うたかたの・・  中

 

 

 

 

気の早い桜は蕾を膨らませ始めていると言うのに、

川面を渡る風はまだ肌に冷たい。

昼を馳走すると藤堂が連れ出したのは、

眼下に鴨川を見下ろすように座敷を張った、

木屋町に近い小さな料理屋だった。

 

初めは下にある川の流れやら川原にいる人の風景を、

面白げに眺めていた総司だったが、

ふいにその冷気に誘われて小さく咳(せ)いた。

その様子を見てすぐに、藤堂は開け放ってあった窓の障子を閉めた。

 

 

「・・・・大丈夫なのに」

咳は存外にわけもなく治まって、

むしろ楽しんでいた景色を奪われた事を藤堂に抗議するように、

総司は口を尖らせた。

 

「馬鹿、大丈夫なことなどあるものか」

藤堂の顔が真剣だった。

「大げさだから、藤堂さん」

「お前が自分の体に頓着が無さ過ぎるんだよ。だからこの間みたいな事になるんだ」

 

その言葉に総司が顔に不満そうな色を湛えた。

 

 

 

確かに藤堂の言うとおりだった。

今年、年が明けて早々、総司は風邪をこじらせて暫らく床についてしまった。

最初は大したこと無いとほおっておいた体の不調は、

それをあざ笑うかの様に一気に総司の体を襲い、

引かぬ高い熱になす術も無く,

苦しい刻(とき)の中に体を横たえているしかなかった。

胸を病む総司にとっては、風邪ひとつ取っても命取りになる。

結局主治医の田坂医師の許可がおりて、

床を上げることが出来た時には月が替わっていた。

 

実際伏せていた時には次から次へやって来る、

悪寒や、絶え間のない激しい咳きや、どうしようもない脱力感に、

ひたすらそれらをじっとやりすごす事しかできなかったが、

やがて少しずつ起き出せるようになると、

今度は別の意味で総司は己の体の急速な衰えを知った。

 

熱が下がり咳が鎮まっても、体が腑抜けたように力の入らない状態が続いた。

脇差を持つことすら重く、長く手にしていることが苦痛だった。

ただそういうことは初めてではない。池田屋で喀血した後もそうだった。

が、今回はそれが長く続き過ぎた。

体に力がなかなか戻らなかった。それに総司は焦れた。

 

田坂医師にもっと強い薬を処方して欲しいと願ったのは初めてだった。

じっと体を休めるより強い薬は無いと、田坂には叱られたが、

それでも総司は思うにならない己の体の不甲斐なさを呪った。

 

 

そしてもうひとつ、総司の内面にも変化が起こっていた。

いつの間にか体のことに触れられるのを、

或いは労わられるのを、酷く嫌うようになっていた。

己の体が言うことを聞かぬようになればなる程、

自分でもわけのつかぬまま、総司の心は頑なになっていった。

 

 

 

そんな総司の癇症が、今の藤堂の言葉を素直に受け入れなかった。

 

「自分の体の事くらい、自分で分かります」

「分かっていないから言ってんだろう」

自ら気が短いと称して憚(はばか)らない藤堂も譲らない。

 

「大体お前最近おかしいぞ」

「何がです」

総司も又藤堂相手だと引くことを知らない。

 

「素直じゃない」

「私は子供ではありません」

 

下手をすればそのまま外方(そっぽ)を向きそうな勢いで突っかかってきた、

総司のその聞かん気な表情に藤堂が溜息を吐いた。

 

「お前、そういうところは変わらないな」

「どういうところです」

「そういう変に頑固なところさ。最も他の奴らはあんまり知らんだろうがな」

 

言い終わる頃には小さく苦笑していた。

その笑い顔に、今の己のやり取りこそ子供じみていると思ったのか、

総司がやっと恥じるようにぎこちない笑みを作った。

 

 

「相手が藤堂さんだと抑えが効かないな」

「昔からだな。俺もその方がいいけれどな。お前は人に気を遣いすぎるからさ」

「そうかな」

「そうさ。俺に言う半分も他の奴に言ってみろ。きっと体も良くなるぜ」

大真面目に言う藤堂に、総司が声を立てて笑い始めた。

 

「何が可笑しいんだよ」

「だって、藤堂さんが言うと本当に聞こえる・・」

「ばか、本当だよ」

止まらぬ総司の明るい笑い声に少し安堵したように、藤堂もつられて笑った。

 

 

 

「だが、本当に最近のお前はどっか変だよ」

ひとしきり続いた総司の笑いが治まるのを待つと、

藤堂が手酌で酌んだ酒の盃を口に持って行きながら呟くように言った。

 

「どう言う風に・・・?」

何かを探るように総司は藤堂の顔に浮かぶものを伺った。

 

「どうって・・・そうだな。素直じゃないって言うのはそうなんだが・・」

適当な言葉を捜しあぐねて藤堂は宙を睨んだ。

 

「何て言って良いのか俺には分からんが、

こう、近頃のお前は人を避けているように俺には思える・・」

浮かした視線を総司に戻しながら、藤堂は盃を干した。

 

