秋 霖 (五)
(一)
飯田と云う男の亡骸を引き取りに来た新撰組の者達が帰り、降ってわいたような騒動も何とか一段落を見た。すると頃合いを見計らい、キヨが茶を淹れて来た。熱いそれを腹に収めると、田坂はようやく人心地ついた気がした。思った以上に神経を張り詰めていたらしい。ところが面倒を持ち込んだその張本人は、先程から一言も発せず、憮然とした面持であらぬ方を見据えている。
「さて、詳しい話を聞かせて貰おうじゃないか、伊庭さん」
田坂が口火を切ると、八郎はちらりと部屋の中を見、そして寸の間その視線を天井に遣ったが、やがて渋々と云う体で語り出した。
「暑さが下火になった頃のことだ…」
声が、この男にしては珍しくぼそぼそと歯切れが悪い。
「登城した折、城詰の医師に身体の底から力のつくような薬は無いものかと聞いた」
その寸座、八郎を見ていた土方の双眸が微かに細められた。やはり八郎の行動は、総司が体調を崩したことに関係をしていたのだ。むくりと湧き起こった妬心が、土方の眉根を寄せる。
「医者は、小川屋に出向いた方が余程も効きそうな薬ばかりを並べ立てたよ」
が、土方の胸中を知ってか知らずか、八郎の語りは続く。
「こちらも大した期待をしていた訳でも無いから、失望もしなかった。だがその時の話を、飯田が聞いていたらしい。半月ほど経って、奴が俺を尋ねて来た。そして病人がいるのなら素晴らしい効き目の薬を知っている、高価だが買わないかと持ちかけたんだ」
「それが雪蓮花か?」
「そうだ」
田坂の問いに、八郎は頷いた。
「何でも、どこかの公家の何代か前が帝から賜った家宝だが、暮らしに困って売るのだと云っていた。ひやかしに幾らだと聞いたら法外な値をふっかけてきやがった」
八郎は顔を顰めた。
「しかし飯田と云う男も、どうしてそんな内職を始めたのだ?」
「仕事の絡みで知り合った香木屋に持ちかけられたらしい。奴の役割は、諸藩の京屋敷詰めで、内証の良さそうな武家の客を作る事だった。それで小銭を稼いでいたんだろう」
「そりゃもう、立派すぎる程胡散臭い話だな。信じるあんたもあんただ」
田坂は呆れた息を吐いた。
「俺とて最初は断ったさ。そんな夢のような薬があってたまるものかと、その程度には頭が冷えていた。が、心に引っかかったのも事実だ。だから俺なりにこの花の事を調べた」
「そしてその冴えた頭は忽ち熱く逆上せ上がり、しかも今以て冷める様子は無く、益々ちんちんとやかんの如し…、か。困ったもんだ」
お手上げだと首を振った田坂に、
「ああそうだよっ」
八郎はくってかかった。
「調べれば調べるほど、俺は雪蓮花に夢中になった」
「その頭、川につけて冷やした方がいいぞ」
「おおきなお世話だ」
八郎は吐き捨てたが、すぐに忌々し気に顔を歪めた。
「今夜だったんだ。今夜漸く、雪蓮花が手に入る筈だったんだ」
「そりゃ残念だったな。しかし…」
先ほどから黙り込んでいる土方に、田坂は懐疑の目を向けた。
「あんたの方は何故雪蓮花なのだ?」
「大方どっかで騙されたんだろうよ」
八郎の憎まれ口に、土方は忌々し気に顔を顰めたが、元々胸に仕舞っておくつもりは無かったらしく腕組みを解くと語り始めた。
「先日、岩倉の雁通寺の近くで男が一人殺された。その事件を追って行く内に、どうやら雪蓮花の売買が行われ、それに絡んで殺されたらしいとの疑いが出て来た」
仏具屋の隠居との遣り取りを、土方は手短に話した。その途中、八郎が、そう云えば飯田が岩倉と漏らしたのを覚えていると口を挟んだ。
「伊庭さん、飯田が岩倉と云ったのはどんな時だ?」
田坂が訊いた。
「直接、雪蓮花を見てみたいと云った時だよ。最初飯田は頑なに拒んだ。だが本物を見せてくれたら倍の金を払うと云ったら、暫し考えて、明日岩倉で手に入るかもしれない、と独り言のように小さく呟いたんだ」
「倍の金なら動くのか?」
すかさず田坂が声を上げ、そして土方を振り向いた。
