後に敷居を跨ごうとした八郎が、ふと足を止め、甲を振り向いた。 「堀内の旦那に、かい?」 問う眸が、それに頷く端正な面を見上げた。 「無いね」 だがいらえは呆気無い程さらりと返り、そのまま甲は口を噤んだ。 そうして唇の端を軽く上げて浮べた笑みだけが、それは見破られたとて、大して困るでもない偽りなのだと物語っていた。 暫し、相手の胸中を推し量るようにして無言で向き合っていたが、それもそう大した時では無く、やがて甲が先に口を開いた。 「小天狗の旦那、」 「知っているのかえ、嬉しいねぇ」 「片恋ってのはね、中途半端で終わりゃ、ただのばかで仕舞いなのさ。貫いて漸く本物のばかになれる」 「生憎、俺のは片恋で仕舞う訳には行かないから、困ったものさ」 「貫き通して、土方の旦那の気付かぬ内に、さて浚ってしまえるものか・・あの世の爺さんと二人、楽しませて貰うよ」 「せいぜい、笑ってくれろ」 互いの懸想相手を見透かし交わす会話は、艶な素振りの合間に、届かぬ想いに呻吟する心が見え隠れする。 だがその余韻を自ら消すように、甲はつと視線を外に逸らせた。 「・・鬱陶しいねぇ」 上がらぬ雨を見て呟いた声が、少しだけ湿ったと思ったのは、一瞬の錯覚だったのか・・ だがそれが初めて八郎の垣間見た、この女の、堀内左近への恋情の片鱗だった。 佐平の野辺送りをすると残った甲が、四人を送り出し、静かに戸を閉じると、叉元の閑寂さが辺りを覆った。 それを食い入るように凝視していた一が、身を傾げる一瞬すら、己の記憶のはざまに刻み込むように、小屋に向かい、ゆっくりとこうべを垂れた。 絹糸のような煙雨に濡れ、身を二つに折ったまま微動だにせぬその姿を、総司はきつく唇を噛み締め、言葉も無く見つめていた。 雨で朧に霞む視界の先に、街道を行く人影は、まだこの早朝ひとつも無い。 「・・諸刃のお甲、か」 ただ黙々と歩を進めていた四人だったが、ふと横で漏れた低い声に、土方がちらりと八郎を見遣った。 「あの女の事か」 「さんざ調べ尽くして、最後の伝手を頼り、漸く辿り着いた其処で、慈石寺の小僧の処に行けば全てが分ると俺に教えた、あのお甲の呼ばれ名だ」 「俺とて、あそこで待てと云われただけだ」 だがまさか其処で、見たくも無い面(つら)に出迎えられるとは誤算だったと、満更嘘でも無さそうに顔を顰めた八郎に、返す土方の調子も、不機嫌を露わにして遠慮が無い。 「縋って来る者を庇って振るう刃で、仇なす者は容赦無く斬り捨てる。それがあざ名の所以だそうだ」 「その位の度量が無ければ、内藤新宿一円の夜鷹を束ねる事など出来まい」 「何だ、知っていたのか。つまらないねぇ」 「お前のように、行儀の良い遊びをする金も暇も無いだけだ」 「甲斐性と云ってくれろ」 向けられた皮肉をやんわり交わした八郎の胸に、止まぬ雨の鬱陶しさを嫌った、甲の物憂い横顔が蘇る。 それは叶う事無いと、端から諦めている堀内左近への片恋に、しかし生ある限り辛苦の時を送るであろう自分を自嘲するものだった。 そして同じ修羅に身を置く者として、八郎にはその甲の心情を、我が身に重ね合わせて知ることが出来る。 だが自分は諦める事など、しはしない。 この想いを知らずして前を行く総司の肩を掴み、振り向かせ、お前を欲しているのは自分なのだと、自分だけなのだと、瞳に映し耳に聞かせ、裸身の隈なく全てに、己の存在を刻み込んでしまいたい衝動を堪えるのには、もう限りがある。 「・・笑うが、いいさ」 視線を薄い背に据えたまま、独り語りの呟きが、揶揄した女人への届かぬいらえとなって、八郎の唇から漏れた。 堀内左近の屋敷は、千代田の城の西方、神道無念流斉藤弥九郎の練兵館道場の近くに位置する。 かつては千石の大身旗本だった堀内家だが、左近が病気療養を理由に全ての御役御免を願い出てからは当然禄高も減らされ、今は老僕とふたり、広すぎる屋敷で世捨て人のような静かな日々を送っている。 あれから内藤新宿を抜けても、一は一言も発せず無言を通した。 やがて辿り着いたこの屋敷の奥に通されても、それは同じ事だった。 降り止まぬ小糠雨が、現の刻の経過すら曖昧にして、辺りをしんと覆う。 