露となりしも  上

 

 

 

古い木の門を潜り抜けると、

本堂の建物の裏手に回って、目当ての墓石の前に佇んだ。

 

差している傘を、少し首を傾げるようにして、肩との間に挟むと、

総司は両の手で、持ってきた香華を墓前に手向けた。

そのまま瞳を閉じ、手を合わせて長いことそうしていた。

 

いつの間にか傘から出ていた肩先に当たる雨が、

着ているものを通して肌に染み込み、

その冷たさをきっかけに、漸く瞳を開いて合わせていた掌を解いた。

 

 

雨に打たれる石に刻まれた戒名が、何とはなしによそよそしい。

 

「・・・山南さん」

 

この世にありし時の名を小さく呟いて、やっと墓の下に眠る人に触れた気がした。

他愛も無い安堵感の中で、人は死ねば違う名前になって、

あの世に逝くのだろうかと、ふとそんな思いに捕らわれた。

そうしたらこの世にあった、我が身の所業の全ては消えて無くなるのだろうか。

 

そんなとりとめの無い思考を巡らせながら、

ぼんやりと立ち竦んでいたが、ふいに人の声が聞えて我に戻った。

誰か墓参りの人が来たのだろう。

横に置いておいた手桶を片方の手で持ち上げると、

墓石に向かってもう一度目礼し、その場を離れた。

 

 

途中すぐに先ほどの声の主だと思われる初老の夫婦連れとすれ違った。

互いに目を伏せるだけの軽い会釈を交わしながら通りすぎる時に、

墓地の一角に雨をもその艶にして、花をつけている紫陽花に目がいった。

 

 

暫らく足を止めて、その色彩の妙を楽しんでいたが、

また建物の方角から先ほどとは違った人声がして、慌てて足早にそこを去った。

 

人を避けているつもりは無いのだが、山南の墓前に参る自分と、

亡き人をしめやかに偲ぶ人達との間には、ずいぶんと隔たりがあるように思えた。

 

 

山南の首を落としたのは、自分だ。

 

その自分が墓に手を合わせることが、酷く傲慢な事のような気がした。

 

 

 

 

 

 

五条にある田坂医師の診療所の門を入ると、

そこにも降る雨にひっそりと濡れる紫陽花があった。

玄関にも入らず傘の下で、やはり先ほどと同じように、季節に咲き誇る花を見ていた。

 

 

「いい加減に入って来いよ」

 

ふいに声を掛けられて、驚いて見た先に、田坂俊介医師の呆れたような顔があった。

どのくらいそうして見られていたのか分からぬが、

総司は恥ずかしさに思わず目を伏せた。

花に見惚れて立ち尽くすなど、仮初めにも武士たる男子のする所作ではない。

 

 

「紫陽花なら中庭にも咲いている」

「田坂さん、いつから見ていたのです」

顔を上げて田坂を見る瞳に、微かに咎めるような色があった。

 

「いつからって、君が門を入ってきてからだ」

「では、ずっと?」

「そう大した時間でもないだろう」

「それでも・・・」

それでも総司にとっては恥じるべき事には相違ない。

 

「何を怒っているのだ。早く入らないと雨に濡れるぞ。

もっとも風邪を引いて暫らく大人しくしていてもらうのも、悪くはないけれどな」

 

冗談とも本当とも付かぬ言葉を言って、田坂は笑った。

そのまま背中を見せてどんどん奥に行く姿を、総司は不満げな表情で追った。

 

 

 

 

 

「さっき見ていただろう、紫陽花」

「・・・え?」

 

肩袖に腕を通しながら、晒した肌を仕舞おうとしていた総司に、田坂が問い掛けた。

 

「紫陽花さ」

「花に見とれていた私を、面白がっているのだと思った」

「怒るなよ」

「田坂さんは意地が悪いから」

「何とでも言えよ」

 

苦笑する田坂を総司は少し睨む様にして見た。

 

「あの紫陽花、色が違っただろう?」

「そういえば・・」

「おいおい、そんなことも気付かずに見ていたのか」

「すみません」

「謝らなくてもいいけれどな。・・・あの紫陽花、江戸から持ってきたものだ」 

「江戸から?」

 

驚いたように問う総司に、田坂が笑みを浮かべたまま頷いた。

 

「江戸にいた頃・・・まだ杉浦と名乗っていたが、

その杉浦の家の庭に毎年咲いていたものを、京に来るときに一株だけ分けて持ってきた。

根付くとは思わなかったが、キヨが丹精してくれたお陰で、今では毎年花を持つ」

 

