雪明り 十三
西本願寺の屯所から正面に東山を見て七条通りを進むと、やがて道の左手には高瀬舟の回漕点が平行する。回漕点の入り口、高瀬川に掛かる橋脚は高い。それは橋の下を、人が綱を引いて浅瀬まで舟を運ぶ為だ。
その橋の中ほどに差し掛かったところで、総司は足を止めた。
開けた視界の先に男が一人、此方を見て佇んでいる。長い髪を無造作に束ねた痩身には見覚えがあった。
一瞬、胸の鼓動が高鳴る。それを吐く息で沈めると、総司は、寺脇翔一郎の家の前で待っていた男に向かって橋を下り始めた。
「僕を覚えていた?」
立ち止まった総司に、男は笑いかけた。
「寺脇さんを待っていた方ですね」
「そうだよ、宗次郎」
男を見詰めていた瞳が、大きく瞠られた。
「ああ、そうか…。翔一郎は、僕の事を君に何も教えてはいないのか。それは驚かせてしまったね」
男は困ったように目を瞬いたが、すぐに目を細め、口辺に笑みを浮かべた。しかしその柔らかな眼差しに触れた刹那、総司の記憶の淵を、閃光のような鋭さで貫いたものがあった。
この目と同じ目を知っている――。
そう思った瞬間、あっと小さな声が上がった。
「翔一郎に似ているところを、どこか見つけた?」
男の声が笑っていた。
「君は鋭いね宗次郎、僕と翔一郎は兄弟なんだよ」
「…兄弟?」
「そう、翔一郎が兄、そして僕が弟の克利。あまり似ていないけれど、僕たちは双子さ」
「寺脇さんに兄弟がいるなんて、初めて知りました」
「翔一郎にとっては、あまり人には知られたく無い事だからね」
それを憤っている様子も無く淡々とした口調で告げると、克利は柳の木に軽く背を預けた。
縄をつけられた一艘の舟が、船頭達の掛け声で浅瀬を引かれて行く。その声が遠ざかるのを待って、総司は克利に視線を向けた。
「貴方は今、私を幼名で呼びました」
「今は総司君だったね」
克利は微笑んだ。
「随分前から、私の事を知っていたのですか?」
「…そう遠い昔じゃないよ。でも翔一郎から君の事を聞いてからは、ずっと会ってみたいと思っていた。だからすごく懐かしい気持ちがする」
「寺脇さんが私の事を?」
「最初、翔一郎は君の事を隠していたんだ。でも僕には翔一郎の隠し事はすぐに分る。だから強引に聞き出したんだよ」
くすりと笑った目が、翔一郎のそれを重ねた。
「ひとつ、聞いて良いですか?」
「答える事が出来るものならばね」
ゆらりと、克利は幹から体を離した。
「この間、貴方は寺脇さんに何を伝えに来たのです?」
「何故そんな事を聞くんだい?」
「あの後、寺脇さんの表情が酷く硬くなりました」
それは弟にまみえた慕わしさとは、到底云い難い表情だった。
「そう、翔一郎はそんな顔をしたのか…」
一瞬遠くに視線を遣ると、独り言のように克利は呟いた。が、すぐに悪戯げな目で総司を捉えた。
「まるで疫病神に遭ったようだった?」
「そんな…」
「冗談だよ。でも満更違ってもいないだろう?」
目の前の狼狽を楽しむように、細面の顔立ちが綻んだ。
「君は正直だね、宗次郎。本当に、翔一郎から聞いたとおりだ」
「どう云う事でしょうか?」
「危なっかしい程に真っ直ぐで、自分の事より人の心配ばかりしている、それなのに時々ひどく頑固者で、いつもはらはらさせられるのだと…、でもだからこそ目が離せないと云っていた」
「そんな事を寺脇さんが…」
薄い膚の下に、血の色が上る。
「翔一郎は、君の事が大好きなんだ」
そんな総司に、克利は目を細めた。その時、総司が不意に瞳を橋に向けた。此方に渡って来る人の気配が兆したのだ。そうこうする間もなく、今度は声が聞こえて来た。
克利が、すっと体を引いた。
「また会えるかな…。いや、きっと会える。それまでさようなら、宗次郎」
名残を惜しむようにゆっくりと、克利は背を向けた。
克利は振り返らず遠ざかって行く。
見詰める総司の瞳の中で、その背を、もう一つの影が追いかける。
そうして二つのそれが微塵のずれも無くひとつに重なりあった時、
「寺脇さん…」
小さな声が零れ落ちた。
「あら」
不意に後ろから高い声がした。振り向くと、其処に四越市太郎が立っていた。
薄ねず色の着物に、渋茶色の羽織と云う難しい色合いを洒脱に着こなしている姿は、若いながらも呉服屋の主としての貫禄を滲ませている。
「珍しい処で会ったもんね」
「本当だ」
誰憚らない、相変わらずの調子に総司は笑った。
