露 tuyu (上)
舟が揺れているのか、自分が揺れているのかもう分からない。
薄く瞼を開けると触れた頬が人のぬくもりで温かかった。
起した半身を誰かの胸の中に抱え込まれるようにして、今自分はいるらしい。
まだぼんやりとこの胸のなかで夢の入り口を彷徨っていたくて、
総司はもう一度瞼を閉じようとした。
「目が覚めたか?」
それを邪魔するように、低い、忘れるはずのない声が耳朶をくすぐった。
「体が辛いか・・?」
もう一度静かに気遣う声に、ようやく閉じかけた瞼をあけた。
「揺れが辛いか?」
その問いかけにまだ混濁した意識の中で微かに首を振る。
それが段々と覚醒してくると、酷く喉が渇いていることを知った。
「・・ひじかたさん・・」
声は掠れて上手く言葉にならなかったかもしれない。
だが自分を抱えるようにして胸に抱いている人物は
その力の無い呟きを聞き逃さなかった。
体をくるむ掻い巻きから、骨ばった手を差し出して何かを求める。
土方はそれが何であるのかを敏感に察し、
手元に置いてあった茶碗から水を口に含み、総司の口元に持っていった。
熱で乾いた唇に己のそれを重ねると、
総司は目を閉じてなされるがまま、
土方の唇から自分の渇いた喉に水を滴らせた。
冷たい水が喉を通り過ぎて、漸く体の全てが現(うつつ)に戻された。
「まだ・・、舟の中だったのですね・・」
「眠っているうちに富士山丸に行けるはずだったがな・・。
生憎だったな、途中で目が覚めたか」
苦笑しながら土方は血の気の無い総司の、更に小さくなった顔を見た。
江戸に一緒に総司を連れて帰ると言った時に、
新撰組贔屓の御殿医松本良順は
古武士と言っていいようなその厳しい顔をさらに険しくさせた。
このところ総司の病状は芳しくない。
近藤、土方には油断ならない状態だと伝えてある。
「江戸まではもたないかもしれないよ。
お前さん、その覚悟は出来ているのかい」
松本にしても総司をむざむざと死なせたくはない。
だが医者としての自分は残酷な程に患者の命の限界を知ってしまう。
問われて応えられるはずも無く、土方はただ黙って松本に頭を下げた。
「連れて行くと決めているのです」
顔を上げて松本を見る双眸には、射抜くような強い光が宿っていた。
その目に見据えられて、最早土方に何の迷いもないことが、
松本の胸にあった最後の俊巡を断ち切らせた。
「艦(ふね)といっても風を頼りの木造艦だ。
波に揺られて体力を消耗させるのは、今の沖田君には命取りになりかねる。
危ない賭けだが・・・・」
そこで組んでいた腕を外して、暫らく思案するように遠くを見た。
「眠らせて行くしかないな」
「眠らせて?」
「薬でなるべく眠らせて行く。艦に乗ってるのは三日にも満たねぇんだろ?
眠っていれば船酔いも関係ねぇだろうよ。
少しでも体力の消耗は避けねばなるまいよ。
強い薬でうとうとさせてゆけば何とかなるかもな・・・」
だがそれも賭けであることには変わりが無い。
それでも土方はその松本の言葉に縋るほかなかった。
総司を潜伏させていた大坂城御城代下屋敷から、
天保山沖に停泊中の富士山丸までは淀川を舟で下る。
下屋敷を出る時に松本の処方した薬を服用させたが、
様子を見てとのことで幾分軽めにした為、効き目が薄かったのかもしれない。
眠らせたまま富士山丸まで連れて行くつもりだったが、
そこまで行く途中の舟の中で目が覚めてしまったようだ。
「もう少し眠るといい」
その声に総司はやっと全てから目覚めたように土方の顔を見た。
「・・あとどのくらいで艦に着くのです」
「わけは無い、じきに川が終わって海に出る。
そうすればすぐだ。四半刻もかからぬだろう」
「・・・もう、すぐ」
呟いて総司は視線を遠くに遣った。
「艦に乗り込めば江戸はすぐだ。
お前が眠っている内にはもう着いている。何も心配は要らない」
艦の旅に自分の体が付いてゆけるのかを不安がっているのだろうと、
総司を抱く腕に少し力を込めて土方は言った。
だが総司は小さく首を振った。
「・・・私は・・」
遠くを見たまま、総司の唇が微かに動いた。
「私は、江戸にはもどりたくない・・」
視線を土方に移し、告げる総司の瞳が揺らいだ。
