雪明り 二十
「順三様は、御息災でおられますか?」
ゆるやかに尋ねる声には艶があり、薄明りに浮く頬は白い。年の頃は五十を幾つか出たばかりか…。どことなく田坂家のキヨに似て、安堵感を覚える風貌である。が、この場でふとそんな事を思った自分に、山崎は、胸の裡で苦笑した。
「お元気だと云う事です。私が直接お会いした訳ではありませんが、信頼できる方にそう聞きました」
「ほほほ、ではそうなのでしょう」
口元に当てた指の隙から、少女のような笑い声が漏れた。そしてその笑を引くと改めて、尼僧は山崎を見詰めた。
「さてこの尼に、山崎様は、何を聞きたいのでしょう?」
「水碧尼様のご存知の事を全てです。…無論、裂の在処も含め、知りうる限りの事をお伺いしたいのです」
静かながら凛とした口調で、山崎は答えた。
八郎が、雪子の事を順三から聞き得たその夜、田坂の元に直江が現れた。そして直江に同道した田坂は、今以て帰らない。翌日、事態の急変を受け、土方と八郎は上林元篤卿の屋敷に乗り込み、寺脇らの居所を突き止めた。即日、土方は自ら指揮する精鋭隊を編成し、その精鋭隊が、今、闇に紛れ粛々と都大路を北へ上り、壬生にある浜屋へ向かっている。それより早く山崎は、嵯峨野にある尼寺、紫月庵に向かった。尼寺の主は水碧尼と云い、かつて雪子に仕えていた美羽だった。
水碧尼は、夜半の訪問にも関わらず、山崎を快く招き入れた。まるでそう云う客が来るのを、知っていたかのように…。
水碧尼はじっと山崎を見詰めていたが、やがて小さく息を吐いた。
「…お話をしなければならない時が、巡って来たのですね。雪子様が、貴方を此処にお導きになられたのでしょう」
そう告げた口元に、微笑が浮かんだ。
「あの裂は、雪子様のお母上、彰子様の御実家、朱鷺司家に伝わるものでした。ですが崇徳上皇の経典を巻いてあったものですから、裂を所有している事を、あまり公にはしておりませんでした。その理由は、ご存知でしょう?」
山崎は黙って頷いた。
崇徳上皇は、父の鳥羽上皇に疎まれ、のち、弟の後白河天皇との内乱にも敗れると、罪人として讃岐へ流された。流刑されてからは、繰り返し後白河天皇に謝罪の文を送り、京に戻りたいと懇願したが許されず讃岐で身罷った。しかし最後まで自分を許さなかった朝廷への上皇の憤怒は深く激しく、死してのち、自分は必ずや大魔王となり、王を下民に下民を王にしてやると、血文字でその怨念を記す程だった。やがて上皇の死後百年ごとに、国を震撼させる災いが起こり、朝廷ではそれを上皇の怨念と恐れ今日に至っている。記憶に新しいところでは、長州藩による蛤御門の変が、その節目の百年に当たる。そんな経緯があって、朱鷺司家では、崇徳天皇の遺品を所有している事を内密にしていたのだろう。
だが今、孝明天皇は、崇徳上皇の御霊を鎮めるため、霊廟を建築しようとしていた。そして上林元篤は、その霊廟の中に納める献上品として、くだんの裂を探している…。ここまでが、土方からざっと聞いたあらましだった。
「彰子様が、上林卿へ再嫁すると決まった夜、御兄上にあたる朱鷺司家の当主惟麿様が、彰子様に裂をお授けになられました。その頃、めっきりお体が弱っていた惟麿様は、御自分の代で朱鷺司の名が消えることを覚悟なさっていたのでしょう」
「それで家宝を妹君に託されたのですね?」
「はい。裂を手にした彰子様は、これからは裂が御自分と雪子様を守ってくれるでしょうと微笑まれました。経を写されていた時の上皇は、怒りも哀しみも無く、ただただ無心に仏を思っていたに違いない、ならばその御心は、きっと自分達を守ってくれる筈だと、そう仰ったのです。そして彰子様から受け継がれた裂を、雪子様も大切になさっておりました」
「それが、奥寺の弥勒菩薩の横にあったと云う裂なのですね?」
「良くご存じだこと」
水碧尼は、柔らかく目を細めた。
「あれは、三枚の内の一枚です。裂が三枚ある事も、最早ご存知ですね?」
水碧尼を眸に映したまま、山崎は頷いた。
