333337御礼
ひなたみつきさまへ
(江戸)
日中は真夏を思わせた暑さも、入相の鐘の音が町を包む頃には勢いを潜め、膚に触れる風が乾いて心地良い。気が付けば、庭の片隅から微かに虫の音も聞こえて来る。小さきものが奏でるその初秋を拾うように、堀内左近はじっと耳を澄ませた。が、風流も束の間の事だった。
「目黒のお屋敷からは…」
しわがれ声が、無遠慮に虫の音を掻き消した。
「晴れた日には富士のお山が間近に見えるそうでございますよ。それにお狩場近くの桜は大層見事だとか。田舎暮らしも暫くはお寂しいでしょうが、なに、すぐにお馴れになります」
声の主は、労わるように相好を崩した。
「世間からはとっくに隠遁しているようなものだ」
堀内は苦笑した。そして思い出したように云った。
「ところで肥後屋…。九段の屋敷の裏庭にある桜を、目黒の隠居屋に植え替えたいのだが」
「桜…、でございますか?はて、お屋敷にそんな桜がありましたかな?」
肥後屋と呼ばれた男は、狸のように丸く窪んだ目を瞬いた。
「屋敷の裏手にある遅咲きの桜だ。細い桜だが、毎年春になれば律儀に花をつける。その桜だけは持って行きたい」
「はぁ…。まぁ、ようございましょう。岩田屋さんも、欲しいのは堀内様のお家柄で、お屋敷と云う訳ではございませんから」
身も蓋もない事を、しれっとした顔で云い退けた肥後屋は、そのついでのように、
「そうそう、忘れる所でした…」
と、懐から油紙に捲いた書状を取り出した。
「お約束のものです。お改め下さい」
「手数をかけた」
受け取った書状を、堀内は肥後屋の前ではらりと開いた。真剣な光を帯びた双眸が、素早く文字を追う。
「私からの紹介と云えば、常盤屋も取り次がない訳には行きません。そこはご安心下さい。ですが堀内様、常盤屋にはゆめご油断をなされますな」
書状から目を上げた堀内に、肥後屋は厳しい顏で頷いた。
「いろいろと、悪い噂が多すぎる男です」
「ほう、お前が云うか?」
「私など…」
肥後屋は笑って手の平を振った。
「ただの小商人でございますよ。しかし…」
が、一段声を落とした時、肥後屋の目はもう笑っていなかった。
「常盤屋はいけません。あれは得体が知れません。今度は京で何を企もうとしているのか知りませんが、良い事ではありますまい。本当はご紹介などしたくはない男なのですよ」
「分かった。十分に気をつけよう」
「それが宜しゅうございます」
常盤屋はまだ何か云いたげだったが、堀内が丁寧に書状を畳み懐へ仕舞うのを見届けると諦めたように嘆息した。
「やはり止めても無駄でございますか」
返事の代わりに、堀内は黙って肥後屋の盃に酒を満たした。それを恭しく飲み干すと、
「京から戻られるのはいつ頃になられますか?」
肥後屋は訊いた。
「話の成り行きにもよるが…。そうさな、寒くなる前には帰って来たいと思っている」
「ならば来春の祝言には十分間に合いますな。いえ、お忘れになられても困るのですが…」
「形だけとは云え自分の娘になる者の祝言だ、忘れはしまい。それにその祝言が無事終わらねば、私も残りの金を貰えないのであろう?」
「左様でございます、ここは取引でございますからね」
悪戯気な笑いにつられて、肥後屋も笑った。
「それにしても…」
肥後屋は手を伸ばし、堀内の盃に酒を注いだ。
「私には不思議でなりません」
手を膝に戻して堀内を見た顔が真剣だった。
「失礼ながら、堀内家はこのような話を引き受けずとも十分な内証がおありの筈。何か大きな入用がおありなのでしょうか?ならばこの肥後屋がお役に立ちましょう。今なら全てを差し戻すことができます」
丸い目が真摯に堀内を捉えた。
