雪明り 二十五



 喉が、ひどく渇いている。水が欲しくて体を動かそうとした途端、胸に走った鋭い痛みに思わず身をよじった。その時、
「どこか苦しいのか?」
 ぼそりと声がした。薄く瞼を開くと、思いがけぬ近さに斎藤一の顔があった。
「水か?喉が渇いたのか?」
 ぼんやり一を見上げ、総司は頷いた。
 枕元まで寄ると、一は総司が胸を起こすのを手伝い、湯呑を渡した。
 余程に喉が渇いていたらしく、湯呑に唇を寄せると、総司は貪るように白湯を飲みはじめた。が、幾らも飲まぬ内に、すぐに湯呑を離し大きく咽た。
「慌てて飲むからだ」
 文句を云いつつ、一は苦しげに波打つ背を摩る。摩りながら、その背が又痩せたと思った。不意に心を沈ませた憂いが、一を寡黙にする。
 ようよう咳が鎮まりをみせると、総司は照れ隠しのような笑みを浮かべて一を見た。
「…喉が乾きすぎて、口が開かないかと思った」
「そりゃ、丁度良い」
「ひどいな、一さんは」
「喋りすぎは疲れるだけだ」
 まだ何か云いたげな総司を、一は、半ば強引に横たえた。総司は不満げだったが、さりとてこれ以上憎まれ口を叩く気力は残っていないらしく、枕に頭を乗せると軽く目を閉じてしまった。が、その目がふと開いた。そして真剣な面持で一を見た。
「一さん、巡察では無いのですか?」
「巡察?」
 見詰めたまま、総司は顎を引いた。
 三番隊が揃いましたと、誰かが一を呼びに来た声を、朧に覚えている。それがいつの事なのかはっきりしないが、総司の印象ではそう前ではない。だからこうして一が部屋にいるのが、気になったのだ。
「三番隊の巡察は昨日だ、俺は今日非番だ」
 一が苦笑した。
「その今日も、そろそろ八ツ(午後二時)になる」
「昨日…?」
 呆然と、総司は一を見た。声を聞いてから一昼夜が過ぎているだ。時に置き去りにされていた焦燥が、改めて胸を騒がせる。
「…ずっと、夢の中にいたみたいだ」
 乾いた唇から、吐息が漏れた。
 ――あの夜。
 土方に支えられて屯所の門を潜ったまでは覚えている。だがその後は、ずっと深い闇と濃い霧の中にいた。時折、遠くに人影が見えるのだが、誰とも判じかねるその黒い影は、叫んでも答えず、瞬く間に霧が隠してまう。
 土方なのか。
 それとも翔一郎なのか、克利なのか…。
 そう思う間もなく、意識は又、闇の淵へ引き摺り込まれてしまう。
 その繰り返しだった。そして先ほど、思いかけず霧の彼方が明るんだと思った刹那、一の声がしたのだ。

「寺脇翔一郎は、助かったぞ」
 不意に一が云った。一瞬表情を硬くし、総司は一を凝視した。そしてその硬い面持のまま訊いた。
「…寺脇さんは、浮島さんの事を知っているのでしょうか?」
「田坂さんが話したと云う事だ。…もしあんたがその事を訊いたら答えてやれと、土方さんに云われている」
 総司は息を詰めるように一を見ていたが、やがて静かに視線を逸らせると、布団の外へ投げ出していた手の先へ、それを向けた。
「生きていれば、浮島の死を知らずに通る事は出来ない」
「…分かっているのです」
「誰も、どうする事も出来なかったのだ」
「分かっているのです」
 まるで幼子が駄々を捏ねるように早口で云うと、それきり総司は唇を閉ざした。
 障子を透かせた陽は、細波のように畳に戯れている。
 指にかかったその光を総司は掬った。途端、光は溢れるように指の隙から零れ落ちた。そして又、何事もなかったかのように、煌めいている。
 決して掴むことのできない光。
 その時、ふと締め付けるような哀しみが胸を襲った。
 克利はもういないのだ――。
 漠然とした哀しみは、一瞬の後に鋭く心を抉る痛みに変わった。
 きりきりと、胸が哭く。
 総司は慌てて目を瞑った。そうでもしなければ、閉じた瞼の隙から滲み出るものを、一に悟られてしまいそうだった。
「もう喉は乾いていないのか?」
 不器用な優しさが、訊く。
 顔を伏せたまま、総司は首を縦に振り、そして横に振った。
「それでは分からない」
 怒ったように、一は云う。その声から隠れるように、総司は夜具を引き上げて頭から被ってしまった。
「おい」
 慌てた声が聞こえた。だがもう、涙が伝うに任せている顔を、一に見せる事は出来ない。
 漏れそうになる嗚咽を、総司は必死に堪えた。





 寺脇翔一郎が一命を取り止めたとの一報を受けるや、土方は俊敏に動いた。
 京に滞在中の、小浜藩元国家老増本栄治郎に即刻使者を立て、その日の午後には、洛北光悦寺近くの寺で会う約束を取り付けた。

