雪明り 二十二



 四隅に闇が澱む座敷の、隔てた襖の隙間から、つつましやかな淡い灯が漏れている。
 翔一郎は静かに襖を引いた。すると凍えた座敷に光が溢れ出、中に居た者達が一斉に振り向いた。その数、ざっと三十。鋭く膝を立てた者もいる。が、入って来たのが翔一郎だと分かると、大方の者は殺気を解いた。しかし数人は険しい目つきのまま、翔一郎の動きを注視している。そう云う目が、何処に、幾つ有るのかを探りながら、翔一郎は直江と克利の隣に腰を下ろした。
「横山は如何した?貴方を呼びに行った筈だ」
 待っていたように、声が掛かった。
「さぁ…、私は姿を見なかったが」
「それはおかしい」
「見ないものは答えようが無い」
 詰問すように立ち上がった大柄な男を、翔一郎は冷ややかに見た。その時、慌ただしく走り来る足音が聞こえた。尋常で無い気配が、その足音にはある。何事かと、部屋の中が落ち着かなくざわめいた。一瞬、直江が翔一郎に視線を送った。が、翔一郎は表情を崩さず、冷たい横顔を見せている。
 足音が止まり、乱暴に襖が開いた。息を切らせた男が、強張った形相で辺りを見回す。その目が、翔一郎に止まった。
「こいつだっ」
 烈しい声が迸り、荒々しく上げた手が、真っ直ぐに翔一郎を指した。
「こいつが横山を斬って人質を逃がしたっ、俺はこの目で全部見たっ」
 声の終わらぬ内に、先ほど翔一郎を問質した男を囲む数人が素早く立ち上がった。憤りを露わにする者、狼狽する者、座敷の中は瞬時にして、異様なざわめきに包まれた。その時だった。飄々と、克利が立ち上がった。
「藩に密告したのは僕さ」
 男たちの殺気が、克利に向けられた。
「浮島っ、貴様も藩の手先だったのかっ」
「違うよ、でも僕達は間違っている」
「何を今更っ」
「いや、知っていて道を踏み外したんだ。何の罪も無い者を殺め、それが正義だと、自分達に言い聞かせて来た。だがもう終わりだ」
「御託は要らんっ」
 怒声を上げ斬りかかって来た男を、
「短気だな」
 忌々しげに眉根を寄せ交わすと、克利は、男の鳩尾に肘鉄を喰らわせた。派手な音を立てて倒れた男の手から刀を奪い取った直江が、近くにあった蝋燭の芯を切り落とした。
 突然、座敷に闇が落ちた。
 殺気が張り詰める中、翔一郎、克利、直江の三人は、庇うように背中を合わせた。そして互いの背で其々の無事を確かめ合うと、直江が懐から小さな玉を取り出し、対峙している者達の足元目がけて投げつけた。寸座、大響音が耳を劈き、立ち込めたきな臭い匂いが鼻を突き、目を焼いた。
 相手がたじろいだその一瞬を見逃さず、まず翔一郎が敵の中に飛び込んだ。そのすぐ後に、克利と直江が続く。すると、不意を突かれて怯んでいた敵も受け身から攻撃に転じ、あちこちで、鋼の弾きあう音が響き始めた。
 漆黒に青い火花が飛ぶ。
 吠えるような人の叫びが重なり合う。
 忽ちの内に、闇は凄惨な修羅と化した。
 