商売を抜きにすれば、市太郎は人に対する垣根を持たない。自分が気に入れば面倒を見、気に入らなければ嫌う。そこには侍も町人も無い。そのいつもと変わらぬ態度が、思わぬ安堵感を総司に与える。克利の纏う強烈な個性に、知らず知らず呑み込まれていたらしい。
「さっきの人、知り合い?声を掛けちゃ悪かったかしらね」
「いえ、市太郎さんのお陰で助かりました」
「ふぅん、何を助けたのか知らないけど、あの人、あたし見たことがあるわよ」
「えっ?」
「妙に印象に残る人ですからね、あまり関わりたく無い雰囲気があるのよね」
「旦那様っ、お侍様をそのように…」
青くなって辺りを見回す番頭の種吉に、
「お前は気にしすぎです」
ぴしゃりと叱り声が飛んだ。
「市太郎さん、どこであの人を見かけたのですか?」
「先日行った、お公家さんの屋敷の近くよ」
「公家?」
「そう上林(かんばやし)って云うお公家さん。世間じゃ、公卿商人(くぎょうあきんど)って云わている金持ちよ。そのお公家さんの、東山にある屋敷に行く途中、近くの雑木林で見かけたの。屋敷を伺っていたって感じだったから良く覚えているわ。出世の裏じゃ、どれだけ人の恨みを買ったか分らないって噂の家だもの。そんな因縁絡みの浪人だろうと、気にも止めなかったんだけれどね。でもさ…」
淡々と語っていた顔が、ふと真剣になった。
「でも、あんたがあの人と関わりがあるって云えば別よ」
窺うように、市太郎は総司を見詰めた。少しの嘘も見落とさない、と云う厳しい目だった。その目に、総司は衒いの無い笑みを映した。
「道を聞かれたのです。それがちょっと複雑で、教えるのに長くなってしまいました」
「そう、なら良いけどさ。何だか妙に、胸を落ち着かなくさせる御仁だから」
もう見えない姿を探すように、寸の間、市太郎は目を遠くへやった。そして総司に視線を戻すと、
「関わっちゃ駄目よ。土方さんも、きっと同じ事を云う筈よ」
半ば脅かすように云った。
「それにさ…」
「それに?」
「いえね」
促す総司に、市太郎は少し黙考してから口を開いた。
「見当違いなら良いんだけれど、上林家の森に潜んでいた時のあの人の目、常人の其れとは違うように思えたのよ」
「どう云う事です?」
「言葉にするのは難しいけれど…そうね、一番近いのは正気を逸していた…、って感じかしらね」
市太郎は、少しばかり声をひそめた。
陽が、不意に薄雲に遮られるように、市太郎を見詰める瞳が翳る。そして時を置かずして、ある光景が総司の脳裏に浮かぶ。
小雨が色を沈める静謐の中、宗次郎だった自分と翔一郎がいる。
翔一郎の目は氷のように冷たく、その目に囚われ身動きが出来ない。身体は強張り、声すら出ない。視線を逸らさないのが精一杯だった。
寸の間ではあるが、あの時の翔一郎の目は狂気にも似ていた。
もし克利と翔一郎に同じ血が流れているのなら、市太郎が克利を評した言葉が翔一郎にも重なって不思議はない。
けれど…。
投げた視線の先に揺れる水面を、総司は見詰めた。胸の片隅にわだかまりが残るのだ。
突き放すように視線を解いた直後、翔一郎の横顔には、見る者の胸を締め付けるような荒涼とした寂しさが浮かんだ。翔一郎は苦しげだった。自分にそう云う一面を見せたことが。
もしかしたら。
もしかしたら、あれは演じた狂気ではなかったのか…。
ふとそう思いが走った時、
「あらあら」
現実へと引き戻す鮮明な声が聞こえた。間近に、船頭達の掛け声も聞こえる。廻しに残っていた最後の舟が、浅瀬を引かれて行こうとしているのだ。
雲は去り行き、往来には再び陽が届いている。気がつけば、影法師が長い。
「とんだ道草、商売上がったりだわ」
市太郎が慌てた声を上げた。
「さっき云った事、約束よ」
「はい」
総司は笑った。横柄な口振りの後ろには、十分すぎる心配を感じる。
「あんたが素直な返事を寄越す時は眉唾ものだけれど、まぁ土方さんが居るから大丈夫でしょ。又おなみちゃんにも顔を見せなさいよ、おなみちゃん、喜ぶからさ。あたしがいりゃ十分だと思うんだけれどね」
憎まれ口を置き土産に、市太郎は歩き出した。
市太郎の後から、振り返り振り返り、種吉が総司に頭を下げる。そんな主従の背が遠くなると、総司は静かになった舟廻しに目を戻した。
風が水面を騒がせ陽を弾く。
