雪明り (四)




 玄関を入ると、良い匂いがした。仄かに鼻腔をくすぐるそれには、凍えた身をほっとさせるような温もりがあった。
「お帰りやす」
 朗らかな笑い顔で迎えたキヨに、
「伊庭さんが来ているのか?」
 式台を踏みながら、田坂が訊いた。
「へぇ。朝御飯がまだだと云われはって…」
「人の家の飯にありついている訳か」
「伊庭はん、ウチの作る御飯が一番やて、云わはりますのや」
「伊庭さんも、女あしらいと口だけは上手いな」
「あしらう事も忘れてしもうたお人が、何を云わはりますのやら」
 ふっと声を平らにすると、キヨは翔一郎と総司に顔を向け、そこに極上の笑みをのせた。
「寺脇はんも沖田はんも、寒うおしたやろ?お二人には、松葉屋はんのお菓子を買うてありますえ。さぁさ、早よう上がっておくれやす」
 田坂には目もくれない。そうなれば、寸の間ごとに、蚊帳の外の居心地は悪さを増して行く。
「では俺は仕事を始めるか…」
 所在なさげに向けた背を、
「おきばりやす」
 ツンと乾いた声が送りだした。
 後ろで、総司が笑いを堪えていた。




「よぉ」
 まるで昨日別れた友に語りかけるように、八郎は翔一郎を迎えた。手は茶碗と箸を離さずにいる。
「食事中に邪魔をしてすまないな」
 翔一郎も翔一郎で、膳の上で湯気を立てている椀を覗きこむと、
「旨そうだな」
 鳴く虫を抑えるように、腹に手を遣った。
「寺脇さんも食うといい。飯は食いたい時に食うのが一番滋養になる、とは此処の名医の持論だ。嘘か真は知らん」
「一理あるかもしれない」
 翔一郎は苦笑した。
「まぁ、医者の蘊蓄なぞどうてもいいが、キヨさんの飯は絶品だ」
「いややわぁ。伊庭はんはお口が上手やて、せんせが云うてはりましたえ。うちは騙されません」
 きっぱりと云い切った口ぶりほど、キヨの顔は満更でも無い。ふくよかな頬の下に、抑えきれない嬉しさが込み上げているのが、柔らかく細めた目の辺りに見てとれる。
「俺は嘘は云わないよ、こんなに旨い飯を食わせて貰いながら、それを当然としている田坂さんが罰当たりなのさ」
「私も旨いと思いますよ。実際、朝餉を頂戴ばかりなのに、こうして膳を見れば又腹の虫が鳴く。田坂さんが羨ましい限りです」
 褒め言葉が二つ続けば、心が浮足立つのはもう抑えきれない。
「いややわ、寺脇はんまで」
 華やかな声が、二人を詰った。
「ほな、すぐにご飯、用意しますわ。伊庭はんが美味しいお漬けものを買おてきてくれはったんですわ」
 キヨはいそいそと立ち上がった。そして、あっと気づいたように、
「沖田はんは、ご飯どないします?」
 総司に目を遣った。
「私はお菓子を頂きます」
「せやったら、沖田はんにはお菓子と、美味しいお茶を淹れてきますわ」
 目尻にふたつ皺を刻んで微笑むと、キヨは軽い足取りで廊下に出た。