思いがけない総司の視線に見据えられて、
土方は暫し黙って、その言葉の奥にある心を知ろうとした。
「・・・江戸にはもどりたくないのです」
もう一度呟いて、目を閉じると土方の胸に自分の頭を預けた。
「何故、そんなことを言う・・」
土方の問い掛けに総司は少しの間沈黙していたが、
「江戸についたら本当に・・置いていかれてしまう」
小さな声の語尾が微かに震えた。
誰に、とは総司は言わなかった。
だがそれが自分自身に相違ないことを土方は知っている。
江戸に着けば確かに総司は一人取り残されて
『養生』という名の下に、ただ終焉に向かう為の日々を強いられるだろう。
それを怯える総司の気持ちが、土方には胸を引き裂かれる程に辛かった。
「江戸に着けば松本先生がお前をすっかり治してくれるさ」
苦しい言い訳を紡ぐ土方の唇に、総司はそっと指を当てた。
「・・土方さんは嘘が下手だ・・」
その輪郭をゆっくりとなぞりながら、総司は小さく笑った。
辛そうに眉根を寄せて、苦渋に歪んだ顔をしているのは土方の方だった。
自分の我侭がこの人にこんなに苦しそうな顔をさせてしまった。
きっと治りますとも、本当ならばそう言って
土方に安堵の笑みを浮かばせてやりたい。
だが今の総司は自分でも分からず、ただ土方に駄々をこねていたかった。
もう少し体を起すと、するりと掻い巻きを外して、
力の無い細い腕を土方の首に回した。
そのまま顔を見ず、耳元に
「・・抱いて下さい」
初めて自分からその言葉を囁いてみた。
露と消え入りそうな儚い声だったが、
その言葉の激しさに戸惑い、
だがそれが総司の何処から来るものなのかを知り得るだけに、
その切なさ、湧き上がるいとおしさに土方は一瞬目を瞑った。
いっそ激情の赴くまま思いの丈(たけ)をぶつけてしまいたい、
だが総司の体はそれに耐えることはすでにできない。
顔を伏せられたままでは言葉が掛けられず、
あまりに細い体をゆっくりと離して
こちらに顔を向けさせようとすると、
総司は渾身の力で抗うように更に激しくしがみ付いてきた。
「・・・抱いて下さい」
土方の肩のあたりに顔を伏せたまま、総司の聞き取れない程の小さな声が湿っていた。
言葉は最後まで声にならず、代わりに土方の肩袖を濡らすものがあった。
そのまま低い嗚咽になり、縋りつく手の力が少し緩んだ。
「総司・・・、俺がお前をどんなに必要としているか、お前には分からないか。
お前に少しも長く一緒にいて欲しい。生きて欲しい。
・・・・俺の思いはもう、お前には伝わらないか」
どんな言葉を並べようと、どんなに言葉を尽くそうと、
この胸の内にある激しい思いの微塵も総司に伝えられない。
その情けなさ遣り切れなさに、土方は総司の背を強く抱きしめた。
土方の腕に抱かれながら暫らくそうしていたが、
やがて低く搾り出すような嗚咽は静かに消え行き、
総司はそっと顔を上げた。
だが土方の顔はまだ見ることはできない。
一瞬捕われた激情のまま自分を押さえきれずに
土方にその滾(たぎ)りぶつけた己が恥ずかしかった。
「・・・愚かなことを言いました」
ゆっくりと視線を合わせた瞳はまだ乾かずに濡れていたが、
それでも総司はぎこちない笑みを浮かべた。
すべてを胸の内に押し隠して黒曜の瞳は奥深く、それを探ることを敵わない。
(いつも、いつも総司はこうして隠し続けて来た
一人きりで、自分の知ることも知らないことも、何もかも全てを・・)
だが抱いて欲しいと言う先程の言葉は、唯一総司の胸の内にある真実に相違ない。
その願いを叶えられず、総司は又黒曜の瞳の奥に自分をしまい込もうとしている。
封じ込めて、そしていつか自分を置いて逝ってしまう。
それが土方をどうしようもない焦燥に走らせた。
(もう何も隠してくれるな、どこにも行ってくれるな・・・)
その思いと共に、気付いた時には総司の唇に自分のそれを重ねていた。
先程水を含ませた時の様に、優しいものではなかった。
もっと狂おしく、もっと激しく、
この体を離したくない、この心を失いたくない、
髪一筋すらもうどこにも遣りたくない。
それをぶつけるかの様に、
今ここに居る事を確かめるかのように土方は総司の唇を貪った。