秋 霖 (弐)
(一)
障子の端に、人影が兆した。するとそれを待っていたかのように、堀内の視線が其方へ流れた。
「総司です」
ほどなく明るい声が響き、途端に、障子を注視していた目が和む。しかし部屋に入って来た総司を見るなり、その目に憂色が走り過ぎ去った。
記憶に残るよりも薄くなった肩と、鋭くなった頬の線。休んでいたと聞いてはいたが、いざこうしてその爪跡を目の当たりにすれば、やはり心穏やかではいられない。だが堀内はその葛藤を、綻ばせた温顔の下に素早く隠した。
「総司どの、久しぶりだの」
「昨日、文が届いたばかりなのです。なのに堀内さまがこんなに早く着くなんて思いもよりませんでした」
驚いたと、総司は目を瞠った。
「そうか、そうか」
それに笑って頷きながら、やはり堀内は胸が詰まる思いだった。
最後に会ったのが昨年の夏。それから僅か一年。しかしそのたった一年の間に、総司の胸に巣喰う宿痾は、今こうしている間も手を緩める事無く若い肉体を痛め続けているのだ。焦燥が、改めて堀内の胸を駆け抜ける。
「伏せっていたと聞いたが…」
「少し風邪を引いてしまったのです。でももうすっかり治りました」
「ならば心配は要らぬな」
「はい」
白い面輪に衒いの無い笑みが広がる。が、ふとその笑みを引くと、総司は瞳を曇らせた。
「堀内さまは、この前のように一日で江戸へ帰られてしまうのでしょうか?」
「いやいや、それは無い」
堀内は笑って手を振った。
「事の次第にもよるが…。少なくとも十日ほどは滞在する事になろう」
「事の次第…?」
「左様、この度は京に用事があっての上洛なのだ。それをどうしても首尾よくやり遂げなければ江戸には帰れぬ」
そう云い終えた時、一瞬、堀内の目が厳しい光を帯びた。珍しい事だった。剣を握る時以外にこのような表情をしたのを、総司は見た事が無い。
「なに、案ずる事は無い」
が、杞憂のいろを浮かべた総司に、堀内は柔らかく目を細めた。
「江戸で大方の段取りはつけて来たのだ。上手く行かぬ訳はない」
のんびりとした口調だった。しかしその鷹揚さの中には、それ以上の追随を拒む頑なさがあった。訊いても堀内は答えないだろう…。胸に訝しさを抱えたまま、
「では京の町を案内できますね」
殊更朗らかに総司は云った。
「そうそう、それが何よりの楽しみであった。用事など二の次」
心底嬉しそうな笑みが、堀内の顔に広がる。するとその時、廊下に足音が聞こえて来た。
「中座をしてしまい、申し訳がありません」
慌ただしく敷居を跨いだ近藤は、端座をすると、厳つい顏の中の小さな目を瞬かせた。
「お気遣いなく。お忙しい身と承知しながら、急に伺った私の方が悪い。総司殿の顔を見られれば、私の今日の仕事は終わりです」
堀内はにこやかに答える。
「土方君も探させているのですが…。どこに行ったのだかあいつは。今日は予定が無いと云っていたのですが…」
近藤は不満げに呟くと、申し訳なさそうに首の裏を掻いた。
「土方殿になら会いましたよ」
「えっ…?」
意表をつかれたように近藤は目を上げた。
「彼も忙しそうですな。私がこちらの門の前で駕籠を下りた時、丁度出て行くところでした」
「一人で、ですか?」
近藤は訊き返した。
「ええ、総司殿が風邪を引いていたと教えてくれたのも彼です。そう云えば少し急いでいるようでした。公務…、とも思えない様子だったが…」
堀内が首を傾げると、
「…どこへ行ったのだろう」
総司も不思議そうに呟いた。
「まさか、あいつが菓子でも買いに行くとも思えないが」