「で、寺脇さん…」
 キヨが消えると、
「京には何の用だえ?」
 八郎は窺うような視線を翔一郎に向けた。口辺に薄い笑みが浮かんでいる。
「勉強…、と云うところかな。少し物を見る目を肥やさないと、御役御免になりかねないのでね。滞在中は、美術工芸品を見て回るつもりだ」
「ふぅん」
 小鉢の中の漬物を口に放り込みながら、八郎は気の無い返事をした。
「信じていないようだな」
「信じているよ、それだけじゃないってね」
「疑い深い事だな」
 翔一郎の苦い笑いに、総司が目を瞬いた。
「寺脇さん、他に何か用があるのですか?」
「いや、話した通りだよ。伊庭さんの考えすぎさ」
 総司の疑念を軽くいなし、翔一郎は八郎に困惑の目を向けた。しかし八郎は返事をしない。何も云わず、暫し黙々と口を動かしていたが、やがて口の中のものを名残惜しそうにゆっくり嚥下すると、漸く翔一郎と総司を見、そして小鉢を指した。
「この漬物だが…」
 二人が視線を遣った其処には、親指程の小茄子の漬けものがある。仄かな香りからして、どうやら白味噌でつけてあるらしい。
「雲母漬(きららづけ)と云うのだそうだ。洛北にある一乗寺と云う里で作られ、比叡山に続く急峻な坂道に難儀する僧侶達を、一時癒して来た味らしい」
 突然始まった薀蓄の意図が判じられず、翔一郎も総司も一瞬黙った。が、すぐに、
「旨いのか?」
 当たり障りなく、翔一郎が訊いた。
「旨い」
即座に答えが返った。
「味にうるさい伊庭さんが云うのなら、本物だな。だが其処まで、漬け物を買う為に、わざわざ足を運んだのではあるまい?」
 八郎は、ちらりと翔一郎を見た。
「一乗寺を越え、更に山深く行くと大原の里がある。…その大原の手前で、人が殺された。五日前の事だ」
 微かに、総司は息を詰めたが、翔一郎は表情を変えない。
「人が斬られる事自体は、別に珍しい事じゃない。それに大原は、京の海側へ抜ける街道筋の村だ。北国からの海産物を運ぶ者達で、思いの外、人の行き来もある。仮にそう云う事件があっても、不思議ではない。…斬られた者の実家が小浜藩の馬廻り役で、その者自身も腕は相当立ったのだ、と云う点を除けば興に足るものは無い」
「小浜の者だったのか…、知らなかったな。そんな事があったとは」
 翔一郎が、驚きの相を呈した。
「当然だろう、寺脇さんは江戸詰めだ。国元の人間の事まで分かりはすまい。それにそやつ…、大澤一平と云うが、家は兄が継いでいて、小浜は疾うに離れている」
「ならば、分からないな」
「それが普通だ。だが…」
「だが?」
 翔一郎の声は、謎解きを楽しんでいるように笑いを含んでいた。
「一撃で仕留められていたそうだ、大澤一平」
「一撃…?」
「そう、一撃だ。念入りに調べたが、他には掠り傷一つ無かった。大澤は、自分の身に何が起こったか分からない内に、あの世とやらへ行っただろうとの、検分に当たった者の報告だ」
 八郎は、最後に残っていた小茄子を口に入れた。意識は、つい一瞬前までの物騒な話を素早く離れ、口に広がる白味噌の芳醇な香りを楽しむかのように、目が細められた。が、ささやか過ぎる至福は、即座にも足らず破られた。
「八郎さんは、何故そんな事を知っているのですか?」
 総司だった。
 無粋な、と云う顔を八郎は向けた。しかし総司は身じろぎしない。総司には、そのような出来事のあったのを、何故八郎が知っているのかと云うのが疑問らしい。深い色の瞳が、瞬きもせず八郎を見詰めている。
「飯くらいゆっくり食わせろ」
 うんざりとごちた呟きに、これみよがしの憂鬱が混じった。
「大澤は、二十を過ぎて京に出、西堀川にある心形刀流の道場に通い始めた。入門するや、めきめきと頭角を現し、五年経った頃には師範代になった。直後に道場主の娘との縁談が整い、この春の祝言に向け準備も進められていた。結構な事だ。ところが今から半月ほど前、大澤に、国元から便りが来た。それからだ。大澤の様子がおかしくなったのは。険しい顔で考え込む事が多くなったそうだ」
「誰からの文だったのだ?その国元から、と云うのは」
「分からん。誰が訊いても答えようとはしなかったと云う。しかもその文は、奴が読んだ直後に灰にしてしまったそうだ」