 元朱鷺司家の保護を受けていたと云う寺は、茅葺門を潜ると、暫く緩やかに傾斜する径が続く。その径を下りきると、やがて鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰の三峰を借景にした庭が開け、その庭に、阿弥陀堂、茶室、そして庫裡が点在する。そう大きくは無いが、全体に瀟洒な造りの寺であった。
 ここは雪子の侍女であった美羽の実家であり、今は美羽の甥にあたる者が住職を務めている。
 ここまで来ると洛中より気温は低いが、それでも春の午後の陽は強く、少し前の肌を刺すような冷たさはない。
 
「そのままで、結構です」
 茶を持ってきた者が下がり際、障子を閉めようとしたのを土方は止めた。
「人に憚るような内容ではありませんので…」
 そしてゆっくりと回した視線を、増本に止め笑った。
「そうですな?増本様」
 増本は警戒の色を浮かべた。土方歳三と云う人間の噂は聞いていたが、こうして目の奥に宿る鋭さに射竦められると、掌にじんわり冷たい汗が滲む。
 土方は、近藤とは違う…。
 増本栄次郎は、気を引き締めた。
 人の気配がすっかり無くなり二人だけになると、改めて土方は名乗り、慇懃に礼を云った。
「先ずは、ご協力を賜りました件、お礼申し上げます。近藤も感謝しております」
「いや…、今回の事では新撰組にも迷惑をかけた」
 増本は探るような目を向けた。
「江戸から京にかけ、巷を騒がせた一連の盗賊事件の犯人達は、攘夷討幕を騙る無頼者の集団…、そう片付けができました。無論…」
 土方は少し顎を上げて増本を見、そして続けた。
「そこには小浜藩士はもとより小浜藩に関わる者は、一人もおりませんでした」
「…一人も?」
 戸惑った声が返った。
「左様。一人もおりませんでした。増本様には、何か御懸念が?」
「いや…」
 慌てて答えると、増本は土方から視線を逸らせた。
 確かに、近藤勇は、事件を極秘裏に片付け、小浜を守ると約束した。しかし元藩士たちが、あれ程の事件を引き起こしておきながら、藩が一片の汚れも被らないで済むのだろうか…。しかもその中には、寺脇翔一郎と、浮島克利がいたのだ。その思いが、増本を懐疑的にさせている。
 増本が混乱した思考に道筋をつけようとしていると、低い含み笑いが聞こえて来た。目を上げると、土方が口辺に笑みを浮かべて見ている。
「増本様は、善いお方でおられる」
「……」
「盗人達の中には、小浜藩に関係する者は誰一人としていなかったなど、そんな風に都合が良く行くものだろうかと、聊かご不安なのではございませぬか?」
「……」
 仕掛けられている罠を警戒し、増本は沈黙した。
「しかしそのようなご心配は御無用。我々が浜屋に踏み込んだ時、賊は皆こと切れておりました。無論、逃げられないと覚悟の自決をした者もおりました。その後、我々も手を尽くし彼らの身元を調べましたが、誰一人も分かなかったのです」
「誰一人?」
「ええ、昨今の京は、色々な土地から人が集まりますからな。珍しい事ではありません」
「しかし…」
「何か?」
「…いや」
 問い返されると、増本は慌てて目を逸らせた。その増本の様子を目の端に収めながら、寸の間、土方は庭に視線を向けた。
「そのような訳で、今回の事件は解決しました。もう誰もこの件を蒸し返すような事はしません。それから…」
 庭から視線を戻しながら、土方は笑みを浮かべた。
「後は私共のお願いになるのですが…」
「願い?」
 増本は顔を硬くした。
「はい。ある事情から、新撰組は公卿上林元篤を捕縛しました。調べて行く内、上林は、貴藩に尋常で無い恨みを抱いている事が分かりました。それで是非貴藩で、上林をお預かり頂きたいのです」
「上林卿を…?」
「上林の官位は既に剥奪されていますので、市井の牢でも構わないのですが、この期に及んでも貴藩への怨みを捨てぬ人間です。貴藩とて、目の届くところに置いておいた方がご安心なのでは?」
「……」
「確か…」
 土方は目を細めた。
「小浜には、人も近づけぬ断崖の下に、波の浸食で出来た洞窟牢があるとか…。月に一度、水と食料を運ぶ舟が来るだけの牢に聞こえるのは、波の音と海鳥の鳴き声のみ。やがて孤独に狂った囚われ人の咆哮とすすり泣きが、洞窟に木霊し、さながら地獄の牢と呼ばれていると聞きました」
「蘇洞門(そとも)の牢の事か…」
「ええ、そのような名でした。そこが良いと、私は思っているのですよ」
 土方は微笑し、頷いた。そして笑ったまま、
「上林元篤は、もう生きて光を見てはならないのです」
 残忍な光を目に浮かべた。
「…しかし」
