雪明り 二十六
土方が西本願寺の屯所に着いたのは、もう暮れ六ツに近かった。天道は沈んだばかりで、その余光が、西の稜線を薄紅に染めていた。
玄関で足を濯いでいると、奥から隊服に身を包んだ斎藤一が現れた。今夜の巡察は三番隊らしい。その斎藤が土方に気づき、近づいて来た。
「お疲れ様です」
労いに、土方は無言で頷いた。
「今、近藤局長が部屋におられます」
「いつからだ」
「半刻程になるでしょうか」
土方は渋い顔をした。
大方、休息所に出かける近藤が、その前に総司の部屋に顔を出したと云う事だろう。しかし半刻と云うのは長いではないか。今朝方はまだ目を覚まさなかった病人だ。長居の相手は疲れる。元々近藤はそう云う所に気遣いが足りないのだ。膨らみ続ける怒りに、土方の眉根は益々近くなる。とは云え、その苛立ちの大半は、焦れて帰路を急いだ挙句、やっとの逢瀬を邪魔された八つ当たりだとは、土方自身十分承知している。
「では私はこれで」
その機微を察した斎藤が、とばっちりを避けるかのように、すっと離れた。
木陰にはもう夜の気配が蹲っているが、枝の上にはまだぼんやりと白い明るみが残っている。それを目の端に入れながら廊下を曲がると、目指す部屋には既に灯が入っていた。
部屋の前に立った途端、突然、近藤の笑い声が起こった。その大きさに、土方は片頬を歪め、そして遠慮なく障子を引いた。すると漸く笑い声を止め、近藤が振り向いた。
「おお、帰ったか」
土方の顔色など頓着なく、近藤は機嫌が良い。
「思ったより遅くなった」
「増本殿は良い御仁であったろう?」
「まぁな」
近藤の横に腰を下ろしながら、土方は適当に相槌を打った。まさかその増本に無理難題を強いて来たのだとはおくびにも出さず、土方は、二人のやり取りを可笑しげに見上げている総司の顔を覗き込んだ。その顔に、出がけに見たよりずっと生気が戻っている。胸の裡で安堵の息をつくと、土方は近藤に視線を向けた。
「上林は、小浜藩に預ける事にした」
「小浜藩にか?」
近藤は少し複雑な顔をしたが、
「まぁ、そうするのが良いのだろうな」
やがて深く頷き腕を組むと、天井を見上げた。その近藤の脳裏に、寺脇翔一郎、直江忠兵衛の顔が浮かぶ。どちらも、御家と藩に、人生を翻弄された者達だった。
「それで奴の調べは終わったのか?」
近藤を感傷から呼び戻すように、土方が云った。
「おお、それ、その事だ」
近藤は体を乗り出すようにした。
「上林は公卿商人と云われるほど裕福な公家だが、それは昔の事。奴はこの三十年程で、財産の大方を使い果たしている。くだんの復讐の為に費やしたのだ。執念とは恐ろしいものだな、歳」
小さな目が瞬き、厳つい口から遣り切れない吐息が漏れた。
「そうか、文無か…」
ところが土方は浮かぬ様子で呟いただけだった。
「驚かないのか」
近藤は不満げに土方を見た。
「いや、驚いているさ」
そうは云っても、土方にその気配は無い。それどころか、床の掛け軸に視線を向けたきり黙り込んでしまった。近藤も暫く土方に付き合いじっと掛け軸を見ていたが、その内飽きたらしく、これみよがしに大きく息をついた。
「お前は本当につまらぬ奴だな」
ようやく土方は近藤に目を移したが、表情の動かぬ怜悧な顔に、少しばかりの皮肉に堪えている様子は無い。
「では歳の考えの邪魔せぬよう、俺は出かけるとしよう」
大事にするのだぞ、と総司に目を移し、近藤は立ち上がった。
廊下に出た近藤の影を、総司はじっと目で追っていた。が、それが気配すらなくなると、
「何を企んでいるのです?」
悪戯そうな目を土方に向けた。
「企んでなどいないさ」
「嘘だ」
枕の上の青白い顔に、屈託のない笑みが浮かんだ。
「今の土方さんの顔は、何か悪い事を考えている顔だ」
「どうして分かる」
「だって、そう云う時の土方さんは、近藤先生に厭味を云われても嫌な顔をしないもの」
顔を顰めた土方を見上げ、総司はくすくすと笑った。