 暫く斬り合いが続いた後、翔一郎の後ろに直江が来た。
「刀は大丈夫か」
 短く、翔一郎は訊いた。
「まだ二、三人は斬れるでしょう」
 笑いながら、直江は答えた。
 しかしそう云っている間もなく、次の敵が正面から斬り込んで来る。その一撃を、直江は下から弾き上げた。
「腕は落ちてはいないようだな」
「貴方様に剣術を教えたのはこの私です」
「そうだった」
 翔一郎は苦笑した。その翔一郎と背中合わせになりながら、
「翔一郎様」
 直江は云った。
「地獄に堕ちる前に、大澤親子に詫びねばなりませぬので…」
「……」
「お先に参ります」
 そう告げるや否や鋭い声を発し、直江は、自分たちを囲む殺気の中に踏み込んだ。その背を眼に刻みながら、
「克利っ」
 翔一郎は叫んだ。声を待っていたかのように、すっと人の気配が傍らに来た。
「私はお前の兄であって、幸いだった」
 前の敵に油断の無い目を向けながら、その影に翔一郎は告げた。少しの無言があった。だがその克利の心の機微を、傍らに居て、翔一郎は痛いほどに感じていた。
「江戸で…」
 ぽつりと、克利が云った。
「翔一郎が人を斬った、あれ…。あれは、僕が仕向けたんだ」
 克利の唇辺に、寂しげな笑みが浮かんだ。
「翔一郎が、好きなんだ」
「……」
「どうしようも無いくらいに、好きなんだ。でも翔一郎は僕の手の届かないところにいる。だから翔一郎を僕と同じ所へ引き摺り下ろしたかった。僕は…」
「それ以上は云うな」
 翔一郎は遮った。
「それでも、私はお前の兄で幸いだった」
 そう告げる声には、慰撫し、包み込むような、しなやかな強さがあった。
 一瞬、克利は沈黙し、
「そうか、翔一郎は分かっていたんだ」
 そして、淡々と応えた。しかしその目が微かに潤んでいたのを、翔一郎は知らない。克利は一度瞬くと、
「じゃ、行くよ」
 まるで風にでも乗るような口調で告げ踏み出した。
 一斉に襲い掛かって来る敵を前に、翔一郎の目は、もう克利の姿を追う事は出来ない。次々に襲い掛かって来る刃を払い交わすの精一杯だ。しかし翔一郎は今、鋭く一閃し敵を斃すごとに、胸に抱え続けて来た黒い塊が、風塵と化して行くような清々しさを感じていた。



 遠くで上がった異様な喚き声に、総司は足を止めた。咄嗟に振り返ると、田坂が阻むように立ち、首を振った。裏口までもう間もない。それでも戻ろうと躊躇する総司を、
「俺たち二人ではどうする事もでき無い」
 田坂は厳しい目で諌めた。その眼差しを、総司は一瞬跳ね返すよう見上げた。が、すぐに瞳を伏せ、無言で先を進み始めた。
 その痩せた背を守るように行きながら、田坂は思う。
 今総司は、翔一郎を助ける事の出来ない自分を責め、憤っているのだろう。そして彼が救いを求めているのは、唯一屋敷の外で待つ男だ。ちらりと、田坂は塀を見上げた。その向こうで待つ男を、妬ましいと思った。しかし次の瞬間、俄かに心を覆った闇は、後方で起こった爆音に飛び散った。鋭く総司が振り向いた。田坂も咄嗟に後ろを見た。間違いなく、銃の爆ぜる音だ
 月明かりに浮かぶ裏口に向い、総司が走り出した。そして渾身の力で、その戸を押した。

 じっと凝視していた一点に動きが兆したのを認めるや、険しい色を湛えた双眸が細められた。そして出て来た影が、違う事無き者の姿だと判じると、怜悧な横顔に云い難い安堵が走った。しかしその一瞬の変容を察したのは、傍らに立つ斎藤一だけで、他の誰も土方の胸に起こった機微を知る者はいなかった。

