秋 霖 (六)


(一)

 雁通寺は、宝ヶ池の北に位置する。元は天皇の別荘であったが、修学院離宮の造営に伴い、当時関白を務めていた朱鷺司家に譲渡された。朱鷺司家が没落してからは持ち主が転々とし、何時の頃からか寺の形に整えられ現在に至っている。
 行幸のあった頃には整えられていただであろう参道も、今は昼なお鬱蒼とした木立に覆われ、昔日を偲ぶ影もない。それがここ一年ほど、月に一度位の割合で、夜半、寺へ向かう駕籠が見かけられるようになったのだとは、里の百姓の話だった。
 そこまでを、ここ二日程で伝吉が調べて来た。無論、常盤屋については山崎も、持てる情報網を駆使して調べた。
 増治老人の云ったように、常盤屋は何時のころからか今の場所で店を始め、ここ数年で驚くほど商いを太くした。が、同業者の妬みを差し引いても、その評判は芳しくない。非道な事を顔色一つ変えずやってのけるのだと吐き捨てた者もいたし、裏で悪事を働いているに違いないと実しやかに囁く者もいた。だが共通していたのは、常盤屋秀平衛と云う男の本質を、誰も知らない事だった。
 やはり危険な賭けだったのだ…。
 山崎は目を上げると軽く頭を振った。そしてその目を、もう一度調書に戻した。常盤屋について、何か見落としていたものがあるのかもしれない、その一心で文字を追う。だが次を捲り掛けた指が、つと止まった。玄関の方が、俄かに騒がしくなったのだ。一番隊が帰営したらしい。沖田の声も聞こえる。山崎は素早く立ち上がると、大股で敷居を跨いだ。

 総司はじっと山崎を見詰めている。黒い瞳は、言葉の一つも聞き逃すまいと瞬きすらしない。当然なのだ、と山崎は思う。この若者にとって、何もかもが今初めて耳にする事で、しかもそれに対する指揮を、自分は性急に求めているのだから…。
 話が終わっても、総司はまだ沈黙の中から出ない。が、少しして、山崎を見詰めたままゆっくりと口を開いた。
「では土方さんは、もう雁通寺へ向かっているのですね?」
「はい」
 硬い面持で、山崎は頷いた。
「伊庭さんと伝吉が一緒です」
「……」
 綺麗に造作された面輪が、みるみる翳りを帯びる。だがすぐに総司は立ち上がった。
「馬を…、翔(かける)の支度をして下さい」
 それは山崎が驚いて顔を上げた程、厳しい声だった。
「用意は出来ています。すぐに騎乗できます」
「すみません」
 一礼をすると、総司は身を翻した。
「待ってください」
 その背に、山崎は声を掛けた。
「私もご一緒します。いえ、連れて行って頂けないのならば、沖田さんをここからお出しする訳には行きません」
 一人でなど、行かせるつもりは毛頭なかった。その山崎を、総司は硬い表情で凝視した。が、すぐにそれは、困ったような笑い顏に変わった。
「意地悪だな、山崎さんは」
「恐縮です」
 山崎の口元に、苦笑が浮かんだ。

 時刻は既に七ツ半(午後五時頃)になろうとしている。追う身に岩倉は遠い。土方はもうどの辺りまで行ってしまったのだろうか、果たして間に合うのか…。同じことが、頭の中で空回りをする。焦れる心に追いつかない足が、総司にはもどかしい。
 廊下を曲がったところで、翔の細い嘶きが聞こえた。その瞬間、遂に総司は廊下を駆け出した。
 
(二)

 洛北にある宝ヶ池は、元々は農作物の為の溜池だった。この池が完成した時、松ヶ崎の村人たちは大層喜び、宝の池と呼んだのが名の由来だと云う。
 その宝ヶ池を過ぎた所で駕籠を捨て、土方と八郎、そして田坂と伝吉の四人は黙々と坂道を登っている。途中、雨は上がったが、空気が洗われた分冷えて来た。四半刻も歩いただろうか。先頭を歩いていた土方の足が、不意に止まった。そして振り返ると、目で、後ろの三人に前方を見ろと促した。示された先の、杉の大木の隙間から、ほんの小さく灯の色が見え隠れしている。どうやら雁通寺らしい。土方が伝吉に視線をくれた。すると伝吉は無言で頷き、足音もさせず左脇の雑木林の中へ消えた。それを見届け、三人は再び足を踏み出した。