腕組みをした近藤が、天井を睨み、大真面目に呟いた。するとその一言が総司の笑いを誘ったらしく、くすくすと小さな笑い声が起こった。
「そう云う土方さんを見てみたい」
「確かに、似合わない」
つられて堀内も笑い出した。
「しかしそれは薄気味が悪いですな」
近藤は笑ったが、すぐに頭の中でその図を描いたらしく、少しばかり顔を顰めた。その顏を見て、とうとう総司が声を上げて笑い出した。
(二)
「雪蓮花?」
田坂は眉根を寄せた。
「そうだ、そう云う薬…、いや花の事を知らないか?」
しかし土方は気にも止めず、畳みかけるように問う。
来るときには明るい水色を見せていた空が、いつの間にか薄く雲をめぐらせている。だが陽射しはまだたっぷりとあり、部屋の隅々にまで溢れ込んでいる。
「まさか二日続けて同じ事を訊かれるとは思わなかったよ」
うんざりとした口調で、田坂は答えた。
「同じ事?他に雪蓮花の事を訊いた奴がいるのか?」
誰だ、と責め立てるように土方は問うた。
「それが人にものを尋ねる態度か?」
「悪かった」
詫びの言葉は返ったが、その目は追及の矛先を仕舞ってはいない。むしろ鋭さを増している。田坂は諦めの息を吐いた。
「伊庭さんだよ」
投げ遣りに答えると、
「伊庭だと?」
土方は露骨に顔を歪めた。
「何故伊庭が雪蓮花の事を知っているのだ」
「俺も知らん。本人に聞いてくれ。だがな…」
田坂は厳しい眼差しを土方に向けた。
「今の世に労咳の特効薬は無い。安静と養生だけが、唯一あの病に効果的なのだ」
「……」
「伊庭さんにも同じ事を答えた。だからあんたにも同じように答える」
土方は睨みつけるような一瞥を田坂にくれた。そしてそれを押し退けるような強い目で土方を見返すと、田坂は庭に顔を向けた。
雲間にはまだ青みが覗いている。だが風に湿り気が増した。この季節の空はうつろい易い。そう時をおかず降りだすのかもしれない。そんな事を田坂が思った時、
「…東寺の北に法華寺と云う小さな寺があるのを知っているか?」
呟くように低く、土方が云った。田坂は土方に目を戻した。
「その西隣に住む瓦職人が、雪蓮花を手に入れると云っていたそうだ」
「莫迦を云うな」
思わず呆れた口調になるのを、田坂は止められなかった。
「雪蓮花は市井の者が手にできるものではない。確かに効用は朝鮮人参など比では無いと聞く。それが故、唐の国でも覇者の家の長だけが服用を許されていると云う代物だぞ。誰も見た事が無い、存在自体が幻だ」
「だが男は雪蓮花を手に入れると出かけ、岩倉で殺されていた。少なくとも、雪蓮花に関する何かが動き出しているのだ」
挑むような目を、土方は田坂に向けた。
「あんたはさっき総司の命を長らえるのは、安静と養生だけだと云ったな。だがもしそこに雪蓮花があれば、病を得ながらも、総司は本来の寿命を全うできるのではないのか?」
「それは沖田君が新撰組を離れる、と云う事を前提にしてか?」
土方は一瞬黙った。が、すぐに田坂を見て頷いた。
「止む終えまい」
淡々と、乾いた声だった。
「江戸に帰すつもりなのか?」
少なからぬ驚きと衝撃に襲われて、田坂は土方を凝視した。
「……」
土方は答えず、やがて庭に目に向けた。
思いの外早く雲は厚みを増し、天蓋を鉛色に覆い始めている。まだ生えそろわない小菊の群れが、庇いあうように風に靡き、その様を土方はじっと見つめている。だがその目が、本当は何処に向けられ何を見ているのかは、田坂にも計り知る事は出来ない。その時、勝手口の方で物音がした。我に返ったように土方が視線を上げた。しかしその寸座見せた貌に、田坂は愕然とした。冴え冴えと冷たい横顔は、虚を突かれた一瞬、誰をも踏み込むことを許さない孤高の影を止めていたのだ。田坂は言葉を失くした。
