雪明り 十九
「寒くはない?」
傍らに腰を下ろすと、浮島克利は、総司の目を覗き込むようにして聞いた。
「いいえ」
総司は笑みを浮かべた。
今すっぽり身体を覆っているのは、分厚い褞袍(どてら)だ。運んできたのは翔一郎だった。長い事使われずにあったらしい褞袍は重く湿り、掛けられた瞬間、黴の匂いが鼻をついた。その時の翔一郎の申し訳なさそうな顔が、総司には忘れられない。
「こんな物でしか暖をとってやれなくてすまないね」
「人質にしては、良い待遇です」
悪戯そうに笑った面輪に、
「では、翔一郎も探し出した甲斐があったと云うものさ」
つられて克利も笑った。その笑い顔が、やはり翔一郎に似ている。
「どうしたの?」
黙って見上げる瞳に気づいた克利が、首を傾げた。
「浮島さんと寺脇さんは似ていると思って…」
「そんな事か」
細面の、幾分削げた頬が緩んだ。
「僕たちの父親も、双子の兄弟だったんだよ」
「お父上も?」
問い返す声に驚きが混じった。
「僕らと違って、父達は一目では見分けがつきにくい程、似ていたらしい。…そう云えばさっき田坂さんと君の話が聞こえて来たのだけれど…」
ふと思い出したように、克利は言葉を切った。
「話?」
「小浜の殿様の名前が変わった、と話していたのだよ」
「それで祐筆の方がご苦労されたと云う話ですか?」
「そう、その話だよ。あれは僕達の父からその弟へと、藩主の交代劇があった為さ」
一瞬、総司は息を呑んだ。その総司に、
「そんなに驚かなくてもいいだろう?」
克利は苦笑した。
「とは云え、僕だって最初は信じなかった。突然、本当の父は、酒井家の当主だったなどと云われても、信じろと云う方が無理だろう?」
肩をすくめる真似をし笑いかける克利に、しかし総司は言葉を返せなかった。呆然と克利を見上げたまま、思考は混乱を極めている。
二人の父親が小浜藩の藩主であったと云う事実は、無論総司を驚かせた。しかし翔一郎がそのような素振りを見せたことは、嘗て一度も無い。しかも翔一郎と克利は姓が違う。二人は他人として生きて来たのだ。そうせざるを得ない事情があったのだろうか…。
そこまで思うと、
「…何故、寺脇さんも貴方は別々に居るのですか?」
纏まりのつかない考えの中から、ようやっと総司は訊いた。
「それは何故、翔一郎は寺脇翔一郎と云う一介の藩士で、僕は浮島克利と云う浪人の人生を送って来たか…、と云うこと?」
小さく、総司は頷いた。
「そうだね、宗次郎は不思議に思うだろうな…」
少し思案気に語尾が切れたが、すぐにまた、
「長い話になるけれど」
と、言葉を選ぶようにゆっくりと、克利は語り始めた。
「父は家をめぐる謀(はかりごと)の中で自害に追い込まれた…、いや、殺されたんだ」
「…殺された?」
言葉の持つ強さに、総司は眉を顰めた。
「そう、殺された。そして同じように、母も僕達も共に葬られる筈だった。それが天のとんだ気紛れで、こうして生き長らえている。…だから小浜藩にとって、僕らは在ってはならない存在なんだ」
淡々と語る克利の表情に兆すものは何も無い。が、こうして経緯を聞かされれば、総司には、その静けさが不自然に思える。自分たちを今の境遇へ追いやった者達への憎しみが、克利には無いのか。恨みを持たないのか。或は運命の不条理に、怒りは迸らないのか…。その全ての疑問が一度に押し寄せた時、
「お父上を失脚させた小浜藩を、恨んではいないのですか?」
考えるより早く、言葉がついて出た。
「さぁ、どうだろう?」
謎かけをするような物言いで、克利は応えた。その双眸が笑っている。
