雪明り 二十四



 仄かな灯りが、揺らめきながら夜の森を行く。梟の鳴き声が闇を渡り、眸の細い光る目が、樹木の高い所から用心深くその灯を追う。
 克利は、手にしていた灯を遠くへ翳した。もう上林の屋敷が見えて来る筈だった。そう思った時、ふいに頭上から蒼い光が降って来た。見上げると、何時の間にか天蓋を覆っていた梢の重なりが途切れ、開けた空に月が覗いている。森が終わったのだ。更に足を進めて暫くすると、やがて月明かりに浮かぶ白い土塀が見えて来た。何処までも続くかと思われるその長い塀に囲まれた山荘は、さながら黒い要塞の如く夜の闇に鎮座していた。
「やっと着いた…」
 克利は庇うように脇腹に手を当てると、唇の端に小さな笑みを浮かべた。




 森に入る手前の、楓の太い幹に白い馬が繋がれていた。
 馬は土方と総司が近づいても怖がらず、大人しく二人を見ている。その傍らに立つと総司は、
「…翔だね」
 月明かりが青白く照らすたてがみを柔らかく撫でた。
「大丈夫だよ、浮島さんは連れて帰るから」
 掛けた言葉が分かったのではあるまいが、翔は甘えるように首を寄せて来た。
「行くぞ」
 短く促す声に、
「はい」
 総司は名残惜しげに翔から手を離した。振り返ると、土方はもう森へ踏み入ろうとしている。
「大人しく待っているんだよ、きっと連れて帰るからね」
 睫毛が影を落とす茶色の眸に云い聞かせると、総司は身を翻し土方を追った。
 昼ですら薄暗い森には、大地を鷲掴むように、盛り上がった木の根が張り巡らされている。その隙を縫って細い径が続く。手にしている灯と、零れ落ちる月明かりだけが頼りのこの心細い径を、少し前、克利も通ったのだ。その背に少しも早く追いつきたい。だが焦る心のままに足を急がせれば、締め付けられるような痛みが胸を襲う。次第に荒く息が上がるのを、前を行く土方に悟らせないよう、総司は唇を噛みしめた。




 屋敷の周りは、不気味に静まり返っていた。門に閂はかかっておらず、手を掛けると簡単に開いた。中にも人の気配は無い。
 克利は裏を回って中庭に出た。東山の豊かな水脈を巧みに取り入れた庭の、築山の陰から抜け出ると、広く視界が開け、正面に雨戸の入っていない広縁が見えた。その広縁を注視した目が、鋭く細められた。仄かな灯が映し出す座敷に、上林元篤がいたのだ。元篤は、克利を迎えるように脇息に凭れ、庭を見ている。克利は元篤に向かって歩き出した。
 克利が目の前に来ても元篤は身動ぎせず、膝に抱いた白猫に視線を注いでいる。その猫の青い目が、克利を見上げた。
 白い毛並みを愛おしげに撫でながら、元篤が云った。
「一人か?」
「そうです」
「いつもの仲間はどうしたのや?」
「僕が斬りました」
「仲間割れか」
 元篤は漸く克利を見上げ、皮肉に笑った。
「仕方が無いでしょう?貴方に利用されているとも知らず、ただの盗賊に成り下がってしまった僕達に、こうする他、もう贖罪の道は無いのだから」
「贖罪?今更か?」
「ええ、今更です。けれどこれ以上貴方の云いなりになるより、ずっとましです」
「お前たちが甘かったのや」
「そうです、僕達が甘すぎたのです…、伯父上」
 老獪な目がちらりと動き、克利を見た。
「僕は、僕の出生を知った時に、貴方を斬ってしまえば良かった」
「時既に遅し、や」
「その通り、とても残念です」
 克利は口辺に笑みを浮かべた。
「それでどうするつもりや?」
「貴方を斬ります。だってそうしなければ、貴方はずっと翔一郎の邪魔をするでしょう?」
「憎い血の者に、どうして親切を施せよう」
 元篤は、挑むような笑いを向けた。
「ほら、やはり貴方は油断がならない」
 くすりと、克利は笑った。
「お逃げにならないのですか?」
「面倒な事はようせん」
「捨っ」
 元篤が低く呼んだ。すると音も無く隣の襖が開き、その陰に控えていた黒い影が、克利の前に立ちはだかった。
「これは昔、北座の役者を斬り、お前の父親を錯乱させた男や。因果な対決やな」
 小柄で痩せすぎの男の後ろで、くぐもった声が笑った。
 すて、と呼ばれた初老の男は、白髪を無造作に束ね、じっと克利を見ている。皺の多い顔に動く表情は無く、この男は、光を嫌い年を重ねて来たのだと思える暗い目をしていた。
 一瞬、捨が横に動いた。と思うや、白銀の刃が克利の目の前に煌めいた。その烈しい一撃を、咄嗟に身を反転させ防ぐと、相手が態勢を整える前に、克利は鋭い反撃を繰り入れた。
 月明かりが零れる座敷に、二つの影が激しく重なり、又離れる。そのたびに、硬質な鋼の音がしじまを劈く。その熾烈な戦いを、膝に抱いた猫を愛おしげに撫でながら、元篤が冷たい目で見ていた。