その静寂の中、滴に湿った草木が、翠を一層鮮やかにしている庭を、見るとも無しに視界に入れていた総司の瞳が、ふと廊下へと移されたのと、其処に座していた者の全ての視線が、其方に向けられたのが同時だった。 「待たせてしまい、すまぬ」 敷居の際まで来て立ち止まると、堀内左近は詫びながら、己の後に付いて来た者の姿が四人の視界に入るよう、少々斜めに身を除けた。 「河井継之助と云う」 名を教えられた痩躯の男は、張り出た眼を、僅かばかり伏せただけで、中にいる者達への礼の形とした。 「大した距離でもあるまいに、暇が掛かったな」 後に続いて敷居を跨ぐ相手へ、笑いながら告げる左近の皮肉に含む処は無く、この二人の親しい間柄が忍ばれる。 「暫し戻れぬ旨を、殿にご挨拶申し上げるのに、少々時が要った次第」 声自体もかなり低いものだったが、それ以上にこの男の言葉の調子を重くしているのが、粘るような訛りだと云うのは否めない。 それを目の前の人物を探る最初の指針として、土方は捉えた。 「して忠恭殿は何と?」 「励めと」 「如何にも、らしい」 座しながら、愉快そうに応える左近だったが、ふと自分に注がれている幾多の視線に気付き、緩めた頬を正した。 「申し訳無い。見えぬ会話で、つまらぬ退屈をさせてしまった」 詫びる声には、まだ僅かばかりの笑いを含んでいる。 「忠恭殿とは、もしや越後長岡藩藩主、牧野忠恭殿の事ではありませぬか?明日から月番により、寺社奉行となられる」 話の途切れる、一瞬の隙を狙ったように問うたのは、室の一番奥に端座していた八郎だった。 「左様。忠恭殿とは長岡藩藩主、牧野忠恭殿の事。そしてこの河井は、長岡藩藩士。しかも殿のご意見番を任されていると、本人は自負している」 揶揄するように向けた左近の視線に、当の本人は全く動ずる風も無く、剥き出さんばかりの目に鋭い光を湛え、座敷にいる者たちを見ている。 「・・あの、では先日の笹団子の・・」 ふと思いついたような呟きは、少しばかり張り詰めた気の中で、不釣合いに安穏としていたが、総司は同意を求めて、深い色の瞳を左近に向けた。 笹団子と云う見慣れぬ菓子を手に、越後から其れを持ってきたと云う人物の事を聞いたのは、一昨日の事だった。 「美味かったであろう?」 だが応えたのは意外にも、渦中の主の、河井その人であった。 剛毅とまで行かぬまでも、凡そ愛想の無い面構えに初めて浮んだ笑みが、この男の表情を酷く人懐こいものに変えた。 「そう、あれはこの者の土産だが、本人の云う程、相伴願った総司殿の口に合ったかどうか・・」 「堀内殿は、本物の味が分らぬ故」 そうそう美味いものとは思えぬと笑う左近に、承服出来かねる視線が、あからさまな不満を訴えた。 「・・卒時ながら」 だが突如として会話に斬り込んだ調子の鋭さが、束の間長閑な話題に終始していた場を、何の不自然も無く、再び緊張の時へと戻した。 その手合の見事さに、河井の視線が声の主に注目した。 「其方の御仁は、如何なる手立てを講じてくれる助っ人か」 それを十分に意識しながら、敢えて河井には目をくれず、土方は疑問の矛先を堀内に向ける。 「これはすまぬ。話が相前後したが、先程申した通り、明日からの寺社奉行には越後長岡藩藩主、牧野忠恭殿が着任される。忠恭殿は此度が初めての寺社奉行。万が一頭を痛める難しい事件に遭遇した折の、その知恵袋として、この河井が国元より召し出された」 「それは明日になれば、今回の柚木の一件を、河井殿の尽力で、解決出来る手筈があると承知して良いのか」 低い声と共に、土方の視線が動き、己よりは幾分年かさの男を捉えた。 「ただでは、出来ん」 だが頑固をそのまま顔の造作にしたような面相の主は、此方も遠慮の無い直截さで、いらえを返した。 「河井っ」 流石に叱咤した左近だったが、しかしその調子はごく弱いもので、これから為されるふたりの会話を阻むものでは無い。 否、むしろその行方を愉しんでいる風情すらあった。 「互いに利のある方が、約束は堅く護られる。されば其方も安堵できるのではござらんか?」 河井も河井で、諌めの言葉など端から聞こえぬように、横に張った口角が、面白げに上がった。 