「御子達の命を守る為に、身を引き裂かれる思いで、雪子様は二人を直江殿の手に委ねました。その後、雪子様は裂を三枚にし、一枚には、亡き直篤様の名を、残りの二枚には御子の名をそれぞれ記したのです。そしてそれを弥勒菩薩の傍らに置くと、毎日御子達の無事を願い掌を合わせておられました。けれどそれも、そう長い月日ではありませんでした」
憂いが、水碧尼の表情を曇らせた。
「ご心労が段々に雪子様の身を侵したのです。やがて床に伏せる日が多くなるったある日のこと、雪子様はわたくしに、御子の名を書いた二枚の裂を、知る辺の寺に預けるようおっしゃったのです」
「何故移すと決めたのでしょう?」
「わたくしも同じことを思い、雪子様にお尋ね致しました。すると雪子様は、ここはいつ襲われるのか分からない。自分の命はいつでも敵に与えましょう、けれど裂だけは奪われたくはない。裂が、離れ離れになった兄弟を呼び合い、いつかきっと二人を巡り逢わせてくれる、そんな気がするのだと微笑まれました」
子の安否を案じながら死んで行かなければならなかった佳人の、裂に託した想いが、山崎の胸を哀しく打つ。しかしその感傷を切り捨てると、
「では襲われた寺々は、裂を預けた寺なのですね?しかし何故別々に?」
敢えて淡々と問うた。
「別々にしたのは、直江殿とわたくしの考えです。その方が盗まれる危険が少ないと思ったのです。しかし浅慮でした。裂を二か所に隠した為に、まさか今、このような災いを招くとは…」
水碧尼の面が、今度ははっきりと、深い憂慮に染まった。
「裂のために、何の罪もない人々が犠牲になり、尊い命が無残に奪われてしまったのです。…わたくしが裂を預けさえしなければ」
悲壮感漂う声が、薄闇を震わせる。
青ざめた顔で見詰める尼僧は、残虐な事件の最初の一報を耳にしたその時から、ずっと己を責め続けているのだろう。そして負うた苦しみに、ようやっと伸ばされた手にすがるように、
「山崎様」
早い口調で云った。
「残りの裂…、直篤様の御名がかかれたものですが、それは西本願寺の門跡寺、興正寺にあります。一月ほど前の雪の夜、わたくしの手で移しました」
驚きに、山崎は水碧尼を凝視した。
たちまちの内に、ある情景が鮮明に蘇る。
――護足衆の事に思考を奪われながら足を運ぶ外廊下で、ふと遠くに動く灯が見えた。ひとひら、ふたひら舞う雪の向こうに見え隠れしたそれは、興正寺の方角だった。直ぐに灯は消えたが、僅かな時の出来事は、未だ山崎の心に妙な引っ掛かりを残している。
闇に移ろう仄かな灯、憚るように仕舞われた密やかな気配。
もしやあの灯が、裂を運び入れた時のものだとしたら…。
暫し呆然と、山崎は言葉に詰まった。
「驚かれましたか?」
「驚きました」
正直な感想に、水碧尼の唇辺に笑みが浮かんだ。
「残っている三枚目の裂…、その裂は、最近までわたくしの手元にありました。…しかし賊の噂を耳にし、ひそかに裂を興正寺に預けたのです。いずれ賊はわたくしの存在と居場所を知り、この寺にも押し入るでしょう。その前に裂をどこかに隠したかったのです」
「それで西本願寺に?」
「はい。西本願寺にしたのは、新撰組の屯所があったからなのですよ」
悪戯げな目が、山崎を見た。
「例えどんなに凶悪な賊でも、新撰組の屯所のある西本願寺に押し入るには、さすがに覚悟が要りますでしょう?」
苦笑する山崎を微笑んで見詰めながら、水碧尼は、ふと視線を遠くへやった。
「直篤様と雪子様が初めてお逢いになられたのは、曼殊院での歌会でした。お二人は急速に惹かれあい、彼の寺の別院であった天林寺で、密かに逢瀬を重ねられたのです」
「天林寺とは、雲母坂の先にある寺ですね?最近、仏像を盗まれたと聞きました」
「仏像は、盗まれたのではなく、場所を変えたのです」
「どう云う事でしょう?」
「三枚目の裂は、仏像のご本体の中に隠されていたのです」
「仏像の中に?」
「そうです、そうして二十数年、裂は仏像の胎内で眠っていたのです。しかし事態が急変し、直江様とわたくしは、とりあえずこの紫月庵に仏像を隠したのです」