遠くで、よいしょっと、キヨが框を上がる声がした。
その丸い声を耳に素通りさせながら、田坂は、凝然と土方の横顔を見ていた。
(三)
「肥後屋さんからお話は伺っています」
常盤屋秀平衛は、慇懃に頭を下げた。
美男である。幾筋か鬢を走る銀の髪すら、整った造作を引き立てる道具になっている。聞いている年は四十半ば。人生にも商いにも脂が乗って、それが物言わずとも人物から滲み出る頃合いである。だがその充実している人間が醸し出す鷹揚さが、常盤屋には無い。それは彼の目の奥底に光る、蛇のような冷めたさの所為なのかもしれない。そんな風に、堀内は相手を観察した。そしてその印象を素早く仕舞うと、
「このたびは厄介をかける」
微かに目を伏せた。
「他ならぬ肥後屋さんのご紹介です。悪いようには致しません。けれど堀内様、このことを他に漏らされては困ります」
「それは承知している。そんな事をすれば、雪蓮花を手に入れる事が適わなくなる」
堀内が目元を和ませると、
「仰るとおりです」
肥後屋も追従笑いのように口元を綻ばせた。
「堀内様がどのような経緯で、雪蓮花とこの常盤屋の事をお知りになったのかは存じませぬ。が、これからお知りになる一つでも外に漏らされましたのなら、その御命、残念ながら保証はできません。いえ、これは脅しではありません。取引です。お武家様とて容赦は致しません」
「それは恐ろしい話だな」
堀内は苦笑したが、常盤屋は笑わなかった。冷たい光を湛え、堀内を見据えている。
「ではその事も肝に銘じておこう」
「それがよろしゅうございます」
常盤屋の顔に、酷薄な笑みが浮かんだ。
(四)
昼過ぎから厚くなった雲は、日暮れ近くになりとうとう大粒の雨を降らせたが、それも半刻ほどの事で夕暮前には上がった。雨に洗われた空には、せい月が輝き、露の残る草木を白く照らしている。
満月にはまだ足らないその月を、総司は縁から見上げていたが、やがてゆっくり腰を下ろした。頭の中には、堀内の事がある。一瞬、驚愕したように自分を見た顔が離れない。
また心配をかけてしまった…。
抱えた膝の上に額を乗せると、情け無さが胸を覆う。ため息が零れそうになったその時、ふと背後に兆した人の気配に、総司はのろのろと顔を上げた。すると怖い顔をして見下ろしている土方と目があった。
「また風邪を引くぞ」
叱りながら、土方は横に腰を下ろした。そして乱暴に胡坐をかくと、その上についた頬杖に顎を乗せた。
「何を拗ねているのか知らんが、やる事がないのならさっさと寝ろ」
「どこに行っていたのです?すれ違いになったと、堀内さまががっかりしていた」
「嘘をつけ」
「本当なのに」
しかめっ面に、総司が笑った。
「あの人はお前と近藤さんに会えればそれでいいのさ。俺も話すことはない」
「土方さんの方が拗ねている」
「何とでも云え」
「でも大丈夫です」
「何が大丈夫だ?」
胡乱な目を向けた土方に、総司は悪戯気な笑みを浮かべた。
「堀内さま、今度は暫く京に滞在するそうですから。またすぐ会えます」
「暇な事だな」
不愛想この上ない物云いに堪えきれず、総司は声を上げて笑い出した。昼間、土方は菓子でも買いに行ったのでもあるまいにと云った近藤と、それは似合わないと云った堀内の真剣な顔が交互に脳裏に浮かんだのだ。
「何だ?」
土方が睨んだ。
「…ちょっと」
「いい加減にしろ」
「…だって」
