雪明り 十八
屋敷の内に、凍らぬ細川(ささらがわ)があるらしい。やがてそれは鹿威しに至り、ぽんと、空を抱いたような音が跳ねる。
「もし裂を取り返せねば、お前はどうするつもりや?」
元篤が土方を睨んだ。粘るような物云いが、公家言葉よりも余程自然だった。
「卿の御心のまま、如何様にも。…貴方様の力を持ってすれば、私一人、いえ新撰組の取り潰しなど、雑草を踏みつけるが如きに然も無き事」
顔色ひとつ変えない土方に、
「大層な自信やな」
元篤は目を細めた。
「御上は、会津の中将に信頼を置いておる。その中将が後ろ盾になっている新撰組の副長が、御上の望んでおられる裂を、みすみす敵に奪われてしもうた。しかもその理由は、人質大事の私情に走ったが故…。武士が聞いて呆れる、情けない話やの。中将の面目は丸潰れや。いや、あの堅物の中将や、責任を感じて己の腹を切るかもしれんの。それも面白い」
不敵な笑みが、厚い口元に浮かんだ。その顔を八郎に向けると、
「しかも証人は旗本や、愉快、愉快」
元篤は声を立てて笑った。
「では、取引は成立と云う事で宜しいでしょうか?」
まだくぐもるような笑いを納めない相手を、土方は冷めた目で見た。
「ええやろ。何を聞きたい」
「先ずは、寺脇翔一郎、浮島克利兄弟の出生から…」
元篤は、ふん、とひとつ喉を鳴らした。
「母親は我が妹雪子、そして父親は酒井直篤。前の小浜藩藩主、義篤の兄や」
「兄…?」
訝しげに繰り返した土方に、
「そうや」
元篤は顎を引いた。
「直篤と義篤は双子の兄弟や。双子は家の騒動になると、忌み嫌う。そこで酒井家では、二人が生まれるとすぐ、弟の義篤を領地の外れの寺に預け、藩の備忘録には、存在すら記さなかった。しかし直篤は、長じるに従い狂気の片鱗を見せるようになったのや。やがて酒井家を継ぐと気鬱の病も重なり、見かねた重臣達が、密かに京都で療養させる事にした。領内にいては、どんな噂が漏れるか分からんからや。が、皮肉な事に、その京で、直篤は殺傷沙汰を起こしてしもうた。酒井家の慌てようは気の毒な程だったぞ」
語り終えて細めた目の奥に、冷ややかな笑いが覗き見えた。
「その後、直篤さまはどのように?」
「事件のあった直後、闇に紛れて京を出、小浜に帰った後は暫く幽閉されていたが、やがて殺害されたらしい。その間に、国家老どもは、双子の弟義篤を藩主にすり替え、全てを闇に葬った。…我が知っているのは、それだけや」
吐き捨てるように云って他所へ反らしかけたその目が、
「お二人は…」
ふと掛かった声に、動きを止めた。
「直篤様と雪子様は、どのような切欠でめぐり会われたのでしょう?」
土方を見る元篤の顔に、動くものがあった。それは露わな憎悪だった。
「少し、お伺いしたくなりました」
口辺に笑みを浮かべると、土方は、元篤の心の襞にするりと忍び込んだ。
「曼殊院で催された歌会や。雪子を見た直篤は、その場で心を奪われた。そして雪子の優しさは、己の狂気を恐れ怯える直篤を放っておけなかったのや。雪子の清らかな魂に触れ、直篤にも笑顔が戻るようになった。が、狂人は狂人。結局直篤はあのような事件を起こしてしもうた」
「先ほどの、刃傷沙汰ですね」
「そうやっ」
不快そのものの声で、元篤は答えた。
「しかも直篤は、雪子を無理やり拉致して小浜へさらってしまったのや」
眉間に深い皺を刻み、元篤は唇を噛みしめた。しかしその時。
「そうでしょうか?」
今度は八郎が、少々怪訝そうに首を傾けた。
「私は、雪子様がご自分の意志で小浜に行かれた…と、すっかり思い込んでおりました」
「我が嘘を云っていると申すのか?」
鋭く、元篤は八郎を睨んだ。
「ご気分を害されたのなら申し訳ありません」
表情を緩めて、八郎は微笑んだ。
「もし卿の仰る通り、雪子様の小浜行きが強制的なものだったとしたら、直篤様ご逝去後の雪子様の行動が、どうにも私には腑に落ちないのです」
「どう云う事や」
「幽閉されている間に、二人は双子を授かりました。寺脇翔一郎と浮島克利です。そして雪子様は、直篤様が密殺されるその時まで、小浜を離れませんでした。そのような事実に触ればこそ、あの刃傷事件の夜、雪子様は自ら直篤様を追って小浜に行かれたのだと、直篤様への強い想いが雪子様を突き動かしたのだと…、私には思えるのです」