「直江殿が…」
その名を耳にした山崎の目が、微かに細められた。
仏像が無くなった翌日、直江の後を付けていた大澤一平が何者かに斬られた。今の話を聞けば、それは直江の犯行との色合いが濃くなる。が、水碧尼の表情に動くものは無い。この一件に関し、尼僧は何も知らないようだった。
観察の鋭い光を、山崎は眸の奥に仕舞った。その山崎の胸の裡を知らず、
「直篤様と雪子様…、それは初々しい、お二人でございました」
水碧尼は話を過去に戻し、再び語り始めた。
「雪子様の優しい清らかな御心に触れ、直篤様は安らぎを得、そして雪子様は、直篤様の正直で一途なお人柄に惹かれて行かれたのです。やがて直篤様に笑顔が多くなった頃、あの事件が起こりました」
恐ろしい記憶が蘇ったように、水碧尼は言葉を止めた。その後を拾い、山崎が口を開いた。
「北座で役者が斬られた事件ですね?」
頷いた顔は引き攣ったように硬く、色を失くしている。
「あの夜の事は忘れません。…突然、元篤様が雪子様のお部屋にいらして、直篤様は人を殺め小浜へ逃げた、もう二度と逢う事は許さないと仰いました。元篤様が出て行かれた後、わたくしは動転しおろおろするばかりでしたが、雪子様は無言で、じっと一点を見ておられました。言葉を掛ける事すら憚れるほうな、厳しいお顔でした。そのまま人形のようになってしまわれた雪子様でしたが、暫くして突然わたくしを振り向くと、毅然としたお声で、今から直篤様を追い小浜に行くと申されました」
「夜半に、ですか?」
驚きを持って、山崎は訊いた。公家の姫が、大胆な行動をとったものだと思う。しかし純粋であったからこそ、雪子の想いは一途だったのかもしれない。
「はい」
漸く水碧尼も微笑んだ。
「屋敷が寝静ったのを見計らい、雪子様とわたくしは着の身着のまま、裏の枝折り戸から森に出、夜道を、出町柳のわたくしの叔母の家まで歩き続きました。そしてそこで支度を整え、すぐに小浜へと旅立ったのです」
「小浜で直篤様に逢えなかったら、どうするおつもりだったのです?」
「そのような事、雪子様は考えてもおりませんでした」
きっぱりと云いきる水碧尼に、内心、山崎は瞠目した。そしてその言葉の向こうに、雪子の、直篤への想いの丈を垣間見た気がした。
「途中、わたくしは、大津の宿で直江殿に文を書きました。直篤様の傍らにお仕えしていた直江殿は、わたくしとも親しくなっていたのです。わたくしには、直江殿だけが頼りでした。文を受け取った直江殿は、大津まで駆けつけて下さいました。しかしその口から、恐ろしい真実を聞かされたのです」
ほうっと、心を鎮めるように、水碧尼は息を吐いた。
「直篤様の狂気を恐れた周りの者達は、直篤様と双子の弟君を、密かにすり替える事を画策したのです。しかしそれには、最後まで計画に反対している一部の重臣達を納得させねばなりませんでした。その為の惨劇が、必要だったのです。人を殺め決定的な狂気を見せつける事で、誰も否定できない事実を作り上げたのです」
大方の話は耳に入っているが、水碧尼の邪魔をせぬよう、山崎は黙って聞いている。
「そしてその夜の企てには、直江殿も加わっておられました」
「直江殿が?」
思わず、声に意外が混じった。この事は土方からも聞いていない。
「藩命でした…」
答えた声に、口惜しさと哀しみが滲んだ。
「しかし小浜で幽閉されていた直篤様と雪子様を逢わせてくれたのは、直江殿でした」
「その後お二人は、どうなされたのです?」
「人目を忍ぶ危険な逢瀬を幾度か重ね、瞬く間に半年ほどが経ち桜が綻びかけた日の夜、直篤様に、とうとう刺客ががはなたれました。そして直篤様の御命を奪った者達は、その足で、今度は雪子様とわたくしをも襲いました。藩は雪子様の存在を、いつの間にか承知していたのです。その刺客が、直江殿と大澤殿でした。…朧な月明かりの下で直江殿の御顔を見た時、わたくしは、運命と云うものを呪いました」