「今のを聞いただろう。あんたたちが血眼になって探して求めているものは、悪知恵の働く奴らが、窮している人間から金を巻き上げる為に利用している幻にすぎん。いい加減に目を覚ませ。大体、こんな事を真に受ける事自体理解できん」
田坂は大きく首を振った。
「あんたがどう思おうが勝手だが…」
が、それに土方が異を唱えた。
「俺はまだこの目で雪蓮花の存在の真偽を確かめてはいない」
呆気に取られ、田坂は土方を見た。
「仏具屋の隠居から知らせが来たら、俺は雪蓮花の取引に行く。だが俺にもしものことがあれば総司を頼む。実は今日はその事で来た」
薄闇の中、土方はゆっくりと、八郎と田坂に視線を回した。
「懲りない奴だなっ」
突然、田坂の怒声が響いた。
「あんたもその目でしかと見ただろう、飯田と云う奴のなれの果てを。あれは仲間割れだ。飯田は伊庭さんとの取引で私欲に走り、仲間に殺されたに違いない。そんな奴らがどうして本物を持っていると信じられる?」
語りながら田坂は益々激してきたが、その田坂を、土方は感情の薄い表情で見ている。その時だった。
「俺も行くよ、そっちの取引へ」
ひょっこり八郎が口を挟んだ。
「断る」
途端、凄みのある一瞥が八郎を刺した。
「いや、行くよ」
だが八郎は一息に胡坐を滑らせ、土方の前に来た。
「俺を用心棒に雇え」
「お前なんぞに用は無い」
「相手は悪い奴ららしい、とすれば、あらゆる場が想定できる。危険もあるさ。そうなって、あんたが斃されたらどうする?だが俺と二人なら、どちらかが斃されてももう片方が雪蓮花を持ち出すことが出来る。そうだろう?何より…」
八郎はにやりと笑った。
「俺はあんたより強い」
これ以上できないと云う程に、土方が顔を顰めた。
「決まりだな」
それを見た八郎が、痛快な声を上げた。
(二)
堀内の来訪を知らせに来たのは、斎藤一だった。総司は夜の巡察から戻り着替えのさ中だったが、堀内が来たと聞くや手を止め、驚いたように斎藤を見た。もう五ツ(夜九時時頃)を過ぎている。
「何だろう…。近藤先生に急な用事ができたのかな?」
首を傾げた総司に、
「いや、お前に用があるそうだ」
答えた斎藤の声も訝し気だった。
「私に?」
「上がるように云ったのだが、玄関で済む用事だと云って動かない」
斎藤にしては珍しく困惑した表情を浮かべている。
かつて斎藤は、止む終えない事情で旗本を斬った。その時に彼を江戸から逃す手立てをしたのが堀内だった。
「早く行った方が良い」
そんな経緯もあり、斎藤自身、寒々しい玄関に堀内を立たせておくのが気になるらしい。落ち着かない響きが、声に出ていた。
「ありがとう、一さん」
総司も手早く着替えを済ませると、斎藤の横を抜け廊下へ出た。
掛け行燈の薄い灯影の下で、堀内左近は山崎烝と話し込んでいた。
「堀内さま」
が、総司が声をかけると顔を上げ、軽く笑った。山崎も振り向き、では私はと、堀内と総司に一礼をし外へ出て行った。
「山崎さんは働き者だな、今から又仕事らしい」
下駄をつっかけ、慌てて三和土に下りて来た総司に、堀内は感心したように云った。
「上がって下さい」
「いや、すぐに帰る。偶さかに上洛をすると、私も中々忙しい。今宵もこの近くで知人と会っていたのだ。それでついでと云っては何だが、忘れない内にこれを届けに来た」
堀内は懐から一通の書状を取り出した。それを総司は怪訝な面持ちで見、そしてもう一度堀内に視線を戻した。
「先日云った、伊庭軍兵衛殿への書状だ」
「……」
「もし私に何かがあったら、これを江戸の軍兵衛殿へ渡すのだ」
「私は江戸には行きません」
堀内を見詰め、総司は首を振った。
「それに堀内さまはこの間から変です」
「変?」
「そうです。ご自分がどうにかなるような事ばかりを云われる」
ひたと堀内に据えられた瞳が、真摯な怒りを帯びた。
「そんなことを云われるのは嫌だ」
これは甘えだ―。
幼子のように、堀内に甘えているのだ。
いとも容易く弱さを曝け出してしまった自分に、総司は愕然とする思いだった。