「此処で初めて会った見ず知らずの他人同士の信義よりは、互いに目論む利を果たす約束の方が、護られるのは確かだろうな」 「物の分りが、早い」 笑った顔とは裏腹に、土方を見る視線の鋭さは少しも変わらないが、その河井の声の中に、少々の感嘆があるのを、横の左近と、そして斜めに相対し座している八郎だけが、聞き分けていた。 「そっちの要望を、先に聞く」 「それによって、話しに乗ると云われるか?」 「人ひとり逃すだけならば、なにもあんた達の手を借りずとも簡単な事だ」 「土方さん・・」 年齢も、位も上に位置する者に対し、あまりに横柄な物言いに、隣で聞く総司の方が慌てた。 その憂いを、ちらりと見遣るだけで宥め、再び土方は河井に視線を据えると、後は相手の真意を無言で促す。 「ならば率直に申そう。儂は我が殿に、幕閣内において揺るがぬ地位にまで上り詰めて頂く。例えこの先誰が将軍になろうとも、そんな事は構わぬ。が、その後ろ盾として存在するに、何人にも意見させぬ程の力をつけさせる。それ故、其処にのし上がる為の、糧を欲しい」 「その足掛かり、先ずは、老中と云う事だろうか」 突如の参入だったが、切れた話の先を補うと云うよりは、そのまま続けると云った方が適切な、あまりに違和感の無い八郎の口調だった。 「段階などと云うのもは面倒なだけあるが、避けて通れぬとなれば致し方が無い。が、それも昇り詰めるまで、暫時の事」 軽口の最後に忍ばせた含み笑いの重さが、この河井継之助と云う男の、過ぎる自信を物語っていた。 「誰も彼も、折あらば相手の足元を掬わんと、鵜の目鷹の目の昨今であれば、この寺社奉行での功績こそが、一歩抜きん出でる恰好の機会」 「どの寺社奉行も知らぬ振りして通り過ぎてきた柚木清四郎の一件を、逆手に取って手柄にしようと云うのか」 「同じ事をしていては、目立たん」 全てを省き直截に河井の真意に触れた土方に、頷く一重の目が、愉快そうに笑った。 「旗本柚木清四郎が、内藤新宿における己が暴挙を黙認させる事を条件に、嘗て寺社奉行に名を連ねる歴々へ貢いだ金子の額は驚愕に値する。中にはその利で、老中への道を開いた者もいると聞く」 そのような素振りのひとつも見せず、あたかも噂話のように語る河井だが、これらの事柄は、この男にとっては全て調べ済の事実であるとは、其処に座す誰もが推し量るに容易だった。 「ではその柚木がいなくなり、あんたの処の殿さんも、当てが無くなったな」 「それ故、功績が必要となる。柚木清四郎には、生きて貢いで貰えぬ分、生前の悪さを暴く事で、我が藩の力となってもらう」 事の本音を引き摺り出した土方と、出された河井の両者の目が、一瞬だけ互いを鋭く捉えた。 「必ずやり遂げると云う証は?」 「これより手をつけんとしている一件は即ち、歴代の寺社奉行の不始末を暴き表沙汰にし、それを糾弾しようとするもの。中には在職中の老中もいる。・・全ては、千代田の城の中を敵に回しての、一度限りの勝負。仕損じれば当藩の存続に係る。僅かにも、しくじりは許されぬ」 本来ならば決死の覚悟であろう事柄を、然して気負う風も無く淡々と告げる河井の、不遜とも思える面構えを、暫し土方は真っ向から見据えていたが、やがてその中に、己の意志は必ずや通し抜くと決めて揺るがぬ強靭さを見取ると、対峙する姿勢はそのままに、懐から油紙に包まれた書状を取り出した。 「これが、あんたの欲しているものだ。柚木の悪さの証が記されている」 受け取らんと手を伸ばした河井に、だが差し出しかけた土方のそれが止まった。 「人がひとり、己の命を呈して調べ上げた」 物言いには力みも無く、声の調子も今までのそれと全く変わらぬものだったが、しかし河井を捉えた双眸には、返る応えによっては断じて譲らぬ不敵さがあった。 「決して、無駄にはせん」 「してもらっては困る」 しかと誓わせるいらえを言葉にさせると、土方は漸く河井の無骨な手に、其れを委ねた。 「土方殿と、申されるか」 先程総司が言いかけた名を記憶していたのか、いつの間にか己を強引な取引に誘い込んだ男の端正な面を、河井が見遣った。 