「自らの内に潜む狂気を恐れ悩んだ父は、次第に気鬱の病に冒されていった。そう云う父の姿に、周りの者達は、薄氷を踏む思いで日々を送っていたらしい。だが父の病は次第に重くなって行った。やがて藩の将来を危惧した重臣たちは、父と、山里に預けられていた双子の弟と父を摩り替える計画を企てるまでに至った。…そしてある事件を切欠に、その計画は実行されたんだ」
「その為に、寺脇さんと貴方のお父上は、自害に追い詰められたのですか?」
「仕方が無かった。…主君が狂気に走り、徳川家から拝領した代々の品を、跡形も無く叩き割った事が明るみになれば、藩への糾弾は免れない。しかも何の罪もない人間をも手にかけたとあっては、最早言い逃れもできない」
瞬きもせず聞き入る瞳の中で、一瞬、克利が遠くを見た。その視線の先に、克利が己の感情を捨てて来た何かがあるのかもしれない…、ふと総司はそんな気がした。
「父を葬り叔父と摩り替える事は、父に仕えていた者達に、最後まで苦渋を迫った。けれどその苦渋を凌駕したものは、酒井の家は揺らいではならないと云う信念だった。城下には沢山の人間が生き、生活している。藩政を司る者達は、その恙ない日常を守らなくてはならない。…仕方が無かったんだ」
もう一度、克利が同じ言葉を口にした時、
「…私には分からない」
小さな呟きが漏れた。
「何が?」
「そんな風に、貴方が平静としていられる事がです」
毅然と、黒い瞳が克利を見上げた。
「ならば、もっと哀しみにくれ、憤ればいいのかい?」
「そうじゃない」
思わず、声が荒いだ。しかしそんな自分に戸惑うように、
「…そうじゃないのです」
総司は瞳を伏せた。
全てを達観しているような克利に、今総司は無性に苛立ちを感じていた。それを抑える事が出来無い。そしてその感情が何処から湧いてくるのかが、分からない。
「宗次郎は、真っ直ぐなんだね」
苛立ちが残した気まり悪さを、慰撫するような柔らかな声が掛かった。
「僕の代わりに怒ってくれて、ありがとう」
躊躇いながら瞳を上げると、そこに、克利の穏やかな視線が待っていた。
「けれど僕は、僕の父を殺した者達を、もう憎いとは思っていないんだ。…直江がいなかったら、そうは思わなかっただろうけれどね」
「直江さん…」
田坂をここに連れてきた直江の、硬い面持を総司は思い出した。
「父を斬ったのは、直江だった」
克利を映す瞳が、驚愕に瞠られた。
「父は自ら直江の刃にかかったんだ。その代わりに、母と僕達を助けると、父は直江に約束させた。直江はその約束を守り、親友の大澤を斬り、密かに母と僕たちを京へ逃した。それから直江は、いち早く藩の動きを知り僕達を守る為に藩に留まり、己の全てを僕達の為に捧げてくれたんだ」
呆然と見つめている総司にくすりと笑いかけると、
「それにね」
と、克利は続けた。
「僕には、翔一郎がいた」
そう云った時、総司が初めて見る安らかな微笑みを、克利は浮かべた。
「ねぇ宗次郎、僕と翔一郎は、生を授かったその瞬間から、ずっと一緒だったんだ。ずっと互いの鼓動を聞きいていたんだよ。…僕らは孤独を知らずにこの世に生まれたんだ。すごい事だろう?」
語る声は途中から、恍惚とした呟きに変わった。
「直江の計らいで初めて翔一郎の姿を見た時、…それは藩の江戸屋敷で、僕たちは何の面識もない他人としてすれ違っただけだったけれど、僕は体の芯から震えるような幸福感に満たされた。そこには、僕にはもう手の届かない美し魂を持った、けれど同じ体温を持つもう一人の僕がいた。生まれて初めて、僕は生きていて良かったと思った。ただただ嬉しかった。目頭が熱くなって、どうしようもなく泪が頬を伝わった。可笑しいだろう?」
遠い幻を見るように、克利は口元に笑みを浮かべた。
「だからね、翔一郎をこの世に健やかに存在させる為に、僕にはやらなければならない事があるんだ」