 振り絞るように、増本が云った。
「寺脇翔一郎はどうするのだ。直江は死んだと聞いたが、寺脇は生きている」
「ああ、そうでした」
 少し興味を失ったように、土方は答えた。
「寺脇殿は、生涯起き上がる事も出来ず、口もきけず、生きる屍と化したも同然…、そのように、医師が診断を下しました。こうなると、助かった事が幸か不幸か…」
 痛ましげに、土方は顔を顰めた。が、直ぐに気を取り直したように増本を見た。
「しかし彼の、藩への忠誠心は素晴らしい」
「……」
「寺脇殿は危険をも顧みず、藩の名を騙り狼藉を繰り返す盗人集団の中に潜伏し、賊を捕えようとしたのですから。その勇気には、ただただ感服するのみです」
 良い御家臣を持たれましたなと云われて、増本は言葉に窮した。土方の目論見が、皆目分からないのだ。
「そこでもう一つのお願いなのですが…」
 いよいよ増本は身構えた。
「実は寺脇殿の忠義に、いたく感銘を受けた近藤が、彼を新撰組で預かり、ゆっくり養生させてやりたいと云いだしまして…。増本様のお計らいで、その希を聞き入れてやっては頂けませんでしょうか?」
「…しかし」
「増本様」
 土方は少し声を落とした。
「その事は、小浜にも都合が良いのではと…、私は思うのですが」
「……」
「小浜にとって寺脇殿は、生きていて貰っていては危険すぎる存在。しかしだからと云って、もう容易く葬り去る事は出来ない。…何しろ、直篤様の時と違い、今度は新撰組がその成り行きを注視しているのですから」
 増本は眸を見開き、その増本を、整いすぎた顔が冷然と見つめている。
 長閑な風が渡る部屋で、冷たい汗が増本の背を伝う。
 土方の目論見を、今漸く増本は判じた。
 過去の藩主交代劇と、今回の盗賊事件に目を瞑る代わり、寺脇翔一郎の自由と安全を約束しろと、土方は迫っているのだ。
 だがこの申し出を拒む術は無い。
 勝ち負けは、最初から決まっているのだ。
 そうと分かった途端、増本の積んだ歳月が、彼をふてぶてしく開き直らせて行く。
「如何でしょう、増本様。寺脇翔一郎殿の身柄、新撰組に御預けいただけませんか?近藤も私も、それを切に願っています」 
「切に?」
 増本の顔に皮肉な笑いが浮かんだ。
「最初からそうすると、決まっていたのだろうに?とんだ茶番に付き合わされたものだ」
「お気に障りましたのなら、申し訳ありません。しかし此方にも確約が欲しかったのです。増本様のそのお口から」
 ふん、と増本は笑った。
「とっくにお役を退いている私など、どれ程の力があろう」
「ご謙遜を」
 土方は笑みを浮かべた。
「酒井忠義様を小浜藩主に据えたのは、貴方様ではありませぬか」
 凍り付いたように、増本は土方を見た。
「忠義様は、まだまだ藩政に強い力をお持ちです。その忠義様を動かせるのは、云わば恩人であり、秘密を共有している増本様をおいて他に誰がおりましょう」
「……」
「では、ご了承頂けたと云う事で宜しいですな?忠義様には、何卒よしなに」
 近藤が喜びますと綻んだ端正な顔を、増本はぼんやりと目に映した。頭も体も、一気に重い疲労感に包まれた感がある。
「それでは私はこれで失礼を致します」
 一礼をすると、あっと云う間もなく、土方は立ちあがった。その動きを無言で見上げていた増本だったが、土方が敷居を跨ぐ寸座、ふと思いついたように云った。
「浮島克利の事は、どうするのだ。浮島は寺脇の弟だ。この先、万が一寺脇の口から浮島の存在が…、いや、二人の出生の秘密が外に漏れたら…」
 土方が振り向いた。中庭に射す陽が彼の背に当たり、顔の表情が判じがたい。
 少し間があったあと、
「寺脇殿は、もう生涯物云えぬと申し上げた筈」
 冷たい声が返った。
 増本は光に顔を隠している男を、息を詰めて凝視した。その増本を、土方は無言で見下ろしていたが、やがてゆっくり踵を返した。
 

 足元に戯れる光は、春の気怠さを潜み、どこかぼんやりとしている。それを嫌うように、土方は足を急がせる。
 出掛けに見た青い顔が、脳裏から離れない。
 枕元に居たのはそう長い間ではなかったが、結局総司は目を覚まさなかった。それが土方の心に小さな澱を作っている。早く帰りたいと心が急く。こうなると、思ったより増本との交渉に時を費やした事が腹立たしい。舌打ちせんばかりに、土方は顔を顰めた。その顔のまま、茅葺門までの石畳を、ずんずん歩く。
 門の辺りの落ち葉を掃いていた小僧が帰りの客に気づき、慌てて脇に除けた。が、憚りもせず、苦々しく眉根を寄せている顔に驚き、竹箒を握りしめた。


事件簿の部屋        雪明り(二十六)