雪明り (五)




「お天道はんも、ほんま、もう少し気張ってくれはったら良ろしおすのになぁ」
 口の周りに白い息を巻きながら、長屋の持ち主の伝五郎が、戸口から顔を覗かせた。
「これは、伝五郎殿…」
 翔一郎は立ち上がると、
「世話を掛けています」
 こうべを低くした。
「うちは出来ることしか、ようしまへん」
 恐縮する翔一郎に、顎を二重にし、伝五郎は笑った。

 田坂邸での、八郎との邂逅の後、翔一郎は長屋に戻り、引越しの続きを始めた。それを総司が手伝っている。尤も、荷と云っても翔一郎のは、風呂敷包みがひとつで、生活に必要な殆どのものは、田坂の家から運んであったから、残るは簡単な掃除位なものだった。
 
「ひと段落したら、うちで熱いぶぶでも飲んできまへんか?」
 襟巻きの中から、人懐っこい笑みが誘った。しかしその言葉の核(さね)には、知らぬ土地で暮らしを始める者への労わりがある。翔一郎にもそれが分かったのだろう。
「では折角のお申し出、お言葉に甘えても良いだろうか?」
 そう間を置かず、応えが返った。
「甘えるも何も、寺脇はんを粗末に扱ったら、キヨはんと…」
 伝五郎はちらりと総司を見、
「沖田はんに叱られます」
 悪戯げに目を細め、口元を緩めた。





 伝五郎の家と長屋は、鴨川を渡ぎほぼ直線で繋がる。鴨川の西には、高瀬川と云う運河が南北に併走しているが、屋敷の西側の塀は、この高瀬川に沿って長く続いている。
 三人が着いた時、空は一層暗くなり、雲は厚く垂れこめ、母屋の屋根や土蔵に圧し掛かってくるようだった。

 伝五郎は、下働きの老女をひとり置いて独り者だと云う。係累はいないらしい。薬種問屋の小川屋とは、昔から親懇の間柄と聞くが、総司は、伝五郎が何を生業にし、どのような人生を送ってきたのか、その過去を知らない。だが時々交わす世間話の中で、この初老の人物は、驚くほど豊かな知識を持っているのだと判じられたし、又伝五郎の、人物を見る鋭さ的確さには、いつも驚嘆させられる。時には厳しい評価を聞くこともある。そう云う時、伝五郎の丸い目の奥には、熾き火のようなものが、ちろちろと燃える。しかし伝五郎自身は、どんな時でも柔らかな語り口と穏やかな相を崩さない。だからその赤い焔は、一瞬の錯覚だったのかとすら、思えてしまうのだ。が、伝五郎の来し方がどのようなものであれ、総司にとって伝五郎は慕わしい人間に違いなかった。

「おたき、おたきっ」
 玄関を入ると、伝五郎は奥へ声を伸ばした。すると少し間があって、小さな老婆が転がるようにして出てきた。
「まぁ、旦那はん、おかえりやす」
 老婆は驚いて目を瞠り、そして伝五郎の後ろに立っている総司と翔一郎を見ると、
「まぁまぁ、沖田はん、おいでやす。それと……?」
 小首を傾げてしまった。
「おたきさん、寺脇さんです」
 困ったように翔一郎を見る老婆に、総司が笑って教えた。
「…?」
 おたきは今一度助けを求めるように、総司を見上げた。
「て、ら、わ、き、さ、ん」
 今度はおたきの近くまで来、ひとつひとつ区切るように云うと、
「ああ、寺脇はん、云わはるんどすか?お初にお目にかかります、うちはおたき、云います。宜しゅうお願い致します」
 品の良い細面が、にこにこと笑った。耳が遠くなっているだけで、頭はしっかりしている。ぴんと伸びている背筋が、おたきの健康を物語っていた。
「おたき、寒うてかなわんわ。熱いぶぶ、淹れてや」
 磨き抜かれた黒檀の式台に上がると、襟巻きを外しながら、伝五郎は情けない声を出した。
「へぇ」
 不思議と、伝五郎の声は聞こえるのか、それとも阿吽の呼吸で云っている事が分かるのか、おたきは笑いながら襟巻を受け取り、奥へ向かった。
「おたきは、だんだん耳が遠くなってきますわ。けど耳が遠い人間は長生きする、云いますやろ?せやから、うちはおたきに死水とって貰えばええ思うて、安心してますのや」
 伝五郎は声をくぐもらせるようにし、笑った。