「寺脇さんを存在させる…?」
「…そう、翔一郎は、今の苦しみから解き放たれるんだ」
そう答えた時、克利の眼は、いつか総司の見た、湖の底のような静寂を湛えていた。
「貴方がしなければならないと決意したその内容を、寺脇さんは知っているのでしょうか」
訊きながら、重く覆うような焦燥感が総司の胸を駆る。
「いいや…」
克利は首を振った。
「君だけが知っていればいいことさ」
「何故私に?」
「さぁ、どうしてだろう?この先どんな事が起ころうと、宗次郎なら、翔一郎の心を救えると思うからかな?」
「それは違う」
自分でも思いがけない強い調子の声が出た。しかしそれにも構わず、
「寺脇さんは、貴方の犠牲の上に得た幸いなど喜ばない。それは寺脇さんにとって哀しみだ」
断言するように、総司は云った。
「どうしてそんな事が分かるの?」
克利の目は穏やかに笑っている。
「貴方はさっき、ずっと互いの鼓動を聞いていたのだと云いました。だから孤独など無かったのだと。ならば、それは寺脇さんも同じことです。もし貴方と同じ立場に置かれたら、寺脇さんは、今貴方がやろうとしている事と同じ道を選ぶ。きっとそうする。その時貴方は幸せですか?」
いらえを求められて、克利は、じっと総司を見詰めた。総司も又、克利を見詰めていた。寸の間、二人は黙ってそうしていたが、やがて克利が吐息した。そして、
「真っ直ぐな宗次郎」
切れ長の眼が、愛おしいものを見るように細められた。
「もし翔一郎が苦しんでいたら、君から伝えるんだ。翔一郎は、少しも狂ってなどいないと…」
壁に映る影が、ゆらりと立ち上がった。
「浮島さんっ…」
「静かに」
身体を起こしかけた総司を、克利は片手で止めた。
「君が騒ぐと、田坂先生に迷惑がかかるよ」
そう云って笑う眸の底に、ふと厳しい光が兆した。
「もうすぐ此処は囲まれる。そして、屋敷内でも乱闘が始まる。その気配を察したら、田坂先生と逃げるんだ。裏木戸は西高瀬川沿いに続く塀の端にある。君なら分かる筈だよ」
克利は早い口調で告げると、
「君と出逢えて嬉しかった、宗次郎」
仄かな月明かりの中で、晴れやかな笑みを浮かべた。
音もなく、襖が開いた。後ろに端座している翔一郎が、ちらりと視線を動かすのが気配で分かった。それで、入って来たのが浮島克利だろうと見当がついた。だがそれを確かめる事を、田坂はしなかった。怪我人の腹に血止めの布を巻きつけるのが先だった。
漸く一通りの処置を終えて顔を上げると、やはり克利が翔一郎の隣に端座していた。
「一応の手当はしたが、脇腹の傷が深い」
色を失くして目を閉じている怪我人を、田坂は痛ましげに見た。怪我は刀傷で、その深さと出血量を推し量れば、息をしているのが不思議な程だ。
「助かりますか?」
翔一郎が訊いた。
「難しいな」
田坂の答えは率直だった。
「ねぇ、翔一郎」
克利が云った。
「吉井は良く働いてくれたんだから、何処か他所へ隠したらどうだろう?」
「今動かすのは死期を早めるようなものだ」
田坂は眉根を寄せた。
「けれど、もうすぐ此処は囲まれるし、そうなったら最後だ。その前に外へ出して隠した方が、静かに残りの時を送れる。そうだろう?先生」
「克利っ」
鋭い声が飛んだ。同時に、翔一郎の顔に激しい動揺が走った。
「もう隠さなくていいんだよ、翔一郎」
慰撫するような穏やかな声で、克利は語り掛けた。
「京屋敷に、この場所を教えたんだろう?吉井の事も」
凍り付いたように、翔一郎が克利を凝視した。その目から視線を外すと、克利は田坂を見た。
「先生、僕らは今の藩政に不満を持ち、この国すら、いつか自分達の手で変えられると思い集った。けれどひとつ事を成すには、何事にも屈しない、強靭な意志と信念が必要なんだ。不幸にも僕らはそれに値しなかった。そんな甘さが、罠に嵌ったのさ」
