秋 霖 (参)


(一)

 夜四ツ過ぎ。
 半刻ほど前、見回りを終えた隊が戻り一時ざわめいた屯所も、今は深閑の中にある。だが副長室の灯だけが未だ消えない。短くなった蝋燭の灯が、二つの影を障子に映し出す。その影のひとつ、山崎烝は声を顰めるようにし語り始めた。
「彦左の通っていた瓦屋の隣に、東寺門前で仏具を商っていた老人がしもた屋を構えています。その増治と云う老人の使いを、時々彦左はしていました。そんな縁もあり、彦左は、くだんの根付を老人に見せていました。どれ程の価値があるものか訊きに来たそうです」
「その年寄りは何と答えたのだ?」
「価値云々以前に、増治老人は根付の持ち主を知っていました」
「持ち主を知っていた?」
 土方の目が微かに見開き、そして細められた。
「はい。根付は、寺町の香木屋、常盤屋秀兵衛のものに間違いは無いと云うのです」
「常盤屋?」
「ご存知無いかもしれません。なかなかの遣り手で、ここ二、三年で、急速に商いを広げています。ですが人物については、江戸から来たと云う以外詳しく知る者は無く、いろいろと謎につつまれた男です」
「根付が常盤屋のものだと、何故分かったのだ?」
「増治老人は、常盤屋と面識がありました。仏具屋と香木屋の繋がりです。それで商いの話で幾度か会っている内に、常盤屋がその根付けを持っているのを見たのです」
 常盤屋の名を口にした時渋く歪んだ老人の顔が、山崎の脳裏を過る。老人にとって常盤屋は気に入らない存在なのだろう。が、そのお蔭で、根付の持ち主にまで辿り着けたのは予想外の成果だった。
「それから、彦左に雪蓮花の事を教えたのは増治老人でした」
「何だと?」
 土方の語尾が鋭くなった。
「ではその年寄りは雪蓮花を知っているのか?」
「いえ…」
 思いがけなく強い反応を示され、一瞬、山崎はたじろいだ。
「どうやら増治老人も常盤屋から聞いたそうです」
 幾分緊張して伝えると、
「常盤屋?また常盤屋か?」
 土方は苛立たしげに顔を顰めた。
「隠居してから、老人は暫く体調を崩している時期がありました。その時に、常盤屋から良い薬があると持ち掛けられたそうです」
「それが雪蓮花か」
「そうです。何でも大変な効き目があり、これで治らぬ病は無いと熱心に勧められたそうです。しかし老人は断りました。常盤屋自身に信用が置けなかったからです。ところが彦左が根付を見せに来た時、彼に病気の子供がいる事を思い出し、そう云えばこの根付の持ち主は驚くほど良く効く薬を持っているらしいと、つい漏らしてしまったのだそうです。老人にしてみれば、子供の病気を何とかしてやりたいと思った結果だったのでしょうが…」
 語りながら増治老人は、年甲斐もなく余計な事を云ってしまったと後悔に項垂れた。そして山崎に膝を詰め、何とか真相を探って欲しいと手を握ったのだった。
 山崎は伏せていた目を上げ、土方に向けた。
「常盤屋を探ってみますか?」
 考えるより先に言葉が出た。それは、その時の老人の手の温もりと、亭主の行動を思い出そうと、膝に置いた拳をじっと凝視していたおせつの必死がさせたものかもしれない。そして又、二人への情に流され、いつの間にか事件に踏み込もうとしている自分に、山崎は苦笑する思いだった。だが返ったいらえは意外なものだった。
「明日、その隠居のところに連れていってくれ」
「…は?」
 一瞬、自分の顔に浮かんだ、呆けたような表情に山崎は気づかなかった。じろりと土方が睨んだ。
「…申し訳ありません。しかし副長が赴かれるような事件だと、何か判明したのでしょうか?」
 慌てて自分を取り戻すと、山崎は首を傾げた。この事件については、まだ奉行所からの依頼も無い。山崎の行動もあくまで私的なものだ。だがそれには答えず、ご苦労だったと一言残し、土方は文机に向かってしまった。
 取り残されたように、暫し山崎は筆を取り始めた背を見ていた。が、その内にある事に思い至った。
――土方は、類稀な効果を期待できると云う雪蓮花そのものに、心が動いたのかもしれない。
 もしそうならば、それが誰の為なのかは十分すぎる程理解できる。そしてその憶測は、山崎の裡で、時を置かず確信に変わった。
 山崎は静かに立ち上がった。
「では明日、ご案内します」
 背中を見せたまま、土方が頷いた。

