sizuku(上)  玉響〜たまゆら〜 番外

 

 

 

 

今頃の雨ってえのは薄ら寒いだけで粋でもなんでもねぇ・・

 

 

障子の向こうに音も無く淑(しと)やかに降り続ける

雨の気配に八つ当たりしたところで

何の役に立ちもしないと思いながら、

伊庭八郎は自分の目の前で、

硬く体を強張らせて座っている沖田総司を見た。

 

総司は緊張で蒼い顔を八郎に向けたまま身じろぎもしない。

ただ黒曜石の色にも似た、吸い込まれるような漆黒の瞳は

堅い意思を秘めた激しい光を放っていた。

 

 

その目に負けるわけにはゆかぬと思いながら、

すでに捉えられてあとに引けなくなっている自分を

八郎は叉、認めぬわけにはゆかなかった。

 

 

 

 

「お前の言っていることってのは正気の沙汰じゃあねぇよ」

 

分かってんのか、

そう強い調子で言葉を投げかけても、総司はただ黙って頷くだけで

先程から一体どの位同じ事の繰り返しをしているのかと、

八郎はやるせない溜息をついて横を向いてしまった。

 

 

肩に引っ掛けただけの羽織の下で、胸に入れた方手を弥蔵にし、

脛の長い足を無造作に胡座に組んだ洒脱なその仕草は

とても心形刀流の十代目を継ぐべき者とも思えないが、

そんな格好をしても決して崩れない品格が八郎にはあった。

 

 

 

暫らく横を向いて沈黙し、何事かを考えていたようだが、

やがて決めたかのように、総司に強い視線を向けた。

 

 

 

「来な」

 

懐から手を出すと、

総司の腕を掴んで自分の胸へと引っ張り込んだ。

 

覚悟はしていたつもりだが、

あまりに突然の八郎の行動に総司の体が一瞬抗った。

 

 

「抱かれたいんだろ」

八郎の低い声が耳に触れるようにして聞こえた。

胸の中に押さえ込まれる様にして抱かれながら、

総司は思わずその顔を見上げたが、すぐに視線を逸らせた。

 

その問いかけに、本人は頷いたつもりなのだろうが、

後ろに流れる細い髪の束が微かに揺れたにすぎず、

それが総司が本心から自分に抱かれることを望んでいるのではないと

如実に物語っているようで、八郎を未だ戸惑わせる。

 

 

 

 

 

 

 

*********

 

 

朝から霧のように細かい雨が降り続く、二月も初めのこの日、

御徒町にある伊庭道場に、総司がやってきたのは夕刻に近かった。

 

流派は違えど道場で手合わせをするのはいつものことだが、

日暮れも近いこんな時間に、

総司がやって来るというのは珍しいことだった。

 

 

 

「どうしたい、こんな時刻に。近藤さんは知てっんのかい」

 

一つしか歳の違わない八郎の、

そんな子供扱いした、からかうような物言いを、

いつもは怒る総司だが、今日は黙って小さく頷くだけだった。

 

 

 

(およそ土方さんと言い争いでもしたか・・)

 

横恋慕は承知の上だが、

何も恋敵が泣かせた後始末の慰みまで請け負う気はさらさらない。

 

そうは言いつつもいつもは明るすぎるくらいの総司が、

何か物言いたげに、頼りなく自分を見る姿を目の前にすると

惚れた弱みでやはり捨て置いてはおけない。

 

 

 

 

「今日は、八郎さんに頼みごとがあって・・・」

漸く開いた総司の口から出た声は、どこか気弱な響きを含んでいた。

 

「いいよ、先に俺の部屋にあがってな。すぐに着替えて行くから」

気さくに言いおくと、八郎は稽古の汗を流しに井戸端に向かった。

 

 

その背を見ながら総司は、これから自分がしようとすることに

初めて怯えに似た戦慄を覚えた。

 

だが、もう引き返すことはできない。

 

