秋 霖 (四)


(一)

 土方は足が速い。山崎は意図して足を急がせているのだが、ともすれば置いて行かれそうになる。その土方の足が不意に止まった。山崎が驚いて立ち止まると、振り返った土方が、一間ほど先で、緋毛氈を敷いた縁台を出している茶屋を目で示した。
 茶屋の入ると他に客は居らず、二人は一番奥まった縁台に腰を下ろした。其処から外の様子は良く見えるが、通りを行き来する者達から暗い中は分かりづらい。土方は一言も発せず、外に目を釘づけている。山崎はその視線の先を辿った。すると寸暇もおかず、視界の中に、背の高い武家の姿が現れた。その傍らには細身の若者がいる。堀内と総司だった。二人は、行き交う人々の群れに見え隠れしながら北から南へ下る。やがて茶屋の前を通り過ぎようとした寸座、総司が視線を上げ堀内に何かを云い、それに堀内が頷いた。それだけだった。だがたったそれだけの仕草の中に、二人の信頼の深さを十分に計り知る事が出来た。
 堀内と総司の姿が視界から消え去っても、土方は暫し外を凝視していた。が、山崎の視線に気づくと、無言で立ち上がり腰に刀を帯びた。


(二)

 月明かりが、紙の砦を透かせ闇を青白く染めている。その月華から逃れるように、総司は身を捩った。が、その一瞬、綺麗な眉根が寄り苦しみの色を帯びた。そんな機微を土方は見逃さなかった。我に返ったように肌を離すと、動きを止めた。夢中になり過ぎて、総司の身を労わる事を忘れていたのだ。己の堪え性の無さに苦笑いする思いだった。すると今度は総司が薄く目を開けた。見上げた瞳が不安気に揺れている。
「苦しいか?」
 額に翳した手を頬に滑らせながら聞くと、総司は首を振った。そして弱気を責め立てるように、土方の背に回していた腕に力を籠め目を瞑った。その面輪を、土方は愛おし気に見詰める。瞼はうっすらと朱を刷き、頬に落ちた睫毛は震え、唇は固く結ばれている。誘いながら必死に羞恥を堪えている姿を見れば、辛抱の箍など呆気ないほど簡単に外れる。再び、土方が動き出す。始め臆病な程に緩やかだった律動は、しかし瞬く間に激しい動きに変わり、その荒々しさに堪えきれないように総司の腰が揺れる。薄く瞼を開き、あっ、あっと、切ない声を上げ、土方の背に爪を立てる。瞳は茫洋と闇を映し、やがてそこから、一筋、泪が滑り落ちた。寸座、土方の目が細められた。
――ぎやまんが溶ける。
この瞬間が、土方は好きだった。
 総司が、自らを戒めていた一切を断ち切り、快楽だけに揺蕩い始める瞬間。冷たく硬いぎやまんが、内から熱を持って溶けだすこの一瞬を目に映すとき、土方は至上の喜びに満たされる。震えるような歓喜が体の芯を貫くのだ。誰よりも何よりも愛おしいもの。この愛おしいものを自分から奪おうとするのなら、神とて容赦はしない。
 俺は狂っている…。
 切なげに撓る身体に溺れながら、土方は、己が修羅に堕ちて行くのを恍惚と感じていた。

