雪明り 二十一 



「裏の守りを固めました」
 低い声で告げた斎藤に、土方は目だけで頷いた。
 ゆっくりと流れ行く雲の隙から十三夜の月が覗き始めた。その蒼い光が、闇に埋もれていた物の影を浮き出す。
「山崎さんが、上手い事聞き出せたと良いがな…」
 浜家の塀に視線を置きながら、八郎が云った。その言葉も終わらない内に、黒い人影が忍び寄って来た。
「副長」
 憚るような寂声は、伝吉だった。
「三枚目の裂は、西本願寺の興正寺にありやした」
「何だ、御膝元にあったのかえ?」 
 八郎が苦笑した。
「それで裂は手に入れたのか?」
 土方の問いに、
「へえ」
 伝吉は短く答えた。
「そりゃ、上々じゃねぇか。これで上林への借りは返したな。が…」
 八郎は塀に視線を戻し、思いついたように土方を振り向いた。
「奴らも、そろそろ外の気配に気づく頃だぜ」
 どうする、とその目が訊いた。
「気づいた所で、もう奴らにはどうする事もできないさ。いつ踏み込まれるのか焦り、慄き、その内無謀な戦に挑もうとする者、逃げようとする者で仲間割れが始まる。その時が奴らの最後だ」
 土方の口辺に、残忍な笑みが浮かんだ。その冷ややかな横顔から、八郎は塀に視線を戻した。
 胸の裡に、むくりと顔を上げた黒い塊がある。
 塊は、やがて溶け出し、澱を作り、胸を黒い靄で覆った。その靄の中から、地を這うような低い声が轟く。
 ――報復してやる。
 声を待っていたかのように、凶暴で冷酷な感情が噴き出し、その報復の時を思い描いて八郎は笑った。
 俺は狂っているのだ、淡々とそう思った。
 案外、狂気は誰の心の奥底にも棲み、そして正気との狭間など、紙一重にも届かない危ういものなのかもしれない。
 心とは裏腹に、不思議と冷めた頭でそんな事を思った。

 鉄鉢巻を巻いた隊士が、足早に近づいてきた。
「表の守備を終えました」
 潜めた声に、土方は頷いた。
「さても、いつまで辛抱も続くやら」
 謡うように、八郎は呟いた。



 小浜藩京屋敷は、二条城の南西にあり、通称若州京屋敷と呼ばれている。その面積は彼の城の凡そ四分の一にあたり、三代将軍家光の信頼が厚かった酒井忠勝が、家光の命により建築したものだった。
 その若州屋敷の一角。
 今、近藤勇は、元の国家老増本栄治郎を目の前にしている。
 増本は目を瞑り、じっと黙考し動かない。浅黒い顔には、ありありと苦渋の色が浮かんでいる。