 土方の想像以上に、雁通寺は大きな寺領を有していた。
 玄関で訪いを立てると、衝立の向こうから、黒い作務衣を着た男が出て来た。男は物音ひとつさせず上がり框の際で膝をついたが、終始無言だった。土方が増治老人からの紹介状を手渡すと、無表情にざっと目を通した。それから顔を上げ、腰のものをお預かり致しますと、初めて声を出した。その声が、ぞっとする程冷たかった。
 案内に立った男は、玄関からの長い廊下を二度曲がった。だがその間、一度も振り向くことは無かった。やがて坪庭を過ぎ外廊下に出ると、こんもりと灌木が茂る庭が見えた。その庭に面して続く一枚の襖の前で、男は立ち止まった。丁度その時、雲間から月が覗き、庭を青白く照らし出した。すると、庭の前面が広く開けているのが分かった。遠方に、闇に一層深く影を落として沈む山が見える。比叡山だろう。ならば今自分たちは寺の裏側に来た訳か…と、土方は、位置関係を推し量った。
 男が襖を引いた。控えの間らしいそこは暗かったが、奥とを遮る襖の隙から光が漏れ、畳に細い線を引いている。猫が忍び寄るような足取りで暗闇を進んだ男が、奥の襖を引いた。すると、暗がりに慣れた目には明るすぎる光が溢れ出、一瞬、土方は目を細めた。だが同時に、数多の視線をも感じた。中にいた者達が一斉に振り返り、新参者に不審な目を向けたのだ。が、そのざわめきも一瞬だった。やがて人々は興尽きたかのように、又正面を向いてしまった。案内をして来た男も、土方達が一番後ろに座るのを見届けると、静かに障子の向こうへ消えた。
 これが、今夜の客か…。
 雪蓮花を求めてやって来た者達を、さり気なく土方は数えた。全部で八人。男、女、商人、町人、様々に入り混じっている。ところがその目が、一瞬、一人の武家の背中で止まった。それは、土方の隣に座る、八郎も田坂も同様だった。八郎は驚きに目を瞠り、田坂は寸の間、呆けたようにその背を見詰めた。だが土方同様、二人ともすぐに視線を外すと、又何事も無かったかのように手持無沙汰を装った。
 それから待つこと四半刻足らず。
 部屋の外に複数の人の気配が兆し、土方達が入って来た襖とは反対側の襖が引かれた。中の者達の視線が一斉に其方に向けられる。その中、入って来たのは男が三人。男達は部屋の中央まで来ると、床の間を背に端座した。
 三人の真中に座った男が、ゆっくりと部屋の中に視線を巡らせると、一呼吸おきやおら口を開いた。
「お待たせを致しました。今宵も雪蓮花を皆さまにお譲りできる手筈が整いました」
 おお、と小さなどよめきが部屋の中に起こった。
「常盤屋も安堵いたしました」
 それを見、男もにこやかに頷く。そしてその一部始終を目に映しながら土方は、この男が常盤屋なのだろう判じた。相変わらず、男は口元に鷹揚な笑みを浮かべているが、その実、目は少しも笑わず部屋の中の者達を見定めている。そんな観察をしながら、次に土方は、常盤屋の両脇を固めている者達に視線を移した。
 右側の頬の削げた浪人者は、三十半位か…。草臥れた袴を着け、尾羽打ち枯らした感があるが、時折部屋の中に配る視線の鋭さは尋常では無い。間違い無く腕は立つ。次にゆっくり、左に視線を流した。此方の男の方が、浪人者より幾分若い。身形はやくざ者の様にもある。が、この男が、襖を閉める間際にくれた一瞥の冷たさを土方は忘れない。剃刀の刃をあてられたような、ぞくりとした感覚は、今も膚に残っている。瞬間、男へ動かしそうになった視線をよく堪えたものだと、自分でも感心する。同時に、目をつけられていると、そうも判じた。
「さて、今宵お集まりの皆さまは、大層ご運が宜しゅうございます」
 常盤屋の声が一段と大きくなった。
「このたびも、九条卿は、雪蓮花を手放されるのを、とてもお迷いになられたのです。説得をするのに、私も苦労を致しました」
 そして大仰に首を振ると、神妙な面持ちになった。
「しかしながら、それも無理からぬ事なのです。何しろ雪蓮花は、かの昔、唐の皇帝からお上に贈られたものを、九条家が賜ったのですから…。その家宝を手放すとなれば、躊躇われるのは当然。それゆえ、今宵見た事聞いた事は一切他言なさらないとお誓い下さい。もし万が一、約束を破られるような事になれば…」
 蛇のような目で、常盤屋は、部屋の中をぐるりと見回した。
「御命は保障致しかねます」
