雪明り 十七
ちらちら舞い始めた雪が、昼を過ぎると本格的になった。床は氷を踏んでいるように冷たく、体の芯まで震えさせる。
今年は春が遅いかもしれない…。
炭入れを抱え直すと、おなみは、低く雲の垂れ込めている空を見上げた。脳裏には、たった今会話を交わしてきた土方の姿がある。
市太郎が土方を連れてきて、三日が経つ。その間、土方は一歩も外に出ず何かを待っている。時折、訪ねて来る者はあるが、用心をしているらしく、誰にも姿を見せない。市太郎もいつもと変わらず店に出、商売に励んでいる。市太郎が詳しい事情を話さないのには、それなりの理由があるのだろう。だからおなみも聞かない。それで良いと思っている。が、時が経つにつれ、土方の顔に厳しさが増してきた。頬が少し削げ、その分目に宿る光が険しくなった。きっと、難しい事件を抱えているのだ。
早う、解決するとええんやけど……。
おなみは、小さく吐息した。その時、ふっと人の気配が差した。咄嗟に視線を向けると、黒い人影が、滑るように離れに入って行くところだった。思わず息を詰めたその時、
「伝吉さんだよ」
今度は反対の方角から声がした。びくりと体を硬くして振り向くと、市太郎が立っていた。
「あんさん…」
驚いたように見上げたおなみに、
「優弥が、おっかさんを待っているよ」
市太郎は柔らかな眼差しを向けた。
「それにこんな所に立っていたら、おなみちゃんが風邪を引いちまう」
寒そうに、市太郎は顔を顰めた。
「ほんまどすな」
おなみは微笑んだ。市太郎は土方に用があるのだ。その事を暗に察し、
「ほな、行きます」
止めていた足を、おなみは踏み出した。
おなみが角を曲がって消えるのを見届けると、市太郎は、離れに目を向けた。そして心持引き締めるように唇を結ぶと、沓脱石の草履を履いた。
「伊庭さんが、田坂さんの診療所を出たそうです。今使いがありました」
端座し、羽織の裾を払って土方に向き直ると、市太郎は云った。
「東山の上林邸には、ご所望の呉服をお持ちすると伝えてあります」
「世話をかけた」
土方が、目を伏せた。
「どうって事はありません。それで沖田さんの行方は分かったのですか?」
「まだだ」
「まだ…?」
市太郎は眉をひそめた。
「上林に問い質せば、それが分かるんですか?」
「分からん」
「それじゃぁ土方さん、貴方は一体何の為に上林の屋敷に踏み込もうってんですか?」
土方を見据えていた目を細めると、
「貴方はまさか、傲慢な自信だけで沖田さんを救えると思っているんじゃ無いでしょうね。だとしたら、沖田さんも可哀想なもんだ」
吐き捨てるように、市太郎は云った。
「四越さんっ…」
腰を浮かせた伝吉を、
「よせっ」
土方が制した。
「あんたの云っている事は尤もだ。今俺がしようとしている事は、傍から見れば博打も同然だ」
「博打でも何でもいいんですよ、あたしが訊きたいのは、それで沖田さんが救えるかどうかって事です。その博打、勝てるんですか?勝つと云わなけりゃ、ここから出しません」
寸の間、重いしじまが二人を包んだ。微動だにしない市太郎を、土方はじっと見ていたが、やがてゆっくり口を開いた。
「負けたら、総司の命は無いだろう。だがそれで、あいつも恨みはしないだろうよ」
そう云い終えた目に、己を邪魔する者には容赦なく牙を?く、餓えた獣のような猛々しさが宿った。
その目から視線を逸らさず、
「分かりました。けれどね…」
少し顎を上げるようにし、市太郎は云った。
「あたしは、それで承知した訳じゃありません。貴方にとって沖田さんがどんなに大切な人かは知っているつもりです。沖田さんも、貴方が決めたことに、喜んで従うでしょうよ。でも、自分のやる事には、沖田さんは文句を云わないからいいんだって云われても、あたしには納得が行かないんですよ。あたしにとっても、おなみにとっても、沖田さんは大切な人なんだから」
睨み付けるようにして語る市太郎を、土方は黙って見ている。
「だからね、約束をして下さいよ、沖田さんを助けるってね。残された者は、その約束を心の拠り所にして、待っていられるんですよ」
「確かな約束はできない」
正直すぎる不器用が、市太郎にため息を吐かせた。
「困った人だ、嘘の一つもつけやしない。…でも土方さん、あんた命がけでしょ?」
「他に賭けるものが無いからな」
ようやく苦く笑った答えに、