(二)

 青木の葉に、陽が降り注ぐ。そこから零れ落ちる光の眩しさに目を細めながら、飽きもせず、総司は参道を行き来する人々を眺めている。
「ここは初めてではなかろうに?」
 堀内に訊ねられ、総司は慌てて振り向いた。ぼんやりを見咎められた面輪が、赤く染まった。
「初めてなのです。いつも前を通り過ぎるばかりで、境内に入ったのも、こんなにゆっくりするのも初めてです」
「そうだったのか」
 にこにこと、堀内は頷いた。
「すみません、もっとちゃんと案内をしなければならないのに」
「私は総司殿と京見物が出来ればそれで良いのだ」
 恐縮する総司に、堀内は目を細め満足そうに笑った。
 京を案内するに当たって、まず堀内が希望したのがこの北野天満宮だった。今二人は参拝を済ませ、参道から少し外れた茶店の縁台に腰かけている。
「でも何故、堀内さまは北野天満宮にお参りをされたかったのですか?」
 北野天満宮へと云われた時から不思議に思っていた事を、総司は問うた。すると堀内は、傍らに置いてあった空の皿を持ち上げ総司に見せた。同じものが総司の横にもある。
「この餅を食べてみたかったのだ」
「これを?」
 総司は目を丸くした。
 餅は、粟を臼でひいて黄な粉をまぶしただけの素朴なものだが、ほんのり甘く旨い。
「知人に聞いてな、それで今度上洛した折には是非とも食べてみようと決めていたのだ」
「ならば私もご相伴に与れて良かった」
「そう云ってくれると、所望した甲斐があると云うものだ」
 子供のように嬉しそうな笑い顔を見せる堀内に、総司の唇辺にも笑みが浮かぶ。
「それにしても…」
 皿を縁台に戻し、堀内が呟いた。
「なかなかに立派な社殿だった」
「はい」
 辺りを見回しながら、総司も感慨深げに頷いた。が、その総司に堀内は悪戯な目を向けた。
「まさに怨霊伝説の賜物だな」
「怨霊伝説?」
 少しだけ、総司は眉をひそめた。
「そう、怨霊伝説だ」
 にやりと、意味ありげに堀内は笑う。
「太宰府に流され、無念の内に死んだ道真公が怨霊となったと云う話を、総司殿は知っているか?」
「はい」
 幼い頃、周斎から聞いて震えた話を総司は思い出した。それは試衛館に来たばかりの夜の事で、そのあと恐ろしさで眠れなくなってしまった。だが怖いと布団で震えている自分を知られるのは、もっと恥ずかしかった。ところが幼い痩せ我慢は忽ち大人達の知るところになり、見かねた近藤が、その晩は一緒に寝てくれたのだ。
 すっかり忘れていた思い出が懐かしく蘇る。が、総司の胸に去来している感傷など知る由もなく、参道を行き来する人々に視線を送りながら、堀内の語りは続く。
「道真公の死後、都に災害が起きたり、彼を失墜に追いやった者が次々に不審な死を遂げた。あまりに度重なる災禍に、都では、これは道真公の怨念だとの噂が流れた。そうなると、関わった者達は慄き震えた。見えぬものほど恐ろしいものは無いからな。やがて膨れ上がった恐怖にたまりかねた者達は、道真公の官位を戻し、宣託のあった地に社殿を造営した。…とまぁ、北野天満宮の経緯はこのようなものだ。陥れた人間を、手の平を返したように祀り崇めるとは何とも虫の良い話だが、所詮が人のやること、この位が限界だったのだろう」
 最後は少々突き放したような口調で、堀内は淡々と語り終えた。その横顔を見ながら、しかし総司は、可笑しさが込上げて来るのを禁じ得ない。
 堀内左近は、常に温柔で情に厚い。一方で、質実剛健と云う言葉がこれほどしっくりと収まる人間も当世珍しい。そんな堀内が、時々、ひどく冷めた目で物事を見ることがある。今がそうだ。堀内は参詣に訪れる人々の信仰心云々を批判したのではない。むしろ堀内の眼差しは、神を恐れ神を崇める心根を優しく見守っている。堀内が冷ややかに見据えたのは、その同じ人間の持つもう一つの側面、道真公を失墜に追いやった挙句、災禍が度重なれば怨念と恐れ慌てふためき、今度は神に崇めて鎮めようと試みた、人と云う生き物の愚かしさ太々しさなのだ。それを怨霊伝説の賜物などと云う言葉にしたのだが、その見方が少しばかりへそ曲がりなのに、本人は気づいていない。だが総司はそう云う堀内が好きだった。
「はて、私の顔に何か書いてあるか?」
 じっと見詰められ、堀内が顎を撫でた。
「堀内さまは、土方さんと似ているところがあるなと思ったのです」
 総司が云うと、堀内は目を瞠った。
