雪明り 十六
昨夜都に降り続いた冷たい雨は、山では雪になったらしい。早朝に雨は上がったが、天候の回復は捗々しくなく、まだ厚い雲が垂れ込めている。一度覚えた春の兆しがまたずっと遠のいてしまった、そんな感が、空の暗さと相まって心を重くする。突然、森の中から重い音が響いた。ぎりぎりまでしなった枝が、雪を落としたのだ。その音にも振り返らず、白い息を口辺に巻いて、八郎は足を急がせる。が、濡れた枯葉は、彼の足を思う様に運ばない。焦燥感に苛立ちが募る。
黙々と歩みを進め、漸く杉林を抜けたところで、不意に視界が開けた。すると程なく、桜の大樹を抱えた茅葺門が見えた。教えられた家だ。その瞬間、八郎は力強く地を蹴り、走り出した。
「何もありませんが、ぶぶでも…」
孫らしき少女の持ってきた茶を、老人は、穏やかな笑みを浮かべてすすめた。
「かたじけない」
「伊庭はんと云われましたか…?中也はんのご紹介どしたら、お話せんわけには行きまへんなぁ」
そう云うと、老人は悪戯っぽく笑った。
この見事な白髪の持ち主は、辺り一帯の庄屋の隠居で順三と云った。中也と云うのは、雲母漬屋の隠居の事である。総司が寺脇によって囚われてから手掛かりの無いまま二日が過ぎた今日、八郎は三たび中也老人を訪ねた。そしてそこで、気になる事を聞いた。昔、小浜の侍らしき男が、山里にある奥寺で、一時美しい女人を匿っていたと云うのだ。それが直接今度の事件に関わっているとは思えない。しかし小浜と云うのが引っかかった。今の八郎には、どんな些細な事でも手がかりに通じさせたい、その事しか心に無かった。
「早速ですが、教えて頂きたいのは、大原の奥寺に住んでいたと云う女人の事です。中也殿から、順三殿ならもっと詳しくしっているだろうと教えて頂き、伺いました」
「そうどすか、そうどすか…。けどそんなに昔の事を、なぜ今、お知りになられたいんどす?」
「人を、救い出す為です」
「ほう…」
驚きを含んだ目が、八郎を見た。
「その女の人の事をお話したら、救い出せるんどすか?」
「分りません。関係など無いのかもしれません。…いえ、その方が近いのでしょう」
「では何故?」
訝しげに、順三は問うた。
「じっとしては居られないのです。囚われている者を救い出す為に、例えそれが愚かな徒労に終ろうと、私は動かずにはいられないのです」
そう云って見詰める双眸は、一点の曇りも無く静かに澄んでいた。その八郎をじっと見ていた順三だったが、やがて小さな笑みを浮かべた。
「救い出したいんは、大事なお人なんどすなぁ…」
八郎は、黙って頷いた。
「分かりました。そないに真剣な顔をされはったら、うちも本気でお話せないかんと云う気持ちになります。…そうどすな、あれはもう、二十年以上も昔になるんどすなぁ。うちが四十の声を聞いたばかりの頃どした」
遠い歳月を手繰り寄せるように、順三は宙に視線を置いた。
「奥寺は、かつては朱鷺司家の別荘だったと云われてます」
「ときつかさ?」
「へえ。一時は帝の縁にも繋がっていたお公家はんだそうどす。今はあまり名前を聞きまへんけどな」
やんわりとした口調が、一族の盛衰を物語った。
「その奥寺に人が住み始めたと知ったんは、偶然どした。あれはほんまに暑い日やった」
順三は、少しばかり顔を顰めた。
「娘の婚礼を秋に控えたうちは、奥寺の近くに在るお不動はんまでお参りに出かけたんどす。その日が二十八日で、ちょうどお不動はんの日どした。帰り道に寺へ寄ったんは、あそこにええ水脈を持つ井戸があったからどす。その冷たい水が、早よう飲みとうて飲みとうて…」
声に、自嘲するような笑いが交じった。
「ようやっと辿り着いて、枝折戸に手を掛けた時どす。人の居ない筈の寺から、声が聞こえて来ましたのや。若い女の、品の良い柔らかな声どす。うちは信じられまへんどした。と云うのも、その少し前、あの辺りに賊が出て、寺へ行く者もお不動はんに行く者も、ぱたりといなくなっていたんどすわ」
