うたかたの・・  上

 

 

 

「・・・総司」

呼べば微かに瞼を開こうとするが、

すぐに又夢の中に戻って行こうとする。

 

 

 

幾度肌を重ねた夜を過ごしたのか、すでに数えることも出来ないが、

初めは行為の大方を苦痛に支配されていた総司が、

それよりは悦楽が勝る様になったのは最近のことだ。

だが乱れる己を恥じる様に、総司は悦びに漏れる声を忍ぶ。

その声を自分だけが聞きたくて、土方は殊更激しく総司の体を求める。

追い詰め続けられて、やがてどうにも堪えきれず

切ない声が濡れた唇から零れるまで土方は総司を許さない。

 

男の欲望に翻弄され続け、

すべてを解き放った体は、

今体中にある神経ひとつ残らずを外に葬った様に、

ぐったりと褥に横たわる。

 

 

「・・・総司」

乱された名残の汗で張付いた前髪を指で梳くって

額に唇を落としながらもう一度名を呼ぶと、

漸く現(うつつ)に戻った意識が僅かに開いた瞳に光を宿す。

 

「大丈夫だったか・・」

 

心配気に見つめてくる土方に、小さく笑みを作った。

それでも安堵の色を浮かべぬ眼差しに、

腕をさし伸ばしてその首筋に縋ることで応えた。

言葉に出してしまうことで

まだ体の中にある残香が消えることを恐れるように、

腕を絡めてくるその体を土方は包み込むように抱き返してやる。

 

だが回した己の手が触れる背の感触は、ひどく薄く頼りない。

それが土方を再び不安にさせる。

 

 

総司の胸に巣食う病は躊躇う事無く、

若い命を糧として、おぞましくも日々勢いを増している。

そっと手のひらでなぞる骨の浮き出た背の儚さが、

いつか必ず最後の血の一滴までをも容赦なく貪って、

病は総司を手の届かぬ処に連れ去ると、土方に迫る。

 

決してそうはさせぬと、

見えぬ敵を闇に見据えるようにして思わず抱く腕に力が篭る。

 

 

「・・・土方さん」

痛いほどに抱きしめられて、総司が怪訝に自分を見つめてくる。

 

「何でもない・・」

我ながらつまらぬ思いに捉われたと苦笑しながら

総司の唇を捉えようとゆっくりと顔を下ろしてそれに届く間際、

 

 

「・・・藤堂さんのことを思っていたのですか」

ふいに総司が呟いた。

 

だが触れるか触れまいか、瀬戸の際で零れた言葉は、

応(いら)えを得る間もなく土方の唇に塞がれて消えた。

 

打ち据える波が静かに引くように

おのが意のままに操っていた唇をそっと離すと、

 

 

「・・・どうしてそんなことを聞く」

それでも不安げに瞳を揺らす総司にやっと応えを返した。

 

 

 

 

 

参謀の伊東甲太郎が先に崩御した孝明天皇の御陵を守るという名目で

新撰組からの分離を説き、近藤を了承させたのは二日前のことだ。

それに先立ち伊東は年明け早々の一月半ば、単独九州大宰府に赴いている。

近藤、土方には遊説ということにしての旅立ちだった。

 

伊東が戻ったのが三月の十二日。

その翌日に伊東は分離を願い出たのである。

すでに伊東は自分の留守中に篠原泰之進に画策させて『御陵衛士』を拝命していた。

御陵衛士として新撰組を外から支援するという伊東の理屈に

近藤も分離を承知せざるを得なかった。

そうとなれば九州への遊説という名目も

勤皇志士達との交流が目的と容易に察せられる。

 

伊東の挙措には目を光らせて警戒していた土方も、その本人が留守とあらば油断した。

伊東が朗々と語り続けるその横で、この日土方は二重の敗北を期したのである。

 

だが土方の憂慮はそれだけに留まらなかった。

分離を希望する隊士の中に、江戸試衛館以来の同士藤堂平助がいたのである。

 

 

 

 

 