 

 

田坂との付き合いはもう一年の余になる。

新撰組局長の近藤と、ふとした事で知り合ったこの若い医師は、

懇願されて総司の主治医となった。

だが今では医者と患者という間柄以上に、田坂は総司を支えてくれている。

 

その田坂の決して平坦とは言いがたい人生を、以前に総司は田坂自身の口から聞いている。

杉浦と名乗っていた身が何故、今田坂と称しなければならないのか・・・・

それは他人の自分には踏み込むことの許されない、田坂の辛い過去だった。

 

 

 

「杉浦の家にあったものも、死んだ父親がどこぞから、

やはり株分けして貰ってきたものだ。

花の色が妙に淡いところが気に入ったと言っていた」

「お父上は花がお好きだったのですか?」

 

以前聞いた田坂の父親はずいぶんと厳格そうで、

総司の中で花を愛でるという人柄とは結びつかなかった。

 

「いや、ただの気まぐれだったらしい。

雨に打たれて艶(あで)やかに色が冴えるのを愛でられる花なのに、

殆ど白一色が却って潔いと言って・・・全く臍曲(へそまがり)な父親さ」

 

その田坂に向かって総司が小さく笑った。

 

「何だよ。俺の顔に何かついているかい?」

「いえ、・・・田坂さん、前に気性がお母上に似ていると言っていたけれど、

今の話を聞いたらやはりお父上にも似ていると思って・・」

「ご挨拶だな」

苦々しそうに眉を寄せながらも、目の前で邪気なく笑われれば苦笑せざるを得ない。

 

 

「そういえば、今日は遅かったな。新撰組は相変わらず忙しいか・・・」

ふいに気になっていることを問い掛けた。

 

 

総司は毎月一のつく日に診療所にやってくる。

何と言うことも無い会話を交わしながら、その中に患者の本音を聞くことは

医者にとって大切なことだった。

まして総司の胸に巣喰う宿痾は一日一日確実に、若い体を内から貪っている。

どんな異変の兆候も見逃す訳には行かなかった。

本来ならば新撰組を離れ、静かに養生生活に入らせることこそが、最善の道だった。

それをこうして人並み以上に過激な毎日の中に身を置くことを許している事は

本来ならば医者として在らざる判断だった。

それでもその日々を、せめて一日なりとも長く過ごさせてやりたいと願うのは、

田坂俊介という一人の人間としての、総司に対する切ない想いに他ならなかった。

 

仕事による疲労の蓄積は病の進行に拍車を掛ける。

殊にこの湿り気を含んだ梅雨の季節は、病人には辛い時期のはずだった。

総司の体に懸念する状態が訪れる前に、

憂慮となる事柄は取り払っておかねばならなかった。

過激な労働は避けさせたい。

 

 

「忙しくなどありません」

「さて、本当かな」

「本当です。今日は少し寄るところがあって・・」

「寄るところ?」

その問い掛けには応えず、総司は曖昧ともとれる笑みを浮かべた。

 

そのまま黙ってしまった総司に、敢えて田坂も何も聞かなかった。

一度総司が言わないと決めれば、例え厳しく問い質したところで、

本当の応えを得ることは難しい。

 

目の前の想い人が時折見せる頑なさは、すでに嫌と言うほど知らされている。

 

 

 

「田坂さん・・・」

着物の前を合わせて、身づくろいを終えた総司がふいに問い掛けた。

 

「人は死んでしまうともう一つ名前を付けられるでしょう?」

「戒名のことか?」

何を唐突に言い始めたのかと、訝しげな視線を投げかけた田坂に、

総司は生真面目な顔で頷いた。

 

「そういうのは、どういうものなのかな?」

「どうって?」

「突然に自分にもうひとつ名前をつけられて、

死んでしまってからどっちが本当なのか困らないのかな」

「寄ってきたところで、気になることがあったのかい?」

図星を指されて、戸惑ったように総司が視線を逸らせた。

 

「そうだな。戒名なんて言うものは普通は死んでから付けられるものだからな。

もしかしたら死んだ人間にはまぎらわしくて迷惑な話かもしれんな」

「普通は・・?」

「元々は仏弟子という意味らしい。僧侶なら生きているうちに持っている」

不思議そうに見つめる瞳にあって、田坂は少々気まずそうに笑った。

「親父の受け売りさ」

「田坂さんはお父上のことが、好きだったのですね」

臍曲がりだの何だのと言っても、田坂はきっとその父親の事を好きだったのに違いない。

先程から父親の事に触れる度に田坂の目は和む。

 