「あなた様には恩があります。私は悪い人間ですが、恩知らずではございません」
堀内は静かに盃を置いた。
「お前には色々世話を掛ける。だが案ずるな。老いて、少しばかり贅沢な暮らしがしてみたくなっただけよ」
噓か真かを見極めようとする目を緩く交わし、堀内は鷹揚に笑った。肥後屋も、それ以上は問わなかった。
「左様でございますか、まぁそれも宜しゅうございましょう。京へは東海道ですか?それとも中山道で?」
「いや、船だ」
「船?」
上げた目が、驚いたように見開いた。
「そう、船だ。少しも早く京へ着きたいと思っているのだ。年を取るとせっかちになっていかん」
自らを叱るように作ったしかめっ面が、すぐに照れ隠しの苦笑いになった。その笑い顔が若いと、肥後屋は思った。
「何か楽しい事が待っているようですな。ではお道中気を付けていってらっしゃいませ」
秋 霖 (壱)
(一)
手入れが終わった刀を鞘に納め、斎藤一は懐紙を口から外した。そのまま視線だけを部屋の片隅に流すと、総司が手にした文にじっと目を落としている。鬱然と硬い横顏は、一の視線にも気づかない。先程からずっとこんな具合だった。
「堀内殿の上洛の知らせか?」
立ち上がり声を掛けると、漸く総司は顔を上げた。だが一を見たその顔が、あまりに暗かった。
「何か悪いことでも書いてあったのか?」
思わず一が訊いたほどだ。それに総司は黙って首を振ると、
「堀内さま、今度は船で来られるのです」
少し躊躇するように話し始めた。
「それで文には、今日明日には京へ入るだろうと書いてあって…」
「別に困った事でも無いだろう?」
文は早飛脚で来た。しかし出した本人が航路を使えば、陸路で来た文より早く到着するのは珍しくない。むしろ一には、総司の狼狽ぶりの方が訝しい。
「それはそうなのだけれど…」
曖昧ないらえを返すと、総司は又考え込むように俯き黙ってしまった。
「おい、何を悩んでいるのか知らんが、早く着替えた方がいいぞ」
総司は道場の稽古からそのまま来たらしく、まだ胴着のままなのだ。が、つい説教じみた世話をやいた自分に思わず舌打ちをしたその時、漸く一は気づいた。総司は今のこの姿を堀内に見せたくはないのだ。
今夏、都はいつにもまして暑かった。盆を過ぎてからさえも、焼き付けるような炎陽の勢いは衰えず、ねっとりと絡みつくような汗を流しながら、人々は暑さに呻吟した。年寄りや病人など弱い者には辛く長い夏だった。そしてそれは肺腑に病を抱える総司も例外ではない。過酷な夏は身体に重い疲労を残し、朝晩漸く涼しい風が吹き始めたある日、とうとう風邪をこじらせ床についてしまったのだ。隊務に復帰できたのは、漸く十日ほど前の事である。
そう云う経緯があったのだと、改めて一は総司を見た。胴着の藍を映した頬は青白く、面輪は夏の終わりよりも一回り小さくなった。痩せた姿を見れば、堀内は哀しむだろう。心配をかけたくはない、そう思う総司の気持ちも分からぬではない。だがどうしてやる事も出来ない。
「おい」
まだ文に目を落としている横顔に声を掛けると、一層大きくなった瞳が一を見た。
「早く着替えろよ」
云いおいて、一は障子に手をかけたが、寸の間の躊躇のあと後ろを振り向いた。すると、まだ一を追っていた総司と目が合った。
「昨日の大雨で京へ上る船が止まっているらしい。堀内殿も大坂に足止めかもしれないな」
瞬く間に、総司の面輪に喜色が広がった。
「ありがとう、一さん」
総司は嬉しそうに一を見たが、その視線が一には居心地悪い。急いで敷居を跨ぎ障子を閉めた。
軒下から空を見上げると、昼前まで重く垂れこめていた雲が、早い勢いで流れて行く。雲の隙間から覗く空は、青く高い。この分では船着き場も早々に賑わいを取り戻すだろう。