 薄い胸が大きく上下し、ほんの少し開いている唇が浅い息を繰り返す。
「大丈夫か?」
 耳の近くで囁くと、閉じていた瞼が開き、潤んだ瞳が気だるげに土方を見て頷いた。暫くして息が整い湿った膚が乾くと、総司はゆっくり胸を起こした。そしてまだ身体の芯に燻っている火照りを隠すように、夜着を引き寄せ纏った。
「総司」
 帯を結んでいる後姿に、土方が云った。顔の半分だけ、総司が振り向いた。
「お前を江戸に帰す」
 言葉の意図を、咄嗟には判じかねたらしい。総司は手を止め、ぼんやりと土方を見ている。土方も目を逸らさず見上げている。
「…今、何て?」
 やがて掠れた声が問うた。
「お前を帰す」
「何を云い出すのです、急に…」
 冗談だと決めつけ作った笑い顔が、ぎこちなく引き攣る。
「帰すと決めた」
「……」
 つい先ほどまで切ない息を漏らしていた唇は色を失くし、濡れた瞳は凍てつき、痛ましいほどに強張った面輪が土方を凝視した。
「堀内さんが、お前を江戸で養生させたいと近藤さんに申し出た。近藤さんは迷っているが、おれは堀内さんの意に沿うと決めた」
 土方の口調に迷いはない。
「…なぜ」
 総司が土方に詰め寄り、腕を掴んだ。それは、この手のどこにこんな力があるのかと思うような強さだった。
「何故今頃っ」
 掴んでいる手を振りほどこうともせず、土方は無言で総司を見詰めている。
「私が病気になったから、いつか戦から外れなければならないから、重荷になるから、だから土方さんは帰れと云うのですか。それなら私は戦う。戦えるだけ戦う。江戸になど帰らない。自分の身の始末くらい自分でつけます」
「そうではない」
 蒼白な面輪に、土方は厳しい眼差しを向けた。
「ではどうしてっ」
「……」
「…土方さんにとって、もう私は要らない人間になってしまったのですか?」
 土方を映した瞳は瞬きもしない。
「違う」
 伸ばした指先で、土方は冷たい頬に触れた。
「俺は怖いのだ」
「…怖い?」
 総司は眉根を寄せた。
「そうだ、怖い」
 頬に置いた指を、ゆっくり滑らせながら土方は呟いた。
「お前が俺の傍らからいなくなる事が、俺は怖い。この世の何よりも恐れている。滑稽だと思いたければ思うがいい。だがお前だけだ、お前だけが俺の恐怖なのだ」
「……」
「だから俺はお前を江戸に帰す。そこでお前は生きるのだ。俺の生涯に、お前が死んだなどと愚かな噂が入って来ないように、お前は俺の命が尽きるまで生き続けるのだ」
 愛おしげに目を細め、頤にまで滑らせた指を名残惜しそうに離すと、土方は立ち上がった。その背を、総司は息をするのも忘れたように呆然と見ている。だが土方が帯を結び終えると、戦慄くよう呟いた。
「…勝手だ」
 そして毅然と土方を見上げた。
「そんなのは土方さんの勝手だっ」
 土方はちらりとも視線を寄越さない。無言のまま、障子に手をかけた。
「土方さんっ」
 開けた障子の隙間から、皓月が覗いた。その月に、早い流れの雲がかかる。
「私は江戸には帰りません」
 土方は振り返らない。
「土方さんっ」
 悲壮な声を断ち切るように、土方の後手が、ぴしゃりと障子を断った。
 雲は瞬く間に月の全てを覆い、部屋の中に薄墨を張ったような闇が訪れた。そのしじまの中にじっと動かず、総司は、土方の出て行った障子を凝然と見ていた。

(三)

 ここ暫く、秋の到来を思わせるような良い天気が続いている。今年は夏の終わりごろから大雨が続き、各地で水の被害も出ている。その為、作物の出来が案じられた。だがそんな不安を一時払い除けるような、澄んだ青が都の天蓋を染めている。
 その空を見上げて、総司は小さなため息を吐いた。一点の曇りもない空の清清しさが、今の自分の心とは余りにかけ離れている。
 あの夜から悶々と、土方への懐疑と憤怒ばかりが繰り返されている。真意を問質さなければならないと思うのだが、なかなか土方と二人きりになれる機会が無い。今日こそはと、比較的屯所に人の少ない昼過ぎを狙って副長室に来てみたが、そこに目当ての姿は無かった。
 不在と分かった途端、気負いに後押しされていた心が瞬時に萎む。だが自分の気持ちの片隅に微かな安堵があるのを、総司は認めざるを得ない。又も拒まれたらと、それを恐れてしまうのだ。そしてそう云う自分が酷く情けなく嫌だった。
 臆病になっている…。
 総司は唇を噛んだ。その時、背後に人の気配が兆した。
「副長ですか?」
 振り向くより先に声を掛けて来たのは、山崎だった。手に書類を抱えている。副長室へ持ってきたのだろう。
「帰りは遅くなると仰っていましたが…。お急ぎですか?」
「…いえ、大した用事では無いのです」
 答えながら、総司はつと目を伏せ思案した。今日は夜の巡察の番に当たっている。またすれ違いになってしまう。総司は山崎に視線を戻すと訊いた。
「土方さんの外出先なのですが、どこか分かりませんか?」
 場所が分かれば今から行ってみるつもりだった。いつまでも悶々とした思いを抱えているのは嫌だった。だが山崎は首を振った。
「私も知らないのです。仰らなかったので」
 答えている途中から、山崎を見詰めていた白い面輪がみるみる落胆の色に染まる。それを見る山崎の心の奥に、苦い痛みが走る。もし本当の事を告げることが出来たらのなら、土方の出かけている先を教える事が出来るのならば、この心はどれほど軽くなる事だろう。ともすればその誘惑に負けそうになる自分を、しかし山崎は戒めた。
「では私はこれで」
「すみません、引き止めてしまって」
 総司は慌てて頭を下げた。そして顔を上げた時、唇辺には笑みが浮かんでいた。だがその笑い顔がひどく心許ないと、山崎には思えた。
「お役に立てなくて申し訳ありません」
 書類を気に掛ける振りを装うと、曖昧に視線を逸らせた。
 