 部屋の隅々まで緊張が走った。誰もが顔を強張らせている。そしてその様子を見た常盤屋の顔に、満足げな笑みが浮かぶ。
「ではお約束をして頂いたと云う事で…。お待ちかねの雪蓮花をご覧にいれましょう」
 常盤屋が、目の高さに上げた手を打った。すると静かに襖が開き、三宝を掲げるようにし、小柄な男が入って来た。男は恭しく常盤屋の前に三宝を置くと、膝で後ずさり浪人者の横に控えた。
 三宝を覗き込むように、前の者達の背が前のめりになった。土方の目にも、人々の肩の隙から、三宝の上にある白いものが見える。更に土方は目を細めた。白く見えるものはどうやら乾燥した花弁で、形は尖っており、種が密集した中心を取り巻くように幾重にも重なっている。蓮に似ていると云われればそのような気もするが、全体的にもっと荒々しい印象を与える花だった。
「これが雪蓮花です」
 常盤屋が云った。
「長患いの病人に与えれば、大変精がつき、目を瞠る様な回復ぶりを見せます。助かる手立ては無いと医者に匙を投げられた病人ですら、気分が高揚し生きる意欲を取り戻します。やがては病が癒えるとすら云われています。何故なら、この花は、選ばれた花だからです。唐の、神に一番近い深山の、雪の中でしか咲かない神の花だからなのです」、
 ゆっくりと、抑揚をつけず常盤屋は語る。その単調な響きと花の異形さに吸い込まれるように、始め懐疑的だった人々の雰囲気が、次第に興奮へと移り変わって行く。
「それでは、今から雪蓮花をお渡し致します」
 常盤屋が穏やかに笑い室内を見回すと、人々の間に又新たな昂ぶりが起こった。その様子を、土方は冷めた目で観察していた。
 その包みは、一人一人の元へ、仰々しく三宝に乗せて運ばれてきた。
 思ったよりも小さなそれを、土方は掌に乗せた。すると、更に頼りない薄さに思えた。一体どれ程の量がこの中に入っているのかは、開けてみなければ分からない。が、これで十両とは高い。だが本物ならば、その価値は金に換えられるものでは無い。そんな思案をしながら、土方は小さな包みをじっと見つめた。その時、ふと強い視線が後襟の辺りを刺した。目を上げると、田坂のこちらを見ている。目が合うと、田坂は、厳しい表情で首を振った。
――偽物。
 土方の顏が俄かに強張った。気配を察した八郎も眉根を寄せ、田坂を見ている。その時だった。
「少し聞きたいのだが、宜しいか?」
 のんびりとした間合いの声が響いた。途端、前方に座っていた一人の武家に、部屋の中の視線が集まる。
「何かご不審でもございますか?堀内様」
「いや、気のせいなら良いのだが…。私も大事な人間が口にするもの、間違いがあってはならんのでな。一応、聞いておきたい」
「はて、何でございましょう?」
 常盤屋は当惑したように目を瞬いた。が、その顔には、一寸も動揺も見て取れない。
「雪蓮花は阿片の匂いがするものかと、聞きたかった」
 一瞬にして、部屋の中が騒めいた。その混乱に乗じて、
「真っ直ぐに来たね、堀内さん」
 八郎が土方に囁いた。口辺に愉快そうな笑みを浮かべている。
「これはこれは、又異なことを…」
 常盤屋は薄く笑った。
「一体何を根拠にそのような事を仰るのか…。阿片などと云いがかりをつけるのならば、これを下賜された御上をも、貴方は冒涜する事になるのですよ」
「それは困った。私は疑問を率直に口にしただけなのだが…」
 大して困った風もなく、堀内は鷹揚に笑う。
「率直だとっ?」
 それを見た常盤屋の顔に、初めて苛立ちが走った。
「確かに、ごく素直な感想ですよ」
 その時、新たな声が後ろから上がった。
「それに堀内さんは御上を冒涜などしていません」
 人々が声のした方を振り向いた。すると波が割れ道が出来たように、常盤屋の正面に、精悍な姿形の青年が現れた。
「あんたは誰だっ」
 激した声が飛んだ。
「町医者だ」
「町医者風情に何が分かるっ」
「確かに、俺は藪だと折り紙付きだ。だがこの包みの中に、僅かながら阿片が混じっていると気づかないほど疎くは無い」
 田坂は苦笑した。
「中身だが…。朝鮮人参、木香、伽羅、それに菊花、ざっとこんな具合か。それと、阿片。この阿片の匂いを隠す為に、匂いの強い薬草を選んで配合している…。藪の診立てはこんなものだが、違うかな?満更外れているとも思えない」
 田坂を睨み付けていた常盤屋の顔が、微かに歪んだ。やがてそれが冷酷な笑いに変わるのに、そう間は掛からなかった。