明日には京に入るかもしれない…。
そう思った脳裏からは、縋るように向けられた瞳が離れない。
雲は開け、空は急速に明るさを取り戻している。その澄んだ空に睨むような一瞥をくれ、一は足を踏み出した。
(二)
「…気にいらなぇな」
縁側に寝転がり、肘枕で庭を見ていた背中がぽつりと云った。それを聞き留めた田坂が、薬を轢く手を止めた。すると気配を察したのか、
「堀内さんだよ」
背中のままで八郎は応えた。
「堀内さん?掘内さんがどうかしたのか?」
八郎は漸く体を起こし、くるりと胡坐を回して田坂と向き合った。
「隠居するらしい。確かな筋からの情報だ」
「隠居?」
田坂は眉を顰めた。
「だがあの人は、今だって半ば隠居しているようなものだろう」
「今度は名実ともにだ。養女を貰い、その娘に婿を迎え家を継がせるそうだ。そして自身は目黒に隠居をする。養女の実家は、城御用達の呉服問屋。このご時世に、大層な羽振りの良さだと云う。娘の婿に決まっているのが、目付の深海鵜之丞の次男。深海は、次は大目付か町奉行化と噂されている男だ。…絵に描いたような、金と権力の結びつきだ」
「……」
これには田坂も暫し言葉が無かった。
堀内家は二百石取の旗本。左近自身も柳生新陰流の使い手で、一時は、将軍家指南役柳生家の婿として迎えられようとした過去もある。その左近が、惜しげもなく家を捨てようとしているのだ。
「堀内さんは家名を売る程困っているのか?」
そう思っても不思議はなかった。
「いいや…。堀内家は資産家で、内証は石高以上に豊かだと聞いている」
「では何故…」
「俺にも分からん」
八郎は苦虫を潰したような顰め面をした。
時世が安定しない昨今、逼迫した旗本が事実上家名を売ったり、御家人が株を売買する例は珍しくない。そう云う世の実情を、今まで八郎は他人事だとして傍観して来た。が、堀内左近に対しては違った。同じ旗本の家の生れとして、理屈では割り切れない複雑な感情がある。だが左近の真意は分からずとも、事を知らされた時、八郎の胸にある勘が過った。
「案外…」
その心の裡が、ぽろりと零れた。
「総司が関わっているのかもしれねぇな」
胡坐の上の頬杖に乗せた顔が、物憂げに曇った。
「沖田君?堀内さんの隠居がどうして彼と関わるんだ?」
田坂が怪訝な顔をした。
「あの人、昔、総司を養子に欲しがったんだよ」
「…へぇ」
初耳だったが、田坂にしてみれば驚きではない。堀内が総司を見る目は、父親が息子を見る其れに似ているとしばしば感じる。だから過去にそう云う話があったとしても不思議ではない。
「だが諦めたのだろう?」
でなければ今の総司は無い。
「一度はな。だが又ここに来て、その希(のぞみ)がぶり返しちまったのかもしれねぇな」
「何故?」
「総司が元気なら無い話だったろう」
ああと、田坂は心中で思った。
「隠居して、総司を看てやりたいと思ったのかもしれねぇ」
「それで金か…」
「あの人の事だ、有る丈の事をして養生させたいと思っているのだろう」
乾いた風が梢を騒がせ、縁に落ちが葉影が揺れる。その影の戯れに、八郎は目を向けた。
「伊庭さん、俺はね」
心地よさげに風を受けていた八郎が、田坂に視線を回した。
「もしあんたの勘が当たっているのなら、沖田君は堀内さんに託すべきだと思う」
「……」
「病の進み具合を遅らせる事は出来ても、治す術は無いのだ」
「ふん…」
八郎は気の無い返事をし、陽に煌めく楓の葉を、目を細め見上げていたが、やがてその目を田坂に戻して云った。
「あんた、雪蓮花と云う花、いや薬草があるのを知っているか?」
八郎の目が、追い詰められた獣にも似た獰猛な光を帯びた。
「セツレンカ?どこで聞いて来た」
