翠霞立つ (上)




「私は新三郎殿を好いている」
残酷な応えは、形の良い唇から逡巡の間も置かず返った。
「嘘だっ」
顔色ひとつ変えずに告げる玲瓏な面差しに、激しい抗いの声が飛んだ。
「信ずる、信ずまいは勝手だ・・・だが」
顔だけ振り向いて端座した姿勢を崩さず、机上に置いた手は書物を捲る手を止めた格好で、目は激情のままに問う者に据え、杉浦兵馬は眉ひとつも動かさない。
だが表情を無くした面は、ぎりぎりの瀬戸で堪えている己の真実が迸るのを恐れ、硬く蒼ざめていた。
「私は俊介の想いには応えられない」
言い切るまで、決して逸らされる事がなかった瞳が、言葉の最後の韻を踏んだ途端に虚ろに宙を彷徨い、自分を睨みつけている弟の唇が、何か発するのを拒むように文机に向き直った。
しかし叉その一連の所作は、弟に、背を向けてしまった兄の偽りを物語っていた。

「兄上は俊介がお嫌いか」
十五歳という、若竹の如く曲がらず培われた真っ直ぐな感情は、己を欺く者を直截に責め立てる。
「俊介は弟だ・・・何ものにも変え難い」
すでに寝る間際だったのか。
単の上に羽織を、袖を通さず纏い、襟足あたりで無造作に束ねた黒髪を流す伸びた背筋の厳しさが、これ以上どんな激しい言葉をぶつけられても、望む応えは返す事はできないのだと俊介に告げていた。
「もう行け・・。夜中このように大きな声を出していれば、いずれ家人の気づくところとなろう」
一度も振り返らず淡々と語る声の主は、きっと書物の文字をただ視界に入れているに過ぎない筈だ。

華奢すぎる背の隙から見える細い指は、一処で止ったまま微塵も動かない。
その先が、血が通っているとは思えぬ白さに染められているのは、きっと何かを堪えて力を入れすぎているからだ。
兄の動揺は、無残な程に我が目に映る。
常に穏やかにあるこの人の面輪は、今白いを通り越して蒼い彩が皮膚を透かせているのだろう。
柔らかな声音で紡がれる筈の言葉は、唇を突いて出た瞬間、全て辛い苦しさに終始するのだろう。
だがそれを哀れと、相手を慈しむ思いよりも、俊介の若さは己が想いの成就に走った。

「兄上が新三郎殿を好いてられると言われるならば、それも良し。されど俊介は諦めませぬ。兄上は・・きっと俊介を好いて下さる」
立ち上がりざま迸った恋情は、後姿を堅く砦としている人に、確かに届いたのだろうが、僅かにも振り向こうとしない様が、兄兵馬の揺るがぬ意志を現していた。




あの時。
立ち尽くし、兄の背に視線を射止めたまま其処を動けず、告げてしまった真実の重さに怯えていたのは自分の方だった。

「今年も仰山花をつけますわ・・」
後ろから掛かった嬉しそうな声で、漸く現に戻ったように田坂俊介はキヨを振り向いた。
「紫陽花か?」
「いややわ、若せんせい。何をぼんやりしてはりました?さっきからキヨは紫陽花の話をしてますのえ」

目の前には、高さは腰にまでに満たないが、昨夜の雨に打たれ、まだその露を葉に宿す紫陽花がある。
そして確かに自分は、先程からこの木を見ていた。
それがいつの間にか昔に還ってしまっていたのは、今は蕾のこの実がこれからつける花の白さに、思えば未だ苦しい人の面影を重ね合わせてしまっていたからなのかもしれない。

「キヨの声が耳に心地良くて、つい心が何処かに行っていた」
自分の話など念中にはなかったのだと知って、幾分不満げな口調の主に、少しばかり慌てて取り繕った言訳だった。
だがそれが如何にも陳腐な付け足しと気づき、すぐに自分で苦笑いに変わった。
「そないなお上手は、白粉の匂いがするところでしなはれ。キヨには通じまへんえ」
そう言いながらも本当に怒っているのでは無いのは、含んだ声に籠もる笑いで知れる。
「俺の最近は、良い行いだぜ」
「さぁ、どうどすやろ。キヨは若せんせいのええ人までは知らんよって・・」
とぼける風を装ってはいるが、キヨの目が、見上げねば視線が合わぬ長身の主をからかっていた。