「当てにもならないけれど、他になけりゃ、仕様が無いでしょうよ」
諦め混じりの憎まれ口が返った。
今、市太郎の目の前にいる男は、一見だけなら、十分お店者で通る。しかし少し見ていれば、その身に纏う、市井に生きる人間とは遠くかけ離れた鋭い気を、人は感じざるを得ないだろう。土方歳三と云う男をそうしてしまったのは、新撰組を支えるようになってからの歳月なのか、或は土方自身が、己をそう処して生きてきたのか…。そんな事を思いながら、市太郎は、出来上がった土方を見上げた。
「よくお似合いですよ」
「こんな物騒な人相の者を雇っていては、四越も商売あがったりだろう」
苦笑した土方に、
「そうですね、お店に出てもらっちゃ困るかしら?」
市太郎も笑った。その時、障子に影が差した。
「旦那さま」
声は、番頭の種吉だった。
「お入り」
「はい」
種吉は頭を低くして障子を開けたが、土方を見ると、驚いたように目を瞠った。
「用事があったんだろう?」
促されて、
「あっ、はい、駕籠の用意ができました」
慌てて、種吉は用件を告げた。
「そう云う事です、土方さん」
市太郎は、土方に視線を向けた。土方が頷くと、部屋の片隅にいた伝吉が、すっと立ち上がった。
敷居を跨ごうとした土方を、
「土方さん」
静かな声が呼び止めた。振り向いた土方を、市太郎は顔だけ回して見上げた。
「あたしはね、いずれこの世の中は、武士も町民も無くなると思います」
無言の土方に、市太郎は眼を細めた。
「それでね、そうなったら、武士なんざさっさと止めて、沖田さんに病を治して欲しいと思っているんですよ。そう云う日が一日も早く来ればいいと願っているんです、心底ね」
しばらく、土方は市太郎を見詰めていたが、やがてそれが返事のように、微かに目を伏せ踵を返した。
遠くなって行く気配を、市太郎はじっと耳で追う。そしてそれがすっかり消え去ると、
「出かけますよ」
ようやく種吉を振り返った。
「…あの、どこへでしょうか?」
おずおずと尋ねた声に、
「そこかしこの神社ですよっ。神頼みじゃ当てにならないけど、他に無いんだから仕方がないわよっ」
苛立った声が、八つ当たった。
清水寺に続く坂の途中を脇に逸れると、土方は駕籠を捨てた。これから先は、上林邸への一本道になる。
昨日、八郎が大原で、翔一郎の母が上林元篤の妹だった事をつきとめて来た。更に市太郎の話から、浮島克利が上林の屋敷を窺っていた事が分かっている。そして昨夜、直江が田坂邸に現れ、同道した田坂が帰らない。
上林元篤が、何かを握っている――。
それは勘だったが、焦燥と苛立ちに駆り立てられた土方を突き動かすには十分だった。
濡れた落ち葉を踏みしめ暫くすると、小山のような森を背景に、豪壮な屋敷が現れた。それが、従三位上林元篤の屋敷だった。この屋敷を訪れるのは初めてではない。嘗て岩村藩絡みの事件を解決するため、元篤に面会している。
屋敷の裏口に回ると、やはり傘を持たない先客がいた。八郎だった。
「珍しい恰好をしているじゃないかえ」
八郎の唇の端が上がった。
「四越を出るとき、俺だと分かれば迷惑がかかる」
「今更だろう」
遠慮の無いいらえに、ちらりと視線を送っただけで、
「中の気配は?」
土方は堅牢な土塀を見上げた。
「物音ひとつしない」
それに倣って、八郎も視線を上げた。
「上林だけが居ればいい」
低く呟くと、土方は木戸を叩いた。
人の気配も無い屋敷だったが、裏口からのおとないは分かるように出来ているらしく、暫くして、人の足音が近づいてきた。一瞬、土方は八郎に視線を流したが、すぐにそれを戸へ向けると、
「ご注文を頂いていた呉服を、持って参りました」
慇懃な物言いで声を掛けた。
中庭に面した広い続きの間に通され程なくして、上林元篤は姿を現した。が、二人の姿を見ると、つと動きを止め顔を歪めた。しかしそれも僅かな間のことで、又ゆるりとした動きで座に着き脇息に凭れた。
「久しぶりだの、土方。お前が呉服屋になったとは知らなかった。山に籠っていては、世情の面白きもとんと耳に入らぬ」
くぐもった笑いのあと、
「後ろの者も、新選組か?」
元篤の目が、じっと八郎に注がれた。
「旗本の、伊庭八郎と申します」
「新撰組と、旗本…。どちらも好かぬ」
露骨に顔をしかめた元篤に、
「卿が好まれるのは、金と聞いております」
土方は笑い顔を向けた。一瞬、大造りの目に瞋恚の色が湛えられたが、
