雪明り 十四
不意に、夜の淵を掠めるように何かが動いた。寸座、総司の瞼が鋭く開き、襖の向うを探る。そのままじっと闇に耳を澄ませていたが、やがてその気配が雨戸を叩く風の向うに遠ざかると、結ばれていた唇から微かな息が漏れた。
気配の主は伝吉に相違ない。
翔一郎の事で、何か動きがあったのかもしれない。それとも直江の事だろうか?
当ての無い推量は何の答えも連れてこず、尽きない憶測は神経を研ぎ澄ませて行く。
もう朝まで眠れないだろう…。
諦めの悪い自分を戒めるように、総司は寝返りをうった。
突き刺すような朝の冷気が四肢の感覚を鈍らせ、急ぐ足に枷をする。そのもどかしさが、益々総司を焦燥に駆る。
寺脇翔一郎の行方が分らなくなったのは、昨夜の事だ。
黎明、その事実を教えに来たのは、意外にも土方だった。
昨日、伝吉は朝から翔一郎の家を見張っていた。
一日物音もさせずひっそり過ごしていた翔一郎だったが、やがて夜更けて外出した。伝吉は追った。すると翔一郎は、後ろを警戒する事も無く北へ向かい、二条城南にある小浜藩京屋敷の裏口に消えた。無論、伝吉はその裏口から目を離さなかった。しかし幾ら経っても翔一郎は出て来ず、不審に思い始めた時、微かな水音がした。酒井家の屋敷は、ぐるりと水路に囲まれている。伝吉は急ぎ其方へ走った。すると前方で、塀を乗り越えた二つの影が地面に降り立つところだった。目の前には小舟が一艘。水音は舟のものだったのだ。
呆れる程素早い動きで影たちが小舟に飛び移りるや、船頭が大きく棹をさした。ところがその刹那、突然後方から一艘の舟が現れ、彼の舟を追い始めた。しかし雪解けで水位が増していた水路は、前の舟に有利に働き、追っていた方は、みるみる引き離されてしまった。
その一部始終を、伝吉は唇を噛んで見る他なかった。伝吉にとって、痛恨の出来事だった。
これが、土方の語った顛末であり、昨夜遅くに総司の察した気配は、この急を告げる伝吉のものだった。
辿り着いた長屋はまだ眠りにあり、しんと静まり返った家々を靄が巻いている。その白い帳の向うに、長身の人影があった。
「田坂さん」
躊躇い無く近づくと、影が振り向いた。
「早いな」
田坂の口辺に、笑いが浮かんだ。
「中は綺麗に片付けられている」
促されて向けた視線の先に、翔一郎の家の戸が、ぽっかりと黒い口を開けている。
「田坂さんはどうして寺脇さんの事を?」
「未明に山崎さんが来て教えてくれた。無いとは思うが、もし彼が立ち寄ったら止めて置いて欲しいと」
「山崎さんが…?」
憂いの色が、田坂を見詰める面輪を曇らせた。山崎が止めて置いて欲しいと依頼したのなら、それは新撰組が捕らえると云う事だ。そしてその決定は、土方の意思であった。
「一緒に逃げたのは、直江忠兵衛らしい」
「……」
「直江には謎が多すぎるな。大体が新撰組に依頼した盗賊捕縛の件、あれだって何処までが本当か分からない。尤も、土方さんなぞ、あの性格だ。端から疑って掛かっていたんだろうが…」
田坂が苦笑したその時、後ろで靄の流れが止まった。振り向くと、向かいの家から八郎が出て来た。
「こっちも、もぬけの殻だ」
二枚重ねた羽織の下で、八郎は寒そうに身を震わせた。
「やはり見張りの為に使っていたんだな」
田坂が顎に指を滑らせながら、興味深げに中を覗いた。
「新撰組以外にも、寺脇さんを見張っていたのですか?」
総司の瞳が驚きに瞠られた。
「数珠職人の夫婦だ。先日、山崎さんが後をつけたが、雲母坂で断念せざるを得なかった。俺が呼び止めてしまった所為だ」