「見て来たような創り話やなっ」
元篤の声が烈しい苛立ちに染まって行くのを覚えながら、
「愚か者が見る、夢物語でございます」
八郎は、唇の端に笑みを浮かべた。
「ところで…、私にはもう一つ不自然に思える事があります」
元篤は答えず、物憂げに目を閉じた。
「事件の後、小浜を逃れた雪子様は、ようよう辿り着いた大原で五年の歳月を過ごされました。その間、小浜からの討手を警戒しない日は一日も無かった筈。危険から遠ざける為に、御子達までをも手放されました。ですがもし、もしも貴方様に頼れば、その危険はことごとく回避できたのです。お子達と共に、貴方様の庇護のもと、安寧の日々を送ることができた。しかし雪子様はそれをしなかった。…何故でしょう?」
「知らんっ」
横を向いたまま、ぴしゃりと断つような声が返った。それに怯む八郎ではない。
「それは、雪子様にとって貴方様が、警戒しなければならない存在だったからではありませんか?」
容赦なく問い詰める八郎に、
「我は雪子の兄ぞっ」
元篤は色を為し、大声を上げた。
「存じております、その兄上を遠ざける理由はただ一つ。憎しみです」
「黙れっ」
「当たり、のようですな」
「黙れっ、黙れっ」
鬼のような形相で、元篤は烈しい怒声を浴びせる続ける。その元篤を映す八郎の双眸が、冷ややかに細められた。
「卿、お鎮まり下さい」
静かに、土方が云った。
「卿と雪子様の間に何があったのか…、それは我々には興味の無い事。我々が知りたいのは、直江達の目的と居場所、ただそれだけなのです。今伊庭が申した失礼の数々も、その手がかりになると踏んでの事。卿は、まだ我々に全てをお話になってはいません」
元篤は目を剝き出しにしたまま、真一文字に口を結んだ。
「我々は、必ず貴方様の裂を奪い返します」
じっと見つめる目に挑むように、元篤は土方を睨んでいたが、やがて、
「役者を斬ったのは、直篤ではない」
しゃがれた声で云い放った。
「では誰が?」
「我が放った刺客や」
「卿が…?」
土方は眉を顰めた。
「何故そのような事を」
「直篤が、我から雪子を奪ったからやっ」
幽鬼のように顔を青くし、元篤は声を迸らせた。
「雪子と直篤を引き離そうと、我は必死だった。そして時を同じくして、小浜の重臣達は、直篤の狂気に頭を抱えていた。そこで我は重臣達に、直篤を密殺し弟の義篤にすり替えると云う知恵をつけてやったのや。酔った直篤の盃に薬を盛り、夢うつつにした所で刺客が役者を斬り、直篤の手に刀を握らせる。目を覚まし、己の手が握る血刀と倒れ伏す役者。直篤は混乱し、我を失うやろう。その混乱のまま小浜に連れ戻され殺される。…雪子とはもう二度と会えん。そうなる筈だったのや」
「ところが雪子は、直篤様を追い小浜に行ってしまわれた。貴方様の目を潜って…」
「雪子は、幽閉中の直篤と暮らし、子までもうけた。そして直篤が殺されると、大原に逃れ、そこでひっそりと死んで行った…」
血が滲むかと思われるほど、元篤は唇を噛みしめた。そしてそのまま宙を睨んでいたが、やがて一気に体の力を抜くと脇息に凭れ、呟いた。
「直篤、雪子の討手は、直江だったと聞く。しかし直江は、密かに雪子の命を救ったが、藩には斬ったと報告しておる」
「直江達は今、何を企んでいるのでしょう?」
「さぁ、知らん事や」
応えた声に、もう力は無かった。長い歳月堰をされ続け、今迸った激しい怒りと哀しみは、元篤の顔を急速に老けさせた。しかしその元篤に向けた土方の双眸に、情け容赦は見当たらない。
「そうでしょうか?それで貴方様の酒井家へのしがらみは、本当に終わったのでしょうか?」
元篤の視線が、ちらりと動いた。
「二十数年前、直篤様が殺された時、共に雪子様も殺されたと思った貴方様は、酒井家への復讐を誓ったのではありませんか?」
「何故、そう思う」
茫洋と力の無かった目が、ふと鋭い光を帯びた。
「私なら、そうするからです」
元篤は少し体を引いて、土方を見た。