己を励ますかのように強く拳を握ると、

この家の一番奥にある八郎の自室へと重い足取りで歩き始めた。

 

 

 

 

八郎の自室は家人があまり立ち寄らない奥まった一室にある。

 

この部屋からだと表門から出入りしなくとも、地続きの裏の空き家を通って、

幕府の種痘所の敷地に出ることができる。

種痘所の門は昼夜を問わず開いているから、そこを使って朝帰りをするのが

最近遊びの激しい八郎が、好んでここに自室を置いた理由(わけ)だった。

 

 

 

 

その自室の一隅に体中を硬くして、総司が告げた『頼みごと』とは

八郎に言わせれば

『頬のひとつでも張って、お前は正気かっ』と

その肩を揺さぶってみたくなるようなことだった。

 

 

聞いた瞬間、八郎の顔がみるみる強張った。

 

 

 

「・・・・私を抱いてほしいのです」

 

蒼白になって繰り返し呟く総司の声は、すでに震えて言葉にはならなく、

緊張の糸を幾重にも巻きつけて縮こまった体は、

触れただけで、ギヤマンが割れるように鋭く壊れてしまいそうだった。

 

 

 

 

「お前が抱いて欲しいのは土方さんだろう・・・」

自分を落ち着かせるように、ひとつ息をして八郎の言った言葉に、

総司はそのまま倒れこんでしまうのではないかと思うほど、

一瞬強く体を硬直させた。

 

だが顔を上げて八郎を見た黒曜の瞳は、先程からの怯えが消え

替わりに、射るような激しい色を湛えていた。

 

 

 

「土方さんを忘れたいのです」

「忘れる?」

総司は黙ったまま頷いた。

 

「今日、試衛館の殆どが浪士隊に加わって、京に行くことを決めました」

 

 

「・・・・やっぱり行くか」

(暫らくは離れてしまうな・・・)

八郎の思考は総司とは別の処に飛んでいた。

 

 

「土方さんは京に大きな望みを持って上ります。

私の気持ちを八郎さんは知っているけれど、土方さんはまだ知りません。

知らないうちに、土方さんへの気持ちを断ち切ってしまいたい・・」

 

「何故断ち切る必要がある」

 

「邪魔になるだけです・・・」

「邪魔?」

 

総司は小さく頷いた。

 

「土方さんの傍でこの身全てを投げ打っても、

あの人の望みを一緒に果たしたいと、そう決心しました。

その為には、私のこの思いは土方さんの邪魔になるだけです。

あの人の重荷にはなりたくないのです」

 

 

 

「だから俺に抱けというのか」

 

見据えられて、総司は目を伏せた。

 

 

「誰かに抱いてでももらわなければ、きっといつまでも諦めきれない・・」

小さな響きだったが、その声に悲壮な決意が込められていた。

 

言い切って、もう一度総司が顔を上げた時、

黒曜の瞳が強い色で八郎を捉えた。

 

 

 

 

 

              

 

**********

 

 

体を硬くして小刻みに震える総司に、回していた腕の力が緩む。

 

尽きぬ問答の末、八郎は総司を抱くことを選んだ。

だが横恋慕とはいえ心底惚れた相手を、

他の男への恋情を断ち切らせる為に抱くと言う事に、

八郎は酷く拘っている。

 

 

緩めた腕に抱きしめられた体が少し開放され、

総司が怪訝に八郎を仰ぎ見た。

 

             

 

 躊躇う八郎の視線に己のそれを絡めるようにして見つめると、

 

「抱いて下さい」

腕を八郎の首に回して呟やいた声は、消えゆるような儚かった。

 

 

 

 

もう八郎の戸惑いを許さぬというように、

あるいは自分の決意を揺るがぬものにするかのように、

総司の黒曜の瞳が激しい色を湛えて揺れた。

 

 

 

 

 

 

 

                  琥珀短編     雫(下)