 部屋に入ると、火鉢にかけられた鉄瓶が、凍えて帰ってきた者達を出迎えるように、口から細く蒸気を噴出していた。いつ戻っても良いように、おたきが小まめに火を見ていたのだろう。

「さぁさ、無礼講という事で、火にあたっておくれやす、おお寒っ」
 身震いした伝五郎が率先して手を炙り始めると、総司、そして最後に翔一郎が、遠慮がちに座った。
「長屋も、今はあないにシンとしていても、灯ともし頃になれば、賑やかになりますわ」
「あそこには喜八さんと、おゆうさんも住んで居るのですよね?」
「そやそや、沖田はんは、あの夫婦とは顔馴染みでしたなぁ」
 伝五郎の目が、柔らかく細められた。そうすると、下がり気味の太い眉が更に下がって、まだ五十を出たばかりと云うに、好々爺じみてくる。
「喜八殿?」
 ひとり会話から取り残された翔一郎が訊いた。
「魚のぼて売りをしてる男ですわ。去年の秋に、おゆううはん云う、それはええ嫁を貰おて、越してきたんですわ」
 相槌を求めて、伝五郎は総司に目を向けた。総司は頷き、
「おゆうさんは、喜八さんが仕事に出ると、近くに住んでいる母上の家に行き、そこで一緒に内職をしているそうです」
「なんや」
 伝五郎は大仰に目を丸めた。すると、今度は、置物の狸めいて見える。
「長屋のモンの事は、うちより沖田はんの方がずっと詳しいわ」
「市太郎さんが、教えてくれたのです」
「市太郎はん…?はて?」
 おたきの持ってきた茶をすすりながら、伝五郎は一寸目を天井に向けて考えたが、すぐに、
「ああ、あの四条の呉服屋の…?」
 ぽんと膝を打った。
「はい、皆、気持ちの優しい人達です」
 総司は嬉しそうに笑った。
「では私のような無頼の輩が棲みついて、長屋の者達をあまり不安にさせてはいかんな」
 翔一郎が、苦笑いをした。
「そりゃ、大丈夫ですわ。寺脇はんは、人に好かれるお方です」
「それはどうでしょう」
 頭に手を遣った翔一郎に、伝五郎は、
「これでも人の顔見たら、大概の事は分かるようになりました。年と云うモンは、伊達に重ねて行くもんと違いますなぁ」
 厳ついが、品のある口元を緩めた。だがその細めた目の奥底で、一点、鋭い光が微動だにせず翔一郎を捉えていたのを、湯呑みの焼きに気を取られていた翔一郎と、そしてそれにつられ、翔一郎の手元に視線を落としている総司は知らなかった。
「…しかし」
 茶卓に湯呑みを戻しながら、翔一郎が顔を上げた。寸座、伝五郎の目からも、くだんの光が消えた。
「この家は、昔は何をしていた家なのでしょう?あまりに造りがしっかりしているので驚きました。それに、広い」
 母屋に足を踏み入れてすぐに持った感想らしく、翔一郎は興味深げに部屋の中を見回した。
「初めてのお客はんには、よう聞かれます。なんでも、昔は廻船業をしておったそうですが、ずいぶん前に商いを止めた後は、お上から払い下げられた土地を買おては、その地代で食べてきました。額に汗をかかんでおまんま食うて来た、罰当たりですのや」
 自嘲して云う程には思っている様子も無く、伝五郎は悪戯げな笑みを浮かべた。
「ではこの家の豪奢さは、廻船業をしていた時の名残か…。が、造りの確かさは、まるで武家屋敷のようだな」
 それを聞くと翔一郎は、感慨深げに高い天井を見回した。その、柱や鴨井のひとつひとつを丹念に辿る双眸を、伝五郎の目が、面白そうに追っていた。