「・・・誰も避けてなどいない」

「いや、避けているよ。それに前みたいに笑わなくなったしな・・」

 

総司は黙って箸を持つ自分の手元を見るように俯いた。

 

 

 

多分、藤堂の言うことは当たっている。

思いもかけず長く伏せていて起きることが出来るようになった時、

他人が心配してかけてくれる言葉を疎(うと)ましく思う自分がいた。

寝ている時にはさほどに感じなかったが、

床を上げて自分では普通になったと思っても、人はそうは見てはくれなかった。

 

体の急激な衰えを知ってしまったからこそ、それはあからさまに

お前はもう弱って行くばかりだと言われているようで辛かった。

だがそれ以上に、他人の労わりに頑なになるそんな自分が情けなかった。

その繰り返しが、近頃の総司を他人から遠ざけるようになっていた。

 

きっと藤堂はその事を感じ取って言っているのだ。

 

 

 

「最近・・・」

藤堂の顔を見ないままで総司は呟いた。

 

「最近、なんだか焦っているのかもしれない」

言い終えて漸く顔を上げた。

 

「焦っている?どうして、お前にも焦ることなどあるのか?」

「ありすぎて・・・」

浮かべた微笑が、思わず目を留めてしまうほど寂しげだった。

 

「どうせお前のことだ。埒もないことだろう」

殊更明るく言い切ったのは、

総司の黒曜の瞳に湛えられた哀しげな色に

思わず引きずりこまれそうになったからだ。

 

「・・・埒もない、か・・」

また下を向いて箸を動かし始めたが、無意識にそうしているだけで、

総司はどこか他の処に思考を彷徨わせているようだった。

 

 

「だいたいお前の考えてることっていつも人のことだろう。

今だってそうだ。大方土方さんのことでも考えているのだろう」

 

藤堂は何の思惑も無く言ったに相違ないが、

総司は一瞬、弾かれたように伏せていた顔を上げた。

 

「ほらみろ。図星だろう?」

その総司の狼狽を見て、藤堂が愉快そうに笑った。

 

「土方さんに、何と言われて来たのだ。

・・・俺を思いとどませるように、とでも言われたのか?」

まだ藤堂の顔から笑みが消えていなかった。

その言葉に、総司は胸の内で安堵の息を吐いた。

 

 

 

土方と想いが通じあえたのは一昨年の秋の始め・・・。

その間総司はこの秘め事を誰かに決して知られぬことの無いよう、

絶えず神経質過ぎるほどに気を抜くことがなかった。

そんな総司に土方自身は愁眉を寄せた。

自分達のことを誰かが知るならばそれはそれでいいと、土方は言う。

だが総司はこのことに関しては頑として抗った。

 

・・・・知られれば土方が困る。

 

常に先に向かって進み行く土方と、先の見限られた自分を照らし合わせた時、

総司はいつも今に満足しなければならないと、己に言い聞かせてきた。

いつか自分が土方の傍らにいられなくなった時、

すでにこの世のものではないだろう自分が、

土方の足手まといにはなりたくなかった。

 

 

 

 

「・・・・そうか、やはり土方さんは面白くないだろうな」

黙ってしまった総司の様子を誤解して、藤堂が低く呟いた。

 

「・・え?」

「いや、おまえが今日俺のところに来たのは、土方さんに言われたのだと思ったのさ」

「どうしてそんな事を・・・。私は私の考えで藤堂さんに言いたいことがあった」

「お前の言いたい事?」

総司は言葉にせずにまっすぐに藤堂を見たまま頷いた。

 

 

「藤堂さんはずるい」

「ずるい?」

いきなり言われて籐堂が面食らったように聞き返した。

 

「そうだ、ずるい」

「何故俺がずるい」

怪訝に総司の顔を伺いながら、それでも心外そうに藤堂は眉をひそめた。

 

「新撰組を出て行くからだ。自分だけ、勝手に出て行くからだ」

「おい、それは理屈にも何にもなっていないぜ」

「理屈じゃない。理屈なんてつけようと思えばいくらでも付けられる。

でもどんなに理屈をつけたって、藤堂さんは出て行く。

それならば私はずるいとしか言えない」

 

 

今自分が言っていることはまるで無茶苦茶な事だということは分かっている。

出て行く意志を変えることは無い藤堂への

八つ当たりだということも知っている。

 

それでも今目の前で、呆れたように自分を見ている男を

引き止めることができぬのならば、総司は他に告げる言葉を知らなかった。

 

「ずるい・・」

 

真正面から総司に睨むように見据えられて、藤堂が諦めたように吐息した。

 

 

「お前は本当に、我侭な奴だよな」

「藤堂さんの方が我侭だ。おまけに勝手だ」

「お前に言われたかないよ」

「では言わせないようにすればいい」

「新撰組に留まれと言うのか?」

 

頷く総司の瞳に譲らぬ頑固さを見て、藤堂が苦笑した。

そのままもう一度窓辺に膝行(いざ)るようにして寄ると、

 