「それは喜こぶべき事なのか憂えるべき事なのか…、答えに詰まるところだな」
「あ、そう云うところも似ている」
 正直に困惑の色を浮かべている堀内に、堪えきれず総司は笑った。
 二人が似ていると思い始めたのは、堀内と出会って間もなくの頃からだった。今は無表情が多い土方だが、元々の性格は、短気で好き嫌いがはっきりしている。その土方程でないにしろ、堀内も苦手なものは隠せない質なのだ。
「土方殿に似ている…、か」
 腕を組んで真面目に考え始めた堀内に、総司はこみ上げる笑いを喉の奥に押し戻すのに必死だ。そんな総司の様子に、堀内は恨めし気な視線を送っていたが、やがて一つの結論を導き出したらしい。一寸、天を仰いだ目を総司に戻した。
「だがまぁ総司殿には喜ばしい事らしいから、良しとせねばな」
 そう頷いた時には、一人悦に入ったような笑い顔に変わっていた。そしてその笑いの余韻を含んだ声で、堀内は云った。
「ところで総司殿」
 手にした湯呑を見ていた瞳が、堀内を見上げた。
「江戸に帰ってこないか?」
「え…?」
 総司の唇辺にはまだ笑みが残っている。
「目黒に屋敷を買った。そこで一緒に暮らそう」
「……」
 堀内を映していた瞳が、呆然と見開かれた。
「江戸で身体を厭うのだ。疲れた体も心も、根気よく養生すればきっと良くなる」
 静かな声音で穏やかな口調で、しかし切々と堀内は説く。
「それに…」
「待ってください」
 ようやっと、総司はその先を止めた。
「私は最後まで新撰組について行きます」
「気持ちと身体は違う」
「違いません」
 強い口調で総司は抗った。だがその勝気な瞳を、堀内は正面から捉えた。
「総司殿は、本当に残された時の恐怖を推し量った事があるのか」
「……」
 問われて、総司は言葉を呑んだ。
 総司とて、その時が来るのを想像しない日は無い。体調が芳しく無ければ、特にそれは深刻になる。戦列を離れた後に待っているのは、恐ろしい程の孤独なのか、それとも虚無感なのか…。その重さ苦しさは常に胸中にある。だが今、堀内が口にした恐怖と云う言葉は、総司自身驚くほど強烈に、その時を、現実感を持って突き付けた。
「置き去りにされる恐怖、必要とされない孤独。その中で我知らず芽生える他者への妬み。何故自分ばかりがと天を恨み、そしてそんな自分を蔑む日々…。そう云う時を、総司殿は真剣に思った事はあるのか?それらはどれ程に、人の心を荒ませるものか…。私は、そのような思いのどれ一つをも総司殿にさせたくはない。させたくないのだ」
 凝然と見詰める総司に、厳しい眼差しで堀内は迫る。
「現実は、想像など及びもつかず残酷なものだ」
 膝に置いた総司の右手を包み込むように、堀内は己のそれを重ねた。
「江戸に帰ろう」
 真っ直ぐに見詰める双眸に、まるで心の奥底まで見透かせてしまうかのようで、総司は目を伏せた。何より、今自分を襲っている激しい動揺を知られたくはなかった。
 捨てられたと、天を恨み自分を蔑む日々…。
 自分の将来を、そんな言葉で具現化し突き付けられたのは初めてだった。そしてその言葉に、これ程までに打ちのめされた事に、総司は愕然とする思いだった。
 どうにか気持ちを整えて目を上げると、温柔な色を湛えた双眸が待っていた。
「…私は、新撰組にいます」
 声が上ずった。だがこれが、堀内から視線を逸らさずに伝えられる、今の精一杯だった。
「返事は今でなくていい」
「……」
「それから、もし私の身に何かがあっても、伊庭道場の伊庭軍兵衛殿の元に行けば、今云った事は全て分かるようになっている」
 堀内の言葉は、又も総司を混乱させた。言葉を失くしている総司に、堀内は穏やかに笑いかけた。
「総司殿も知っての通り、軍兵衛殿は八郎殿の御義父上だ。実は私も剣の修行の上で、彼とは昵懇での。その人物を見込んで、謂わば遺言のようなものを託した」
「遺言…?」
 硬い声音で、総司は繰り返した。
「そんなに大層なものではないのだ」
 すると堀内は、困ったように首の後ろに手をやった。
「私とて何時何が起こるか分からない。しかも私には係累がいない。それゆえ、軍兵衛殿に、総司殿の今後の事と、万が一の時の我が身の後始末を託けたのだ。そのような万が一は、なるべく来て欲しくは無いが…」
 堀内は苦笑いを浮かべた。そして総司は、その鼻梁の通った精悍な横顔を、強張った面持のまま見詰めていた。