 土方達が浜屋に向かうより早く、近藤は、在京していた増本に会う為若州屋敷へ赴いた。小浜藩による、寺脇等の捕縛を抑える為だ。
 増本を前に、これは推測ですが…と断りを入れ、近藤は訥々と語り始めた。
 嘗て酒井家で起きた藩主入替劇の全容と、そして今小浜藩が立つ断崖絶壁を――。
 語り終えた後、沈黙が二人の間に流れた。
 そうして暫し時が過ぎたが、やがて沈黙の重さに負けたように、増本がゆっくり目を開いた。
「近藤殿」
 掠れた声だった。
「貴殿が語られた話を、認める訳には行かぬ」
「無論です。それがしが申し上げたのは、所詮が作り話です」
 近藤の口元が綻んだ。が、すぐに、
「しかし…」
 小さな目が細められた。
「世間と云うものは怖いものです。その根も葉もない作り話も、一度噂に上れば、生き物のように膨らみ転がり出します。そうなればもう誰にも止められません。真実など無きにしも非ず、皆好き勝手に作り変えてしまう。そしてそう云う隙を、虎視眈々と狙っている輩も世の中には居るのです。酒井家におかれましては、代々将軍家の信任も厚く、大老、所司代も務めた御家柄。失礼を承知で申せば、それ故に作って来た敵の数も多いと思うのですが…」
「……」
 増本は近藤から目を逸らした。が、違いますか?と畳みかけられると渋く顔を歪めた。その増本に、
「しかしながら…」
 近藤は少し膝を詰め、声を低くした。
「そうなって困るのは、貴藩だけではないのです。将軍家とて同じこと」
 訝しげな目が、近藤を斜めに見た。
「貴藩が糾弾されれば、信任を置いて来た将軍家も、同じように責を問われます。だがそれは困る、実に困るのです。将軍家と他藩との力関係に微妙な歪が出来つつある今の情勢下では、そのような事態は絶対に避けねばならない。将軍家の土台には、僅かなひびも入れてはならないのです」
 底光りを帯びた双眸が、増本を見据えた。
「我々は小浜藩の為に事態を収拾しようとしているのではありません。我々の目的は、将軍家の安泰です。有体に云えば、小浜藩の事情など預かり知らぬ事」
 一瞬、呆けたように増本は近藤を見たが、慌てて顔を背けた。
「我々の間にあるのは、信頼ではなく損得勘定のみ。互いが、互いの目的の為に動くのです。これ以上確かな結びつきが他にあるでしょうか?」
 増本は固く口を結び、視線を逸らせたままでいる。その抗いを、
「最早猶予はございませぬっ」
 強い声が封じ込めた。
「ここのところ立て続けに起きた押し込み強盗は、貴藩の者達によるものです。しかもその中には、京屋敷用人である直江忠兵衛もいます。この醜態が明るみになれば、酒井家の将来はありませぬぞっ」
 手を緩めず、近藤は増本を追い詰める。
「増本殿っ」
 強い声に押されて、
「…本当に」
 漸く唸り声が漏れた。
「本当に、酒井家を、小浜を守ってくれるのか…」
 懐疑の中から抜け出した目が、縋るように近藤を見た。
「そうすると、申しております」
「我々は、何もしなければ良いのか?」
 近藤を見上げた顔に、必死の色が浮かぶ。
「左様、手出しは御無用」
 近藤は頷くと、増本ににじり寄り、
「全て、極秘裏に片付けて差し上げます」
 低く囁いた。その刹那、 がくりと、増本の肩が落ちた。
「あの時…」
 やがて聞こえたのは、僅かな時に幾多の歳月を重ねてしまったかのような、老いた声だった。
「あれが一番良い方法だと思った。いや、そうする他もう無いと、誰もが追い詰められてしまったのだ。藩が無くなれば、藩に仕える者が路頭に迷う。民にも、苦労をかける。だから…」
「だから、直篤様と義篤様の、藩主交代劇を画策されたのですね?」
 増本は頷き、そして遠くに視線を投げた。
「殿に狂気の片鱗が見え始めたのは、元服される前だった。最初は美しい陶器や絵…そう云うものに、異常な執着を見せられるようになった」
「おかしいと思い、御注進した者はいなかったのですか?」
「無論、いた。…しかし直篤様は、そう云う時の御自分を覚えておられぬのだ。そんなある日、藩租忠勝様が小浜へお国替えをされた折、三代様(家光)から頂戴したと云う高麗の陶器を、欠片も拾えない程に粉砕されてしまった」
「何故…」
 流石に近藤も息を呑んだ。
「形があれば傷もつき欠ける事もあろう、それを憂えるのならば、今、美しいまま、この手で壊したのだと…、そう仰った。あの時の直篤様の、夢見るように恍惚と微笑んだお顔を忘れられぬ」
「上林卿の妹姫、雪子様との出逢いは?」
「気鬱の病が重くなり、京で御静養あそばされている時、たまさか出かけられた曼殊院の歌会だった…。雪子様とお二人の時の殿は、いつも表情柔らかく、狂っているなど何かの間違いかと思った程だ。しかしその京での御静養自体、交代劇の計画の始まりだった」
「雪子様との出逢いは、直篤様の重い将来に天が授けた、唯一の幸いだったのですな」
「殿は、雪子様との出逢いに、一生分の幸を使ってしまわれたのだ…」
 そう云った増本の目が、微かに潤んだ。
 御家の為に首謀者の一人にならなければならなかった男は、今も主君への純粋な情を裡に抱え、悔恨を引きずっているのだろう。しかしその感傷に溺れるのを嫌うように、増本は近藤に目を向けた。
「近藤殿。私は殿を嵌め、殺め、弟の義篤様を君主に据え置いた。全ては、小浜の為にやった事だ。一片の悔いも無い」
 じっと近藤を見詰める目の奥にあるのは、先ほど、逡巡に揺れた弱さでは無い。小浜藩の国家老として、酒井家と国を守って来た、厳しい強さだった。
「小浜を、守ってくれ」
 膝に置いた近藤の手を握り、増本は云った。皺の多い、武骨な手だった。
「必ず」
 その増本へ己の手を重ねしかとした声で告げると、近藤は一文字に口を結び、ゆっくりと頭を下げた。




 闇の一点に視線を定め、自分の呼吸に集中する。そうしていると、次第に身体中の神経が研ぎ澄まされ、外界の気配に鋭くなる。それは病で床に就く日々の中、動かない身体の代わりに、総司が自然と身につけたものだった。
 その瞳がふと細められた。総司は天井を見ていた顔を蔵の戸に向けると、ゆっくり胸を起こした。途端、背に貫くような痛みが走る。その痛みを吐く息で誤魔化し、騙し騙し動いて、すっかり莚の上に半身を起すと改めて戸を凝視した。遠くから、蔵に向かってくる人の気配があった