「そや、こないなとこで、若せんせいの相手をしておられへんかったわ」
急に思い出したように慌て始めたキヨを、今度は田坂が怪訝に見た。
「俣助はんの薬、もうあらしまへんのや。小川屋はんに行ってこんと・・・」
応える間も惜しいのか、キヨはすでに背を向け母屋に向かって歩き出そうとしていた。
「俺が行こう」
それを田坂の声が、後ろから止めた。
「若せんせいが?」
「他に頼んであったものもあるからな」
「いや、そうしてくれはったら助かりますわ・・・けど、誰かのお薬新しゅうするんどすか?」


若いが腕の立つ医師だと評判のこの診療所にやって来る患者は、毎日引きもきらない。
大方が貧しい者達だが、そんなことには頓着無く、田坂は必要だとあらばどのように高価な薬をも処方する。
だがその代価はすべからくこちら持ちになるから、決して台所の事情が良いとは言えない。
今から行くという薬種問屋の小川屋は、この診療所とは先代が此処に開業した時からの付き合いだが、若い医師の無理を良く聞いてくれ、支払いを催促された事は一度たりとも無い。
けれどそう言う小川屋の心が胸に染みて有り難いと思うからこそ、それに甘えすぎてはならないとキヨは思う。
新しい薬がどのようなものか分からぬが、もしもまた高価なものだったらと案ずると、キヨの心にも少しだけ困った風が吹く。

「そんな顔をしなくても大丈夫さ。処方する相手は金には不自由していない」
つい正直に顔に出てしまったキヨの憂慮を見とって、田坂が笑った。
「ああ、もしかしたら、あのお話・・・。やっぱり来られはるんや・・」
キヨがすっかり忘れていた記憶を手繰り寄せて、ひとり合点がいったように頷いた。


今年も櫻がそろそろ咲き始めるかと思わせる頃、偶然新撰組局長の近藤勇が襲われている場に田坂が遭遇した。
近藤一人の手で十分事足りたのだろうが、どういう気紛れがさせた業だったのか、気づいた時には助成を買って出ていた。
その後かすり傷とも云えぬ怪我を負った近藤の手当てをし終えた時、唐突に頭を下げられ、胸を患う愛弟子を診て欲しいと懇願された。

新撰組の幹部と云うその名は、京洛で暮らす人間ならば誰でも一度は耳にしたことがある剣客だったが、労咳だと、正直に告げる近藤の顔が一瞬苦渋に歪んだのを見た時、田坂は何故か断りきれずその申し出を引き受けてしまっていた。
無理に理由を付けるとすれば、それはきっと近藤自身が、新撰組という組織を束ねる者としての立場ではなく、大切な者の身体に巣喰う病を憂える苦しい胸の裡を、直截にぶつけて来たせいだったのかもしれない。
だがその後、ふっつりとその話に関しては何の連絡も無く、田坂自身も忘れかけていた昨日、漸く本人を説得できたのでと、何とも悠長な文が近藤の直筆で届いた。
一度は承知してしまったことだから、当人が気に入れば通ってくれば良いし、そうでなければ二度と来なくて良し、そんな気楽な考えで、田坂は近藤に託(ことづけ)を返していた。


