雪明り 十五



 体の芯まで冷たくするような小糠雨の午后、東山の麓にある従三位上林元篤の山荘に一人の客があった。

 豪壮な屋敷の中は寂と静まり返り、物音ひとつしない。そのしじまの中、脇息に凭れた元篤は、じっと襖絵を見ている。だがその目は、どこか空ろであった。
 長いこと無言でいた元篤が、漸く伝五郎に視線を戻した。
「…本当に、雪子は生きていたのか」
「はい」
「そうか…」
 伝五郎が頷くと、深い嘆息が漏れた。
「殺されたと思うたあの事件から逃れて、五年も京に居たとは…。殺戮者を怯え、さぞ辛い日々を送っていたであろうに、なぜ雪子は兄を頼ろうとはしなかったのか…。それほど、この兄が憎かったのか」
 悄然と、元篤は肩を落とした。そしてその姿に伝五郎は、時に人を陥れ、蹴落とし、そうやって権力も財力も手にしてきたこの男の唯一の急所が、溺愛していた妹姫である事を改めて思った。
「雪子さまと二人の御子の命を救ったんは、直江忠兵衛どした。小浜を逃れると、直江は、雪子さまを大原の外れにある寺に隠し、二人の御子は里子に出したんどす。散り散りにした方が追手から逃れやすい、そう思ったんどすやろうな。けど直江は、御子達から片時も目を離さんかったようです。兄の翔一郎の養家が没落すると直ぐに引き取り、暫くは自分で育てていました。その間、二人は京にいたそうどす。それは、すでに病が重くなっていた雪子様の為だったんどすやろなぁ」
「もうよい」
 訥々と語る声を、嗄れ声が遮った。
「伝五郎、我は今、雪子を看取った直江と、翔一郎と云う子が羨ましい。いや、雪子が我が身と代えて守った子達が、雪子の情愛を注がれていた子達が、恨めしく憎い」
「元篤様…」
「母子の情にまで嫉妬するとは、おぞましいものよ」
 低い自嘲が、厳つい口元から漏れ出た。
「人を想わねば、どれ程か、穏やかな心でおられよう。しかし一たび人を想えば、憎しみと嫉妬に懊悩する日々が始まる。幸福には苦しみが、喜びには哀しみが、いつも隣り合わせにある。そう知りながら、人は人を想い、自ら情炎に焼かれて行く…。何と、浅はかなものよ」
 長い指が、無骨な貌の片側を覆った。その元篤を寸の間、伝五郎はじっと見詰めていたが、やがて静かに口を開いた。
「元篤様」
 物憂げな視線が、伝五郎を捉えた。
「お受けしていた仕事、続ける事ができのうなりました」
「……」
「これ以上関わるなと、脅されました」
「脅し?」
「へぇ…。手の者がひとり、寺脇に立ち向かおうとしましたが、敵いまへんどした。その時、人質の命が惜しくば、手を引けと云われたそうどす」
「ほぉ…。さても伝五郎が脅しに屈するのか?」
 皮肉に、元篤は唇の端を上げた。
「お前はまだ一つの仕事もしておらぬのだぞ?我の元には一枚の裂(きれ)も戻っはおらぬ」
 伝五郎を睨む目に、鋭さが戻っていた。
「お叱りは幾らでもお受けいたします。けれどうちはもう、働けまへん。どんな宝も、人の命には代えられしまへん」
「つまらぬ理由じゃ」
 吐き捨てるように、元篤は云った。
「受けた仕事を、お前は放り出すと云うのか?」
「命は、尊いもんどす」
「見損のうたわっ」
 強い罵り声にも、伝五郎の口から言葉は返らない。元篤は溜息を吐いた。そして前屈みになっていた体を戻すと、目を細めた。
「お前が動かぬと云うのなら、他に手立ては幾らもある。二枚の裂は、既に直江達の手にあると分っておるのだ」
 元篤の言葉が終わるのを待って、伝五郎が目を上げた。その目が、鋭い光を湛えていた。
「元篤様」
「何じゃ」
 元篤が眉根を寄せた。
「直江を、そして寺脇翔一郎と浮島克利の兄弟を、どないにするおつもりですか?」
「お前には関係がなかろう」
「二人は、貴方様の甥になるのです」
「それがどうした」
「雪子様の血を引いておられるんどす」
「あの男の血ぃも、引いておるのやっ」
 苛立つように、元篤が叫んだ。
「我から雪子を奪った、あの男の血ぃやっ」
「それやから三十年前、酒井忠篤(ただあき)様を陥れはったのですか?」
「黙れっ」
 鋭い声が飛んだ。
「いいえ、黙りません」
 伝五郎は首を振った。
「今、昔の過ちを正さねば、また悲劇が繰り返されます。いえ、今度はもっと大勢の人間が不幸になります」
「何が云いたい、伝五郎」 
 蛇のように冷たい光を湛えた目がゆっくり細められ、伝五郎を射竦めた。
「もうこれ以上、誰も不幸にしてはならないと雪子様が云ってはる…、そう思うたんどす」
 伝五郎を睨みつけたまま、元篤は口を結んでいる。
「お父上の再婚で、突然できた妹君を、貴方様は大層可愛がられた。うちのようなもんの目にも羨ましい、それはそれは仲睦まじいご兄妹どした。…日ごと美しく成長される雪子様は、貴方様にとって掌中の珠だったんどすやろなぁ」
 伝五郎は柔らかな眼差しを、元篤に向けた。
「恨みを乾いた昔話にしてええほど、私らは年を重ねたんと違いますやろか?」
 元篤は無言でいる。
「うちは何とのう、直江を信じたいんどす。あの者なら雪子様を哀しませるような真似はせんと、そう思うんどす」
「耄碌したな、伝五郎」」
 元篤の唇の端が、皮肉に上がった。
「年貢の納め時ですやろか」
 皺の目立つ顔に、笑みが浮かんだ。
「三枚の裂は、いずれ帰ってきますやろ。帰るべき処へ、きっと帰ってきます」
「開き直るか」
 元篤の眉根が険しく寄った。その怒りを受け流すように、
「雪子様が、そうなさるような気がしますのや」
 伝五郎は微笑んだ。そしてその笑みを残したまま、
「もう二度と、お目にかかる事はありまへんやろ」
 静かに深く、頭を下げた。