「山崎さんは、早くからその人達の事を知っていたのでしょうか?」
「だから不審に思って正体を突き止めたかったんだろうよ」
諭すように答えるつもりが、先を急ぐ短気の癖が、つい調子を苛立たせた。が、今の総司はその機微すら気付かない。
「その人達、何故寺脇さんを見張っていたのだろう…」
呟いた声は、ひとり思考の中に籠もっている。
「見つけ出して、教えて貰うんだな」
そんな様子に、八郎は呆れ顔で肩を竦めた。
主を失った家に、総司は視線を戻した。漠然と翔一郎に抱いていた不安が、ひとつの形になってしまった事への現実に、胸の衝撃は消えない。
翔一郎は、何をしようとしているのか。
何が翔一郎を追い詰めているのか。
直江と浮島克利は、彼にとってどう云う存在なのか。
そのどれにも答えの見つからない焦燥が、暗澹と胸を覆う。
目を伏せると、凄涼と寂しげな横顔が脳裏を過ぎった。
思わず、総司は唇を噛んだ。
あれは、あの横顔は、自分がさせたものなのだ――。
心の片隅に置いたその贖罪に、ずっと見ぬ振りをしてきた。だが今こそ詫びなければならない。それがどれ程に彼を救う事になると云うのだろう。けれど、この不吉に膨らむ予感を鎮める術を、他に知らない。
土方よりも誰よりも早く、翔一郎を見つけ出し、そして詫びるのだ。あの時の翔一郎は、狂ってなどいなかったと。自分は幼いだけの少年だったのだと――。
靄の向うに遥かな光を見出すように、総司は瞳を細めた。
「ほな、沖田はんがお使いをしてくれはるんどすか?」
大仰に、キヨは目を見開いた。声は十分奥まで届いている筈だ。それなのに物音ひとつしないのは、八郎も田坂も聞かぬ振りを決め込んでいるからだ。
「外の空気を吸って、少し頭を冷やしたいのです」
込み上げる笑いを堪えて、総司は応えた。
翔一郎が姿を消して、三日が経とうとしていた。ようとして消息は知れない。尤も、直江までが行方不明の今、新撰組の立場は宙ぶらりんになっている。元々が極秘裏でと云う話であったし、手を引いたところで何ら差し支えは無い。が、土方は翔一郎の行方を探し続けている。そしてそれは、八郎も田坂も総司も又、同様だった。
今日も総司が田坂家に来てみると、八郎と田坂が、今までの経緯を紙に書き出し、順序だてて整理しているところだった。しかしその途中でも疑問は次々に湧き出し、その都度三人の思考は行き詰まる。それを繰り返した幾度目かに、聊かうんざりとして来ていた八郎が、甘いものを食べたいと云い出した。その使いを総司が買って出たのだった。
「まぁまぁ、それはそれは、寒い中、大変どすなぁ。キヨが熱いぶぶ用意して待ってますから、お早うお帰りやす」
更に奥へ、キヨは声を伸ばした。
「世の中には仰山男はんがおいやすけど、いざと云う時に役に立つ男はんを見つけるには、ほんま、難儀しますなぁ」
相変わらず奥は静まり返り、咳払いひとつしない。丸い声の皮肉を、二人とも惚け顔で聞き流しているに違いない。やれやれと頭(かぶり)を振るキヨに背を向けると、総司は苦笑しながら敷居を跨いだ。
八郎の指定した菓子屋は餡が上手いと評判で、店は五条通に面している。近くには薬種問屋小川屋があり、キヨへの土産を求めて、総司も幾度か立ち寄った事があった。
すれ違う人々が、前かがみになって橋を渡っている。吹きすさぶ風が、身体を揺らすほどに強いのだ。その五条橋を渡り、高瀬橋に掛かった時だった。
「宗次郎」