「賊?」
「旅の途中らしき侍が三人、斬られて骸になったんどす」
そっと耳打ちをするように、順三は声を潜めた。
「うちかて、娘の願掛けがなければ、お不動はんへは行きまへんどしたやろ。小浜へ続く街道云うても、人家が途絶えれば、昼かて寂しい峠道どすからな」
「小浜…」
思わず反復の呟きが漏れた。その地を、改めて人の言の葉で紡がれれば、今の八郎の胸には重く響く。
「うちは急いで枝折戸を開け、中に入りました。寺で休んでいるのならば、物騒やから一緒に里に下ろうと云うつもりだったんどす」
八郎は微動だにせず、順三の口元を凝視している。そこから発せられる一言一句も聞き逃すまいと、目には真剣な光が宿っている。
「おったのは、おなごが二人どした。突然現れたうちに、二人は驚いたように言葉を止めました。けど一人が素早く動いて、もうひとりを隠すように、うちの前に立ちはだかりました。ところが驚きに立ち竦んだのは、うちの方どした。肩越しに見えたおなごの美しさに、息を呑んだんどす」
順三の語尾に、ふっと恍惚感が混じった。しかしそれは一瞬の事で、すぐに順三は大きく目を見開き、それを八郎に向けた。
「その時どす。険しい顔をした侍が走って来て、うちの前で刀を抜いたんどす。あれが殺気と云うんですやろな、斬られるっ、と思っても体が動きまへん。咄嗟に目を瞑りました。けど直江っと、声がして…」
「直江?」
八郎が、鋭く声を上げた。
「へえ、そうどす。直江はんは、しかし雪子様…、と云わはりましたが、雪子様は、斬ってはなりませぬと毅然と云うて、うちの命を救ってくれましたのや」
「ご老人」
高鳴る鼓動を抑えながら、八郎は訊いた。
「その直江と云う者の、姿形を覚えておられるだろうか?」
「忘れるわけがありまへん」
顔の前で軽く手を振ると、
「あないに怖い思いは、後にも先にも一度きりどすわ」
順三は苦笑した。
順三老人が語り終えても、八郎は凝然とその口元を見詰めている。大きな衝撃が、言葉を奪ってしまったのだ。
直江は、直江忠兵衛だった。しかもその後も、幾度か幼い子供を連れた直江が、寺に向かう姿を順三は見ていた。それは多分雪子の子だろうと、順三は推測した。そしてある寒夜、雪明りだけが頼りの道で、彼はその子供の事を翔一郎と呼んだ。寺脇翔一郎に間違い無い。寺脇と直江は、昔から、或いは寺脇出生の時から、かなり親密な間柄だったのだ。だが彼らにとって、その日が最後の訪問になった。雪子が亡くなったのだ。そして時が廻り半月前、二十数年を経て再び、街道を行く直江の姿を順三は見た。その後を追う、一人の若い武士の背と共に…。
「実は、この話しをしたのは、伊庭はんだけや無いんどす」
体を乗り出すようにして、順三が打ち明けた。
「と云うと?」
長い沈黙の後の声が、少し掠れた。
「先日、あるお方の紹介で、若い仏師はんにも話しをしたんどす」
「仏師…」
そう呟いた途端、八郎の脳裏に、雲母坂を下って行く細身の背が蘇った。山崎が護足衆と見当をつけ追っていた若者だ。
「もしやその者、達吉とは云いませんでしたか?」
「そないな名前やったかもしれまへんなぁ。静かな物言いのお人やったけれど、目は中々に鋭おした」
達吉に間違いは無いと、八郎は確信した。
「けど、そのお人には話していない事がありますのや」
訝しげな眼をした八郎に、順三は悪戯そうな笑みを浮かべた。
「直江はんには二度と来てはならないと云われましたけど、うちはその後も、野菜や木の実を持って、何度か寺へ行きましたのや。朝早く、枝折戸のところへ篭を置いて帰って来る、それだけで満足で幸福どした。…そんな事を繰り返していた或る日の朝、何と、雪子様が枝折戸の前に立っておられたんどす」
悠長に語っていた声が、不意に華やいだ。
「それから寺の庫裏に招かれ、お茶をごちそうになりました。…天女のような雪子様を前に、うちは頭がぼおーとしてしもうて…。こないな年寄りになっても、あの時を思い出すと、気持ちは昂ぶります」