「どうかな」

だがその目が、一瞬遠くを見た。

 

 

「今日は墓参りだったのだろう?」

突然に問われて総司は驚いて田坂を見た。

「どうしてわかるのです」

「微かに香の匂いがした」

 

雨が降り出す前に誰かがたいた香の匂いが、着ていたものにうつったのであろう。

それを医者の臭覚で田坂は敏感に察したらしい。

 

「墓参りの人物は君にとって大切な人だったのかな」

「兄のような人ではありました。でも・・・」

「でも?」

 

一瞬躊躇うように総司は言葉を途切らせたが、

黙って見つめる田坂の深い双眸に誘われるように自然に言葉が零れた。

 

「でも、私が手を合わせることを、果たしてその人が喜んでいるのか分かりません」

 

 

 

 

僅かばかりの二人の沈黙だったが、先に目を伏せたのは総司の方だった。

 

「・・・すみません。つまらないことを言いました」

 

こんな事を田坂に告げるつもりはなかった。

言葉にすればそのまま、ただの弱音になってしまう心の内を、

我知らず漏らしてしまった己のささやかな感情の迸りが、

一体どこから来てしまったものなのか、総司自身も又計りかねていた。

 

 

「つまらぬことは無いさ。そうして患者の心の内を知るのも又医者の務めさ。

君のようにあまり我慢が過ぎる患者は返って困るからな。たまにはいい」

「田坂さんの前ではいつも我慢が効かないと思うけれど・・」

「まだまだ、だな」

 

包みこむような田坂の笑い顔だった。

 

 

 

「ひとつ、話をしてやろうか」

ふいに呟いた田坂を見れば、その目はいつの間にか中庭に遣られていた。

確かにそこにも降る雨の露に濡れる、紫陽花の花があった。

その花の有様を、田坂は見るとはなしに見ているようだった。

 

「あの入り口の紫陽花の花な・・・」

田坂はまだ紫陽花から視線を外さない。

 

「俺への戒めさ」

 

その意味は分からなかったが、言葉の激しさに総司は思わず目を瞠った。

漸く田坂がゆっくりと総司に顔を向けた。

 

「俺が十五の時、兄のしたことの責を負って、

父親も腹を切ったという話は前にしただろう?」

総司は深く頷いた。

 

忘れるはずはない。

田坂の兄は、弟への禁忌の想いに堪えられず自ら身を滅ぼすような暴挙に走った。

それは田坂にとっても決して思い出したくは無い、ただ辛く苦しい出来事のはずであった。

 

 

「父親が屋敷の一室で腹を切った時、俺はそこにいた」

 

黙って聞いていた総司の顔が強張った。

それを敢えて見ぬ振りをするように、田坂は続ける。

 

「切腹などというものは実際は凄惨極まるものさ。

余程上手く切れば別だが、腹を切っただけでは人は死ぬことはできない。

親父は息子の俺に介錯を望んではいなかった。

それが証拠に俺が不審を察して室に飛び込んだ時には、すでに親父は瀕死の状態だった。

それでも事切れない苦しさに、俺と分かるなり渾身の力で一言、すまんと言った。

それが俺に介錯をしろと言っているのだと分かった時、

俺は親父の腹から抜いた短刀をその胸に突き刺していた」

 

 

我が身に起こったこととは思えぬように淡々と語る田坂を、

総司は凍りついたように身じろぎせず凝視している。

 

 

「あっけないものだな。それで親父の生涯は終わった。

俺という子を成し、その子の手で生を終えた。

江戸を離れる時に、俺は親父が愛でていたあの紫陽花の一株だけを持って来た」

 

「何故・・・」

やっと紡いだ声が少し掠れた。

 

「何故、持って来たのです」

そんな辛い出来事を、殊更思い出させる花を持って来た田坂の気持ちが分からなかった。

 

「忘れないためさ」

「忘れない・・?」

「兄を追い詰め、父の命をこの手で絶った己の所業を忘れない為だ」

 

 

 

 

田坂の背中越しに形良く手入れされた庭が見える。

音すら忍ぶように降り続く雨が、露に色づく花を鮮やかに息づかせていた。

 

 

 

 

 

 

             

 

 

     琥珀短編     露となりしも 下