人が途切れた一瞬の空白を狙い定めたように掛かった声に、総司は四肢に緊張を走らせた。振り向くと、ゆっくりとした足取りで、翔一郎が土手を上がって来るところだった。やがて総司の前まで来ると、少し間をおいて、彼は立ち止まった。
「どうした?幽霊でも見たような顔をして」
細めた目の中に、からかうような色がある。
「驚いているのです」
「はて…?」
翔一郎は首を傾げた。
「寺脇さんはきっと自分から現れると、そんな気がしていたのです。それが本当になって驚いた」
「宗次郎の勘はすごいな」
「私は褒められているのですか?」
「勿論さ」
衒いの無い笑い顔につられて、翔一郎も笑みを浮かべた。
「お前の勘の鋭さには、昔から良く驚かされたよ。が、その分、呆れるくらいに無防備なところもあった。それはお前の良さでもあるが、大きな弱点にもなる。そんなお前に、私はいつも、はらはらささせられていた」
冷気で青白くした頬に、少年の日の面影を重ねるように、翔一郎は柔らかな眼差しを向けた。
「今も、そう思っているのですか?」
「ああ、思っているよ、宗次郎」
応えた、その瞬間だった。翔一郎は後ろに跳び下がると、鯉口を切った。同時に総司も又、刀に手を掛けていた。
「こうなる事も想像したのかい?」
二人の間にある緊張感とは凡そ遠い静かな声音で、翔一郎が訊いた。
「こうならないようにと、願っていました」
「そうか」
翔一郎は目を細めた。
「本当はもっと穏やかな方法でお前を連れて行きたかったが…。少し急がねばならなくなった」
許せよ、と最後の言葉の終らないうちに、翔一郎は総司の懐に飛び込んできた。その攻撃を辛うじて交わし、今度は総司が、翔一郎が体勢を整える間もなく、鋭い一撃を入れた。キンと、鋼の重なり合う硬質な音が、乾いた空気に響く。二つの影が、草を薙ぐ疾風のように、土手を滑り降りる。河原に下り立って、再び二人は正面から対峙した。
翔一郎の目は、総司が今までに見たことも無い激しさを帯び、その腕は、試衛館で立ち会った頃よりも数段上がっている。多分、力と技では敵わないだろう。重ねてきた経験が、そう、翔一郎の力量を総司に教える。だとしたら…。
勝機は、翔一郎の仕掛けを交わしたその一瞬の隙だ――。
じりっと、翔一郎が間合いを詰めた。総司は僅かに右を開いた。すると、誘いに乗った翔一郎が鋭い声と共に斬り込んで来た。閃光のようなその一撃を、総司はぎりぎりの処まで引き寄せ、交わし、返す刃で突いた。総司の上半身が、一本の線になる。しかし翔一郎は、その捨て身の攻撃を紙一重で交わした。切っ先は、彼の襟までしか届かなかった。しまったと、思う間もない。だがその寸座―。不意に現れた影が、翔一郎の背後に立った。女だ。女は、小刀を逆手にして構えた。
女と総司の間で、翔一郎は等分に二人に目を配らせ、そこに新たな緊張が生まれた。その均衡を最初に破ったのは女だった。危ないっ、と叫んだ総司の声が届く前に、女は、翔一郎に小刀を振りかざした。だがそれよりも一瞬早く、翔一郎の刀が、女の斜め上に振り下ろされた。
弧を描いて飛ばされた小刀が、河原の石に弾かれ転がった。
「宗次郎っ」
女の抗いを片手で封じると、振り向き様、翔一郎が叫んだ。
「お前が動けば、私はこの女を斬る」
翔一郎は刀を横に突きたて、千切った己の袖を、女の口に噛ませた。
その時になって、ばらばらと、複数の男たちが土手を滑り降りてきた。やがて男たちは、翔一郎と総司を囲むように立った。
翔一郎は、一番近くに来た大柄な男に女を渡すと、総司に視線を戻した。
「お前に来て欲しい処がある」
「嫌だと云ったら?」
ちらりと、翔一郎は後ろの女に視線を遣った。