「・・・藤堂さんが新撰組を出て行くのを、

どうして近藤先生や土方さんは止めないのです」

多分そのことがずっと胸に不満の種として燻っていたのであろう、

問う総司の声に微かに咎めるような色が混じる。

 

「止めたところで出て行く奴は出て行く。

それにこれは藤堂自身が決めたことだ。俺には止める理由も無い」

 

 

突き放した様に冷淡な言葉を耳に響かせるこの声の主と、

今自分の耳朶に触れる指のぬくもりを持つ者が

到底一緒のものだとは思えず総司は思わず土方を見上げた。

 

 

「それでも藤堂さんだけは・・・」

土方とてそれを望んではいないはずだ。

その確信が総司を語らせる。

 

それを敢えて無視するかの様に、

土方が更に言葉を紡ごうとする総司の唇を己のそれで塞ごうとした。

 

瞬間、総司が顔を背けて土方を拒んだ。

 

 

「誤魔化されるのは嫌です」

再び見上げる黒曜石に似た深い瞳の色に、許さぬ強い意思の色が湛えられた。

 

 

だがそれを見止めたその刹那、己を受け入れぬ総司の抗いに、

土方の中で逆巻くような苛立ちの感情が激しく突き上げた。

 

背に回した自分の片腕と胸で

そこから抜け出そうと足掻く総司の体を拘束すると、

もう片方の手で頤(おとがい)に手を掛けて、強引に顔を向けさせた。

 

 

自分の気持ちなど微塵も受け入れず、

ただただ己の欲望を満たそうとするだけの土方に初めて直面して、

目を見開いたまま声も出せない総司の唇を、奪うような乱暴さで塞いだ。

 

 

 

忍び込んだ土方の舌先が口腔を蹂躙する。

それは総司にとって一方的に犯されるという思いにも似て、

やがて瞳に溜まるのは憤りでもなく、

悔しさでもなく、言いようの無い哀しい露だった。

 

 

唇を塞がれ、胸を押さえ込まれ、息苦しさと圧迫感に顔が歪む。

それでも土方は離そうとはしない。

苦しさに胸の奥から込み上げてきた咳が出口を失って、

薄い胸を二度三度撥ねさせた。

 

その振動が、隙間の無いほど合わせた胸にそのまま伝わって、

やっと土方に理性の欠片(かけら)を取り戻させた。

 

我に帰って唇を離すと、堪えていたものが一気に吐き出されるように

総司のそれから絶え間ない咳が零れる。

 

 

「・・・総司」

うつ伏せて、苦しさを堪えるように褥の端を強く掴み、

治まらない咳に息すらできぬ総司の波打つ背をさすってやりながら

土方は己の所業の成れの果てを目の当たりにして茫然としていた。

 

ようように激しい咳が収まっても、総司は息をする度に

まだ笛を吹くような不吉な細い音を鳴らしている。

額には冷たい汗が玉のように流れ出ている。

 

 

それでも背中に置かれた手が、

拒まれるのを怯えるように触れられているのに気付いて、

辛い体の姿勢をどうにか変えて仰向くと、

 

「・・・大丈夫です」

土方を安堵させるように、必死に微かな笑みを作った。

 

言った先からまた咳が零れた。

まだ続けて込み上げてくるそれを抑えようと、

苦しさに細かく震える体を止められない。

 

その自分よりも、

後悔に苛まれて更に濃い苦渋の色を隠しもせず浮かべているのは土方だ。

 

土方にこんな顔をさせたくはない。

だがそれをさせるのは紛れも無く己自身だ。

それが総司に言い様の無い悔しさと情けなさをもたらす。

 

 

 

「大丈夫です・・・」

自分を見つめている土方の不安までをも溺(から)め取るように

両の腕を伸ばすともう一度総司はその首筋に縋った。

 

それを抱き返してくるこの腕の持ち主が、泣きたい程にいとおしい。

 

 

 

 

 

 

「藤堂さん、いいですか」

 