山崎は息を詰めた。水碧尼の口から語られるひとつひとつは、闇に眠っていた物語の紐を解き、生きて目の前に蘇らせるようだった。
「しかし直江殿は藩命に背き、雪子様と貴方様を守り、大澤殿を斬ったのですね」
「はい…」
水碧尼僧は身を硬くした。
「雪子様と、お腹にいた御子、そしてわたくしを助ける為に、直江殿は無二の友であられた大澤殿の御命を奪ったのです。そしてそれは、殿とのお約束だったのだと、後でお伺い致しました」
白い面が苦しげに歪んだ。だが水碧尼は、その顔を伏せる事はしなかった。
「山崎様、お願いでございます。翔一郎様と克利様をお助け下さいませ」
必死の色を湛えた双眸を、水碧尼は山崎に向けた。
「里子に出されたお二人を、直江殿もわたくしも、陰から見守って参りました。しかし克利様が五歳の時、預けた家が火事にあい、克利様はさらわれてしまったのです。わたくしたちは必死に行方を捜し続けました。そして長い歳月を経てようやく見つけ出した時、孤独の中で生きねばならなかった克利様は、藩政に不満を持つ若者達の、中心的な存在となっていたのです」
薄ねずの衣を纏った肩が、前に出た。
「その者達が、殺生を繰り返す盗賊に成り下がっていたのは御承知ですね?」
辛い問いを、山崎は投げかけた。
「ご病気なのですっ」
悲鳴のように、水碧尼は叫んだ。
「…ご病気が、克利様を、あのような凶行に走らせてしまったのです。…ご病気なのです…」
震える唇をじっと見つめながら、山崎は、漸く糸が繋がり始めたのを感じていた。
直江が新撰組に援軍を依頼した、最初の理由――。
それは間違いなく、元小浜藩士達により結成された盗賊を、極秘裏で捕えなければならないと云う、差し迫った事情だった。しかしその裏には、直江と、翔一郎、克利兄弟の過去が、拠った糸のように絡んでいたのだ。そしてそれに至る歴史は、小浜藩にとって、決して光射してはならない、闇への扉だった。
「浮島克利に、出生の真実を伝えたのは、直江殿だったのですか?」
凍り付いたように瞬きもしない面を慰撫するように、静かな口調で山崎は問うた。その目の中で、微かに水碧尼が頷いた。
「真実を伝えることで、直江殿は、克利様に行動を悔い改めさせようと試みたのです。しかし時はあまりに遅すぎました」
「浮島克利一人では、既にどうにもならない程、歯車は狂ってしまっていた…、と云う事ですか?」
「そうです。克利様お一人で抑えられない程、若い力は、在ってはならぬ方向へと、不満のはけ口を向けてしまったのです。直江殿の説得が失敗に終わったと知ると、翔一郎様は、自ら克利様のお近くにいる事を望まれ、勘定方のお役につきました」
「弟の動きを見張り、未然に凶行を防ぐ為でしょうか?」
凝視したまま、水碧尼は頷いた。
「それでも、浮島は止まることを知らず、遂には脱藩をしてしまったのですね?」
「一度は…」
ふと、水碧尼は目を伏せた。そして次にその目を上げた時、そこに悲痛な色が湛えられていた。
「克利様をお手にかけようと、翔一郎様はなさったのです」
「しかし彼には出来なかった…」
「弟に手にかけることを、誰が望みましょう」
山崎を見詰める眸に、涙が滲んだ。それがみるみる盛り上がり、すっと頬を伝った。
「どうか、どうか、お願いでございます、お二人を、そして直江殿をお助け下さい」
云い終えると、頭巾にくるまれたこうべが、深く垂れた。
そのまま、こうべは上がらない。
美羽から水碧尼へと移ろいだ歳月は、この女人にとって、辛い憂いの日々だったに違いない。しかしその己の苦しみよりも、兄弟の幸を望み願い、水碧尼は時を重ねて来たのだ。
柔らかな線の肩が微かに震え、細い嗚咽が部屋に漏れる。
その哀しい響きが、山崎の胸を打つ。
今頃、土方は浜屋を包囲しているだろう。
何より、寺脇達は死する覚悟であろう。
時は既に遅い。
しかし…。
「今から、興正寺に参ります」
震える背を包み込むように、山崎は語り掛けた。
泣き濡れた眸が山崎を見上げた。
頷いたその頬に、また一筋、新たな涙が零れ落ちた。
|
|