「どうやら本人がその気になったらしい。近々尋ねさせるから良しなにと、近藤殿から使いが来た」
「そうどすかぁ。せやけど新撰組やったらなんぼでもお代は頂戴できますなぁ」
ふっくらとした頬を緩めて笑う、キヨというこの人間の胆の在りかも、ずいぶん変わった処にあるらしい。
「キヨは怖くはないのか?新撰組随一と云われる使い手だぞ」
呆れた笑いを浮かべて、田坂が面白げに問うた。
「新撰組言うたら、確かに評判は良うありまへんけどなぁ・・。けど、ご病人には変わりありまへんしなぁ・・」
本気で考えている風なキヨの、のんびりとした風情に、今度こそ田坂は声を出して笑い出した。
「いや、先生失礼ですわ」
「すまん。だがこれ以上キヨに付き合っていると、小川屋につく頃には日が暮れてしまいそうだ」
「せや、うちも若せんせいとお喋りしている暇なんぞあらへんかった」
「少し遅くなるかもしれない」
小走りに建物の中に入って行こうとするキヨの背に、田坂が声をかけた。
「お早うお帰りやす」
振り向かず、急ぐ足を止めもせずに返った応えは、そんなことはいつもの事だとでも云わんばかりに、およそ気の無いものだった。
もう一度恰幅の良い後ろ姿に苦笑すると、田坂自身もやっと門の外に向けて踵を返した。




「ずいぶんと強い薬どすなぁ」
小川屋佐衛門は、頼んでおいたものを、その薬効から新しい患者の大体の事情を察したのか、少々痛ましそうな顔をして渡してくれた。
それに曖昧に頷いて受け取ったのは、本人の事はまだ何も知らないとは云え、近藤から聞いた患者の病の進み具合と、まだ先のある年の若さに、田坂自身も感傷を誘われたのかもしれなかった。

若ければ身体の内に抗う力もあるが、病魔そのものの勢いも叉激しい。
如何にして一刻も早く療養生活に入らせるか・・・
当人を前にして告げねばならない一言は、それのみだった。
だが相手はきっと否と首を振り、受け容れはしないだろう。
拒まれたのなら、治療をも叉拒まねばならない。
そして近藤の切願は果たされる事無く終わる。
あの強面が、自分に向けた真剣な眼差しを思えば多少の心は痛むが、そうなればなったで仕様の無い事。


そんなことを思考の隅に置いて歩きながら、川べりの道を渡って来る風が、この時期特有の湿り気の無さで肌に心地よい。
小川屋は加茂川に架かる五条の橋を渡ってすぐの処にある。
来た道を戻らずに一度川原におり、そのまま川の流れに逆らわず南に下り七条の橋を渡ろうと、人が聞けば呆れるような遠回りをしたのは、花の後に来る季節の到来に触れる事で、近藤への後ろめたさを誤魔化してしまいたいと、柄にも無い弱気に動かされたせいだった。

川原の道は誰も手入れをする者がいないから、もう少し暑くなれば地にはびこる雑草は日雨の恵みを受け、やがてその背は人を隠す程に伸び、到底そぞろ歩きの風を楽しむことなど出来なくなるだろう。
そんな事情を差し引いても、この道とも云えぬ道を歩く物好きな人間も居まいと、流石に苦笑のひとつも漏れた時、意外にその思惑を破るように、自分の行く手より更に水に近い処に人影を見止めた。


ただ人がひとり、其処にいる。
普段ならば気にも止めない風景に、だが目は一瞬の内に引き付けられ、足は蔦が幾重にも巻きついたように、ぴくりとも動かず止った。

―――記憶するという人の働きを消してしまわぬ限り。
否、心というものを持たせず、天がこの世に人を遣わせぬ限り、自分の全てを未だ捉えて離さぬ人の、それは後ろ姿だった。
強烈な陽が惑わす幻なのだろうか。
それとも現のものなのだろうか。
そのどちらなのか・・・
たったひとつの像しか視界に結べず、ただ立ち尽くす田坂には判じかねる。


暫し時を止め凝視する無遠慮な視線を感じたのか、華奢な背の主が、ゆっくりと振り向き、上手にいる田坂を見上げた。
西日が邪魔して分かりづらい中にあっても、不思議そうに此方を見る顔貌(かおかたち)は、寸部の違いも無く望んだ通りに兄兵馬の其れであった。
次の瞬間、時は一気に溯り、有り得る筈の無い過去の残像を、今に蘇らせるに十分だった。
だが現は叉、すぐさまそれが残酷な錯覚なのだとも、田坂に知らしめる。