「ほな、寺脇はんは、うちでご飯召し上がらないんどすか?」
 キヨに糾され、総司は困ったように目を瞬かせた。この勢いである、中途半端な説明では、キヨは納得してくれそうにない。ちらりと後ろを見ると、田坂は素知らぬ顔で本を読んでい、八郎は此方を見ているが、口元には薄く笑みが浮かんでいる。助け舟を出そうなどと云う気持ちは、元より無いらしい。
 総司は小さな息を吐くと、キヨに向き直った。
「伝五郎さんの所でお茶を頂いて長屋に戻ったら、使いが来ていたのです」
「まぁ、お仕事ですやろか」
 キヨは目を丸くした。
「…たぶん」
「昨日遅くに京へ着きはって、今日は朝から引越し…そんで夜はお仕事。寺脇はんかて、少しは体を休めんと…」
 詰め寄っていた声が、気の抜けたように沈んだ。夕餉の約束を反故にされた事は忘れ、この寒空の中、仕事に駆り出された寺脇への気の毒が胸を打つのだろう。キヨは頬に指を当てると、そこに憂いをのせた。だがそのキヨを前に、総司はそっと目を伏せた。
 キヨに云ったことは、嘘ではない。人が来ていたのも、本当だった。が、仕事かと問われて是と答えたのは、嘘だった。


――伝五郎の家を辞し、長屋の木戸を潜ると、不意に翔一郎の足が止まった。同時に、総司も立ち止まった。翔一郎の家の軒下に、男が蹲っていたのだ。相手も総司達の姿に気づくと、ゆらりと立ち上がった。 
 男は若く、伸びた髪を無造作にひとつに括り、一見、浪人者のように見えた。が、衣の下の痩身が、意外にもしなやかな筋肉を纏っているだろう事は、無防備に見えて、しかし一分の隙も無い立ち姿から十分に判じられた。無意識に、総司は構えた。
 翔一郎は、対峙するように、暫し男を見ていた。だがそれもそう長い時では無く、再び足を止める前と同じ歩幅で、男に向かって歩き出した。その後ろに、男が容易ならざる動きを見せた時、すぐに太刀打ちできる距離を保ちながら、総司はついた。しかし男は翔一郎を見つめたまま動かず、やがて翔一郎が目の前に来ると、微かに口元を動かした。何かを云ったようだったが、それは翔一郎にすら伝わるか否かの低く掠れた声で、総司にまでは届かなかった。その僅かな動きを終えると、男は体を傾け、翔一郎の横を無言で通り過ぎた。その際、総司にちらりと視線を移したが、表情ひとつ変えなかった。去って行く男の背を、翔一郎は一瞥もしなかった。
 男の姿が消えても、翔一郎は暫し沈黙していたが、やや時を置いて総司が声を掛けると漸く向き直った。翔一郎にしては、珍しく緩慢な動きだった。そして無言で見つめる総司に、このまま藩邸に行かなければならない急用が出来たと告げたのだ。
 云い終えた時、翔一郎は、すでにいつもと変わらぬ翔一郎で、悪いな、と詫びた物言いにも仕草にも衒いは無かった。顔に浮かんでいたのは、嘘だと詰め寄るのが不自然な程に自然な笑いだった――。


「あっ、お大根炊かな、あかんのやった」
 キヨの慌てた声に、うつつに引き戻されたように、総司は瞳を上げた。一寸前の過去に引きずられていたのは、僅かな間だったらしい。
「沖田はんは、お夕飯、召し上がりますやろ?」
 当然のように、キヨは聞く。
「はい」
 嘘をついた引け目も手伝い、総司はぎこちない笑みを浮かべた。だがキヨはそれで騙されてくれたようで、夕餉の支度が遅れてしまうと、笑う声で自分を叱りながら立ち上がった。
 