 重く軋んだ音を引きずりながら開いた隙から、月明かりが溢れ込んだ。その蒼い光に、長身の影が差した。
「何だ、起きていたのか?」
 どんな状況であろうと、田坂の調子は淡々と気負いが無い。
「寝ているのも飽きてしまった」
 つられて、総司も笑った。
「我儘な奴だな」
「話相手もいないのです」
「退屈凌ぎに俺を待っていたのか?それはずいぶんだな」
「そう云う訳ではないけれど」
「ではどう云う訳だ?正直なところだろう?」
「少しは気を使ったのにな」
 悪戯を含んだ瞳が、田坂を見上げた。
「酷い云い様だな」
 田坂は呆れたように肩を竦めかけたが、その動きを途中で止め鋭く振り向いた。総司も開いた戸を凝視している。外に人の気配が兆したのだ。
 ピンと張った弦のような空気が、寸の間、蔵の中を支配したが、やがて姿を現したのは翔一郎だった。
「外は新撰組のようだ」
 高い敷居を跨ぎながら入って来た声に苦笑が混じった。翔一郎は身を起こしていた総司にちらりと視線を流したが、すぐにそれを田坂に向けた。
「田坂さん、瀬音に沿って壁伝いに川下へ進めば、裏木戸があります。中に居る者達の気を引きつけておけるのは、四半刻。それだけあれば、宗次郎を連れて屋敷から出られる筈だ」
「寺脇さんはどうするのです」
 急いて問う総司に、
「お前は自分の事だけを考えればいいんだよ」
 翔一郎はからかうような笑みを浮かべた。が、突然、その笑みがすっと引いた。と同時に、翔一郎はゆっくり後ろを向いた。視線の先に、男が一人、呆然と立ち竦んでいる。
「寺脇さん、あんた…」
 男の声は、怒りで震えていた。しかし翔一郎に驚きは無く、能面のように表情の無い顔で男を見ている。
「裏切り者っ」
 男が叫んだ。が、その時、不意に翔一郎が腰を落とした。そして次の瞬間、低い姿勢のまま、疾風のように男の懐へ飛び込んだ。
 暫し、だが瞬く間も無いほんの僅かな一瞬、まるで時が削ぎ落とされてしまったかのような静謐が月明かりの蒼い闇に訪れた。そのしじまの中で、男の小太りの体が月を掴むように仰け反り、やがて背中から土に叩き付けられた。翔一郎はとっくに刀を納めている。そしてその翔一郎の動きの一部始終を、総司は瞬きもせず、田坂は息を詰め、目に焼き付けた。
 翔一郎が振り返った。
「先ほど四半刻と云ったが、どうやらそんなには引きつけては置けなくなりました」
 翔一郎は田坂を見、その目を総司に回した。
「体を厭えよ、宗次郎」
 何かを云いかけた総司を遮るように、翔一郎は田坂に双眸を向けた。
「会えて嬉しかった、田坂さん。宗次郎を頼みます」
「私も嬉しかった。が、これで終わりにするのは一方的やすぎないか?」
「許して下さい」
 翔一郎の目から厳しい色が消え、屈託のない笑みが広がった。その顔のまま、
「では…」
 翔一郎は目を伏せ一礼をすると、背を向けた。
「寺脇さんっ」
 呼ぶ声に一顧だにしない伸びた背が、瞬く間に闇に溶け込んだ。

「動けるか?」
「動けます」
 田坂が差し出した手には頼らず、総司は自分で立ち上がった。
「無理をするな」
「身体を慣らしておかないと、いざと云う時に動けない」
 思うにままならない身体への不甲斐なさを、総司はそんな言葉で表した。
「そうか」
 田坂もそれ以上は云わなかった。今この若者の裡を巡る己への苛立ちを推し量れば、それで十分だった。
「裏口は川下だと云ったな」
「西高瀬川の流れは、東から西…。塀に突き当たったら、左手に行けば良いんだ」
 総司の口調はしっかりしているが、息に乱れが混じるのはは否めない。その背を庇うように後ろから、田坂は枯れた草を踏みしめる。
「裏口を開けた途端、見たくもない顔が鬼のように突っ立っているのは、ごめんだな」
 これからひと戦控えた武者震いのような高揚感を、田坂は冗談めいた言葉で誤魔化した。
 その声を聞きながら、総司は先ほどの翔一郎の目を思い出していた。
 何の憂いも無い潔い目を、翔一郎はしていた。
 だがその靭さを翔一郎に与えた、覚悟の先にあるもの。
 それが総司を焦燥に駆り立てる。
 急がなくてはならない。
 視界の先に、月華に浮き出された裏木戸が見えて来た。
 ――土方さん。
 その向こうに待つ者の名を、総司は胸の裡で呼んだ。



事件簿の部屋        雪明り(二十二)