雪明り (参)
肩口から、冷気がするりと忍び込んだ。眠りを遮るようなそれに、うっすら目を開けたが、部屋の中はまだ暗い。寺脇翔一郎は、軽く息を吐いた。頭の芯が重い。
まどろんだのは僅かな間だと思ったが、時は確かな歩みを刻み続けていたらしい。闇に、夜には無い華やぎのようなものがある。夜明けが近いのだ。
翔一郎は起き上がると縁に出、音を殺して雨戸を手繰った。途端、幾千万の針が突きささったかのような、鋭い寒気が襲った。それに押されるように思わず身を竦めたその刹那、ふと人の気配が兆した。振り向くと、手燭を持った影が直ぐ後ろまで伸びている。昨夜快く迎えてくれた、この家の主、田坂俊介だった。
「眠れませんでしたか?」
田坂は、笑い顏を向けた。
「いえ、良く眠りましたが、少々目覚めが早すぎたようです。それより先生こそ、何処かへ?」
翔一郎は訝しげな視線を田坂へ向けた。
若い医師は白い被布を身に着け、既にひと仕事終えてきたと云う風だった。彼の周りだけが、朝の清(さや)かな気に満たされている。
「近所に急患が出たので往診に行ってきたのです」
低めの透る声を抑え気味にし、田坂は応えた。そして、 「もう一眠りできるな」
朝を測るかのように、ちらりと東雲の空を仰ぎ呟いた。
「貴方も床に戻るといい。眠れずとも横なっているだけで疲れは取れます」
「ありがとうございます。しかし、この寒さで一息に目が覚めました。噂には聞いていましたが、京の冷え込みは相当なものだ」
己の不甲斐なさを恥じるように、翔一郎は苦笑した。
「私も京に来た初めての冬は、そう思いましたよ」
「先生は京の方では無いのですか?」
「京へは十年前に来ました」
「それまでは?」
「江戸です」
「そうだったのですか。…もう一つ、不躾ついでにお伺いしますが、先生は剣術か柔術か、何かそう云う武術をやっていらっしゃるのでしょうか?」
「昔は熱心に剣術の稽古に励みましたが、今は語るにも恥ずかしい限りです」
「やはりそうでしたか。…私はすぐ直前まで、先生の気配に気付きませんでした。余程使われる方だと驚嘆した次第です」
「それは貴方が疲れていた所為でしょう。疲労が溜まれば、五感は鈍くなる」
衒いの無い笑みが、際立って鼻梁の通った顔に浮かんだ。そうすると目元が柔和に落ち、精悍に整った目鼻立ちが、人懐こい風情に変わる。
「朝食の後、伝五郎殿の処へ案内します。このすぐ近くの裏店(うらだな)に、空があった筈です。それから暮らしに必要な当座の物は、うちのを使うといい。短い間なら、買い揃えるのは無駄だ」
「ご厚意に甘えます、申し訳ありません」
「そんな事を気にして貰っては困るが…、それでも人手は必要だな」
田坂は思案気に言葉を切ると、まだ夜が巣篭もっているような藪椿の根元に目を遣った。が、それも束の間の事で、直ぐにその目を翔一郎に向けた。
「そうだ、沖田君に手伝わせればいい」
声に、愉しげな響きがある。
「しかし彼は風邪を引いていると、土方さんから聞きましたが…」
「もう本復はしているのです。が、彼の場合少し脅しておく位が丁度良いのです」
砕けた物云いに、
「では先生のお墨付きを頂いた事ですし、彼に働いて貰う事とします」
翔一郎も遠慮を緩めた。
「但し、役に立つかどうかは保証しかねますが」
満更嘘を云うでも無さそうに眉を顰めた田坂に、翔一郎が笑った。
「御免下さい」
聞き慣れた声が、いつもよりずっと逸っている。キヨはくすりと笑った。
理由は分かっている、だから慌てない。途中の縫物を横に置き、緩んだ頬を両手で押さえ引き締めると、
「へぇ」
ゆっくり立ち上がり、玄関へ向かった。
キヨの姿を見とめると、総司の面輪に嬉しげな笑みが広がった。
「沖田はんやあらしまへんか」
「おはようございます、キヨさん」
「おはようさんどす、けど今日はまたえらい早おすなぁ」
キヨは大仰に目を丸くした。
総司の、誰かの為の、こんな顔を見せつけられるのは、ちょっとばかり面白くないとキヨは思う。すると重なる波のように、少しだけ意地をしてみたいと、余計な気までが胸の片隅で疼き始める。どうにも勝手な己だが、それもこれも生きて人なればこそと、キヨは腹の中でちろりと舌を出した。
「こないに熱心な患者さんやったら、せんせも喜びますわ。今せんせい、ちょっと出てますけど、すぐに戻りますよって、さぁ上がっておくれやす」
「いえっ…」
「……?」
キヨは小首を傾げた。
「…あの、…寺脇さんが来ていると聞いたのです」
そんな事情など知る由もなく、浮足立っていた足元を羞恥に攫われた総司の声が萎んだ。が、そうなれば、キヨの胸にちくりと痛みが走る。その痛みが、じんじん弧を描くように広がると、今度はそわそわと尻の辺りまで落ち着かなくなってきた。意地悪は、やはり性に合わないようだ。ふぅっと息を吹きかけ、捻くれた心を払うと、キヨは柔らかく目を細めた。