「罠…?」
怪訝に問う声に、克利は頷いた。
「金を出してくれる人間がいたんだ。けれどそれが罠だと分かった時には、もう遅かった。僕達は金の為に殺生を繰り返す盗賊に成り下がり、そして京屋敷に襲撃をかけると云う計画を立てるまでに追い詰められた。其処が死に場所と決めたのさ。その計画の中で、吉井は京屋敷に潜み、仲間を導き入れる役割だった」
克利の視線が憐れむように、横たわる者に流れた。
「でも計画が事前に漏れ、捕えられそうになった吉井は負傷しながらも、此処まで逃げ延びて来たんだ」
黙って聞き入る田坂の表情が曇った。
もし克利の云う事が本当だとしたら、今克利は、翔一郎と云う裏切り者を目の前にしているのだ。しかしその声からも態度からも、翔一郎を糾弾する響きは無い。
「そんな顔をしないで、翔一郎」
硬く青ざめた面持ちの翔一郎に、克利が笑みを向けた。
「京屋敷にこの場所と計画を知らせたのは、翔一郎より僕が早かったんだから」
翔一郎の眸が、驚愕に見開かれた。
「何故っ…」
同時に、呻きのようなかすれ声が漏れた。
「そうする事が、僕達に与えられた使命だろう?」
からかうように、克利は笑った。
「京都所司代を務め、先の大獄にも関わり、更に公武合体を進めた叔父に恨みを抱く者は多い。そんな時、僕らがして来た事が明るみになれば、酒井家に咎めは免れない。下手をすれば取り潰しもあるだろう。でももしそんな事になれば、藩に尽くして来た者達やその家族が呻吟する。そしてその苦労は民にまで及ぶんだ。何の落ち度もない者達を、混乱に巻き込んではいけない。翔一郎は分かっている筈だよ?だって僕達の父は、あの時同じ事を思い、考えて、死んで行ったのだから…」
淡々とした口調で語り終えた後、
「先生」
克利は田坂に視線を向けた。そして哀しい程澄んだ目で云った。
「僕は時々、自分のやった事を覚えていないんだ。そしてそう云う時の僕は、罪の無い弱い者達を平気で殺める、自分でも信じ難い、聞くに堪えない恐ろしい事をしている。まるで残忍な魔王のようにね。…僕はそう云う自分が恐ろしいんだ。もう僕は、正気には戻れないんだろうか?」
しばし、田坂は無言で克利を見詰めていたが、やがて静かに問うた。
「君が記憶を逸している時…、そう云う時を、私は見た事がない。だから君がどのような状態なのか、今この場では判断できない。だがこうしている君は、普通の人間と全く変わらない。本当に、覚えていない時があるのか?」
微かな希を込めて、田坂は訊いた。
「そう云う時が、長くなってきているんだ」
寂しい微笑が浮かんだ。しかしすぐにその笑みを消すと、克利は真剣な目をした。
「でも翔一郎は違う。僕達は双子だけれど、翔一郎は少しも狂ってなどいないんだ」
「それは違う…」
それまで沈黙を貫いていた翔一郎が、低く呟いた。
「私も狂っている。…お前と同じだよ、克利」
凝然と見開かれた双眸に向け、翔一郎は微かな笑みを浮かべた。
「違うっ」
弾かれたように、克利は声を上げた。
「あの時の事なら違うんだっ、翔一郎っ。あの時は僕がっ…」
必死の形相で克利が翔一郎の肩に手をかけたその時。
「翔一郎様、克利様っ」
襖の向こうから緊迫した声がした。直江だった。
「囲まれたようです」
一瞬の顔を見合わせた後、素早く、翔一郎と克利が立ち上がった。
「宗次郎を頼みます」
「先生、ありがとう」
それぞれが、それぞれに田坂へ言葉を残し、同じ姿かたちをした二つの背が、襖の向こうへ跳び出した。
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