 キヨの気配がすっかり消えると、手を炙っていた八郎が、
「もう少しまともな嘘をつけないのかね、お前は」
 苦い顔で振り向いた。
「聞いている方が冷や冷やする。あれがキヨさんだから、騙されてくれたんだぜ」
「ならば、助けてくれたら良かったのに」
 総司は不満げに八郎を見た。
「ほら、それだよ」
 すぐさま、八郎は笑った。
「それって…?」
「もう引っかかっていやがる」
「八郎さんの云っている事は、いつも分からない」
「伊庭さんは、キヨに云った事が嘘だと、今、君自身が認めたと云いたいのさ」
「…あ」
 田坂の説明で、漸く己の失態に気づいた総司は、耳たぶまで赤くし俯いた。
「な?分かり易い奴だろう?」
 投げられた視線を、田坂は苦笑いで受け止めた。八郎は総司に視線を戻すと、
「で、待っていたのはどんな奴だったのだえ?」
 新たな笑みを口辺に浮かべた。総司は一寸黙った。が、八郎の目の奥に、下手な偽りなど見透かせてしまいそうな鋭い色を見つけると、観念の息を吐いた。
「…浪人」
「浪人?」
 怪訝に、八郎の眉が寄った。
「あの人、刀を抜いたらきっと強い。白刃の下を潜る日々を経て身についた強さ、と云うのか…」
 それは、総司自身が、今そのような環境に置かれているからこその言葉だった。
「寺脇さんは、あの人が家の前にいても、驚いた様子でなかった。…一体、どう云う関係なのだろう」
 手繰った記憶を言葉にしながら、総司は小首を傾げた。
「そいつをお前に見られた時、寺脇さん、どんなだった?」
「無言だったけれど、見られて困ると云う風ではなかった。急な用事が出来て藩邸に行くと云った時には、いつもの寺脇さんだった」
「ふぅーん」
 八郎は、つまらなそうに相槌を打ち、田坂は、
「まるで作ったように不自然だな」
 と、肩を竦めた。
「土方さんの話によると、寺脇さんの上洛は、江戸と小浜で強盗を繰り返した元小浜藩士が、今回京に潜伏したとの情報を得たので、その捕縛の為だそうだ」
「えっ…?」
 見開かれた瞳が、田坂を見た。
「何だ、聞いていなかったのか?」
「……」
 怪訝に問われて、総司は言葉に窮した。
「ほぉ、俺も初耳だぜ。けどあんた、いいのかえ?そんな大事を、俺たちに喋っちまって」
 八郎の打った半畳に、
「構わないさ。俺に話した土方さんが、大事と思っちゃいないのだから」
 田坂のいらえも気楽なものだった。しかし、二人の会話を耳に素通りさせながら、総司は、少なからぬ衝撃を受けていた。
 それは、寺脇がそう云う役目を担っているのだと、土方の口から聞かなかった事ではない。否、単に賊を追っているだけならば、こんなに胸は騒がないだろう。では、心の隅に滞っていた澱(おり)が、今、新たな真実に触れた瞬間、ゆらりと傾きを変えたような、この重苦しさは何なのか――。
 総司は、己の裡に巣食い始めた闇に目を凝らすように、瞳を細めた。その時。
「そう、むくれるなよ」
 田坂の声が、すぐ近くでした。慌てて顔を上げると、
「ぼんやりも、大概にしておけ」
 今度は八郎の呆れ顔が、此方を見ていた。
「ぼんやりなど、していません」
「まぁまぁ…。それにしても、寺脇さんには、色々とありそうだな」
 総司の不満をやんわり制しながら、田坂が指を顎に遊ばせた。
「名医には分かるのかえ?」
「どうだかな、藪と云う奴もいるからな」
「どっかの唐変朴の言葉を、鵜呑みにしちゃいけないよ」
 八郎の目が、愉しげに細められた。
「全部を、信じちゃいないさ。だが今回沖田君が見たと云う浪人者の事は、寺脇さん本来の役目とは、又別のような気がするのさ」
「はて?」
 巧みな間をつくり、八郎は先を促す。
「小浜藩にも内密の、寺脇さんだけの事情だ」
「それは勘か?」
「勘だ」
「だが多分当たっている。そしてそう云う側面を沖田君に見られた事は、彼を相当焦らせた筈だ」
「でも寺脇さんに、動揺はありませんでした」
「騙された、のかもしれないぜ?役者が一枚上、と云う事だな」
「……」
「ま、それはともかく、さっき相手とは顔見知りのようだったと云ったな?」
「云ったけれど…」
 総司は目を瞬かせると、一寸、思案するように黙った。
「…分からない」