 (四)
 
 七ツ(午後四時頃)を回った頃になり、少し風が出て来た。濡れ縁の先に群れている小菊が、傾きかけた陽を弾き波のように揺れている。
「おい、聞いているのか」
 部屋の中から、田坂が苛立った声で呼んだ。だが土方は庭に視線を止めたまま振り向かない。
「雪蓮花など無いのだ、諦めろっ。あんたがそんなに往生際の悪い男だとは思わなかったよ」
 いらえを寄越さないのが余計に癇に障ったのか、今度は吐き捨てるような罵声が飛んだ。土方はようやく目だけを回し、轢いた薬を棚の抽斗に収めている背をちらりと見た。そして不機嫌そうに眉根を寄せると、すぐに又庭を向いてしまった。
「これ以上寝言を聞くのはご免だよ。さっさと帰った帰った」
 後ろでつかれた悪態を知らない田坂が、忙しく手を動かしながらうそぶく。すると縁に胡坐をかいていた土方が、呟くように云った。
「ちょっと気まずい」
「……」
 抽斗に手を掛けたまま、田坂が振り返った。そしてまじまじと土方を見た。
「何が?」
「顔を会わせるのが、だ」
 土方の顔には忌々し気な色が浮かんでいる。
「誰と?」
 だが田坂は、少々間の抜けた顔になって問うた。
「総司とだっ」
 土方は田坂を睨み付けた。
「喧嘩でもしたのか?」
 抽斗を開け放したまま、田坂は土方の傍らにやって来た。
「そうなのか?」
「……」
 苦虫を嚙み潰したように、土方は顔を顰めた。
「そうか、喧嘩か…」
 だがそれを見る田坂は嬉しそうに一人頷いている。
「あ、そうだ。今日はキヨが海老芋を炊くと云っていたから食べて行くといい。客がいればキヨも喜ぶ」
 土方は渋い顔をして横を向いた。
 田坂の上機嫌は腹立たしい。だが今はこんな埒も無い会話が心を軽くする。総司を江戸に帰すと決めた選択は今も揺らぎない。だがあの時から、見るもの聞くもの全てが、まるで他所の世のものであるように、音も色も無く自分を通り過ぎて行く。永遠の希と引き換えに抱え込んだものは、計り知れない虚無。それが本音だった。
――勝手なものだ。
 自嘲するように笑った時、風が膚に触れた。菊の群れも揺らさぬ微かなそれは、芯に暮色の冷たさを孕んでいた。

(五)

「せんせときたら、美味しいのか不味いのかも、訊かんと云わはらへんのどすわ。ほんまに作りがいのない…」
 キヨは黙々と箸を動かしている田坂をちらりと見、今度はその目を土方に戻すと機嫌良く訊いた。
「土方はん、お代わりはどうどす?」
「いえ、もう満腹です」
「あらまぁ…。お口に合いまへんか?」
「いやそうではない」
 恨めしそうに見られて、土方は慌てた。
「土方さんは痴話喧嘩の心痛で食欲が無いんだとさ」
 そこに田坂が半畳を入れた。
「まぁ…」
 それを真に受け、キヨは目を丸くした。
「お相手は沖田はん…、どすか?そうどすやろな、やっぱり」
 そしてひとり合点したように頷いた。だが直ぐに非難の色を目に帯び土方を見上げた。
「けどそれは土方はんがいけまへんわ」
「何故だろう」
 むっとした気持ちが、土方の声にも顔に出ている。それを田坂はにやにやと見ている。
「簡単どすわ。帰られへんのは、正々堂々としておられへん理由があるからどすやろ?引け目があるから、帰られへんのどすわ。それに沖田はんは、土方はんを困らせるような我儘を云うお人と違います。けどもし沖田はんがそないな事を云わはったとしても、どんと構えていはるのが、男はんの甲斐性やありまへんか?近頃の男はんは度量が狭おてあきまへん」
 やれやれと首を振ったキヨを、
「まあまあ」
 田坂は鷹揚に宥めた。
「土方さんにも一分の言訳くらいあるだろう。それに…」
「せんせいっ」
 その田坂に、キヨは厳しい目を向けた。
「これは土方はんだけに云えることと違います。せんせいだって同じことどすわ。ほんまにもう、どの男はんも…」
 しまったと思った時はもう遅い。田坂の目が宙に泳ぎ、それを見た土方の口辺に皮肉な笑みが浮かぶ。
「だいたいが、せんせ。まずせんせが…」
 本格的な説教を始めようと、キヨが田坂に体を向けた。が、その時だった。
「しっ」
 不意に土方がキヨの口に指を当てた。そして鋭く障子の向こうへ目を向け、同時に田坂も表情を厳しくした。玄関の方で人の声がする。しかもその声が切迫している。土方が立ち上がった。
「伊庭だ」
 見下ろした先で、田坂が目だけで頷いた。