 漆黒に塗り込められた闇の向うに、時折、揺らめくものがある。そこに微かに見え隠れする光を求め、進もうとするのだが、足が泥に埋もれているように重い。無理やり動こうとすると、今度は身体までが、ずるずると沈みそうになる。沼の底へと、まるで誰かの手が引き摺り込んでいるようだ。息ができない、その苦しさの中、もがきながら叫んだ。

「土方さんっ…」
「目が覚めたか?」
 呆然と、総司は瞳を見開いた。映し出しているのは、翔一郎の憂い顔だ。
「そう不思議そうに見るな」
 瞬きも忘れて凝視する瞳に、翔一郎が苦笑した。
「俺を忘れたか?」
 からかう様な声に慌てて首を振ろうとした、その刹那、不意に生臭いものが口の中に広がった。それが不快で眉根を寄せると、漸く、意識を失う直後の出来事が蘇った。
「私は…」
「血を吐いたんだ。少しだが」
「そうですか」
 息をすると、胸の辺りに痛みが走る。思わず身体を硬くして構えるような痛みだったが、おかげで、身の自由は確かめられた。縛られもせず、莚のようなものの上に寝ているらしい。だが刀も脇差も付けてはいない。思い切って手指を遠くへ伸ばしたが、そこにも刀は無い。ここに在るのは、どうやら身ひとつらしい…、そんな諦めの息を吐いた時、
「お前に聞きたい事がある、宗次郎」
 不意に声がした。視線を戻すと、厳しい面差しで翔一郎が見下ろしていた。
「いつからだ」
 その顔が、苦しげに歪んだ。
「……寺脇さん?」
「いつから病に冒されていたんだ、宗次郎。命を削ってまで、どうして新撰組にいるんだ」
 畳み掛けるように問う翔一郎の声は、憤りや哀しみを堪えきれずに時々掠れる。
「答えろっ、宗次郎っ」
 その翔一郎を、総司はじっと見つめていたが、やがて微かに笑った。
「こんな寺脇さん、初めて見た」
「何を云っている」
 涼しげな目元が、怒りに染まった。
「寺脇さんはいつも大人で、そして強かった。だからこんな風に怒る寺脇さんには吃驚だ」
「お前の事なのだぞ、宗次郎っ」
「分っています」
 叱咤されても、総司から笑みは消えない。
 総司は嬉しかった。自分を縛ったあの氷のように冷たい眼差しも、胸に空洞を抱えたような荒涼とした横顔も、全ては翔一郎の側面に過ぎなかった。翔一郎の芯にあるものは、いつも気高く、そしてこんなにも温い。今ここにいるのは、紛れもなく自分が信じていた翔一郎だった。その事が嬉しい。
「まだ治る、新撰組を離れるんだ」
 切々と説く翔一郎に、微かに、総司は首を振った。
「決めた事なのです」
「みすみす病に身を滅ぼされる事をか?」
「人の生き死には、天が定めるものです。私は、病で己の生を全うできるとは思っていません。それは新撰組にいれば、誰もが持たなければならない覚悟です」
 突き放したように淡々とした口調で云うと、総司は翔一郎を見上げた。翔一郎は暫く無言で総司を見ていたが、やがて、
「…土方さんか」
 呻くように呟いた。
「全ては、土方さんの傍らに居たいが為なのか?」
 翔一郎を見詰め、総司は頷いた。
「…たったそれだけの為に」
 遣り切れなさを押し殺した声が、くぐもった。
「それだけが、私には全てなのです」
 苦しげな表情を慰撫するように、青ざめた面輪に柔らかな笑みが浮かんだ。
「お前の見る先には、土方さんしか居ないのか?他の誰かでは駄目なのか?」
「そんな私など、考えた事がない」
 少しの曇りもない、澄んだ笑い声が返った。
「お前は莫迦だよ」
 遣る瀬無い息を吐いた翔一郎に、総司は微笑んだ。が、ふとその笑みを引くと、じっと耳を澄ませた。暫くそうしていたが、
「…水の音が聞こえる」
 やがて小さく呟いた。
「西高瀬川の瀬音だ」
「西高瀬川?」
「お前には馴染みが深い土地だろう?此処は壬生村の西だ」
「…壬生」
 総司の瞳に、懐かしい色が広がった。
「私は壬生に居るのですか?」
「そうだよ」
 頷いた翔一郎の顔を、仄かな月明かりが照らす。そこから高い位置に視線を這わせると、明り取りの小窓があった。その時になって、微かに、湿った匂いがする事に気付いた。
「ここは蔵ですか?」
 訊くと、
「商家の蔵だ」
 隠しもせず、翔一郎は答えた。
 総司は喉首を伸ばし、辺りを探った。
 壬生に新撰組が屯所を置いていた時に、辺りの地図や情報は十分頭に入れた。その中には、西高瀬側の運河を利用している商家もあり、そう云う家の蔵は川に面していた。更に目を凝らすと、荷は沢山ないが、蔵自体は相当広い事が判じられた。そこまで思った時、ふと閃いたものがあった。
「…浜屋」
 ひとり語りの呟きに、
「鋭いな、宗次郎」
 呆れたような苦笑が返った。
「当たりだよ、ここは浜屋の蔵だ」
「浜屋だったのか…」
 総司は辺りを見回した。