だが一度堰を切ってしまえば、辛抱の箍など呆気ないほどに脆い。みっともないのも情けないのも、迸る事しか知らない。
「堀内さまがどうにかなるなんて、嫌です」
駄々のように繰り返し、俯いた顏の下で、総司は唇を噛んだ。そんな総司を、堀内は目を細めて見ていたが、やがてゆっくりとその目を天井に向けた。
「さても、さても、どうしたものか…」
ふむ、とついたため息が、困った風を装った。
(三)
夜気は肌寒さを覚える程だったが、空気は澄み、十三夜の月が仄白く道を照らしている。右手に続く東本願寺の塀もじき終わりと云うところで、不意に土方は足を止めた。提灯で前を照らしていた伝吉の背にも、一瞬緊張が走る。が、伝吉は直ぐに振り向いた。
「堀内様でやす」
土方は無言で頷いた。その頃には堀内も土方に気づいたようだった。宿の者だろうか、屋号の描かれた提灯を持つ年寄りと一緒だ。
「今、総司殿に会って来たばかりなのですよ」
土方の前にまで来ると、堀内は穏やかに笑いかけた。
「何か急用でも?」
訝しげに土方は訊いた。夜半にわざわざの用事を不審に思ったのだ。
「いや、所用で近くまで来たので、先日渡し忘れたものを届けようと思ったのだ。が、受け取ってはもらえなかった。しかし…」
堀内は苦笑した後、安堵した顔になった。
「ここで貴方に会えたのは良かった」
そして懐から書状を取り出した。
「これは…?」
手渡されて、土方が眉を顰めた。
「もし私に何かがあっても、江戸で総司殿が恙なく養生できるよう、その一切の手筈を認めたものだ。大方の事は伊庭軍兵衛殿に委ねてあるが、その軍兵衛殿も冗談だと思っている節がある」
けしからんな、と堀内は眉根を寄せる真似をし笑った。
「そこで口約束で終わらないように書付にした」
土方は手に有る書状に視線を落とし、そして改めて堀内を見た。
「総司殿には断られたが、土方殿、貴方は受け取ってくれる筈だ」
堀内の目元が和らいだ。
「こたびの件を、貴方が賛成してくれるとは思いもよらなかった」
「……」
「貴方にどのような思惑があろうが、それは私の与り知らぬこと。だが総司殿を江戸に帰してくれるのなら、私は素直に嬉しい」
土方は無言だ。青白い月明かりが、端正な顔を冷ややかに映し出している。
「土方殿…」
やがて堀内の口元からも笑みが消えた。
「死んだ者は蘇らないのだ。当たり前の事だ。だがそんな当たり前を、生きている者は愚かにも忘れてしまう。亡くしてから漸く思い知らされるのだ。大事なものは、もう手の届かないところに行ってしまったのだと…。だから私はもう二度と過ちを犯さない。何もせず総司殿をこのままにしておく事は、私にはできないのだ」
堀内は土方の目を見据えた。
「受け取ってもらえるな?」
そう念を押した双眸が、重い厳しさを帯びた。そして土方は、その視線から目を逸らさず書状を懐に仕舞うと、深く頭を下げた。それは、堀内が戸惑う程に、長い辞儀だった。
寺の壁に沿って遠ざかる背を見ながら、堀内は、一言も発する事のなかった土方の胸中を慮っていた。総司を江戸に迎えたいとの申し出に、土方が賛成していると近藤から聞かされた時、堀内は耳を疑った。だが今、土方は確かに書状を受け取った。深く下げ、じっと上げなかった頭は、総司を頼むと、言葉より雄弁に物語っていた。しかし堀内には、それだけではない何かが、土方の裡に渦巻いているように思えるのだ。感情を押し殺したような冷ややかな目、動かなかった表情。それらは一種の狂気を堀内に覚えさせるのだ。
土方が何を考え何を思い、総司を江戸に帰すことに賛成しているのか…。
それは幾ら考えても答えの見いだせない謎解きだった。堀内は軽く頭を振った。
「旦那さま…」
すると後ろで遠慮がちな声がした。その声で堀内は我に返った。
月は相変わらず寺の屋根を白く照らしているが、通りに人の姿は無く、塀の中ももう片側の町並みも深閑と静まり返っている。
「すまなかったな」
怯えるように見上げている者に優しい眼差しを向けると、堀内はようやく足を踏み出した。