(三)

 仏具屋の隠居は髪こそ白かったが、皺の少ない顔は血色もよく膚も艶めいて、とても六十を過ぎているようには見えない。その増治老人が、彦左の殺害に話が及ぶと、柔和な表情を一転させ顔を歪めて云った。
「うちが考えもなく、常盤屋と雪蓮花の事を話したばかりに、彦左は殺されたに違いありません。ほんまに、可哀想な事をしてしまいました」
 絞り出すように苦し気な声だった。深い自責の念が、老人を捉えて離さないのだ。
「何故常盤屋は、雪蓮花を入手できたのだろうか?」
 土方が訊いた。
「どこかのお公家はんから下賜されたもんや、云うてましたわ。けどそれかて、どこまで信用できるものやら」
 答えた老人の目に、一寸、厳しい光が宿った。普段、あからさまな非難を避ける京の人間には珍しい事だった。それだけ常盤屋が強引な商いをしている証なのだろうと、土方は判じた。
「常盤屋に家族は?」
 今度は山崎が訊いた。
「ひとりもんやと聞いてます」
「常盤屋は四十を超えていると聞いたが、では妻に先立たれたのだろうか?」
「それもよう知らんのどす。あそこは、ここ二、三年の間にみるみる大きゅうなった店どす。今ではお寺はんは元より、お公家はんにまで商いを伸ばしてはります。ですが主人の秀平衛については、江戸から来たと云う以外、詳しい事は誰も知りまへん」
「ご老人」
 山崎と増治老人の会話に耳を傾けていた土方が口を挟んだ。
「常盤屋に繋ぎをつけてはくれないか?雪蓮花を欲しい人間がいると」
「副長っ」
 山崎が慌てた声を上げ、増治老人も驚きの目を向けた。だが老人は、すぐにその目を細めると訊いた。
「お侍はんは、あの花が本当にあるとお思ってはるんどすか?」
「あると信じている」
 一片の揺らぎも見せず、土方は云い切った。その土方を、老人はまじまじと見ていたが、やがて喉の奥を鳴らすように笑うと云った。
「うちは雪蓮花と云う幻の花の名を、もう五十年も前に聞きました」
「初めてではないのですか…?」
 山崎の声が、訝し気にくぐもる。
「へぇ」
 それに笑みを浮かべたまま、増治老人は頷いた。
「最初に聞いたのは、母親が亡くなる少し前の事どした。医者が、雪蓮花のような薬があれば、或は助かるかもしれないと呟いたんどすわ。それからずっと、うちの頭の中にはあの花の名前が消えずにあります」
 増治老人は、鶴のように首を伸ばすと、じっと土方を見据えた。
「常盤屋は危険な男どす。彦左のように命かて取られてしまうかもしれまへん。それでもええと、云わはるんどすか?」
「覚悟の上だ」
「そうどすか…」
 答えを聞いた顔に、柔和な笑みが浮かんだ。
「常盤屋に繋ぎをつけましょう」
 土方は老人に向けていた目を伏せ、静かに頭を下げた。
「あるとええどすな、雪蓮花」
 老人の労わるような声音を耳に素通りさせながら山崎は、戸惑いの中で、土方の横顔を見詰めていた。




きりりく  秋霖(四)