「どうせ俺は悪い事しか考えていないさ」
乱暴に云うと、土方は頬杖の顔を床の間に向け、又思索に入り込もうとした。が、
「本当に、何を考えているのです?」
もう一度問われ、総司に視線を戻した。土方を、双つの瞳が、瞬きもせずじっと見上げている。
「寺脇さんの事なのですか?…それとも浮島さんの事ですか?」
「前者だ」
短く土方は答えた。
「寺脇翔一郎を、新撰組で預かった」
総司の瞳が、大きく見開かれた。
「じゃぁ…」
「寝ていろっ」
叱りながら、土方は起こしかけた身体を夜具に押し戻した。
「寺脇は新撰組の隊士になる訳では無い。考えていたのは、寺脇の預け先だ。…奴が危険に晒される事無く、残された人生を送るとなると、それ相応に信頼のできる場所と人間がい要る」
その思案が面倒なのだと息をついた土方だったが、ふと、自分を見上げている面輪に嬉しそうな笑みが浮かんでいるのに気づいた。
「何だ」
不機嫌に訊いた。
「寺脇さんの事を嫌いだった土方さんが、寺脇さんの事を考えてくれているのが嬉しいのです」
「今も嫌いだ」
「それでもいいのです」
仏頂面を見上げ、総司は笑った。そのまま暫く土方を見詰めていたが、
「土方さん…」
やがて躊躇うように呼んだ。
「どうした」
「……」
「黙っていては分からん」
「寺脇さんなのですが…」
促されて、総司は漸く口を開いた。
「寺脇さんは、きっと浮島さんの事を、弟以上に想っていたと思うのです」
「そう感じる何かがあったのか?」
見詰められ、寸の間、総司は瞼を伏せたが、ややあってそれを上げると、土方の視線と合わぬよう少し遠くを見詰めた。
「試衛館で寺脇さんと接している内、もしかしたら寺脇さんは苦しい恋をしているのではないかと、そう思う事が幾度かあったのです。その頃、私は土方さんの背を追うのに必死で、自分がそんな風だったから、他人の事でも必要以上に神経質になったのかもしれません」
ぽつりぽつりと云い終えた時、黒目がちな瞳に寂しげな色が浮かんだ。
その横顔を、土方は胸に痛烈な痛みを持って見詰める。
翔一郎のあの涼やかな眸の奥に、苦しく葛藤する心が隠れているなど誰も分からなかった。いや違う。彼は悟らせようとしなかったのだ。しかしその想いを、彼は己の人生を賭して戦い守ろうとした。烈しい恋だったのだ。だが翔一郎は今、その唯一の相手を失った。彼の見るもの、聞くもの、その全てに、浮島克利の姿はもう無い。誰よりも、何よりも愛おしい者を失い残される日々。それはどれ程に恐ろしい孤独なのだろうか…。想像を絶する虚しさか、或は怒りか…。
答えの見つからぬまま、土方は総司の髪に触れた。額から頤まで手を滑らせると、動きを追う瞳が不思議そうに見上げる。唇が、土方さん、と動く。少し削げた頬は、包み込んだ掌に温もりを伝える。透けた膚の下には赤い血が巡り、色を失くした唇は息を吸い、そして吐く。
――生きていてくれて良かった。
ただそれだけを、土方は思った。
長雨が続いたあと、今度は地を焦がすような暑い日が続いた。空は青く、漸く梅雨が明けたと人々が口にするようになったある日、総司は伏見に赴いた。
まだ陽も昇らぬ内に七条まで行き、そこからは松吉の漕ぐ舟に乗った。松吉とは、江戸の頃からの馴染みで気心も知れている。その松吉の舟を伏見の船着き場で下りると、あとは一人で目的地を目指した。
三十石船が行き交い、大坂との物流の拠点として賑わう伏見の町を抜け、伏見街道をひたすら東へ向かう。やがて半刻程歩くと、大津街道と交差する手前で北に折れ、細い道に入った。更に四半刻も歩いただろうか。すれ違う人もいなくなった道の、小さな道祖神の前で立ち止まると、総司は日笠を指で上げ行く手を見た。
夏の日差しは勢いを増して辺りの田に降り注ぎ、草花は乾き、木々の葉も元気を失くしている。暑い一日になりそうだった。だが正面には、聞いていた通りの形をした低い山が見える。その麓にある寺までは、もう遠くない。励まされるように、総司は一歩を踏み出した。