「関係の無い人間を巻き添えにはしたくない」
猿轡をされ、動きを拘束されている女の顔は青いが、総司に向けた目の中にある光は強く、自分に構うなと云っている。その眼差しから、総司は視線を逸らせた。
「寺脇さんはずるい」
「ずるい…?」
翔一郎が、訝しげに眉根を寄せた。
「私はいつも中途半端に負けっぱなしだ」
「随分強くなったよ。私の背中は冷汗で濡れている」
翔一郎の口辺に、笑みが浮かんだ。その笑い顔には偽りも衒いも無い。試衛館で見ていたのと同じ、笑い顔だった。
「何処に行けば良いのです」
刹那に過ぎった感傷を打ち切るように、手にしていた刀を納めると総司は翔一郎を見た。翔一郎は無言で土手の上に視線を向けた。そこに、いつの間にか駕籠が一丁止まっている。
「あの女の人は?」
「お前が乗ったら開放するよ」
「分かりました」
女の前を通り過ぎる時、微かに視線を動かすと、女は瞬きもせず総司を凝視していた。眸に痛恨の色がある。が、その目が、突然険しく瞬いた。それを不審に見止めた瞬間、鈍い衝撃が鳩尾辺りに走った。同時に、視界は急速に光を失い、薄暗く閉じて行くその中に、不意に赤い何かが飛んだ。それが自分の唇を染めて散った血だと気付いた瞬間、総司の意識は混沌と闇に落ちた。
宗次郎と、遠のく叫び声を聞きながら――。
土方は腕を組んだまま、じっと動かない。そうして、かれこれ半刻になろうとしている。目の前には書状が一通。達者な筆使いだった。目は、その一文字一文字を抉るように見ている。
漸く、土方が視線を上げた。
「数珠職人の女房とやらは、無事だったのだな?」
「はい」
不意の問い掛けに、山崎が答えた。
土方宛のこの書状が届けられたのは、夕暮れ近い頃だった。差出人は寺脇翔一郎。中には総司を預かった旨と、この先、新撰組は、何が起ころうと、小浜藩と其れに関わる者達に関与せず、守らなければ総司の命を貰うと記されていた。
数珠職人の女房、と土方が云ったのは、河原で寺脇に立ち向かった女の事で、解放され、己の小刀で喉を突こうとした処を、夫の達吉に救われた。田坂が手当てをしている事から、その顛末が土方の耳にも報告されている。女は、寺脇を逃し、総司が囚われた事への、責を負おうとしたらしい。
「そう云う教えを受けて育った女なのだろう」
やゑの正体を、そんな云い回しで土方は見抜いた。
「寺脇の奴、何をしようとしている…?」
そしてひとり呟くと、鋭く眸を細めた。そのまま暫く睨むように宙を見ていたが、やがて、
「四越市太郎を呼べ」
と、低く命じた。
「四越…ですか?」
問い返した声に、訝しさが交じる。
「出入りの商人を装い、供を一人連れて来いと伝えろ。背格好が俺と似たものだ」
はっと、土方を見る目が瞠られた。土方はその供の者と入れ替わって屯所を出るつもりなのだ。
「しかし敵は、この新撰組をも見張っている筈です。もし…」
山崎は一瞬云い淀んだが、すぐに躊躇いを捨てた。
「もし副長だと知れたら、沖田さんの命が危うくなります」
「総司は殺さない」
間髪をおかず、呻るような声が返った。
そのまま書状を鷲掴みざま立ち上がると、土方は荒荒しく障子を開けた。紙一枚で堰されていた寒気が、一気に流れ込んでくる。その膚を裂く様な冷気すら寄せ付け無い険しい横顔が、闇に浮かぶ。
「小癪な真似を、しやがって」
呟きが漏れた刹那、くしゃりと、震える拳が紙を握りつぶす音がした。
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