「……」
 僅かに、翔一郎が眉根を寄せた。
「そんな日が幾日か続いた頃、大澤はふらりと出かけたきり帰らなかった。そして翌朝、見つかった時は、くだんの骸になっていた。…まぁ、そんなところだ」
 語り終えて、八郎は茶を啜った。
「…八郎さんが今回上洛したのは、その事と何か関係があるのですか?」
 問い、聞き、繋ぎ合わせたひとつひとつの話しの端を結ぶように、総司が、八郎を映す瞳に真摯ないろを湛えて訊いた。
「京に来たのは、殺された大澤の師である、道場主の坂田近史郎殿の依頼だ」
「依頼…?」
「仇討ちの助っ人だ」
「何故八郎さんが?門弟の中に、他に人は居ないのですか?」
「さぁな。坂田殿は齢五十だが、俺とて勝てるかどうか分からん剣豪だ。その坂田殿が助太刀を頼んで来た」
「……」
「斬られた傷を見て、自分、そして門弟の中にも相手に勝てる、或いは五分に持って行ける人間がいないと判じたんだろう」
「八郎さんは太刀打ち出来るのですか?」
 嫌そうな目が、総司を見た。しかし総司は瞬きもせず、いらえを待っている。
「遠慮の無い奴だね、お前は」
 今一度、湯呑みに手を伸ばしながら、八郎はぼやいた。
「だがこう云う所が、総司の総司たる所だろう?」
 それまで黙って成り行きを見ていた翔一郎が、笑いを堪え口を挟んだ。
「失礼を失礼とも思わないで踏み込んで来る、…確かに、そうではあるが」
「総司は真実を訊きたいだけだ、素直なんだよ」
「素直も度を超すと、中々残酷なものだな」
「気を悪くしたのなら、謝ります」
「構うな、お前は素直なだけだ」
 天井を仰いだ端整な横顔を、不満げな瞳が見詰めた。その様子を可笑しそうに見ていた翔一郎だったが、ふと気付いたように、視線を八郎に止めた。
「伊庭さんも何処かに宿をとり、滞在ですか?」
「いや、暫くこの家に居候させて貰う」
 湯呑みを置くと、八郎は翔一郎を見、嫌みのない笑みを浮かべた。
「本当は寺脇さんとも旨い酒を呑み歩きたいが、かくの如き面倒な仕事を抱える身。折角こうして再会出来たと云うのに、付き合いが悪くて申し訳ない」
 実際、八郎にとり、今回の上洛はあまり気乗りがしなかったらしい。顎を撫でながら語る調子が、憂鬱そうだった。
「斬った相手の手掛かりになるようなものは、何かあるのですか?」
 総司はまだ大原の事件に気を取られていた。
「皆無だ。何か新しい話が聞けるかと、わざわざ大原まで足を運んだが徒労だった。尤も、期待して行った訳じゃない」
「では何故?」
「一応は、真剣だと云う姿勢を見せておかねばなるまい」
「姿勢だけですか?」
「他に何がある?」
 あっさり云われて、総司は一瞬瞳を瞠ったが、すぐに声を立てて笑いだした。
「何だ?」
「だって…。もし斬った相手が見つからなかったら、どうするのです?そうそうお役目を離れてはいられないでしょう?」
「役目に戻るさ、そっちが本業だ。だが一度は京に来、顔を見せない訳には行くまい?要するに、形だ」
「形?」
「坂田殿も、そう簡単に婿の仇が見つかるとは思ってはいないだろうよ。それでも、探す事を止める訳には行かない」
「ずっと?」
「ずっとだ。侍だからな」
 面白くもなさそうに、八郎は呟いた。
 障子に、ふと淡い陽が差した。だがそれは瞬く間に厚い雲に追いやられ、又もとのように部屋の中は薄暗くなった。紙の砦から忍んだ、冷え冷えとした空気が、火鉢で温まった膚を刺す。
 ぬるくなった茶を飲み干す八郎の横顔を、翔一郎は静かに見詰めている。その横顔が硬い。視線を合わせてはいないが、二人の間には、触れれば切れるような緊張感がある。その、厳然とした存在が、総司の胸を騒がせる。それは、冴え冴えと輝いていた月が、不意に流れてきた雲に遮られ、すべての影が、平坦な闇に沈んでしまったような、暗い兆しだった。
 総司は八郎を見、そして翔一郎に視線を向けた。気配に気付いた翔一郎が、総司と目を合わせた。向けられたのは柔らかな眼差しだった。だからこそ、間際まで翔一郎の纏っていた緊迫感が、異様だった。
 胸を騒がせる靄が黒い点となり、そして心の底に澱を沈めて行くのを、総司は覚えずにはいられない。
 