「まだ云えない。が、その薬、小川屋で手に入らないかと思って今日は来たのだ」
「無理だな」
即答だった。八郎は眉根を寄せた。
「雪蓮花はな、唐の、神が宿ると云う深い山の山頂でしか採れない。一説によれば、彼の国の王のみが服用を許される希少な花だ。おそらくこの日本の歴史でも、本物を見た事実は無いと思う。手に入れる事など夢幻だ。…それにな」
田坂は一度言葉を切ったが、抑えた静かな語り口で続けた。
「沖田君の肺を救う特効薬は、もう無いのだ」
一瞬、八郎は挑むような強い目で田坂を見た。が、すぐにその目を伏せると又庭を向いてしまった。だが八郎は、雪蓮花を諦めた訳では無い。頑固に身動ぎしない背中が、物云わずそう語っていた。田坂は止めていた手を動かし始めた。すると、ほどなくして仄かな匂いが立ち上って来た。今朝小川屋から仕入れた松の実が、轢かれるたび、まろやかな香を放つのだ。微かに舌に残るこの甘さが苦手なのだと、笑いながら文句を云う面輪が田坂の脳裏に浮かぶ。
薬は、所詮気休めなのかもしれない。それも飲ませる方の…。
心の隙に忍び込む弱気を振り払うように、田坂は薬研車を握る手に力を込めた。
(三)
「何故だ?」
文机に向かっていた土方が、突然筆を止め振り返った。
「…は?」
面喰ったように、山崎は報告書から顔を上げた。
「何故その男は岩倉などで死んでいたのだ」
くるりと、土方は体を回し山崎と向き合った。
「男が家を出たのは夕刻だと云ったな?東寺の西にある家からでは、岩倉に着くのは夜中だ。そんな時刻に、何の理由もなく、昼日中ですら裏寂しい雁通寺周辺に一人で行くとは思えない。不思議とは思わないのか?お前は」
「…はぁ」
山崎は答えに窮した。まさか土方がこの話題に興を引かれるとは思っていなかったのだ。大体が町奉行所の仕事である。不意を突かれた格好だった。
事件は一昨日の朝まだきに遡る。
都の外れ、岩倉の里で男の亡骸が見つかった。見つけたのは土地の百姓で、男は匕首で鋭く腹を抉られており、雑木林の中に無造作に放り出されていた。男の身元が分かるのに三日を要したのは、身に付けていた粗末な着物以外に持ち物が無く、又住まいが、岩倉から遠く離れた東寺の近くにあったからだ。亡骸の見つかった岩倉は管轄外だったが、家は新撰組の持ち場であったために、一応山崎の報告にも上がったと云う経緯だった。
「男の身内は?」
「女房と子供がひとりです」
土方は腕を組み宙を睨んだ。が、すぐにその目を山崎に戻した。
「まぁいい、俺の考えすぎだろう。他に変わった事は?」
「いえ、特に報告する事はありません」
「分かった」
それで事足りたのか、土方は又文机に向かおうとした。
「あ、副長」
「何だ」
「堀内様ですが、明日夕刻、七条の船着き場に着くそうです」
背中を向けたまま、分かった、と短く応えが返った。
中庭はもう薄い闇に沈んでいた。廊下を曲がったところで山崎は足を止め、軽く頭を振った。頭の中に、先ほど土方と交わした会話が巡っている。
――何故、男は岩倉で死んでいたのか。
自ら岩倉へ出かけると云っていたのだ。殺されたのは何かの話の縺れと云うのが妥当だろう。だがそう云い聞かせても、胸のつかえは取れない。むしろ急速に膨らんで行く。
「…一応、調べてみるか」
呟くと同時に、苦笑が漏れた。まんまと土方に乗せられた感が有る。一旦決めて庭を見ると、月明かりが冴え冴えと白砂を照らしている。この分なら明日も天気に恵まれるだろう。
忙しくなるな。
気を引き締めて踏み出した足が、勢い早くなった。
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