 浜屋は、壬生村の西の外れにある海産物問屋だった。敷地の北側は四条通に、南側が西高瀬川に面しており、川を使い荷を運んでいた。そして記憶に違いが無ければ、浜屋は小浜藩の用を足していた。

「この店も、寺脇さんの仲間なのですか?」
「仲間?」
「私を捕えた人達の事です。でも…」
 自問するように首を傾げたあと、
「何故、私は捕らわれたのでしょう?」
 くるりと、総司は翔一郎に瞳を向けた。
「お前に隠し事は出来なかったな」
 翔一郎は苦笑した。
「新撰組に…、いや、他の誰にも、我々の行動を邪魔させない為だよ」
「私はその為の人質なのですか?」
「当たりだ」
 暫く、総司は翔一郎を見詰めていたが、やがて思い出したようにあっと声を漏らした。
「そうだ…、あの女の人」
「女?」
「寺脇さんと立ち合っている時、私を援護してくれようとした女の人です」
「…ああ」
 今度は、少々困惑気な声が返った。 
「あの人を無事に帰してくれましたか?」
「そう矢継ぎ早に訊くな」
 少しばかり物憂げに、翔一郎は吐息した。
「約束は守ったよ」
「良かった…、つっ…」
 安堵の息を吐いた途端、綺麗な眉が顰められた。大きく吐いた息が災いし、胸に鋭い痛みを走らせたのだ。
「…宗次郎?」
 翔一郎の顔が曇った。その顔に、大丈夫だと伝えようとした瞬間、胸を焼き破るような熱い何かが、喉を焦がしせり上がってきた。そしてそれは、瞬く間に、激しい咳とともに唇から迸った。血だ、と判じ手で口を覆ったが遅い。咳は気の道を塞ぐように間断なく続き、苦しさに、敷いていた筵の端を、総司は握り締めた。
「宗次郎っ」
 鋭い声が一瞬遠くなる意識を呼び戻す。その声を何度か聞いた時、突然、重く軋む音がし、一筋の蒼い光が筵を握る総司の手を照らした。

「翔一郎?」
 朧な月明かりを背にした人影が、問うた。
「医者だっ」
 翔一郎が叫んだ。
「医者?」
 人影は、静かに訊き返した。
 その声が、総司の記憶の縁を打つ。
 浮島克利――。
 見詰める涼やかな眼差しが、蘇る。
 宗次郎っ、と、誰かが叫んだ。
 哀しげなその声は、翔一郎なのだろうか…。
 それとも、克利なのだろうか…。
 二つの声はひどく似ていて、総司を混乱させる。
 だがもう考える事はできない。
 力尽きて、総司は瞼を閉じた。
 すると声は急速に遠のき、やがてすべてが闇の底に沈んだ。
 



事件簿の部屋        雪明り(十六)