「どうした?」
「何でもありません…」
 咄嗟に首を振ったその時、障子に丸い影が差した。
「おまっとうさんどす、寺脇はんのご飯できましたぇ」
「キヨさんだ」
 ほがらかな声に救われたように、総司は笑みを浮かべかけた。が、それがぎこちなく強張る。そんな自分をを叱りながら、
「今、開けます」
 慌てて障子の桟に手を遣った。
「寺脇さんも、口が上手くなったな。キヨさん、すっかり寺脇さん贔屓だぜ」
 八郎が、からかうような調子で翔一郎を見た。





 九ツ(午後十二時)の鐘が遠くで鳴った。
 足元から、凍りつくような冷気が這い上ってくる。
「あと何がいるんだ?」
 八郎は、早口で後ろの田坂に声を掛けた。
「鍋釜を探せとキヨが云っていたが、男一人の暮らしなら、これひとつで足りるだろう」
 棚の中段から、田坂は小振りの鍋を取りあげた。
「煮炊きなぞするのかね?あの人?」
「藩からの扶持は大した事はあるまい。気楽な旗本とは立場が違う」
 ちくりと皮肉ってみたところで、
「ならば、飯も提供してやれ。五条の医者は、腕は知らぬが慈悲は深いと宣伝してやるぞ」
 棘も刺さらぬ鉄膚の主には通じない。
「云ったさ、是非飯も食えと。…キヨが、な」
「だが断った…?そこまで甘える訳には行かないとか、何とか云って」
「あの人が、あんたのような神経の持ち主なら、俺も今頃鍋釜を探さずに済んだものをな」
「そりゃ、生憎だったな」
 寒い、埃臭いと、さんざん文句を云ったにも関わらず、八郎は面白そうに薬棚を見ている。
「それで…」
 棚の奥を覗きながら、
「寺脇さんとの勝負、どうなったんだって?」
 田坂が問うた。
「五年前の話しか?」
「すっと出たな、歳月が。そんなに忘れられない勝負だったのか?」
 田坂の目が、笑った。
「直接聞けと、沖田君に云われたのさ」
 八郎はふんと顎を上げたが、
「どうにもならないさ」
 他人事のように呟いた。
「だがその後も竹刀を合わせたんだろう?」
「いや」
 いらえは短かった。
「あれきりだ」
「あれきり?」
 田坂が、訝しげに眉根を寄せた。
「では立ち合ったのは、一度だけか?その、負けたと云う?」
 振りかえらず、八郎は頷いた。
「負けたきりか?」
「そう、負けた、負けたと云うな」
 機嫌悪く眉を顰めた顔が、漸く田坂に向けられた。
「だがそうなのだろう?」
「あの時の寺脇翔一郎には、俺も、総司も勝てなかったさ」
「それ程強いのか、あの人」
 感嘆の息が、田坂から漏れた。
「試衛館では他に勝てる者はいなかったのか?」
「…そうさな」
 八郎は、渋い面もちのまま一寸言葉を切った。が、すぐに
「土方さん、か…」
 思案気に呟いた。
「あの人なら、勝たずとも、負けっぱなしで終わると云う事は無かったかもしれないな」
 云い終えた時、唇の端が、意味ありげに上がった。
「土方さんか…?だが、あの人こっちの方は」
 と、田坂は竹刀を振る真似をした。
「大した事は無いだろう?」
「あんたも、大概失礼な人だね」
「あんたはもっと辛辣だろうに」
「嘘じゃないから、仕方が無いだろう」
 他人を嗜めた次の口で、己の無礼を確乎と云い切る舌の根の乾きの素早さに、田坂は苦笑した。
「で、あの時、寺脇さんに対しては、何故土方さんが最強だったんだ?」
「あんた、人を斬った事があるか?」
「さぁな」
 口元の笑みを、田坂は引いていない。
「ま、あんたの事はどうでもいい。問題は寺脇翔一郎だ。…あの人が試衛館に来たのは、多分、人を斬って間も無くの時だ。太刀捌きに、そう云う凄みがあった」
「世に云う、血の匂いと云う奴か?」
「そうかもしれんな。…一度人を斬ると、暫く、生死と紙一重の瀬戸際に身をおいた緊迫感が忘れられなくなると云う。あの時の寺脇さんには、そう云う狂気の様なものがあった。…天稟と云われていた総司も少年だ。狂気に敵う術は、まだ持ち合せちゃいなかった」
「狂気ねぇ…」
 唸るように呟くと、田坂は腕を組んだ。
「確かに土方さんなら、互角までとは行かずとも、一太刀…、いやひと蹴り位は入れられたかもしれんな。あの人のは剣ではなく、喧嘩だからな」
「あの人は、鬼さ。そうなれば俺など所詮、人。鬼と狂人、どちらとも関わりたいとは思わないね」
 寒さに堪えられなくなったのか、八郎は蔵の敷居を跨いだ。
「おい」
 粉雪のちらつく外へ出かけたその背を、田坂が止めた。
「沖田君は、あんたが今したような推量を、同じようにしたのか?」
「どうだかな。勘の良い奴だから、何かは感じただろう。だがその後、あいつは寺脇さんと立ち合う事を禁じられたから、未だそれが何だったのか、宙ぶらりんのままかもしれんな」
「禁じたのは、近藤さんか?」
「近藤さんの義父上の、周斉先生だ。成長途中の愛弟子の剣を、邪なものに触れさせたくないと、師だからこそ思ったのだろう。以後寺脇さんの相手は、近藤さんがするようになった」
 八郎は、羽織の両袖に手を突っ込み鳶にすると、母屋に向かって歩き始めた。それに続きながら、
「あんたは今、寺脇翔一郎に勝てるのか?」
 田坂が訊いた。
「さぁな」
 振り返らず、八郎は鉛色の空を見上げた。
 天を見る脳裏には、大原での一件を、静かに聞いていた翔一郎の顔がある。穏やかな眼差しは、その下に、鋭く、そして昏い光を帯びていた。

(何を隠している…)
 声にはしない呟きが、白い息になって散った。
 



事件簿の部屋        雪明り(五)