「いてはりますえ。けどさっき、若せんせいと伝五郎はんのところに行かれはったんですわ」
「伝五郎さんのところへ?」
「へぇ、暫く伝五郎はんのお長屋に、住まわれはるみたいですわ。五条の橋を渡って、うちの方へ来る二本目の通り…、鞘町通りどすけど、そこを南に曲がってすぐお稲荷はんがありますやろ?その南隣が、お長屋の木戸ですわ」
「もう其処にいるのかな」
「どうですやろ…」
丸い指先を頬に当て、男達が出て行ってからの時をキヨは計った。
「その店(たな)に行ってみます」
不意に上から声が降り顔を上げると、総司はもう玄関の敷居を跨ごうとしていた。
「せんせは、すぐ戻ってくると云うてましたえ。そやから、うちで待っていはったら、擦れ違いにならずに会えますっ、沖田はんっ」
「すれ違ってしまったら、又、追いかけてきます」
屈託のない笑い顔を残し、薄い背は、今はまだ乾いた樹肌を見せる桜が跨ぐ黒門を、あっと云う間にくぐって行った。
玄関の上り框に座り込んで、幾ばくか…。
何事も無かったかのような静けさが戻ると、キヨは小さく吐息した。
ここ十日ほど、風邪を引いて隊務から外れていた総司は、身体が回復してくるにつれ、心に重い鬱積を抱え込むようになっていたのだろう。総司自身は、そのような素振りを僅かにも見せなかったが、ふと会話が途切れた時の横顔に、或いは曇天を見上げる瞳に、キヨは総司の憂苦を色濃く感じ取っていた。そう云う心情が、懐かしい人との再会を、より嬉しいものにしているのかもしれない。否、きっとそうなのだろう。そう思えば、あの弾けるような笑い顔が、キヨには愛おしい。
「そや、松葉屋はんでお饅頭買うてこよ。皆、お腹すいてはるやろうし」
キヨはポンと手の平を合わせた。
すぐに賑やかさが戻ってくるのだ。うかうかしてはいられない。よいしょっと軽く掛け声し、キヨはいそいそと茶の間に引き返した。
教えられた裏店は、診療所から西を見、ほぼ直線の処にあった。木戸は鴨川に向かって開いており、時折、吹きすさぶような風が路地を這い滑り抜ける。昨夜の雪を乗せた木戸を、総司は、昂(たか)く胸打つ鼓動を叱りながらくぐった。
店(たな)はひっそりと静まりかえっていた。朝の早い者は仕事に出、夜遅い仕事から帰った者はまだ眠りについている、そう云う、丁度人の切れる頃合だった。
大した戸数ではないが、それでも家々の戸が閉まっていれば、田坂と翔一郎が何処にいるのか分からない。或いは、キヨの云う通り、もう診療所に戻ってしまったのかもしれない。先ばかりを追っていた総司の心に、ふと寂しさに似た焦りが兆す。と、その時、ことりと小さな音がした。咄嗟に其方を向くと、二軒先の戸が引かれ、田坂が出て来るところだった。長身の田坂は鴨居を気にし、少し頭を低くして出て来た。そしてその後から現れた姿に、戸口を凝視していた瞳が見開かれた。
「寺脇さんっ」
迸るように、総司は懐かしい人の名を呼んだ。
一瞬、翔一郎は驚きの目を向けたが、己に向かって走り来る総司を認めると、眩しげに目を細めた。
「久しぶりだな」
逸る己を鎮めるかのように、翔一郎は静かに笑った。
「はい」
「お前、風邪を引いたそうだが大丈夫なのか?」
「風邪など、もうとっくに治っていたのです。それなのに…」
総司は田坂に視線を移すと、瞳に恨めしい色を浮かべた。
「咳を鎮める薬は苦くて余計に咳が出るとか、熱冷ましの薬は飲むと気分が悪くなるとか、よくも云いたい放題な呆れる患者だった事さ」
「何だ、相変らず薬嫌いは変わっていないのか」
返り討にあって不満そうな面輪を、笑いを含んだ声がからかった。
「そんな事はありません」
「まぁいいさ。総司が変わらずにいてくれて、私は嬉しいよ。それにしても、まさか京で再会が叶うとは思っていなかったな」
一重の涼しげな目が、柔らかく細められた。
「私もです」
総司は笑みを湛えて頷いたが、ふと気付いたように、視線を翔一郎から外すと、二人が出て来た戸口に歩み寄り、家の中を覗きこんだ。
「寺脇さん、ここに住むのですか?」
「そうだよ」
背後から、短いいらえが返った。
閉め切ってあった家の中は、微かな黴臭さが鼻を突く。暗さに慣らすように、総司は瞳を細めた。
中は、煮炊きが出来る土間と、二畳ほどの板の間の奥に、畳の部屋があるだけだ。狭くはあるが人の気配の無いそれは、ただただ、がらんと寒々しく思える。だがその虚空が、総司の胸に、懐かしさの襞に埋もれていた疑問を呼び起こす。――何の為に、翔一郎は此処を住処とするのか?