 


 ふと総司が足を止めた。そのまま耳を澄ませるように遠くの気配を窺っていたが、
「斬り合っているっ」
 やがて小さく叫んだ。
「土方さんっ、あの奥です」
 総司は、右手の襖を指した。土方は頷いた。が、その怜悧な顔に複雑な色が動いた。先ほどから感じている違和感が、一気に膨らんだような落ち着きのない感情が、今ここに来て彼を襲っている。
 妙に静かすぎる、それが土方の胸の引っ掛かりだった。
 元々人気の少ない屋敷ではあったが、今夜は人払いをしてあるかのように静まり返っている。それは何故なのか…。上林には、克利を斃せる自信があるのだ。そう思った。己の闇を、自らの手で葬ってしまえる手段があるのだ。ではその手段とは…。そこまで思った時、ふと脳裏を過った光景があった。
 耳を劈く爆発音、鼻をつくきな臭さ、目を刺す白い煙幕、夥しい血潮、……寺脇翔一郎の青い顔。
 はっと、土方は顔を上げた。
 短筒だ――。
 咄嗟に総司を見ると、中庭に至る襖を引こうとしている。
「総司っ」
 叫び声にも振り向かず、総司は襖を引いた。その刹那、堰き止められていた月の光が土方の足元まで溢れ出し、視界の向こうに、庭を挟んで建つ建屋が浮かんだ。
 その建屋の広縁から、二つの影が庭に飛び下りた。一人は克利だ。同時に、総司も庭に下りた。
「浮島さんっ」
 走りながら、総司は刀の鯉口を切った。
 克利の後姿が微かに右に傾いている。何処かに傷を負い、それを庇っているに違いない。だが一分の隙も無いように見える敵が、構えた時、僅かに左足を引いたのを総司は見逃さなかった。
「左足だっ、怪我をしているっ」
 その声に、克利が一瞬視線を寄越した。しかしその寸座―。総司の耳を、爆音が劈いた。
 見開いた瞳の中で、克利の体が一瞬宙に浮き、反転し、そして背中から楓の幹に叩き付けられる。呆然と、総司が立ち尽くす。
 しかし克利は斃れてはいなかった。
 胸から腹にかけにかけ、夥しい鮮血に塗れながら、刀を支えにゆらりと立ち上がり、元篤を睨み付けた。
 その時、離れた位置にいた土方の視界の端で何かが動いた。 
 咄嗟に其方を見た土方の顔に、険しい色が走る。捨が、恐るべき敏捷さで地を蹴り、克利目がけて止めの一撃を繰り出したのだ。
 斬られる――。
 土方は、そう確信した。しかし次の瞬間、己の目が映し出した光景を、彼は直ぐに理解できなかった。
 地に伏していたのは捨であり、黒い塊になったそれは、もうぴくりとも動かなかった。そしてその傍らに、総司が立っていた。月華が映し出す頬は青白く、秀麗な横顔が硬い表情で捨を見下ろしている。手にしている刀の切っ先を染める赤い色だけが、一瞬で終わった戦いを物語っていた。
 土方は元篤を見た。しかしその顔が瞬く間に強張った。銃口が、総司に向けられていたのだ。
「伏せろっ」
 あらん限りの声で叫ぶと、元篤に向って土方は走り出した。
 元篤は獲物を仕留めるように目を細め、引き金を引こうとしている。
「上林っ」
 憤怒と憎悪の咆哮を上げながら、土方は走る。
 元篤の指がゆっくりと引き金を引く。
 しかしその指が、突然、戸惑うように止まった。
「ゆきっ」
 元篤が叫んだ。
 ゆっくりと現れた猫は、幹に凭れる克利と、それを庇うように立つ総司の前で止った。
「そこを、退きやっ」
 元篤の目が銃から離れた。その一瞬の隙が、土方に幸いした。元篤が土方の気配に気づいた時、土方は、刀の峰でその手首を容赦なく打ちつけていた。
 骨に至るような鈍い音がし、短筒が、月明かりに染まる広縁に転がる。
 呻き声を漏らし、だらりと垂れた右の手首を庇い、よろめきながら後ずさる元篤の背が襖に当たった。その獲物にゆっくりと追いつき、土方は再び刀を構えた。咄嗟に元篤は目を瞑った。その寸座、ひゅっと、耳のすぐ近くで風が鳴り、頬に鋭い痛みが走った。
 薄く開けた片目に、整った顔が、冷たく見下ろしているのが映った。ちらりと視線を落とすと、頬を掠めて冷たい刃が襖に突き刺さっている。
「早よう、殺せ」
「……」
「それとも我の呪いが怖いか、大魔王の土方」
 不遜な笑いが、元篤の顔に浮かぶ。その挑発を黙止し、
「そのつもりだったが、止めた」
 土方は無表情に刀を抜いた。
「あんたには死ぬまで地獄を見て貰う事にした」
 冷淡な声が告げた刹那、ぐっと元篤が呻いた。土方の拳が元篤の鳩尾に入ったのだ。
 肉の厚い体がずるずると襖を滑り、やがて襖ごと後ろへ倒れた。それを残酷な目で見届けると、土方は縁から庭に飛び降りた。