釣月寺(ちょうげつじ)は、昔中国から招かれた禅師が開創した禅宗の寺である。総門の屋根瓦には摩伽羅と呼ばれる彫刻が施され、そこから覗く三門も、その奥の一の堂、二の堂、三の堂も、そしてそれらを囲むように巡らされた回廊や、回廊に施された卍の手すりも、異国の文化を色濃く取り入れている。その強い個性が、雅な寺々を見慣れた総司の目には新鮮に映る。
案内に立っていた僧が、足を止めて振り返った。
「ここでお待ちください」
其処は回廊の途中だったが、階段を使って中庭に下りられるようになっている。若い僧は軽やかな所作で一礼をし、身を翻した。
一人残されると、この寺の大きさが良く分かる。だがその広大な空間の何処にも怠惰な気配は無い。空気は清く、澄んだ静けさに包まれている。しかしその空気は、近寄りがたく取り澄ましてはいない。むしろ大らかな解放感に満ちている。その清々しい風を胸に深く吸い込んで、総司は瞼を閉じた。
一呼吸置いて目を開け、ゆっくり振り向いた時、長い回廊の向こうに一人の僧の姿が在った。
左肩をやや落とし、背筋を伸ばした美しい姿勢で、翔一郎は歩いて来る。その姿を、総司は息を詰めて凝視した。
三軒ほど間をおいて、翔一郎が立ち止まった。
「久しぶりだったな」
剃髪し、墨染めの法衣を纏った翔一郎を、総司は眩しげに見た。
「似合わないか?」
翔一郎が笑った。
「いえ…」
冗談めいた口調に、総司も唇辺に笑みを浮かべた。
「驚いたのです。寺脇さんは、本当にお坊さんになったのだと」
「それで確かめに来たのか?」
からかうように云われ、
「この目で確かめるまでは、信用できなかった」
つられて総司も笑った。
初動の応急手当が功を成し、傷口が塞がると、翔一郎の回復は田坂も目を瞠る程で、寝込んだ総司よりも早くに起き上がれるようになった。が、そうなれば彼の今後を考えねばならず、土方は頭を悩ませた。新撰組で預かると小浜藩には明言したが、隊士として置くわけには行かない。事実、彼の左腕は、もう箸も持てないだろうと云うのが、田坂の診断だった。そんな時、田坂を通し、出家し釣月寺に入山したいと翔一郎の希望が伝えられた。その心中に去来したものを聞かず、土方は翔一郎の望みが叶うよう取り計らった。それが梅雨入り前の話だ。
「庭に下りよう」
翔一郎が先に立って、階段を下った。その後に続きながら、総司は翔一郎の動かぬ左腕を見詰めた。柔らかな物言いも、穏やかな笑い顔も、そして機敏な所作も、何一つ変わらぬ翔一郎の、唯一その左腕だけが、確かに惨劇はあったのだと教える。そして同時に、あの夜を思えば、忘れ得ぬ面影が脳裏を過る。
――宗次郎。
蘇る声音を耳に、動かぬ左腕から、総司は視線を逸らせた。
なだらかな階段が終わると翔一郎は立ち止まり、体を斜めにして前方を開けた。すると総司が大きく瞳を瞠った。
「わぁ…」
漏れたのは、感嘆の声だった。
広い池を覆い尽くすかのように、白と淡紅色の睡蓮が浮いている。水面を滑るように光が弾け、その輝きの下で、葉の緑を映した水底は厳かな静けさに包まれている。そんな静と動の対照が、対岸の御堂まで続いている。
「この寺は、昔京に来た時に一度来た事があってね」
又ゆっくり歩きだしながら、翔一郎は云った。
「直江が住持と懇意で、その縁で座禅を組みに来た」
「寺脇さんが座禅を?」
「私も人並みに悩むこともあったのさ」
おどけたように笑う翔一郎の目が、一瞬、遠くを見た。眩しそうに細められたその目が、今何を見、そして何を思っているのか、少しだけ総司には分かるような気がした。
池の端の少し手前で、総司は立ち止まった。
「私は寺脇さんに謝らなければならない事があります」
振り返った翔一郎が、怪訝そうに目を細めた。
「試衛館で私が留守番をしている時、寺脇さんがやって来た雨の日の事です」
「ああ…」
漸く思い当たったように、翔一郎は呟いた。
