雪明り 二十三



 斎藤一が踏み込んだ時、屋敷の中は荒涼とした静けさに包まれていた。やがて次々に入れられる灯が、戦場には慣れている斎藤ですら眉根を寄せるような激闘のあとを照らし出す。斎藤は改めて辺りを見回した。
 襖や障子は破り倒され、壁や畳には夥しい血痕がこびり付いている。そんな凄惨さに目を取られていると、危うく何かに躓き掛けた。屍だった。
 戦いはもう終わってしまったのか…、そう思った時、不意に、吠えるような野太い声と、それに覆いかぶさるような甲高い声が聞こえた。
 まだ戦っている――。
 斎藤は声のした方へ身を翻した。その足を、
「一さんっ」
 必死な声が呼び止めた。振り向くと、肩で息をした総司が立っている。
「…寺脇さんの声です」
 その乱した息を整える間も惜しむように、真っ直ぐに斎藤を見、総司は訴えた。
「分かった」
 瞬きもせず見詰める瞳に頷くと、斎藤は走り出した。

 

 闇に沈めるように腰を低くし、八郎は先を進む。
 そうして五感を研ぎ澄ませ敵の気配を探りながら廊下を行くと、やがて黒い塊を目が捉えた。見澄ませると、それは廊下を塞ぐようにして座り込んでいる人影だった。だが肩の厚いその姿には見覚えがある。
 八郎は人影に近寄ると傍らに膝をつき、俯いていた顎に手をかけ上を向かせた。
 顔を確かめた八郎の眉根が寄る。
「直江さんか…?」
 後ろで田坂が問うた。その田坂を見上げると、八郎は無言で頷き、そして首を振った。田坂は直江の正面に屈み込み首筋に手を当てたが、暫くしてその手を静かに下した。直江忠兵衛は、半ば唇を開き半眼の呈でこと切れていた。
 八郎が、座位だった直江の両脇に腕を入れ体を伸ばすと、田坂が足を持ち廊下の端に横たえる。
 二人は暫く物云わぬ亡骸に手を合わせていたが、やがてどちらともなく立ち上がった。
 まだ何も終わってはいないのだ――。
 静かに踵を返した八郎の目に、厳しい光が宿った。



 浜屋の庭の外れまで来ると、漸く克利は立ち止まり辺りの気配を窺った。ゆっくりと渡って来た雲が、丁度月に差し掛かろうとしている。その雲の陰に潜むように、植垣と土塀の隙から外に出た途端、けたたましい怒声が屋敷の方角から起こった。しかし克利は振り返らず、小路をつき抜け隣家の裏木戸を開けた。
 そろりそろりと雲が流れ行き、また月が姿を現した。
 月明かりに照らし出された廃屋の、寥寥と朽ち果てた庭の真中に、地面を鷲掴むように根を張り出した桜の大木がある。その幹に繋がれている馬に、克利は歩み寄った。
「翔…」
 かける、と呼ばれた馬は、大人しく克利を見ている。
「待たせたね」
 柔らく語り掛けると、克利は手綱を取った。しかし鐙に足を掛けようとした瞬間、その顔が歪み低い呻き声が漏れた。主の異変を機敏に悟ったか、翔が首を振ろうとした。その不安を和らげるように、
「大丈夫だよ、とんだ間抜けをやってしまったんだ」
 克利は脇腹を押さえながら馬の背を軽く叩いた。そしてもう一度左足を鐙にかけ、渾身の力を振り絞り翔の背に跨った。
「いい子だ…」
 首筋を撫でると、翔は甘えるように目を細めた。
「…さぁ、行こう翔」
 息を詰め脇腹の痛みを遣り過ごしながら、克利は手綱を引いた。すると翔は、背の克利を労わるような慎重な足取りで、朽ちた門を出た。が、もう一度、今度は先ほどよりも強く手綱を引かれると、細く嘶き、やがて滑るように大路を駆け出した。