「我が手から、唯一の者を奪われたその瞬間、私は人を捨て大魔王になる。人を天を恨み、災禍を巻き起こし、世を阿鼻叫喚に陥れ、その地獄を眼に焼き付け高らかに笑い続ける。その恨み消える事無く、その哀しみの癒す方を知らず、大魔王となった我が魂は、草も生えぬ闇の河原をさすらい続ける事でしょう」
「……」
しばし、元篤は土方を凝視していたが、やがて片頬を歪めた。
「人質は、お前を大魔王にする者らしいの」
「はい」
「ではお前に我の心を読まれても、仕方があるまい。お前の察する通りや」
しわがれた笑い声が響いた。
「我は、密かに、しかし途切れる事無く、酒井家の動向を探り続けていた。時が経ち、直篤の一件を知る者も少なくなった頃、今度は時世の方が混沌として来た。そうなると藩の内部にも、佐幕や勤王やと煩い波が押し寄せた。そうこうしている内には、討幕を企むような過激な者達まで出て来た。そう云う者達を、藩は頭から抑えつけた。しかし力で蓋をすれば、不満は余計に膨れ上がる。…その膨れ上がった不満が爆発する瞬間を、我は待っていた」
「その機が熟した頃を狙い、貴方様は、過激な思想を持つ者達の中心人物に、接触したのですね」
「企みには金が必要や、我は奴らに金を援助した。その金で面白いくらいに力を増した奴らは、藩の上層部を困らせ始めた。まこと、己の力も知らぬ愚かどもめが…。しかしその中心となる者の中に浮島克利がいたとは、世の中皮肉なものよ」
口元を歪め、元篤は笑った。
「が、その勢いが頂点に達した頃、、突然、貴方様は裂の事を伝えた」
淡々と続ける土方を、元篤が鋭く一瞥した。
「調子に乗った者達に、貴方様は、裂を取り返さなければ、もう金は出さないと伝えたのではありませんか。奴らはさぞ焦った事でしょう。しかし此処で援助を打ち切られれば、すべてが水泡に帰す。だから躍起になって裂を探し始めた。盗賊と云う手段を使ってまでも…」
元篤は無言で土方を見ていたが、やがて不敵な笑いを浮かべた。
「お前は大魔王だったの?では我の気持ちが読めるのではないのか?」
「はい、手に取るように」
薄く、土方が笑った。
「三枚の裂を取り返したところで、盗賊は、実は小浜の侍達だったと世間に暴きます。酒井家は非難の渦に巻き込まれ、やがて幕府の咎を蒙りましょう。いえ、外様の勢いが強くなっている昨今、断絶の可能性とてあり得ます。その滅び行く様を、貴方様は、笑って眼に刻み付けるのです」
「そうやっ。酒井家など、滅びてしまえばええのやっ、雪子を奪った小浜など、のうなってしまえばええのやっ」
目を見開いて叫ぶと、元篤は、愉快そうに喉を鳴らした。
「卿」
笑いを止め、緩慢な動きで、元篤は土方を見た。
「彼らは裂の存在を突き止めたのですか?」
「二枚は手にした。無残に人を殺す酷い真似をしおっての。あやつらは、鬼や」
「して、その者たちは今何処に?金を出していた貴方様が知らない訳がありません」
「新撰組と旗本が、酒井家の者どもを捕えるか…、面白き事は多い方が良い」
にやりと笑い、元篤は、土方と八郎を等分に見た。
「壬生の外れにある商家が、奴らの隠れ家や。小浜の京屋敷への出入りもしていた、浜屋云う店や。お前を大魔王にする者も、そこにおるじゃろう。…もう話は無い、疾く去れ」
そう云うと、元篤は遠くを見つめた。
もう二度とこちらを見ないだろうその横顔に一礼し、土方と八郎は立ち上がった。
廊下に出ると、その真ん中に一匹の猫が蹲っていた。猫は雪のように白い豊かな毛並を持ち、ぎやまんのような目で二人を見上げた。人に懐いているのか逃げもしない。
「ゆき」
奥で呼ぶ声がした。
すると、それを待っていたかのように立ち上がり、悠然とした足取りで部屋に入って行った。
「外へ出たらあかんと、云うたやろ?さらわれてしまうで」
喉を鳴らす猫に、元篤が云っている。
その声が、虚の筒に響き渡るような寂しさを持っていると、八郎には思えた。
森を走る二人の前に、道を塞ぐような杉の巨木が見えて来た。その巨木に向かい、
「伝吉っ」
土方が鋭い声を飛ばした。寸座、木陰から、体を丸めるようにし、影が飛び出して来た。