「ほう…。ならばお前は我を喜ばせるものを持ってきたのか?」
その目が、嘲笑うように土方を見下ろした。
「はい、卿が今最もお望みのものを…」
「大層な自信よの。我が望むものが、お前に分かるのか?」
「例えば…」
土方は言葉を切ると、
「雪子姫のお形見の、裂とか…」
ゆっくり続けた。
斜めに見上げた視線の中で、元篤の顔がみるみる強張るのが分かった。それを眸に収め、土方は、運が己に向いたのを確信した。
「卿」
言葉を挟んだ八郎に、元篤が視線を遣った。
「裂は、雪子姫を連れ上林家に嫁ぐ妹に、兄の朱鷺司卿が贈ったものだと聞きました。政略結婚の道具に使う事への、せめてもの償いだったのでしょう」
「それがどうした、上林と朱鷺司では釣り合わぬとでも云いたいのか」
鋭い一瞥が向けられた。
「これは…、言葉が過ぎました」
その挑発を、軽い笑みを湛え、八郎は受け流した。
「お母上から受け継いだ裂を、あるご事情から大原の寺にお隠れになってからも、雪子姫は大切にしていらしたそうです」
元篤はじっと聞き入っている。しかしその厳しい眼差しは、八郎が何を云わんとしているのかを、見定めているようでもあった。
「ところで、裂ですが…。探しているのは、卿だけではありませんでした」
「人の家のものを探すとは、盗人猛々しい」
じろりと、元篤が睨んだ。
「探しておられるのは、お上です」
「それがどうした、我が驚くとでも思ったか?」
その人の名を告げても、元篤から不敵な笑みは消えなかった。
「卿が驚かれぬのも、当然の事。何故なら、卿が裂を探し始めた切欠は、お上が崇徳上皇の鎮魂の為に、彼の裂を求めておられるのを知ったからです」
静かに、八郎は語った。その胸の裡には、一日と云う短い間に此処まで情報を収集して来た山崎と伝吉の、苦労の一片も無駄すまいと云う強い思いがある。その八郎を見る元篤の目が、ふと細められた。
「旗本と云ったか…。最初からお前に探させた方が、早かったようや。護足衆など、何の役にも立たぬ」
つまらなそうに、元篤は呟いた。そして土方に視線を移した。
「土方、我の望みは、今聞いたとおり崇徳上皇の経を巻いてあった裂や。その三枚の裂を全て我の手に取り戻せると、お前は云うのか?」
嘲笑と、そして探るような色を湛えた双眸が、土方を捉えた。
「それがお望みならば…」
「それが、望みや」
すっと、元篤の顔から笑みが引いた。
「ではその報酬、先に頂けますか?」
「何やと?」
「まさか我々にただ働きをせよとは、卿も申されませぬでしょう」
土方は笑みを浮かべた。しかし感情の一片も無いそれは、整った造作をより冷たい印象にしたに過ぎなかった。
「正直を申しましょう」
その顔のまま、土方は続けた。
「我々は、雪子様の子である寺脇翔一郎…、つまり卿の甥にあたる者達に、人質を取られています。その人質を救い出すために、寺脇たちが今何処にいるのかを知りたい。卿のお知りになられている事を全て、教えて頂きたいのです」
「人質人質と、みなようも勝手な事を…。我には関係が無い話や」
忌々しげに吐き捨てると、元篤は視線を逸らせた。
「そうでしょうか」
その元篤を、土方は射竦めた。
「讃岐に流され、彼の地で朝廷を恨みながら憤死した崇徳上皇の祟りは、百年を節に繰り返されると、宮中では恐れられて来ました。先年、蛤御門が長州勢に焼かれたのも、奇しくもその百年目。宮中は騒然となりました。その様子を目の当たりにし御心を痛めたお上は、崇徳上皇鎮魂の為の霊廟建立を決意されました。その今、上皇の写経を巻いてあった裂が見つかれば、お上はさぞお喜びになるでしょう。そして裂を献上した貴方様は、今よりも更に力を得る事が出来る。だからこそ、時を経て、貴方様は裂を探し始めたのです」
宙に視線を止めたままの横顔を、土方はじっと凝視している。
「卿、我々には、時がありません。貴方様がこの取引に乗らぬと申されるのならば、次の手段を考えるのみ」
「ほう…」
ちらりと、元篤の目が動き、
「えろう強きやな」
公家にしては頑健な感のある口元が、皮肉に笑った。
「裂の経緯を知れば、欲しい公卿大名は数多いるでしょう」
向けられた険しい顔を、土方は見澄ませた。
勝負は、これからだった。
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