 ふと総司が足を止めた。そのまま、身じろぎせず耳をそばだてている。そんな総司を、傍らの土方はじっと見守っている。何か尋常で無い気配を察した時、総司が良く見せる仕草だった。だがその鋭さは獣の勘にも似て、昔から土方を驚かせる。
「馬の嘶きだ…」
 やがて呟くように云うと、総司は土方を仰ぎ見た。土方の眉根が寄った。もし本当ならば、包囲網が破られたと云う事なのだ。
「逃したか…」
 舌打ちせんばかりの、苦々しげな声が漏れた。だがその土方の怒りを他所に、総司の胸は激しい焦燥に駆られる。
 馬を駆ったのは誰なのか。
 寺脇か、浮島克利か、或は敵なのか。
 もし敵ならば、寺脇たちはの無事は――。
 一時に不安が押し寄せ、そしてそれは深い渦を巻きながら次々に輪を広げて行く。止まっていた総司の足が、押されるように動き先を急ぐ。
 やがて目の前に、閉められた襖が飛び込んできた。中から物音ひとつしない。しかしその静けさには、異様な緊迫感が漲っている。更に目を凝らすと、襖に肩を寄せるようにして斎藤が中を探っていた。
 総司に気づいた斎藤が、ちらりと視線を寄越した。中に翔一郎がいると、その目が語っていた。斎藤に頷くと、総司は刀の鯉口を切り、足音を殺して襖に近づいた。
 一歩近づくごと、心を掻き乱していた焦燥は消え、いつも戦に身を置く時覚える静謐感が心身を包む。
 斎藤が襖に手を掛けた。その指が微かに動き、襖を引く。その一瞬、一瞬の光景を、総司は瞳に刻み込む。
 襖が開き、隙が出来た、と、その刹那――。
 弾けた火薬音に、咄嗟に、総司は身体を低くした。その目の片隅で、斎藤が襖を蹴破ったのが見えた。
「寺脇さんっ」
 総司が叫んだ。
 声に、翔一郎が虚ろな目を向けた。柱を背にしている翔一郎の左肩から血が吹き出し、腕はだらりと垂れ下がっている。その腕を伝い滴り落ちる血が、畳に溜まりを作り始めていた。それでも翔一郎はまだ戦おうとしていた。右手は刀を握りしめ、総司から敵に目を戻し、毅然と睨み付けた。
 咄嗟に総司は翔一郎の視線の先を見た。男が、銃の引き金を引こうとしている。考えるより早く、男をめがけ総司は床を蹴った。
 視界にあるのは、引き金にかけている男の指のみ。それが僅かに動くより一瞬早く、総司の突きが男の肩に入った。その刹那、天井を向いた銃口が火を噴いた。耳を劈くような爆音を、遅れて掛けつけた八郎と田坂は片目を瞑りやり過ごした。
 肩で息をしながら、総司は翔一郎を振り向いた。翔一郎は、唇の端に微かな笑みを浮かべ総司を見ていた。しかし力尽きたように、苦しげに顎を上げると、壁を滑り床に崩れ落ちた。
 八郎と田坂が、素早く翔一郎の脇に屈みこんだ。
 総司は翔一郎に駆け寄った。
「寺脇さんっ」
 翔一郎は半ば意識を失いかけていたが、目を開けると、声を辿るように視線を動かし総司に止めた。
「…上林だ…」
「かんばやし?」
 問い返すと、気が確かになったらしく、
「翔の…」
 右手を伸ばし、総司の袖を掴んだ。
「翔の…、鳴き声がした…」
「かける…。それは馬ですか?」
 血の気を失った顔を歪めながら、翔一郎は頷いた。首筋から鬢まで染める血飛沫が、戦いの凄惨さを物語っている。
「克利の馬だ…。克利は上林の元へ行ったのだ…。頼む…、追ってくれ…」
 翔一郎から視線を離し、総司は土方を見上げた。
「私が浮島さんを追います」
 土方は眉を顰めた。
「私が行きます」
「行ってどうする。もう片はついた」
「土方さんっ」
「上林元篤と浮島克利の間にどのような事情があり、どうなろうが、これ以上は新撰組の関与するところでは無い」
 冷淡に突き放した土方に、
「真実を闇に葬ってはいけないんだ」
 総司は強い目を向けた。土方の顔が強張り、翔一郎の傍らに膝をついていた八郎が視線を上げた。
「そうする事で、誰が得をする」
 一層低い声で、土方は総司を見下ろした。
「誰の得にもならないかもしれない」
 しかしその視線を跳ね返すように、総司は土方を見詰めた。
「けれど今真実を明らかにしなければ、きっと又同じ事が繰り返される。そして何の罪もない人々が巻添えになって無念に死んで行くのです。そうなった時、人々の心には恨みしか残らない。だからっ…」
 必死に訴える横顔の硬さが、見守る八郎には悲壮にすら映る。
「こんな事を、もう繰り返してはならないんだっ」
「……」
 総司の瞳に宿る強さに、一瞬、土方は気圧された。そんな己を忌々しく舌打ちした、その時。
「俺の乗って来た馬があるよ、いい馬だ」
 八郎が、土方を見て云った。
「行くんだろう?」
 土方の眉根が寄る。その機微を目敏く見つけて、
「川畔の、柳の木に繋いである」
 八郎は揶揄するように目を細めた。
 土方は暫し無言でいたが、やがて八郎の挑発を黙殺するように総司に目を向けた。
「行くぞ」
 ありありと怒気を含んだ声が、忌々しげに促す。振り返らず、ずんずん先を行く背を総司が慌てて追う。その二人の後ろ姿を見届けると、八郎は翔一郎に目を戻した。
 翔一郎の肩には厚く止血の布が巻かれている。しかしその布に滲み出た血は、まだ広がりを見せている。
「助かるのかえ?」
 八郎は訊いた。田坂は微かに首を傾げ、
「分からん」
 短く答えた。
「名医にもか?」
「俺は人事を尽くすだけだ」
 そう云う間にも、田坂は幾重目かの布を翔一郎の肩に巻きつけ、血止めを試みている。翔一郎の意識は既にない。難しいのかもしれない…、八郎がそう思った時、屋敷の中が俄かに慌ただしくなった。新たな援軍が到着したのだ。
 そこかしこに行燈が掲げられ、忽ちの内に隅々まで光が漲った。
 田坂が顔を上げた。
「山崎さん」
 呼ぶと、ざわめきの中から人影が一人抜き出、足早に近づいてきた。
「銃創ですか?」
 傍らに膝をつき、山崎は問うた。
 嵯峨野で裂の在処を突き止め、西本願寺の興正寺でそれを確かめ、その足で浜屋まで来た顔に疲れは無い。
「左肩を撃たれている。戸板を用意してくれないか」
 田坂は早々に云った。
「先生の診療所で良いですか?」
山崎はちらりと翔一郎を見、そして田坂に確かめた。
 今新撰組に翔一郎を連れて行けば、いずれその身柄を小浜藩に引き渡さなければならない。それは政治的な意味あいを考えれば仕方のない事だ。だが田坂の診療所ならば、ある程度の自由は効く。翔一郎が助かった場合、それは尚更意味合いが濃くなる。
 山崎の判断に、
「俺の診療所だ」
 躊躇いなく田坂が答えた。