「沖田さんと、田坂先生です」
 伝吉が告げに来た。土方が頷く間もなく、総司と田坂がやって来た。
 総司は乱れた息を整えようともせず、土方を見上げた。
「仔細は後で聞く」
 胸を満たして行く安堵、そして無事な顔を見た途端、その安堵が憤りに変わって行くのをようよう堪え、土方は云った。
「はい」
 青ざめた頬をし、総司は凛と頷いた。
「寺脇さんと浮島さんが中にいます」
「……」
「早く援軍を…」
 急いて訴える総司を、
「総司」
 土方は遮った。
「自分達の手で始末をつける事が、奴らの望むところではないのか?」
 他家の事情に手出しすべきではないと諌める、厳しい双眸が総司を見詰めた。しかしその叱責に抗うような、強い目を総司は土方に向けた。
「それは違います」
 はっきりとした口調に、周りに居た者が思わず総司を見た。
「寺脇さんも、浮島さんも、生き伸びることを望んではいません。けれどこのままでは、真実は誰にも伝わらない」
「それで良いと、俺は云っている」
 土方の声が険しくなった。
「違います」
「どう違うのだ」
「……」
 責められて、総司は唇を噛んだ。
 伝えたい事は溢れるばかりにあるのに、それを言葉にして訴えられない己の不器用さが苛立たしい。家の存続の為に父親を殺され、しかしそうする他仕方が無かったのだと語った克利の孤独、哀しさが、胸を締め付ける。
 その時ふと、土方の後ろに影が揺らめいた。
「俺もそう思うよ」
 八郎だった。
「たまには意見が合うじゃねぇか」
 土方との間に立つと、八郎は総司に笑いかけ、そしてその目を又土方に戻した。
「裂を探して盗人に入られた家や寺じゃ、巻き添えを喰らって沢山の人間が犠牲になった。死んだ者達にも、親や子、愛しい者もいた筈だ。そう云う者達は思うだろう。何故、事件は起きたのかと…。それは酒井家に恨みを持つ上林卿の奸計に、利用され踊らされ者達がいたからだ。じゃぁどうして、上林は酒井家に恨みを抱いているのか…。そう云う理由のひとつひとつを、渦中にいた者は、遺された者達に語らなければならない。でなければ、こいつの云うように…」
 八郎は総司へ顎をしゃくった。
「又同じ事が繰り返される。きっとな」
 聞いている途中から、土方の顔に苦い色が走った。
「副長」
 その土方を、控えめに斎藤が呼んだ。
「小浜藩へは、詳細な報告が要るのではありませんか?」
 土方は射るような目で斎藤を一瞥した。
 屋敷の中に立ち入り、そこで繰り広げられた一部始終を、つぶさに新撰組が掌握し、小浜藩へ報告する事が必要だと斎藤は云っているのだ。それは小浜藩を抑えている近藤の面子にも関わる。だが何より、斎藤は総司を庇ったのだ。
 冷徹な横顔が、忌々しげに歪む。そしてその目が、睨むように総司に向けられた。
「お前は待機だ」
「行きます」
「足手まといだっ」
 八当たり混じりの声が、烈しく叱責した。
「自分の身の始末は、自分でつけます」
 瞬きもせず土方を見、総司は答えた。土方の顔が、憤怒に染まった。聞かぬ者への憤りが、整いすぎた顔に凄みを与える。
「勝手にしろっ」
 吐き捨てて、土方は背を向けた。
「関、増田っ」
 土方が叫んだ。直ぐに二つの影が抜け出し、土方に駆け寄った。共に一番隊の隊士で剣の腕にも信頼が置けたが、何より冷静な判断が出来る者達だった。この二人を、土方は先発隊に選んだのだ。
「裏口から侵入して中を探れ」
 二人は、はいっと短く返事を残し、足音を殺して裏口に走った。そして木戸の両脇に肩を付け、寸の間、中の様子を窺っていたが、互いに目を合わせると、素早く戸を引き吸い込まれるように中へ消えた。
 待つ者達の間に、張りつめた沈黙が流れた。が、程なくして、開けたままの裏口から一人が走り出て来た。
 関、と土方が呼んだ隊士だった。
「まだ乱闘が続いています」
 早い口調の報告を聞くと、土方が振り向いた。
「行くぞ」
 その声に、闇に沈んでいた塊が一斉に動き始めた。
 まず斎藤が裏木戸を潜った。その後に続く者、或は塀に縄梯子を掛ける者、全てが粛々と、そして鋭敏に動く。
「総司」
 背を向けたまま、土方が云った。
「はい」
「動けないと判じたら、放り出す」
 それが土方の許し方だった。
「はいっ」
 答えた声に、勢いが増した。
「じゃ、先に行くよ」
 それを聞いていた八郎が、すっと、二人の前に出た。すでに手は刀の柄にある。その八郎を総司が追い、それに田坂と土方が続いた。
 再び屋敷内に入った総司の耳を、突然、断末魔のような咆哮が穿った。一瞬、総司は身を強張らせた。しかしすぐにその声が、守ろうとしている者達のものでは無いと判じた。
――寺脇さん。
 思わず、呟かずにはいられなかった。
 焦る思いに反して、足は沼地に埋もれるように重く心許ない。それを悟られまいと、無理にも歩みを進めれば息が上がる。情けなさに噛みしめる唇の痛みすら、今は口惜しい。
 寺脇と克利の元へ急がなければと、その思いだけが、総司を突き動かしていた。