 玄関わきの潜り戸の閂を外して引くと、伊庭八郎が、転がるように飛び込んできた。その足元に男が一人倒れている。意識はない。どっぷりと肥えた武家で、土方と田坂も手伝い、ようよう上がり框まで引き摺って来たが結構な重労働だった。
 八郎は肩で息をし、苦し気に顔を顰めている。キヨが水を持ってくると、喉を鳴らし一気に飲み干した。その傍らで、田坂は男をひっくり返し、丹念に体を探り始めた。
「面倒な土産を持ってきたな」
 手燭で田坂の手元を照らしてやりながら、土方が八郎に云った。
「手ぶらで来られない性分でね」
 担いで来たのが余程に大変だったらしく、八郎の額にはまだ汗が浮かんでいる。
 暫くは誰もが黙って田坂の仕事を凝視していたが、やがて大方を見終えると、田坂は太い息を吐き顔を上げた。
「…この傷」
 そう云って、男の顏を横にすると、左耳の裏から少し下、髪の生え際辺りを指さした。そこに小さな傷痕があり周りが青紫に鬱血している。
「畳針のような太い針で刺されたものだろう」
 そして寸の間思案気に男を見下ろしていたが、やがて呟くように云った。
「だがこの人、おかしな匂いがするな」
「おかしな匂い?」
 土方が田坂を見上げた。
「微かだが、芥子の花に似た匂いがする」
「阿片か?」
 鋭く目を細めた土方に、
「多分な」
 男に視線を止めたまま田坂は頷いた。
「阿片だか何だか知らないが、正気にもどりそうかえ?」
 手団扇で胸元へ風を送っていた八郎が二人を振り仰いだ。
「いや、手遅れだ」
「何だって…」
 八郎の眉根が寄った。
「途中からずしりと肩に重みが掛かって全く動かなくなったろう?」
「五条の橋を渡って、ここへ来る間位だ」
「その時だな、あの世に渡ったのは」
「くそっ、川に放り投げてくりゃ良かったな」
 乱暴な事を云ったが、八郎の顔は浮かない。
「偶には功徳を積んでおけ」
 土方の皮肉にも、凄みのある一瞥をくれただけだった。
「ところであんたの知り合いか?この男」
「豊岡藩の藩士だ。名前は…、飯田某とか云ったな。詳しい仔細は知らん。知り合ったのも十日ほど前だ」
「藩邸に知らせるにしても、番屋にも届け出ておいた方が良いだろう?ちょっと行ってくる」
「止めておいた方がいい」
 腰を浮かしかけた田坂を、土方が止めた。
「藩士が阿片を吸って死んだと公になれば、何かと面倒だろう。この男の事は、新撰組で片付ける」
「面倒見が良くなったもんだねぇ、新選組も」
 興ざめしたように、八郎は首を振った。

「ところで伊庭さん、あんたどこでこの男を拾って来たのだ?」
 田坂が訊いた。
「枳殻邸の北にある紅梅天神の境内だよ。そこで会う事になっていた。ところが約束の刻限に行ってみたら、鳥居脇の地べたに項垂れるように座っていたと云う訳さ」
「その時にはまだ息はあったのか?」
 土方の口調が問質すようになった。
「あったよ。どうした?と訊いたら、蚊の鳴くような声で、やられたと答えた」
 八郎は、もう息をしていない男の青白い顔を見詰めた。
「それでここまで連れて来たと云う訳か…」
 同じように男を見下ろしながら、田坂は腕を組んだ。
 枳殻邸から、五条にある田坂の診療所まではそう遠くない。だが意識の無い男を肩に担いで来るには大変な距離だ。それでも八郎には、男をそこに放置できない理由があったのだろう。しかも途中で男が死んだことに気づかない程、必死だったのだ。
「この男にどんな用があったのだ」 
 その理由を訊いた田坂に、八郎はちらりと視線を遣った。そして不敵な笑みを浮かべた。
「雪蓮花だよ」
 その瞬間、土方は鋭く目を細め、そして田坂は瞠目した。
「雪蓮花を、今夜この男から受け取る筈だった。もう少しだった…、もう少しで手に入れられたんだ」 
 男を見下ろす八郎の目から光が失われた。だがそれは一瞬の事で、すぐにその目が激しい怒りの色を帯びた。畜生っ、と吐き捨てるや、八郎は宙を睨んだ。





きりりく  秋霖(五)