「少しだけ、障子を開けてもいいか?風が通らんと息苦しい」

 

だが言った言葉とは裏腹に、ほんの少し、

それも開けたとは言いがたい程、桟に手を掛けただけで藤堂は戻った。

それが自分の体を思っての事だと思えば、総司はまた心が重かった。

 

 

「俺は・・・、俺はな」

そんな総司の心中を察するでもなく、

藤堂は相変わらず手酌で酒を過ごしている。

 

「俺は・・・、実は分からんのさ」

「分からない・・?」

訝しげな総司の声音に、藤堂は自嘲するように方頬を歪めた。

 

 

「分からん。・・・・そうだ、分からん。

一度そう言葉に出してみると存外楽になるものだな」

 

自分で言っておいてそれに頷きながら、

今度は快活に笑い始めた藤堂を、総司は呆気にとられて見ている。

 

「いや、悪い。お前にこんなことを言ってしまっていいのか、

それも分からんが・・・・それでも俺は分からんのさ」

瞬きもせず自分を凝視している総司に気付いて、漸く藤堂は笑いを引っ込めた。

 

 

「どういうことです」

「俺は伊東さんについて新撰組を出る。これは決めたことだ。もうどうにもならん。

だが果たしてあの人と行く先が俺の求めていたものとも思えん」

「それなら・・・」

「まぁ、待てよ」

思わず詰め寄りそうな総司を藤堂は手で制した。

 

「多分、伊東さんと俺は考え方が違う。

いや、考え方は似ているかもしれん。それでも同じではない」

「そこまで分かっているのなら何故・・」

「それでも新撰組にこれ以上はいることが、俺にはできないからさ」

「新撰組居ることが、できない・・?」

「そうだ」

 

黙ってしまった総司の前に置かれた膳の盃を返して

 

「お前も飲めよ。少しくらいいいだろう」

 

そう言いながら酒を注がれた盃に手も出さず、

じっと自分を捉えている総司の瞳を見て、藤堂は小さく笑った。

 

「別れの盃だぜ」

「どうしてっ」

その藤堂の言葉に、総司の青みがかった白い頬に憤りの朱が走った。

 

「ばか、勘違いするな。これが最後ってわけじゃない。

お前は新撰組に残る。お前の道を行く。

俺は俺の決めた道を行く。その道が違った、その別れの盃さ」

「・・・藤堂さんの決めた道というのが分からない」

「だからそれさ。俺にも分からんと言っているのは」

聞かれた藤堂の方がうんざりとしたように呟いた。

 

「藤堂さんの言うことがさっぱり分からない」

「しょうがないだろう。俺にも上手く言えないのだから。ただ・・・」

「ただ・・?」

「新撰組に居る事は、俺にはもうこれ以上できない。

案外ただそれだけなのかもしれない」

言いながら投げかけた藤堂の視線が、総司を通り越してどこか遠くを見ていた。

 

その先がどこなのか、総司は思いあぐねて又口を噤(つぐ)んだ。

 

 

「俺はお前に詫びなくてはならない事がある」

ふいに籐堂の視線が総司を捉えた。

 

「詫びる・・?」

「山南さんのことさ」

 

藤堂の言葉に総司の面が一瞬翳って強張り、

だがそれを悟られぬようにすぐに目を伏せた。

 

 

 

できるならば、触れられたくは無い出来事だった。

丁度二年前の冬、総長だった山南敬助が江戸へ戻ると残して新撰組を脱した。

そのあとを追って大津で山南に追いつき、

このまま逃げてほしいと説得する総司に、

山南は決して首を縦にせず、翌朝二人で屯所に戻った。

そしてその翌日には隊規に照らし合わせて、山南は腹を切った。

その介錯をしたのは、他の誰でもなく総司自身だった。

 

大津で逃げるように懇願した時、

『私を逃すことができずに腹を切らせてしまうことを、

お前は生涯に渡って悔やみ、自分自身を苛むだろう。

今更自分のした事には何の後悔も無いが、

お前を苦しめてしまう結果になってしまった事だけを、

私は唯一のこの世に心残りとして腹を切る』

そう言って向けた山南の目にあった、慈しむような光を総司は忘れてはいない。

 

あの時総司は、新選組に居ることへの山南の苦悩を知りながら、

それを見ぬ振りをしてきた自分への咎(とが)として、自ら土方に介錯を願い出た。

 

それでもその山南の首を落とした時の感触は今も鮮明に両の掌に残り、

心にできた疵口は、その深さを測れず未だ朱い血を流し続けている。

 

 

 

 

「すまんと思っている」

もう一度耳に届いた藤堂の低い声に、総司は顔を上げた。

 

「すまん・・・」

 

目の前に、頭(こうべ)を深く垂れている藤堂が居た。

 

 

訳も分からずただぼんやりとその姿を瞳に映す総司の頬に、

先ほど藤堂が微かに開けた窓の隙間から、

川を渡って来た風が忍び込んで、悪戯のように頬に触れた。

 

 

 

 

 

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