翔一郎が京に来ていると土方から教えられたのは、今朝の事だ。その時土方は、翔一郎が田坂の診療所の客になっていると云った。それ以上は何も云わなかった。それは、その先を問うても最早答えぬと云う、土方の意思でもあった。
「総司」
突然呼ばれて振り向くと、翔一郎がしたり顔で唇の端に笑みを浮かべていた。
「お前、不思議に思っているのだろう?何故ここに私が住むのか…、が、聞くに聞けない」
「……」
「図星のようだな」
「すみません」
「謝る事はないさ、不思議に思うのが自然だ」
己の裡に芽生えた疑問、それはともすれば、負に傾く予感と隣り併せにあらばこそ、その根源を見極めるように、総司は翔一郎の言葉を待つ。
「年が明けてすぐ、納戸役を拝命したんだ。しかし私には、納戸にある物の価値がさっぱり分からない。元々、審美眼と云うものが欠けているのだろうな。困っていたところに、ひと月程、叔父が京屋敷に出向する事になった。そこで私も一緒に上洛し、滞在中、暫く美術品を見る目を養う事にしたんだ。だが毎日、寺社仏閣の美術品を見て回っているのでは、遊んでいるようで京屋敷には居辛い。かと云って、旅籠では懐が続かない。思案の末、近藤殿の伝手を借り、空家を一軒探して貰ったのさ」
語り終えた最後に浮かんだのは、衒いのない笑みだった。だが不自然な程に隙の無いそれは、詮索する手をぴしゃりと断つ冷たさをも秘めていた。
「そうだったのですか」
蟠りが、大きく心に蔓延るのを覚えつつ、総司はこの話題から離れた。そしてそんな心裡を読まれぬよう、そっと視線を外すと、再び家の中を覗き込んだ。その背から、
「君は今日非番だろう?」
田坂が問うた。顔を戻すと、総司は頤を引いた。
「だったら寺脇さんの引越しを手伝えよ。当座に必要なものの大方はキヨが用意してある筈だ。あと、伝五郎さんも、入用な物があったら貸してくれると云ってくれた」
「いいよ、総司にも用事があるのだろう?」
「いえ、今日は一日寺脇さんに付き合うつもりで来たのです」
屈託のない笑みが、細い線で造作された面輪に広がったが。が、すぐに、
「…そうだ」
小さな呟きが漏れた。
「今日、八郎さんが、田坂さんの処に来ると云っていた」
記憶を確かめるように一度瞬きすると、総司は田坂を見上げた。その田坂が口を開くより一瞬早く、
「伊庭さんが?」
翔一郎が訊き返した。
「はい」
「では伊庭さんにも遇えるのか…、嬉しい事だな」
懐かしい目をした翔一郎に、総司も笑みを浮かべて頷いた。
「寺脇さんは、伊庭さんとも顔見知りですか?」
田坂が、意外そうに訊いた。
「ええ、試衛館で」
「ああ…」
それならば判ると云う風に、田坂は顎を上げた。
「世相がこのように騒がしくなった昨今、外の道場に出入りする事を、藩も見て見ぬ振りをしてくれたのです」
「それで寺脇さんも、近藤さんの道場へ?」
「はい。最初は桶町にある北辰一刀流の道場へ通っていたのですが、江戸屋敷の近くに試衛館がある事を知って…」
「それではと、早速出向いた。ところが出てきたのは、門弟でもない伊庭さんと云うわけか」
一度繋がれば容易に想像できる縁の由来に、田坂は苦笑した。
「まぁ、そう云う事です」
つられて、翔一郎も笑った。
「初めて会った時、総司はまだ十七かその位じゃなかったのかな」
「そうです」
遠くなってしまった近しい昔を手繰り寄せるように、総司はゆっくり頷いた。その横顔を、垂れ込めた雲の割れ目から差す光が、頼りなく照らす。
「寺脇さんが試衛館にいらしたのは、私が十七の春先でした。その時、私の他は誰も居なくて、丁度遊びに来ていた八郎さんが…」
笑いを忍んで曖昧になった語尾を、
「そう、伊庭さんが出てきて、生憎ここの道場主は留守だが、門弟でない自分で良ければ立ち合うと云ったのです」
翔一郎が繋いだ。
「へぇ」
面白そうに相槌を打ちながらも、田坂には、その時の様子が手に取るように分かる。