自分に害為す者ではないと判断したのだろう。
物言わぬ相手は惜しげも無く又後ろを向けると、先程と同じように川に視線を投げかけ、元の情景の中に戻ってしまった。
それでも我知らず一歩前に出た足は、そうしなければならぬと決められた事のように、地を踏みしめ、幻惑へと自分を誘う者に近づく。
人の気配に、今度は流石に警戒したように、今一度若者が振り向いた。
勢いづいた陽が眩しいのか、少し細めた瞳が、金色(こんじき)に染まる夕景の中でも際立って深い色だと分かる。

「・・・何か、ご用でしょうか」
細い面輪に釣り合い良く納まった唇から発せられた、幾分躊躇いがちな声音が、漸く田坂に、自分が陥ろうとしたものが、疾うに終わった過去だったのだと気づかせた。
声の主は咎める響きを籠めてはいなかったが、それでも何時の間にか真っ直ぐに向けられている瞳は、不審な者に些かも臆する事無く、むしろ勝気な強い光を湛えていた。
「申し訳無い。少し似ている者と見間違えたようだ」
偽りは容易く、口から滑るようにして出た。
唯ですら射す陽の強さで物の形を判別しにくいこの頃合、言い繕う言葉に不自然は無い。
「・・眩しいから」
相手の行為は確かにあり得る事だろうと納得して笑った顔に、もう屈託は無かった。

「何かを探しているのだろうか?」
其処に佇んだまま動こうとはしない若者を見て、些か強引に会話を続けようとしたのは、もう少し現の幻に捉われていたい心がさせた切願だったのかもしれない。
「川を、見ていたのですが・・」
応えは、最後まで紡ぐを戸惑うように其処で切られた。

今日の川は昨日の雨の名残をとどめ、世辞にも清い流れだとは言い難い。
褐色がかった土色の水が、時折渦を巻き、川下へと流れている。
確かにこんな川を見ているなどとは、誰が聞いても首を傾げる言訳だった。
それとも心の裡に、何かこの流れの様(さま)に似たものがあるのだろうか。
ふと湧いた疑問を、今度は執拗に問い質したい衝動に駆られ、どうにも堪えられないのは、赤の他人と承知しながらも尚、兄兵馬の姿をこの若者に映しているからに相違ない。


「物好きだな」
何気なく、独り言のように言って視線を向けた川は、やはり濁流に違いない。
それにどう応えを返して良いのか分かりかねているのか、若者は相変わらず沈黙を守っている。
下手をすれば足元を濡らしそうに近くまで来ている水際を、避ける気も無いらしい。
「見るならもっと綺麗な時にしてやれよ。川にも矜持ってものがあるだろうに」
「矜持?」
今度はすぐに戻った応えには、やっと解いた警戒が分かるような笑いが含まれていた。
「川も汚れた自分を見せたくはなかろう」
「そうかな」
「そうさ」
断言するような強い物言いに、若者の唇から小さな笑い声が起こった。
だがそれはすぐさま咳に代わり、二度三度背中を大きく震わせて、漸く鎮まりを見せた。


「・・・すみません」
醜態を見せてしまった相手に無礼を恥じて詫びた声が、先程とは一線を画すように沈んだ。
「その咳、ただの風邪とは思えぬが」
掛けられた声の、思いがけない低い調子に、弾かれたように上げた顔が、言葉に込められた真意を汲んで、すぐに強張った。
「医者には通っているのだろう?」
遠慮など欠片も無い、むしろ容赦無い問い詰めと言って良い程に、田坂の口調は厳しい。
眼差しも、先ほどとは打って変わり鋭い。
「・・貴方には関係が無い」
辛い処を、何の前触れも無く、しかも何処の誰とも分からぬ人間に直截に突かれれば、自ずと人は防御の態勢に籠もる。
今目の前で、血の色を頬から失くしている若者も、その例外では無いようだった。