桜花は未だ咲きほころばぬが、

吹く風には暖かな春独特の埃臭さを感じる。

開け放した障子の室内に声を掛けたところで何の遠慮にもならぬが、

それでも総司は室を覗く前に藤堂の所在を確かめた。

 

 

「居るよ。何だよ、さっさと入ってこいよ」

この男らしい気さくな返事がかえって来て、

総司はやっと障子の影から姿を現した。

 

 

「何だ、お前今日は非番だろ?」

非番に屯所にいるのが不思議そうに

藤堂平助は動かしていた手を止めて総司を見上げた。

 

「非番だから居るのです。藤堂さんとは・・・」

言いかけて、室の畳の全部を覆い隠す程に散らばった

着物やら本やらの荷物に呆れて目を瞠った。

 

「俺とは・・、何だよ?」

廊下に突っ立ったままの総司の居場所を作ってやるために、

とりあえず自分の目の前にある物を乱暴に手で除けながら

大方言いたいことは分かるとでも言う風に藤堂は苦笑した。

 

 

どうにか一人座る場所を作ってもらって其処に膝を折ると、

 

「藤堂さんとは違います」

改めて総司は本人に面と向かって言い放った。

その声音に隠し様の無い笑みが含まれていた。

 

 

「お前のその遠慮の無い言い方を一度どうにかしてやりたいよ」

「お互い様だと思うけれど・・」

「お前の場合は結構に猫を被っているところがあるからな」

「ほら藤堂さんのそういうところ、やっぱりお互い様でしょう?」

 

間髪を入れずにお互い言いたいように言い合っても、胸にしこりが残る訳でもない。

同い年の気安さと長い月日を共に過ごしてきた親しさで、

藤堂には、近藤とも土方とも他の誰とも違う思い入れが総司にはある。

強いて言葉にすればそれは兄弟というものに一番近いのかもしれない。

 

 

 

一旦休めていた手を叉動かして行李にその辺のものを詰め込みながら、

 

「俺に何か用か。まぁ、用があるから来たんだろうが。

・・・・話は新撰組からの分離のことか」

藤堂は殊更気負う様子も無く、先程の話の続きの様に問い掛けてきた。

 

急に本題に切り込まれて総司は一瞬躊躇したが、

四方に散らばる荷物は確かに此処を出てゆく準備だと知り、

 

「どうしても新撰組を出て行くつもりですか」

怯(ひる)む己を叱咤するように、問いただした。

 

「行く」

総司の顔を見ないで、だがはっきりと一言だけ籐堂は告げた。

 

「・・・どうして」

「決めたことだからさ」

漸く顔を上げると藤堂の双眸はためらう事無くまっすぐに総司を捉えた。

 

 

 

一度決めた決意を簡単に翻す藤堂ではない。

周りから馬鹿だと言われようが、

己の信念に反するものは頑として受け入れない。

そしてそれはいつも呆れるほどに曲がることを知らず

信じるものに向かって直截に貫かれている。

 

多分この先伊東に裏切られる事があろうと、

藤堂は決して伊東を恨みはしないだろう。

藤堂が恥じるのは己が決めた事の成り行きの不首尾を

他人の責任にしてなすりつけることだ。

 

伊東に付いて行くことが果たして藤堂自身にとって

良いことなのか総司には分からない。

だが藤堂は決めてしまった。

決めた事を、藤堂は後戻りしない。

自分の知っている藤堂平助は、昔から変わらずそういう人間だ。

 

目の前の男の事は知りすぎる程知っている。

否、だからこそ今総司は、底の無い深い闇に突き落とされた様な

落胆を覚えずにはいられなかった。

 

 

 

 

「お前、暇なら昼飯を馳走してやるよ」

ふと小さな溜息をついた総司に、藤堂が声を掛けた。

 

「どうせ何処にも行くところはないんだろう?」

からかう様にして言った時には、

すでに藤堂は立ち上がり隅に脱ぎ捨ててあった袴をつけ始めていた。

 

 

その藤堂を座ったままで見上げながら、総司は曖昧に頷いた。

 

 

 

 

 

                  

 

 

  琥珀短編   うたかたの・・  中