 

 西高瀬川の畔に植えられた柳が、川面に映る月を覗くように、枝を撓らせている。八郎の言葉通り、その幹に馬が繋がれていた。
 夜の闇を、一際深く塗りこめたような漆黒の毛並みを持つ馬は、土方が轡をとっても嫌がりはしなかった。
「先に乗れ」
 顎で促すように云われ、一瞬、総司は瞳を見開いた。
「でも…」
「馬は一頭だ。二人で乗るしか無いだろう」
「……」
「だがお前がついて行けないと判じたら、引き返すぞ」
 厳しい双眸に見詰められ、総司は無言で頷いた。
 先に乗っていた総司の背を支えるように土方が騎乗すると、馬は二度三度、肢を折り曲げた。その首筋に総司は手を当てた。
「頼むよ」
 声が届いたように、馬は少しだけ後ろに首を回した。利口な馬だった。
 手綱を引かれ、軽く足踏みして向きを変えた馬はゆっくりと歩き出した。
 狭い路地を抜け程なくすると、急に視界が開けた。東の終に八坂神社を置く、そこが四条通りだった。
 闇に続く道の先を見定めるように、土方が目を細めた。そして高く上げた手が、最初の鞭を打った。

 漆黒の馬が、森閑と静まり返った堀川通りを南下する。
 一瞬、四肢は宙に浮き、そして前肢が前後に地を蹴り又離れ、続いて後肢が前後して地を蹴る。まるで黒い機(はた)が、月光の糸を織りなすような美しい動きが闇を一閃して行く。
 追風を背に受け、やがて五条通りに至ろうと云う所で、手綱を操っていた土方の目が険しく細められた。道の中央に両手を広げて立つ人影を認めたのだ。土方は少しずつ手綱を引きながら、腰を伸ばした。すると馬は緩やかに動きを止め、行く手を阻んでいた者の目と鼻の先で足を止めた。
 人影は町役人だった。この辺りが持ち場らしく、夜の見回り中に馬を駆る不審者を見止め、問質そうとしたらしい。が、今は地面に落とした腰を上げられず、間一髪で馬に蹴られるところだった恐怖に顔を青くし、呆然と土方と総司を見上げている。放り投げられた提灯が、少し離れたところで燃え尽き掛けていた。
「新撰組副長、土方歳三である。御用の筋で罷り通る」
 声高に叫ばれ、男の顔がまたひとつ青くなった。総司は馬の首筋を撫で、荒い息を鎮めた。
「ひとつ、訊きたい」
 震えている男を、土方は見下ろした。
「四半刻前、同じように馬で駆け抜ける男を見たか?」
「……」
 見たか、と重ねて問われて、漸く男は顎を引いた。
「それは若い男か?」
「…へぇ」
 今度は先ほどより確かに、男は頷いた。そして怯えるように手を伸ばし、人差し指を東の方角へと向けた。克利に間違いはなさそうだった。土方は男に視線を戻した。
「お前が今夜見たこと、忘れろ。いいな」
 射竦めるように冷たい目に、男は、ひっと、短い悲鳴を上げた。恐怖に、顎の奥に言葉が絡みついたような声だった。
 土方が手綱を引くと、それに合わせて馬が顔を回した。揺られながら総司は、一瞬、空を見上げた。
 雲はもう無い。風に洗われた空には月だけがある。しかし禍々しいばかりに明るい月明りは、総司の胸を落ち着かなく騒がせる。それを見透かせたかのように、
「走るぞ」
 すぐ耳元で声がし、土方の重みが被さった。

 包み込むような温もりを背に感じながら、総司の脳裏に、鮮血にまみれた翔一郎の蒼い顔と、克利の笑い顔が交互に浮かび、そして消える。   
――どちらかの命だけでは駄目なのだ。
 月華の照らす蒼い道の先を見据えるように、総司は瞳を細めた。


事件簿の部屋        雪明り(二十四)