突然門を叩いた剣客に、八郎自身、興は動いただろう。しかし八郎にそのような行動を取らせた一番の理由は、再び寺脇が来た時、総司が立ち合う事になるかもしれないと踏み、その太刀筋を見せておきたかったからに相違無い。
「で、どっちが勝ったって?」
そんな推量をしている事などおくびにも出さず、田坂は訊いた。
「寺脇さんです。八郎さん、一本も取れなかったのです」
「伊庭さんが?」
声に、微かな驚きが混じった。
総司が十七と云えば、ひとつ上の八郎は十八。その頃、八郎の剣は天分と噂され、江戸四代流派のひとつ、心形刀流を継ぐ者と期待されていた事は、田坂ですら聞き及んでいる。それゆえ、年長の寺脇と、経験の差を引いたとしても、そう簡単に八郎が負けるとは思えない。改めて寺脇翔一郎と云う剣客に興が動くのを、田坂は禁じ得なかった。その好奇心のまま、寺脇を見た。
「沖田君とはどうだったのです」
一番知りたい処を直截にぶつけると、翔一郎は総司に視線を向けた。その目が笑っている。
「負けました」
総司は、いともあっさり答えた。
「ほう、君が?」
田坂は、驚嘆の息をついた。
「しかし、私は未だ嘗て、あんなにひやりとした立ち合いをした事は無いよ。二本取るのがやっとだった」
慌てて足された言葉に、総司は首を振った。
「そうは思えなかった」
不器用な生真面目さは、己への配慮を良しとしない。
「…それに」
総司は寸の間言葉を途切らせたが、やがて思い切たように瞳を上げ翔一郎を見た。
「あの時、私が取った一本目は、寺脇さんがわざと打たせてくれたものだと思う」
和やかな昔話から笑いが消え、真摯な眼差しが翔一郎を追い詰める。
「私はそんなに優しい人間じゃないよ」
「そうかな?私には上手く打たされた、と云う感じがしたけれど…」
総司は小首を傾げた。
拘りを解けずにいる面輪を、翔一郎は暫し見ていたが、やがて口辺に笑みを浮かべた。それが、降参だと云っていた。
「総司は、変わらないな。では本当を云おう。そうだよ、あの時私は君の太刀筋を見たかったんだ。だから誘った」
「やっぱりそうだ」
いらえを得た途端、朗らかな笑いが興った。長いこと抱えてきた疑惑が、雪どけの水に流れて行くような清清しい声だった。
「私は、捨て身の策を仕掛けた訳さ」
翔一郎は意味ありげに目を細めた。
「君は年よりずっと幼く見えて、こんな少年がと、私には疑問と油断があった。だから突きを入れられた時、あまりの凄烈さに背筋が凍った。子供だと思って甘く見ていた訳だ。太刀筋を見極めなければならないと判じたのは、その瞬間だ。それで脇を甘くして誘った」
「それに、君はまんまと嵌ったと云うわけか?」
「そうです。後の二本は、竹刀をかわす間も無く、気付いた時には打ちこまれていまいました」
笑って頷いた面輪に衒いは無い。かねての疑問が解けた今、、総司には、悔しさよりも懐かしい想い出なのだろう。
「その後、手合わせする事は無かったけれど、寺脇さんの一刀流の形は幾度も見せて貰いました」
「伊庭さんも、その負けたと云う一度だけか?」
「八郎さんから聞いた方がいい」
田坂を見、総司は悪戯げな笑みを浮かべた。
木戸を出た処で、とうとう白いものがちらついて来た。それは鉛雲の下に鬱然と埋もれている家々の重さとは不釣合いに、戯れるように風に舞い、地に降りるや姿を失くす。
「止むかな…」
総司は空を見上げた。
「どうかな」
総司は、翔一郎に瞳を移した。
「寺脇さん、京にいる間に立ち合ってくれますか?」
「構わないよ」
「一度は寺脇さんに勝ちたいな」
「…勝つさ」
応えて、翔一郎は、黒く湿った土に視線を投げた。
その声が乾いていると、総司は翔一郎の横顔を凝視した。
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