「確かに関係は無い。が、生憎俺は医者だ」
「・・医者?」
咎めるような調子を崩さないのは、まだ自分の深部にまで踏み込まれた事に拘りを解いてはいない証なのだろう。
「例え誰でも関係は無い」
強く繰り出された言葉と共に向けられたのは、優しげな風情には凡そ似つかわしくない、射るような激しい瞳だった。
だがその奥に不安定に揺らめくものを、田坂は確かに見取っていた。
若者の、必死に勝ち気を装う様を哀れと思うよりも先に、我が身の辛さに置き換えて余裕を無くしている自分を、田坂は振り返る暇すら持たなかった。

「然るべき治療はしているのか」
更に詰問は続く。
咳の重さと、その質と・・・
それだけからの判断では無く、そうして見ればとても頑健とは言えぬ脆弱な体躯と、折から差し込む陽すら透かしてしまいそうな薄い皮膚は、この者の胸に巣喰う病魔の存在を知らしめて余りあるものだった。
「その咳、だいぶ前からのものなのだろう?」
漆黒の闇へと浚われるような不安が俄かに湧き起こるのを、田坂は勤めて顔に出さず問うた。
だが若者は、それまで凍てついたように瞠っていた瞳を不意に逸らせ、無言のまま再び背を向けようとした。
一歩前に足が出、離れゆく肩を思わず掴んで振り向かせたのは、過去へと通ずる道を塞がれてしまうという、田坂の錯覚と焦りが為させた所作だったのか・・。

「待てよ」
片手で容易く包み込めてしまうそれは、哀しくなる程に薄いものだった。
だが力任せに向けられた若者の面には、理不尽に対する真摯な怒りがあった。
「離してください」
静かな口調に籠もるのは、拘束者への憤りしかない。
訴えても緩められぬ戒めを、次は渾身の力で振り解こうと若者が身を捩った。
敵うものではないが、それでも精一杯の抗いは隙を突き、一瞬崩れた力の均衡でよろけた身体を支えようとしたその時、田坂のもう片方の手に有った包みが無造作に地に落ちた。

包みが、川に向かう緩い傾斜を几帳面に転がりゆく様を瞳に映して、若者が息を呑み瞳を見開いた。
それが無情にも淀む水の中に飛沫を上げる音をたてた寸座、小さな叫び声が発せられ、次の瞬間田坂の視界に、川の中央に向かって走り出す姿があった。

「おいっ」
無鉄砲な行動に、慌てたのは田坂の方だった。
声は聞えている筈だが、浮き沈みながら流れ行こうとする包みを追うに必死の様子で、若者は振り向きもしない。
「いい加減にしろよっ」
やっと追いつき、腕を掴んで止めても、縛り付ける力を撥ね退け前へと出ようとする。
「これ以上は深みだぞっ」
「でも包みが・・」
漸く向けた顔が蒼ざめていた。
きっと自分のせいだと責めているのだろう。
「あんなものはどうでもいい」
「そんなことは無い。・・・貴方はずっと大切そうに持っていた」
若者の瞳は驚く程真剣で、自分が為してしまった事に怯えすら覚えているように、動揺を隠し切れない。

「薬にする根だ。又問屋に行けば手に入る」
「けれど・・・」
「大丈夫だ。あれは直ぐに必要とするものではない。それよりも水から上がって欲しいのだが・・・。できたら俺もこんな冷たい状態は早くに遠慮したい」
揶揄するような言い回しが、自分の心にある重荷を下ろしてくれる為のものだと分かったのか、若者の頬に俄かに朱の色が上った。
「・・・すみません」
蚊のなくような小さな声が、二度手間を掛けてしまった申し訳なさと、情けなさと、そんな気弱な心を物語っていた。


「この先、川を渡って直ぐの処に俺の家がある。歩けるか?」
若者の着けている袴は膝の上辺りまでが強(したた)か濡れ、裾からは雫が滴っている。
その有様に思わず眉根を寄せたのは、きっとこの者が胸に宿しているであろう病を咄嗟に思った、田坂の医師としての懸念だった。
身体を冷やし、或いはそれが引き金で風邪から大事に至ることが、大袈裟でなく有り得る病だった。
「大丈夫です。・・・近いし、このまま帰ります」
告げるに、未だ戸惑いがちな声は、流れていった包みの事に気を奪われているのであろう。
顔を上げて見る瞳に、先ほどまでの勝気な色はもう無い。
むしろ悔恨に胸痛め、丁寧に細工された面輪は硬いを解けずにいる。