 楓の木の下に、浮島克利が横たわっている。
 その横で、身じろぎもせず総司が蹲っている。土方が傍らに立つと、総司が顔を上げ、そして首を振った。その頬に濡れた跡がある。それを隠すように、総司はすぐに俯いた。
「間に合わなかったな」
 土方が静かに膝を着くと、総司は微かに頷いた。するとその瞬間、また一滴、白い頬を伝わった涙が、克利の額に落ちた。
「泣くな」
 慰める術を知らない不器用な声が、少年のように慟哭する想い人を叱る。総司は乱暴に手の甲で目を拭った。それでも涙は止まらない。土方の手が、薄く開いた克利の目に翳された。その手を静かに離した時、克利は眠るように瞼を閉じていた。その克利の顔を、滲む目で総司は見詰めた。
 
 最後の宿で見た湖は、水面に弾ける陽が、光の漣となり湖全部を白く覆っていた。しかし千波万波の煌めきは、あまりに美しく儚く、胸を心細くした。その時覚えた孤独を、克利の眸は思い起こさせた。だがその眸は、もう二度と開かない瞼に隠されてしまった。
「二人とも…、生きなければ駄目なんだ」
 急速に失われて行く温もりを止めるように、総司は克利の手を握りしめた。その耳に、
――宗次郎。
 克利の声が聞こえた。
 声は、少しからかうように笑っていた。





「伊庭はん」
 小さく掛かった声に、八郎は素早く立ち上がった。障子を開けると、キヨが敷居際に膝を着いていた。
「目が覚めはりました」
 キヨは八郎を見上げて笑った。
「そうですか…」
 その笑い顔を見た時、八郎の胸に、初めて安堵が広がった。