「あの時私は、寺脇さんに射竦められ、その視線から逃れられなくて怖かった。だから寺脇さんは狂っているなどと、酷い事を云ってしまった」
慙愧に堪えられないように、総司は目を伏せた。
「謝る事は無い。あの時私は本当に狂っていたのだ」
しかし翔一郎は、淡々とした口調で云った。
「えっ…?」
「私はこの手でお前を穢し、そして壊してしまおうと思ったのよ」
瞳を見開いた総司に、翔一郎は哀しい微笑を浮かべた。
「あの日、初めて人を斬った。…克利を庇おうと、咄嗟に体が動いて、気が付いた時には相手を斬っていた」
翔一郎は背を向け、近くの睡蓮に視線を落とした。
「克利が、斬るように仕向けたのだ。かわせる筈の一撃を、わざとかわさず、私に斬らせた」
「どうしてそんな事を…」
「私の気持ちを試そうとしたのだ。私が克利の事をどれ程想っているのか、知りたかったのだろう」
少し深く目線を睡蓮にやったあと、翔一郎は総司に視線を戻した。
「しかし同時に、私も、私自身の克利への想いに気づいてしまった。もしも克利が斬られたら…。それを思って震撼し、私から克利を奪い去ろうとした者を憎悪した。…克利に止められるまで、まるで狂ったように、息の無い相手に斬りつけていたよ」
「……」
「恋に溺れれば、夜叉にもなると知った」
じっと総司を見る目が、寂しく笑った。
「寺脇さんが浮島さんへ抱いたのと同じ想いを、浮島さんも又寺脇さんへ抱いていたのでしょうか?」
翔一郎は頷いた。
「だから命がけで、私を確かめたのだ」
「寺脇さんは、その想いを浮島さんへ伝えたのですか?」
「いや…」
翔一郎は呟くと、総司から目を逸らし池を見た。
「克利は弟だ」
総司もまた、翔一郎の見る一点に視線を向けた。池に枝垂れた枝の陰になったその一帯の睡蓮は、これから花の盛りを迎えようとしている。
「私は自分の心に正直になるよりも、禁忌を犯す事を恐れた。克利を想うことは罪だと思った。だからこそ狂ってしまう事を願った。狂ってしまえば、何も恐れる事無く克利を受け入れられる…、そう思ったのだ。だからお前を利用しようとした」
浅はかな事を…、と翔一郎は深く息を吐いた。
「お前を穢して壊して…。そうすれば自分自身も壊れてしまえるような気がしたのだ。本当に、酷い独りよがりだ」
裁きを待つ咎人のように、翔一郎は総司を見詰めた。
「いいえ」
だが総司は首を振った。
「あの時…。私は一瞬、どんな事になっても構わないと思ったのです」
翔一郎が眉根を寄せた。
「寺脇さんが試衛館に来ていた頃、私は片恋の苦しさに押し潰されそうだった。でももっと恐ろしかったのは、その想いが相手に知れ、そして拒まれる事だったのです。その時を思うと怖くて、狂いだしそうだった。…そう云う日々に疲れて果て、この苦しみから逃れられるなら、もうどうなってもいいと、あの頃ふと思う時があったのです。そんな心の隙を、きっと寺脇さんに気づかれたのです。…寺脇さんをそうさせたのは、投げやりになった私の心だったのかもしれません」
中天まで昇りかけた日を背に、総司はぎこちなく笑みを湛えた。
「相手は土方さんかい?」
「はい」
硬い表情の面輪が、一度だけ、深く頷いた。
「ではお前の想いは届いたのだな」
「はい」
今度は清々しい程に澄んだ笑い顔が、翔一郎に向けられた。
「良かったな」
屈託なく、翔一郎も微笑んだ。
梢を渡る風が光を弾き葉を揺らす。その風を心地ちよさそうに受けていた翔一郎だったが、
「…しかし」
ふと、口辺に意地の悪い笑みを浮かべた。
「あの時のお前を見ていて、その気持ちに気づいてやれない土方さんは、私から見ればずいぶん鈍いと思ったがな」
大仰に顰めた顔を前に、総司は困ったように瞳を伏せた。
その狼狽を、柔らかく細めた目の中に収め、翔一郎は天を仰いだ。
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