驚く程強い精神の持ち主なのかと思えば、咄嗟に危惧させる程に脆い。
そしてそういう危うさを案ずれば、叉手のひらを返したように強靭さを見せつける。
そのどれが本当の姿なのか、深すぎる瞳の色からは測りかねる。
見ていれば、限りなくその淵に浚われそうだった。

「だが其れを差して歩くには、この格好では少しばかり度胸がいるぜ」
ともすれば騒ぎ出す己が胸の裡から目を逸らせ、からかうように笑って指差したのは、頼りない腰に重そうな二本の大小だった。
言われて慌てて下を見、其処で初めて自分の今の状況に気づき、暫し茫然としていたが、やがて諦めともつかない溜息が漏れた。
それでも少しの間、どうしようか迷っていたようだが、そのうち思案も尽きたのか、漸く上げた顔が困惑で曇っていた。

「嘘を言ってはいないだろう?」
苦笑しながら告げた意地の悪さに、若者はもう抗いもしない。
「駕篭・・・近くで拾えるだろうか」
独り言のように呟いた声だったが、不意に何かを思い出したのか語尾が急(せ)いていた。
「拾えない事も無いが・・、急いでいるのか?」
ゆっくりと頷いた面が、何処か縋るように助けを求めていた。


傾きかけた日は、この時期は沈むを惜しむように、長い時を掛けて稜線にきえて行く。
だがそれにも限りがある。
まだ強い陽射しを残す今も、いずれは薄闇に包まれるだろう。、
そうなれば夜が帳(とばり)を下ろすのも早い。
視線を上げて見れば、橋を渡る人の姿も、迫る日没に心なしか足を急がせているように思える。

流しの駕篭を拾って乗せるよりは、少しでも知った処に頼む方が安堵できるだろう。
身内でもなく、つい先ほど知ったばかりの、まだ名も知らぬこの若者にそんな気が動いたのは、どうにも人を心細くさせる夕景のせいなのか・・・
それとも兄兵馬の面影を濃く留めてやまない姿に、未だ囚われ続けているせいか・・・
それは違える事無く、確かに後者なのだと承知しながら、田坂は今一度視線を、不安げに自分を見ている若者に戻した。


「土手を上がってすぐの処に知り合いの薬種問屋がある。其処で駕篭を呼んで貰った方が早いだろう。どのみち俺も流れてしまった薬を調達しなければならない」
失くした薬を引き合いに出すのには気が引けたが、こうでもして負い目を作らせねば、姿形に似ず意外に頑固そうなこの若者は、自分の提案を受け容れはしまいと判断した、田坂の苦肉の策だった。
案の定、白い面輪は気の毒な程狼狽を隠せない。

「その薬、私が代金を払います」
「いや、それはいい」
「でも」
「薬代を貰う予定の相手は、その二倍の金を払う位何の腹も痛まない人間だ。だから君が気にすることは無い」
譲りそうに無い頑なな表情に向かって、田坂が事も無げに言い切った。
「それより早くに戻りたいのなら、何時までも此処にいることはできないのだろう?日暮れ近くなればこの辺りの駕篭はみな花街へと流れてしまうぜ」

確かに此処からは祇園が近い。
それに宮本町も川を越えてすぐの処にある。
其処へ客を送り込むために、案外にこの時刻、駕篭を調達するのが難しいのかもしれない。


「その店の人に、迷惑にならないでしょうか?」
幾分躊躇いがちだったが、そう問うたこと自体が、すでに好意を受けるという決心の現われだった。
「俺以外の人間なら、大抵は喜んで迎えてくれるさ」
冗談とも思えぬ言い回しに、若者の顔に、漸く明るいものが浮かんだ。









        短編の部屋    翠霞立つ(下)