その茫洋とした光の波に瞳を細めると、耳の奥で微かな声がした。声は、翔一郎のもののようであり、克利のようでもあった。そして声は確かに、宗次郎と呼んだ。
夜が、ひっそりと紙を落とすように闇を重ねるその狭間に、白い身体がゆらりと沈んだ。
濡れた瞳はぼんやりと一点を見、薄い胸が上下するたび、半開きの唇からは荒い息が漏れる。熱を解き放ったばかりのその身体に、指が這った。途端、気だるげに力を失っていた四肢がぴくりと跳ねた。そんな想い人の姿態を、土方は愛おしげに見下ろした。すると、下に組み伏されていた総司が、突然伸ばした腕を首筋に巻きつけてきた。情事の後、こうして温もりを欲しがる時の総司は、何か胸に心許なさを抱いている。
「どうした?」
土方は囁いた。だが総司は微かに首を振るばかりだ。それは子供がいやいやをしているような仕草だったが、このまま総司は言葉にせず、胸の裡に仕舞いこんでしまうのだろう。それを土方は良しとしない。
「浮島克利の事か?」
強引に問うと、総司の瞳が瞠られた。が、すぐに形の良い唇辺に笑みが浮かんだ。
「何だ?」
「忘れていたのです」
悪戯げな目が、土方を見上げる。
「土方さんは、何でもお見通しだってことを…」
「つまらぬ事を」
整いすぎる感のある顔が、嫌そうに歪んだ。
「見張りは伝吉さんですか?いえ、違うな。伝吉さんならば、気配で分かる、誰だろう?山崎さんではなさそうだし…」
それ以上の言葉を遮るように土方は、薄い朱に染まっている耳朶を噛んだ。刹那、突き出した白い喉が喘いだ。
「四越市太郎は、浮島克利を何と評した?」
少しの間、総司は土方を見詰めていたが、やがてくすりと笑った。
「土方さんが思うのと同じ事を、市太郎さんは思ったそうです」
「どう云う事だ?」
「あの人、とても静かな目をしていた」
「俺は市太郎の事を聞いている」
「土方さんは覚えていますか?京に来るときに見た、あの大きな湖の事を」
「……」
あからさまに眉根を寄せて見せるが、総司は頓着無い。
「あの、大津宿から見た湖です」
弾んだ声に、土方は諦めの吐息で答えた。
「琵琶湖の事か?」
総司は嬉しそうに頷いた。
「琵琶湖はまるで海のようで、世の中にはこんなに広い湖があるのだと、本当に驚いた」
「お前は宿にも入らず湖を見ていたな」
声が、忌々しげに尖る。
それは土方にとって良い記憶ではない。
――浪士隊上洛の旅もいよいよ終盤に差し掛かり、ついに翌日は京と云う大津宿。
長い旅の最後の夜、振る舞い酒が出るとの報に誰もが浮かれていた。そんな中、総司の姿が見当たらない。土方が探しに行くと、総司は岸に佇み、じっと湖面を見詰めていた。
呼んでも、総司は振り向かない。その内に、沈む陽が細波に弾かれ、溢れる光で湖面が覆われた。すると総司の姿は、その光華に揺れ動く危うい影になった。土方は大声で総司の名を叫んだ。
あの時。
総司が光に浚われてしまうと思ったのだ。
落ちる陽に呑みこまれてしまう錯覚に陥ったのだ。
その戦慄を、今も忘れ得ない。
そんな土方の思いなど知る由も無く、
「…湖面がきらきらと煌いて、湖も光も、果てなく続くように思えた」
遠い光景を追うように、総司は瞳を細めた。
「琵琶湖の話はもういい。さっさと先を続けろ、市太郎は何と云ったのだ」
「土方さんは怒ってばかりだ」
短気な癇症を、澄んだ声が笑った。
「浮島さんの目は、まるであの湖のようだったのです」
土方は露骨に嫌な顔をした。総司の云っている事が益々分らない。
元々抽象的な表現を理解するのが苦手な男だから、この想い人の言動には振り回されてばかりいる。
「幾艘もの船が出入りしてあんなに賑やかだった湖が、陽が沈みかけると嘘のように静まり返ってしまった。そのうち、今度は湖面に弾けていた光が、湖の底へ吸い取られてしまったように無くなった…。そうなると、まるで胸に空洞が出来てしまったみたいに、湖が寂しくなった」
「俺は幾度も宿に入れと呼んだぞ」
「動けなかったのです。湖の前から」
「湖が寂しいと云った、などと云いうなよ」
「どうだろう…?」
眉を顰めた土方に、総司は微笑んだ。
「でもあの華やぎの後に湖が見せた、胸が切なくなるような静かな目を、あの人はしていたのです」
総司は小さく吐息した。 そして土方を引き寄せるように、より深く腕を絡めた。
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