(四)
増治老人から連絡が入ったのは、夜半に堀内が訪ねて来た二日後、朝から小雨の降る日の午后だった。炎暑を凌ぎ息を吹き返した草に葉に、家々の屋根に通りに、雨は静寂を塗り込むように湿らせて行く。
「今日に今日とはな」
書状に目を落としながら、土方が呟いた。
「以前、増治老人が興味半分に、いつその集まりがあるのだと訊いたら、常盤屋は、当日の朝にならなければ分からないと答えたそうです」
補うように、山崎が云った。
「即日の行動なら他に漏れる心配がより少なくなる。少しは智慧の働く奴ららしいな」
顔を上げた口元に、冷ややかな笑みが浮かんだ。
「では私は伊庭さんにお伝えします」
「伊庭か…」
腰を浮かしかけた山崎を手で制すると、土方は渋い顔をした。
豊岡藩との交渉の件もあり、飯田が殺されたあの夜、山崎を田坂の診療所に呼んだ。すると八郎が、用心棒の件を山崎に話し出した。八郎としては、土方に抜け駆けされるのを牽制するつもりだったのだろうが、それを見ていた土方は舌打ちしたい気分だった。
渋い顔のまま、土方は書状を千切ると、煙草盆を引き寄せ火入れにくべた。灰に埋もれていた炭火が、ちろちろと獣の舌のような赤い焔を上げる。やがてそれが一本の白い煙に変わり霧散しても、土方はまだ返事をしない。物憂そうに火入れを見ている。
「副長」
焦れた声が呼び、胡乱な目が山崎を捉えた。
「伊庭さんが行かれないのならば、私がお供します」
「要らん」
「いえ、行きます」
土方は露骨に眉根を寄せた。
「確かに、雪蓮花を手に入れれば我々の用はそれで足ります。しかしもしそれで済まなかったら…、いえ、そう考えるのが自然です。常盤屋と云う男の正体は、今以て分かりません。分からないまま、副長は丸腰で相手の懐に飛び込もうとなさっています。大変危険な賭けをなさろうとしているのです」
控えめな男が雄弁に語る事には筋が通っている。だから土方は反論もしないが、煩そうに顰めた顔を庭に向けた。だが役者は山崎が一枚上だった。
「もし承知して頂けないのでしたら、私は沖田さんに全てを話します」
土方がゆっくり振り向いた。威圧するような鋭い目が山崎を見据えている。しかし山崎も又、それに怯まない強い色を目に湛え土方を見た。
「沖田さんは、副長を止める筈です。体を張っても、必ず止めるでしょう」
暫し、睨み付けるように土方は山崎を見ていた。が、相手に屈する気が無いと分かると、唸るように低く吐き捨てた。
「勝手にしろっ」
「では伝吉を走らせます」
素早く一礼をし、山崎は立ち上がった。
障子を開けて敷居を跨ぐ寸座、
「山崎」
と、土方が呼んだ。振り向くと、小机についた頬杖の中の顔が、皮肉な笑みを浮かべていた。その顔が、云った。
「お前は嫌な奴だな」
「恐縮です」
山崎は目を伏せ、静かに障子を閉めた。
外廊下の突当り、中庭が見えた所で山崎は足を止めた。視線の先の沓脱石の際に、蹲るように伝吉が控えている。そのすぐ際まで来、山崎は片膝をついた。
「伊庭さんに伝えてくれ。今宵五ツ(夜八時頃)岩倉の雁通寺だ。刻が無い、急いでくれ」
伝吉は黙って頷いたが、つと伏せていた顏を上げた。その目が、訴えるような色を帯びている。珍しい事だった。
「あっしなんかが口を挟むことじゃありやせんが…」
「沖田さんか?」
「へぇ」
「分かっている。沖田さんに黙っているつもりはない。無論、私も副長の後を追う」
その言葉を聞くと安堵したように、伝吉は頭を下げ、軽い身ごなしで庭の木立へ消えた。
伝吉を見送ると、山崎は鉛色の天を見上げた。昨夜からの雨は、しとしとと降り続き、まだ早い時刻だと云うのに辺りは仄暗く、季節は秋霖の様相を呈している。だがその静けさとは裏腹に、体の芯には、武者震いにも似た昂ぶりがある。それを鎮めるように、山崎はひとつ息を吐いた。そして前を見、止めていた足を踏み出した。
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