 浜屋での事件から、三日目の夜が明けようとしていた。
 田坂の診療所に運ばれた翔一郎は、その間昏々と眠り続けた。弾丸が左肩の骨を砕く程の重傷だったが、幸いにも他に致命傷が無く、それが結果的に一命を取り止めた。無論その幸運も、田坂の適切な処置と、親身な看病があったからこその話だ。

 翔一郎の病室の近くまで来て、八郎は立ち止まった。丁度田坂が出て来るところだったのだ。
「話せるのかえ」
 田坂が近くまで来るのを待って、八郎は問うた。無理だと云われれば、引き返すつもりだった。
「少しなら構わない」
「直江さんと浮島の事は、もう知っているのかえ?」
「聞かれて、話した」
 そうか、とだけ答えると、八郎は翔一郎の伏せっている部屋を見た。
「俺は出かけるが、何かあったらキヨを呼んでくれ」
「こんなに早くから往診か?」
「もう一人、無茶をやってくれた患者のところさ」
「ご苦労だな、名医」
 慰めともつかぬ苦笑を、八郎は浮かべた。

 静かに開かれた障子に、翔一郎は視線だけを動かした。が、入って来たのが八郎だと分かると、微かに笑みを浮かべた。その枕元に、八郎は腰を下ろした。
「辛くは無いかえ?」
「…伊庭さん」
「なぜ助けたのだ、とは聞くなよ。助けたのは俺じゃない、此処の医者だ」
「では、田坂さんに文句を云わなければならないな」
「そう云う事だ」
「お節介をしてくれたと、恨みのひとつでも云いたいが…」
 冗談の続きを云いかけて、不意に翔一郎は顔を顰めた。動けば激しい痛みが襲うようだった。
「無理をするな」
 額から落ちた濡れ手拭いを拾おうとした八郎の手を、翔一郎が掴んだ。それは、もう左手の自由は利かないだろうと云われた者の力とは思えない、強さだった。
「知っているのなら、教えて欲しい」
 翔一郎は、烈しい目で八郎を見上げた。
「上林元篤が、どうなるのか…」
「さあな、俺にも分からない」
 掴んでいる手を静かに外し布団の中に入れてやりながら、八郎は答えた。
「だが上林は土方さんを怒らせた。…奴には、あの時殺されていた方がましだと思うような仕打ちが待っているだろうよ」
 それでも足りないと、どんな仕打ちでも足りないのだと、怒りに荒れ狂う残虐な自分を垣間見ながら、八郎は淡々と告げた。
「伊庭さん」
 その八郎の胸に棲む闇を知らず、翔一郎が云った。
「私は、克利の命を奪った上林が憎い」
「……」
「…憎いのです」
 繰り返したその声は絞り出すように掠れ、じっと天井を見詰める目に、澱のように暗い色が宿った。
「いえ、憎いのは…。憎いのは、この私自身なのです」
 云い終えた時、見開いたままの翔一郎の目から、涙が一筋零れ落ちた。
「…憎んでも憎み切れないのは、私だ」
「……」
「この私なんだ…」
 閉じた瞼から、また一筋、涙が零れ落ちた。
「寺脇さん、あんた、浮島さんに、弟以上の想いを持っていたのかえ?」
「……」
 翔一郎は答えなかった。
 八郎も、それ以上問いはしなかった。
 
 翔一郎の削げた頬を見ながら、八郎は思う。
 兄は弟を想い、弟も又同じように兄を想っていたのかもしれない。
 そして二人は互いの胸の裡を知る事無く、想いを秘めたまま、又離れ離れになってしまったのだろうか…。
 哀れが、八郎の胸を刺す。
 その時、柔らかなぬくもりが、背に寄り添った。振り向くと、庭を明るく照らし始めていた朝の陽が、何時の間にか障子を透かせ畳にも伸びている。その光が、躊躇うように翔一郎に届こうとしている。
 ああ、克利が来たのだ…。
 ふと、八郎は思った。






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