「町医者の先生とやら、そこまで云われたら、この常盤屋も黙って引っ込む訳には行かなくなりました。ええ、ここにおられる皆さんにも、このままお引き取り願う訳には行きませんよ。命と引き換え、とは先ほどもお約束して頂きましたからね」
 陰湿な笑い声を引くと、常盤屋は顎をしゃくった。それが合図のように、左右の男たちが立ち上がった。同時に、三方の襖が音を立てて開き、そこから更に三人の男が入って来た。土方達を案内して来た男もいる。一転、殺気に満ちた展開に、部屋の中に恐怖の声が上がる。商家の主風の男が、四つん這いのまま逃げ出そうとした。すると浪人者が、その者の襟首を掴み乱暴に放り投げた。投げられた男は、背中から畳に打ち付けられ、そこで又悲鳴が上がった。
「まずいな…」
 八郎が土方を見た。だが土方は憮然と腕を組み、常盤屋を睨んでいる。
「人質を取られちまったよっ」
 応えの無いのが気に入らず、八郎が声を荒げた。
「うるさいっ」
 前を見据えたまま、土方が低く怒鳴った。八郎は目を丸くした。
「何を怒ってるんだえ?」
 土方を指さしながら、八郎は田坂に顔を向けた。
「雪蓮花が本物でなくて、苛立っているんだよ」
「ああ…」
 指摘されて、八郎は頷いた。そう云う、落胆を通り越した憤怒は自分の中にもある。
「見た事か…」
 苛立たし気に、田坂が呟いた。
「そう云うあんたはだって、結局はついて来たんだろうが」
 胡乱な目を、八郎は向けた。
「あんたたち二人が斃されたら、その屍は誰が拾ってやるんだ」
「いろいろ云うね」
 八郎が呆れた息を吐いた時、
「いやはや…」
 不意に声がした。
「困った事になりましたな。私が余計な事を聞いたばかりに、どうも皆さんに迷惑を掛けてしまった」
 いつ来たのか、横で堀内が苦り切った顔をしている。
「堀内さんの所為ではありませんよ。こう云う事は真実を明らかにした方がいい。それに阿片を常用するようになると、無くてはいられない体になる。やがて辿り着く先は廃人だ」
「…しかし」
 肩を落とすように、堀内は吐息した。
「結局、雪蓮花は無かったのですな」
「堀内さん…」
 田坂は呆れた声を出した。
「まさか、貴方も信じ込んでいたクチですか?」
「信じていましたよ」
 堀内は真顔で答えた。
「……」
 田坂は言葉が出ない。呆れて堀内の顔を見、その目を、忌々し気に顔を顰めている八郎に回し、そして最後に土方に向けた。土方は相変わらず腕を組み、仏頂面で常盤屋を睨んでいる。しかし、その三者三様の姿を目に映しながら、田坂は、己の裡である種の感慨が芽生えているのを感じざるを得ない。
 この男たちは、本気で雪蓮花の存在を信じてここまでやって来たのだ。それがあれば総司を救えると信じたのだ。知恵もあり腕も立ち世に名も知れた者達が、疑う事よりも希に縋ったのだ。だがそれを誰が笑えると云うのだろう。この自分とて、完全に否定し得たか?答えは否だ。だからこうして此処に居るのだ。
 雪蓮花は希望だった…。
 叶う筈も無いと知りながら、それでも捨てる事のでき無い、あまりに危うい、しかし縋りつかずにはいられない一筋の光だったのだ。
 皆、同じか…。
 思わず田坂は苦笑した。
「なんだえ?」
 それを目ざとく見つけ、八郎が訝し気な視線を寄越した。
「いや、こちらの事。が、人質が困ったな」
 田坂はざっと部屋の中を見渡した。男が五人、そして女が二人。皆、恐怖に顔を引き攣らせ震え慄いてるところを見ると、自分の身を自分で守るなどと云う芸当は期待できそうにない。その時、常盤屋の右隣の若い男が、一番近くに座っていた女の腕を掴むと乱暴に立ち上がらせた。そして白い頸に匕首を付きつけた。女は、ひっと一声鳴いたあと、全身で震え始めた。見せしめのように女を晒しながら、
「皆さまには、部屋を移動して頂きますよ」
 常盤屋はにこやかに云った。
「歯向いするようでしたら、容赦は致しません。あ、それから…」
 そちらの方々、と、白い指が後方を指した。
「あなた方はこのままで結構」
 蛇のように冷たい目が、土方達を見下ろした。
「色々と煩そうな人たちですからね。今夜の会を台無しにしたお礼は、あとでたっぷりとさせて頂きますよ。ええ、この常盤屋を甘くみちゃいけない」
 低く、這う様な細い笑い声を上げた後、
「縛っておけっ」
 常盤屋は冷酷な表情で顎をしゃくった。






きりりく   秋霖(七)