笑いは次から次へとこみ上げて来、止まる気配はない。呆れた視線を向けられながら総司は、つい先ほどまで胸を詰まらせていた黒く重い靄が、いつの間にか霧散しているのを感じていた。
(五)
雨が上がり、時折乾いた風が吹き抜けるものの、まだ障子を閉め切るには暑い。どこからともなく聞こえて来る鈴虫の鳴き声が、耳に涼やかな晩だった。
「働いていた瓦屋の親方にも、彦左は雪蓮花の事を何も云っていませんでした。聞いたのは女房のおせつだけです」
「女房が聞いたのはいつだ」
報告する山崎に、土方は間髪を置かず問うた。
「家を出る直前の事だったそうです。どこに行くのかと聞いた女房に、彦左は岩倉に行くと答えたそうです」
「女房は不審に思わなかったのか?」
「変な事を云うとは思ったそうですが、子供の熱がひどく、それどころではなかったと云っています」
同情の色が、山崎の顔に浮かんだ。
あれから。
岩倉で殺されていた男について、山崎は調べを始めた。すると報告書の上では分からない不審点が見えて来た。
男は彦左と云い、渡りの瓦職人で、東寺北の裏店で女房のおせつと五つになる男の子の三人で暮らしていた。年は三十半ば。無口だが、真面目でよく働き奉公先でも重宝がられていた。ところがその子供が生まれつき病弱で、ここ暫く具合の悪い日が続いていた。そんな時だった。彦左が、どんな病をも治す雪蓮花と云う薬があり、それを貰って来ると云ったのは。だがおせつは取り合わなかった。子供が轢きつけを起こしそうで目が離せなかったのだ。それにそんな奇跡のような薬があったとしても、高価で手が届くはずが無かった。その事を云うと、彦左は激しい口調で必ず貰って帰って来ると云い放ち、別人のように恐い亭主の様子におせつは驚いたのだった。
ここまでを、山崎は昼前に土方に報告している。そしてその直後に、土方は田坂の診療所に出向いた。しかし山崎は山崎で、もう一度おせつの元を尋ねた。何か聞き漏らした事は無いかと、妙に胸騒ぎがしたのだ。
一日に二度の来訪に、おせつは、疲れた顔に警戒の色を浮べた。しかし他に何か変わった事は無かったかと根気強く山崎が問うと、やがて膝の上で握った手を凝視し、過去を探り始めた。そしてはっと顔を上げ、その事があった十日ほど前、彦左が夜叉の根付けを拾って来たと早口で云った。その後、根付をどうしたかについてはおせつは何も知らなかった。そして気掛かりそうに、破れた衝立の向こうに目をやった。そこから、微かな寝息が聞こえて来る。くだんの子供のものだろう。
子供が目を覚まさないうちに、山崎は彦左の家を出た。外に出ると雨は上がっており、木戸に続く道には夜の色が忍び寄っていた。その寂しさが、残された母子の心許なさのように映った。
それから一刻の後、山崎は今、土方に部屋に居る。
「夜叉の根付け?」
土方の目の奥底で、鋭い光が宿った。
「はい、随分と凝った作りで、おせつの目にも高価なものだと分かったそうです」
「それでその根付けは番屋に届け出ていたか?」
「いえ、届け出はありませんでした」
「すると彦左はそれを売り、雪蓮花を買う金に換えようとした、もしくは既に金に換えていたか…」
「……」
山崎は曖昧な表情をした。その気配を、土方は鋭く見咎めた。
「どうした?」
「いえ…」
煮え切らないいらえに、土方の眉根が寄った。元来短気な男である。細めた目がいらえを促し、早癇癪を起しかけている。覚悟を決めたように、山崎は土方を見た。
「詳しい事はまだ分からないのですが…」
そう告げた目に、事件の闇へ踏み込む逡巡と好奇が交差していた。
|
|