「河井継之助と、申す」 そのまま頭を低くすると、初めて自ら名乗った。 それに浅く一礼しただけの土方だったが、切れ長の三白眼が、映し出した男の像を刻み込むよう、僅かに細められた。 誰もが一度限りと思った縁は、しかし天のさだめか気紛れか、この後河井は新撰組副長としての土方歳三の風聞を国元で耳にし、土方も叉、京から北へと転戦を繰り返す最中、長岡藩を、官軍幕軍どちらにもつかぬ中立国家として存在させるべく、戦火に身を投じた動乱の世の異端児、越後長岡藩家老河井継之助の名を聞くことになる。 全ては―― 十年を経ない、時の奔流に委ねれば、瞬く間もない歳月の出来事であった。 「なれば田舎侍は、大捕り物の仕度がある故、早々に失礼を致す。堀内殿、手合わせは叉後日」 油紙に包まれた書状を丁寧に懐に仕舞うと、この一時を費やす間すら惜しむように、河井は気忙しく立ち上がった。 「手合わせなど、端からするつもりなど、ありはせぬものを」 「いや、それはござらん。こうして江戸に出てくるのは、堀内殿との手合わせが楽しみが為」 「異国の大砲やら銃に、目の色を変えている人間が、何を云うやら」 慌てて言いつくろう河井の様に、いらえの最後は笑い声になった堀内が、それまで土方との間に、踏み込む事を憚るような緊張の時を作り出していた男の変容を、不思議そうに見ている総司に気づいた。 「この男は、私の弟子を名乗る変わり者」 その怪訝な視線に応えて向けた顔が、愉快そうに笑っていた。 「堀内殿に、変わり者呼ばわりされるのは心外。この御仁こそは、当藩の指南役にと、殿のたっての懇願に、素気無い返事を寄越した希代の変わり者。お陰でこの十数年、長岡藩における柳生流の剣術指南役は空席のまま・・・が、もしや」 立ったまま、苦笑がてらの言い訳を余儀なくされた河井だったが、ふと何かに思い当たったように言葉を切った。 「嘗て堀内殿が、養子にとの願いを袖にした少年と云うは、貴殿の事だろうか?」 少年と言われた事に、流石に素直には頷けず、勝気と困惑を、細い面輪に浮かべて黙している総司の様子など気にも止めず、河井の顔(かんばせ)が、先程笹団子を話題にした時と同じ親しみを湛えた。 「ならばその隣の御仁は、柚木を成敗したと云う、ご友人か?」 そのまま横に逸らせた視線で一を捉え、まるでこれまでの経緯の全てを承知しているかのように語る河井の言葉に、総司の瞳が大きく瞠られた。 だがその唇が何かを言おうとする前に、一のそれが先に動いた。 「斬ったのは俺だ」 「見事な斬り口だったと、調べに携わった者が云うていた」 短い一言を告げた途端、人を斬った手ごたえが、未だ両手に感覚としてまざまざ残るのを硬い顔に隠しきれない、その若さをいとおしむように、告げた河井の目が細められた。 「では、これは貴公が必要とするものだろうか」 だがその柔和さを一瞬の内に消し、再び厳しい表情に戻ると、河井は懐から、先程仕舞ったものよりは、余程に薄い書状を取り出した。 「危うく置いて行くのを忘れる処であったが、堀内殿から呼び出された折に、関所を煩わせぬものを用意しろとの事だった。急な事ゆえ、当藩の人間と云う事で辛抱してもらう。越後長岡藩藩士、斎藤一、悪くはなかろう?」 「ひっかかりさえしなければ何でも良いが、忘れられては困る」 無骨な手から受け取った其れを、はらりと開き、中を確かめながら堀内が笑った。 「もしや堀内殿は、お甲殿から何か聞き及んでいるのでしょうか?」 違う筈無いと当りをつけての、八郎の含んだ物言いに、若輩者の揶揄を嫌うでも無く、堀内が苦笑しながら頷いた。 「私の頼んだ言付けを預かる代わりに、人ひとり、つつがなく高崎まで遺髪を届ける事が出来るよう、その便宜を図れと脅された」 だが脅かされたと云う口調は、その時のやりとりを思い出し、楽しんでいる風であった。 「柚木の悪事の成敗と、柚木家の根絶、日が変わると同時に取り掛かる」 一時生まれた和やかな余韻も消えぬ内に、一に視線を移した河井が、それが堅く破られぬ誓いのように、強い調子で言い切った。 「佐平殿のお命、無駄にはせん」 静かに頭を下げた一の耳に、河井の、凛と明瞭な声が響いた。 |