「ではそれからも、行き来が?」
「いいえ」
順三は、寂しげに首を振った。
「雪子様は、自分に関わると命が危のうなる。もう来てはなりませぬと、そう云われました。その事を伝えたかったんどすなぁ」
「追われていたのでしょうか?」
「最初の時の直江はんの形相と云い、違いないと思います」
「そうでしたか」
「けど毎朝、うちは街道の奥へ向おて、手を合わせていました。どうか、今日も雪子様がご無事でありますようにと、恙無くお健やかで過ごされますようにと、裂が守ってくれはりますようにと…」
「きれ?」
聞きなれぬ言葉に、八郎は眉を寄せた。
「へえ、裂どす」
穏やかな微笑が、皺の多い頬に広がった。
「帰り際、ふと視線を遣った弥勒菩薩の脇にあった、古い織物に目が留まりましたのや。気付いた雪子様が微笑まれて、それは昔、貴人が写した経典を巻いてあったもので、そう云う昔の布の事を、裂と云うのやと教えてくれはりました」
「初めて耳にしました」
「そうどすやろ、そうどすやろ」
順三は満足げに頷いた。
「裂は雪子様が母上様から貰ろうたもので、御守り代わりなんやと、そないに云うてはりました。けどその時、裂を見る雪子様の顔に浮かんだ哀しい色を、うちは忘れられませんのや」
ため息のように、順三は声を落とした。
「何か憂いがあったのでしょうか」
「深い心配事が心におありでしたのやろ。だからお守り代わりの裂を見て、縋るような気持ちになったんと違いますやろか。…それがうちには、哀しそうなお顔に見えたんやと思います」
「なるほど…」
頷きながら、しかし八郎にはどこか蟠るものが残った。だが今はその事に固着している時では無い。
寺脇翔一郎と直江が近しい間柄だと分った事は、思いもよらない収穫だった。小浜藩での直江の過去を調べてみれば、更に何かが分かるかもしれない。八郎の心は、既に二条城南の小浜藩京屋敷に向かっていた。
「ご老人、お暇を取らせた。礼を云います」
「何の、何の。お役に立つどころか、昔話で終わってしもうて…」
順三は、申し訳なさそうに目を瞬いた。が、八郎が腰を浮かせると、
「そうそう」
思い出したように云った。
「裂には、崇徳上皇はんが写された経が巻かれてあったそうどす」
八郎の視線が、見上げる順三のそれと重なった。
「お女中の美羽はん…、最初に雪子様を庇われたおなごはんですが、その美羽はんが教えてくれはりました。雪子様の義理の兄上は公家の上林元篤卿、もし直江はんと自分に何かがあり雪子様がお一人になったら、そこへ走って欲しいと頼まれました。上林家は、きっと雪子様を守ってくれはる筈だからと」
「雪子様のご実家は公家だったのですか?」
黙って、順三は頷いた。
「さっき話した寺の持ち主の、朱鷺司家。それが、雪子様の母上様のご実家で、母上様は雪子様を連れ、財力のある上林家の前の当主に再嫁されたそうどす。美羽はんは、朱鷺司家の頃から、雪子様の遊び相手としてお仕えしてはりました。…その美羽はんどすが、今も生きて嵯峨野の尼寺にいはります」
居住まいを正した八郎に、順三は静かな口調で告げた。
「何故、私にその事を?」
「うちには、雪子様の憂いが何だったのか、それは分かりまへん。けど、雪子様はその憂いを持ったまま、あの世に行かはったような気がします。そして今、直江はんが再び現れ、伊庭はん、そして達吉はんが昔の事を訪ねて来はりました。何かが動き始め、そして雪子様の憂いが現のものになろうとしている…、そんな気がしますのや。雪子様のお顔が曇ってなさる。せやから、伊庭はんに、その憂いを晴らして差し上げて欲しいのどす」
順三の目が、じっと八郎を見詰めた。