 始めは有利に展開していた戦いも、時が経つにつれ、少人数の側に不利になって来る。
 直江は凭れるように壁に背を付けた。刀は刃こぼれを起こし、斬った手ごたえがあっても、相手に致命傷を負わせるまでには至らない。疲労だけが募る。
 新撰組か…、護足集か…。
 そのどれでも良い。早くにこの場に踏み込んでくれ。
 自分達が持ちこたえている、今のうちに…。
 心の裡で唱え大きく息を吐いたその左袖は切られ、二の腕から夥しく出血している。傷はそこだけではない。右の太腿にも、相当の裂傷を負っている。不意に意識が頼りなくなった。その時、翔一郎の鋭い気合が聞こえた。
 直江は口辺に笑みを浮かべた。
「…もうひと働き」
 喘ぐように呟き、ゆらりと壁から背を離した。しかしその寸座、すぐ間近に人の気配が兆した。直江は鋭く振り向いた。
「僕だ」
 その殺気を、静かな声が削いだ。
「克利様…」
 云い終わらぬうちに、克利は傍らに寄り添った。途端に、直江の眉根が険しく寄った。
「どこかお怪我をっ…」
 克利からは、血の匂いがした。闇に目を凝らせば、彼の脇腹から袴までが真っ赤に染まっている。
「油断したな。あいつら、飛び道具を持っていたんだ」
 克利は微かに苦笑した。
「…直江、僕は上林元篤の元へ行く」
 はっと、直江が克利を振り仰いだ。
「生きている限り、上林は翔一郎の災いになるだろう」
 辺りに鋭い視線を巡らせながら、克利は呟いた。
「僕は翔一郎を苦しめる者を許さない」
「……」
「翔一郎は生きるんだ」
 毅然と云い放った横顔を、直江は見上げた。
 暫し、直江は克利を凝視していたが、やがてその顔に、鬼面のような不敵な笑みを浮かべた。
「では、早うお行なされ」
 云って、直江は背を向けた。
「克利様を追う者は、一人も許しはしませぬ」
 克利は頷くと、仁王立ちになったその背に守られるように歩き出した。

 その足が幾らも行かぬうちに、突然、闇を引き裂くような咆哮が背後で上がった。
 斬ったのは直江か、それとも斬られたのが直江だったのか…。
 確かめる事もせず、克利は歩き続ける。
 灼けるような痛みが脇腹を襲い、そのたびに、目の前が霞む。
 その時、遠くで人が入り乱れる声がした。
「遅いよ、宗次郎…」
 不満を呟いた顔に、安堵と、そして慈しむような、柔らかな笑みが浮かんだ。




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