 そしてもう一度答えた時、その声は困惑の極みにいるように、弱々しげだった。
「分からない?そいつが現れても寺脇さんに驚いた様子は無かった、と云ったのはお前だぜ?」
 八郎の呆れ声に責められ、総司は瞳を伏せた。その時の状況を、今一度思い出そうと試みているようだった。しかしその総司を、八郎は、唖然とする思いで見た。
 総司は本能的に勘がいい。それは天性のもので、彼の敏捷さはこの勘の鋭さによる。その総司が、翔一郎と浪人者のごく近くに居て、二人から何の気も感じ取れなかったと云うのが、解せないのだ。
 八郎は、畳の一点をじっと見詰めている、端麗な造りの横顔を凝視した。
 その八郎の視線にすら気づかず黙考していた総司が、つと瞳を上げた。
「寺脇さんに、相手への殺気はありませんでした」
 丹念に思い返しての、それが答えのようだった。
「じゃ、顔見知りって事か」
 田坂が顎を撫でた。
「顔見知り…なのだろうけれど、二人の間には、殺気とは違う、何か異常な気がありました」
「異常な気?どんな気だ?」
「……」
「又かえ?」
 額を覆った片手の間から、八郎が、総司に一瞥をくれた。
「お前の云う事はいつもこう雲を掴むようで…、いや、雲なら端から掴めないもんと諦めもし、腹も立たないが、目もある鼻もある、ついでに口もある人間の話となれば別だ。頼むから、もう少し分かるように話してくれろ」
 頼むと云いながら、八郎の口調は不機嫌そのものだった。普段は鷹揚に構えているが、そこは江戸っ子、短気の質は十分持ち合わせている。そんな八郎に、総司も遠慮が無い。
「目に見えたり、耳に聞こえる事では無いものを、どうやったら上手く言葉で説明できるのですか?」
 勝気な瞳が、八郎を睨んだ。
「そこを、考えろっ」
「考えても分からないから、困っているのです」
「いい加減にしろよ、先が進まん」
 間合い良く割って入った田坂の声に一喝され、八郎と総司が気まずく沈黙した。
 総司は普段、無防備すぎる素直さで周りを案じさせるが、一旦臍を曲げると驚くほど頑固になる。しかしそれは、物事を真摯に捉える気質の延長線上にあるから、諭す方も骨が折れる。やれやれと、田坂は腹の裡で溜息を吐いた。
 曲がりかけている臍がこれ以上曲がらないように、、
「殺気とは違う異常な気…と、云ったよな?」
 当たり障りの無い程度に話を戻すと、総司は無言で頷いた。が、八郎にからかわれたばかりの瞳は警戒を解かない。田坂は笑った。
「睨むなよ、大切な事を聞くんだ」
「…すみません」
 流石に恥じて垂れたこうべの後で、白い項に朱が上った。
 その刹那、八郎は腹の裡で舌打ちした。勝気と狼狽、その一瞬の情が縺れ織り成す艶は、鮮やかすぎて目に悪い。
(莫迦野郎が…)
 苛立ち紛れに刺した火箸にも、あらぬ力が籠る。だが途端、横恋慕を笑うように、灰が巻き上がった。とんだ置き土産に、鼻梁の高く通った顔が苦く顰められた。
「どんな間柄にせよ、二人は互いを知る間柄と、その事は間違いない」
 その八郎の心裡など知る由もなく、田坂は先へ進む。
「そして、殺気とは違う緊迫感があったと云う事か…」
「……」
 黙って頷いた総司の背で、
「おいおい、また一人、訳の分からない人間の登場か?面倒なのは御免だぜ」
 八郎の、嫌そうな声がした。
「…あの人、寺脇さんとどう云う関係がある人なのだろう…?」
 誰に聞かせるともなく呟きながら総司は、すれ違いざまに見た、湖(うみ)の底のような静けさを湛えた、切れ長の眸を思い出した。同時に、相手を見る翔一郎の、能面のように冷たい横顔が脳裏を過った。その寸座、胸にひときわ重い何かが沈んだ。それはつい先ほど覚えた、澱が傾くような感覚と酷似していた。
――翔一郎の本来の目的と、そして翔一郎を待っていた浪人。
 二つを一つに括る糸があるのか…。
 暗く、重い予感に襲われながら、総司は、仄かに暗い障子の向こうに視線を向けた。

 逢魔が時の薄闇を見つめる瞳に、翔一郎と浪人者の姿が、浮かんでは消え消えては浮かぶ。だがその向こうには、日の光を嫌う蜘蛛の糸が、陰湿な粘りを持ち幾重にも張り巡らされていた。



事件簿の部屋        雪明り(六)