「壬生の浜屋だっ」
声の余韻も消え失せぬ内、伝吉は再び木陰に消えた。獣道を一気に走るつもりだろう。
やがて、土方と八郎の前にも、杉木立が切れ視界が開けた。眼下には、薄墨色に覆われた都が広がっている。肩で息をしながら、その遥か一点を睨む土方に、
「壬生か…」
八郎が並び立った。
それには応えず、
「行くぞっ」
土方は荒々しく地を蹴った。
身じろぎもせず、じっと書物を読みふけっている端正な横顔を、総司は見上げた。田坂の手元を照らしているのは、明り取りの小窓からの光だけだ。それとて、夜の月明りより心許ない。天気が悪いらしく、昼間だと云うのに土蔵の中は暗い。ふと、田坂が振り向いた。
「何だ、起きていたのか?」
声は、見られていた事に気づかなかった、少々の決まりの悪さがあった。
「田坂さん…、それ」
笑いを堪えながら、総司は、田坂の持っている書物を指した。
「暗いのに、読めるのですか?」
「じっと見ていれば、それなりに判読できるものさ」
田坂の顔は、ごく真面目であった。
「それに親爺の字だからな…」
そう云って細めた目が、懐かしい色を湛えた。
黄ばんだ和紙に綴られているのは、田坂の義父が生前記していた日記だった。その内の一冊を、直江に同道する際、キヨは薬箱に忍ばせた。それには、北座の役者の手当の為に、鴨川沿いの寺に出向いた夜の事が記されていた。無事を願うキヨの、咄嗟の思い付きだった。
「三十年前、田坂さんのお父上と直江さんが会っていたなんて…」
人生の希有に、ある感慨を覚え総司は呟いた。
「ま、縁があったと云う事だろう」
が、田坂にはただの偶然でしかないらしく、あっさり日記を閉じてしまった。
「ところでその三十年前の事件だが…。ちょっと面白い記述を発見した」
総司を見下ろした目に、少年のような好奇心が浮かんだ。
「親爺が来た時、斬られた役者は、既に意識が混沌としていたが、一度だけはっきり目を覚まし、お逃げください、ただあき様…、と云ったと書いてある」
「ただあき様?」
訝しげに、総司は眉根を寄せた。
「そう書いてある。当時の小浜藩藩主は、京都守護職を務めた酒井義篤(ただあき)殿。そうすると、その場に居たのは殿様だったのか。そして何者かの襲撃を受け、騒動に巻き込まれた役者が怪我をした…」
そこまで云って、田坂は言葉を止めた。何かが、頭の片隅に引っかかったのだ。やがてそれは、清水に垂らした墨のように、みるみる広がって行き、遂には田坂の思考を止めた。
「ただあき……」
呟いて、田坂はもう一度日記に目を戻した。そうして暫く、角が丸く反ってしまった古い日記を見詰めていたが、やがて小さく、
「そう云えば…」
と声にした。
「以前、小浜藩の祐筆役だと云う御仁が診察に来たことがある。その時に、昔、殿様が改名した事があって、届け出やら何やらで酷く忙しい思いをしたと零したのを聞いた。その時の殿様が、確か酒井義篤殿だった。美術品の蒐集に目が無い殿様だとぼやいていたので、印象に残っている」
と、一人合点したように頷いた。
「が、そんな事は事件の解決には至らないだろうな」
満足は、すぐに苦い笑いになった。その笑いにつられ、総司も笑いかけたその時―。細められた瞳が、鋭く一点を見た。すると、微かに軋む音がし、開けられた扉から、膚を切るような冷気が滑り込んだ。
「具合はどう?宗次郎」
克利は、静かな声で訊いた。そして二人の近くまでやって来ると、田坂に視線を向けた。
「怪我人が出てね、先生には申し訳ないが、そちらも診てくれるかな?」
「生憎、藪だが?」
「見殺しにするよりはましさ」
厭味の無い笑い顔に、克利は肩をすくめて応えた。そして、半ば開いたままの扉へ視線を向けた。
「あの者が案内する」
いつの間にか頑健な体を持った男が一人、中の様子を伺いながら待っている。
見上げる総司に案ずるなと目配せをすると、田坂はゆっくり立ち上がった。
その田坂の背を瞬きもせず見詰める総司を、光も通らぬ水底のように静かな眸が見守っていた。
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