「うちが雪子様に抱いたものは、紛れもない恋どした。妻も子もある男が、ええ歳をして、分別も忘れて、生まれて初めて焦がれるような恋を知ったんどす。けどうちの臆病な分別は、穏やかな暮らしが壊れるのを恐れて、どうせ実らぬ恋やと自分に云い訳し、その恋を心の裡に仕舞うほか無かった。重い、重い蓋を、幾つもかさねたんどす。それでもうちは今もまだ、朝に晩に街道の向うを見、雪子様を想うんどす。人を想うとは、何と業の深い事どすやろか…」
自嘲するような、くぐもった笑いが漏れた。だが直ぐにその笑いを引くと、順三はすっと目を細めた。
「なぁ、伊庭はん、うちが今、何もかも打ち明けたんは、生涯に一度だけの恋に、一瞬、全てを捨てようとしたあの時の自分と、あんたはんが同じ目をしてはるからどす」
「……」
「激しゅうて、激しゅうて、苦しみかて哀しみかて食い浚って、もっともっと高い炎にしてしまうような、強くて激しい目をしてはる。一途に激しゅうて、失くすものも無い、恐いものもない。せやから潔う澄んでいる、そう云う目を、今のあんたはしてはる」
昂ぶりを内にした声が、静かに鎮まって行き、そして、 「大事なお人が、無事に帰って来るとええなぁ…」
順三は、語尾を細い吐息に変えた。
その順三に、八郎は、低くこうべを垂れた。
夕方から降り始めた細い雨は、日暮れて雪になった。廊下に出た途端触れた冷気に、思わず身震いしたその時、玄関の方で小さな音がした。びくりと体を硬くして、キヨは耳を澄ませた。するとすぐに、おとないを立てる男の声が聞こえた。低く、良く透る声だった。
「誰やろ…」
聞き覚えの無い声に少し不安を覚えながらも、キヨは踵を返した。
薄暗い三和土に、その男は佇んでいた。手には、差して来た傘を持っている。
「どなたはんどすか?」
用心深く、キヨは問うた。
「直江忠兵衛と申します」
怪訝な顔で立ち尽くすキヨに、
「昔、ある事件でこちらの先生にお世話になった者です。…あの時は、キヨ殿にもご足労をかけました」
男が笑った。その笑い顔が、キヨの記憶の淵にぽつんと、小さな滴を落とした。しかしその小さな水輪は、みるみる間に幾重にも広がり、やがてひとつの鮮明な像となった。ごくりと、キヨの喉が鳴った。瞬きを忘れて凝視する脳裏に、三十年前の真夏の夜の出来事が、まざまざと蘇る。静まり返った寺の中を、先に立って案内した若い男の顔が、時を遡って今目の前にあった。
「あん時の…」
ようよう絞り出した声が、震えた。
「思い出して頂けましたか…。その節は、貴方にずいぶん恐ろしい思いをさせてしまいましたが、まさかもう一度お会い出来る日が来るとは、夢思いませんでした」
直江は目を細めた。
「あの…」
「何でしょう?」
躊躇いがちな小さな声を拾い、直江は首を傾げるようにした。
「怪我をされた役者はん、あれからどないしはりましたやろか?」
そう訊いた時、キヨの目はもう怯えていなかった。
「残念ながら亡くなりました。こちらの先生に治療をして頂いた後、暫く里で静養していたのですが…」
一瞬、直江の顔に苦渋の色が浮かんだ。その時、キヨの後ろに人影が差した。
「その里とは、小浜でしょうか?」
問うたのは、手燭を持った田坂だった。
「田坂先生ですか?」
穏やかな声音が、薄闇に響く。無言で頷いた田坂に、
「診療所の評判を耳にするたび、一度お目に掛かりたいと思っていました」
直江は微笑した。
「今度は私が、怪我人を診る為に呼ばれるのですね」
「いえ…、病人なのです」
「まさか…」
眉を顰めた田坂に、直江は憂い顔で頷いた。
「診ていただきたいのは、貴方の患者です」
「沖田はんっ」
悲鳴のように、キヨが叫んだ。
「私と一緒に来て頂けますか?」
直江は、じっと田坂を見詰めた。
「支度をしましょう」
短く告げると、田坂は身を翻した。
胸に激しい焦燥を抱えながら踏みしめる廊下が長い。
「待っていろよ…」
我知らず漏れた呟きが、もどかしい脚を呪うように低い呻きになった。
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