雪明り (六)




 キヨの心づくしの夕餉を馳走になり屯所へ戻ると、もう五ツ(午後八時頃)を過ぎていた。
 夜の当番に当たっている隊が巡察に出たばかりなのか、玄関の静けさには、どこか昂ぶりの余韻が残っている。その厳かな空気に、総司は身を引き締めた。刹那、人の気配が兆した。顔を上げると、山崎が近くまで来ていた。
「お帰りなさい、寒かったでしょう?」
 温厚な笑みが、凛凛と凍える寒夜を渡ってきた身を労った。
「引越しの具合は、如何でしたか?」
「山崎さんは、御存知でしたか?」
 総司は一瞬不思議そうに瞳を瞬いたが、すぐに合点がいったらしい。面輪に小さな笑みが浮かんだ。

 このような公に出来ない依頼が入ると、土方の影となり、その実務面を取り仕切るのは常に山崎の仕事だった。今回も、翔一郎の住む家を手配したり、人別帳への記載など、煩雑な諸手続きを進めたのは山崎に相違ないのだ。その苦労を十分知りながら、何故知っているのかと問いかけた自分が、総司には可笑しかった。

「どうかしましたか?」
「…いえ」
 こみ上げる笑いを懸命に堪えている総司の前で、山崎は困ったように立ち尽くしている。
「すみません」
 どうにか言葉が出てきたものの、山崎を見る目はまだ笑っている。
「山崎さんが、何もかも段取りをしてくれたのでしょう?だったら、寺脇さんの引越しの事も、知っていて当たり前なのに…」
 驚いた自分が可笑しかったのだと云った最後が、また小さな笑いになった。
「いえ私は、寺脇さんが京に滞在する為の、大まかな手配をしただけですよ。今日が引越しだと知ったのは、昼間、副長が仰っていたのを偶然耳に止めた為です」
「土方さんが?」
「仕事の打ち合わせが終わり、副長室を辞す時、障子を開けたら白いものが舞っていたのです。それを目の端に入れられたのでしょう、独り言のように、雪が降って来たのなら仕舞いだな…、と仰ったのです。何の事か分からず足を止めていた私に、今日は寺脇さんの引っ越しを、沖田さんが手伝っているのだと教えて下さいました」
 その時の土方の不機嫌そうな声を思い出しながら、山崎は総司に向けた目を細めた。
 土方にとって、この若者を案じた言葉は、他人には聞かせたくない無いものなのだ。その後二度と振り向か無かった背は、それを聞き止めてしまった者への罰だったのかもしれない。だが、うっかり買った上司の不興は、案外愉しい賜物だったと思う己に、山崎は腹の裡で苦笑した。
「引っ越しに、何か不都合な事はありませんでしたか?」
「いいえ」
「それは良かった。ではその事を、副長に御報告願えますか?」
「分かりました」
 笑いながら頷くと、総司は式台に上がった。


 遠ざかる背を見送るように、山崎は暫しそこに佇んでいたが、その姿が廊下の角を曲がり見えなくなると、漸く逆の方向へ足を踏み出した。
 山崎の足は速い。すぐに内庭を巡る外廊下に出た。その刹那、彼の目に白いものが飛び込んできた。雪が、又降り始めていたのだ。雪は漆黒に塗られた天の綻びから、ひとひら、ふたひら、零れるように落ちて来る。先を急いでいた足が、緩やかに動きを止めた。ところが薄氷の舞を見上げていた眸が、不意に細められた。そしてその双眸は、厳しい光を宿し遠くの一点に向けられた。凝視している先にあるのは、ちらちらと見え隠れする微かな灯だった。方角からして、西本願寺の脇門跡、興正寺がある辺りで、いつもなら灯を落としている時刻である。
 今朝知らされた事件が、山崎の脳裏を過る。それは、町が眠りに沈んだ夜更け、鴨川が賀茂川と名を変え高野川と二つに分かれる東岸の寺に、賊が押し入ったと云うものだった。

 本来なら管轄も持ち場も違うこの一件を、刻も経ず早々に山崎の耳に入れたのは、土方だった。
 その時土方は、情報源も、それがどの仕事と繋がるのかも伝えず、事件について調べろとだけ命じた。

 小さな寺の押し入り強盗と、闇の向こうの遠い灯。このふたつを勘だけで結びつけるのは、強引と云うものだろう。しかし、今己の目に映る微かな灯を、然もないと打ち捨ててしまうには、引っかかりが強すぎる。そんな拘りに捉われていた時、灯が、すっと消えた。
 時に計るにも知れている、まるで誰かに見られることを憚るような、短い間の出来事だった。
 再び、夜の底のような静謐が訪れたが、山崎は尚も動かず、灯の見えた方角を見つめている。
 都の寺々の歴史は古い。長い歴史の中で、彼らは、時に天皇家の系譜にすら関わってきた。興正寺に直接尋ねた処で、本当の事を云う筈もない。だが胸に抱えてしまった疑惑を解かぬ事には、どうにも落ち着かない。
――また、ひとつ余計な仕事を増やしたか。
 己で招いた因果に、苦笑した時だった。ふと、頭の片隅を掠めたものがあった。それは闇に溶けた灯の代わりのように、記憶の中枢に姿を現すや、みるみる確かな輪郭を作って行く。
「…ごそくしゅ」
 その勢いにつられるように呟いた時、護足衆と云う言葉が、山崎の裡でより鮮明になった。

――護足衆。
 忘れていたと思った言葉だった。誰が云ったのか、いつどんな時、何をしながら聞いたのか、そう云う細かい情景も一切覚えていない。だがその存在の、まるで伽噺のような奇怪さ面白さが、嘘か真か分からぬ話を、記憶の外へ放り出さずにいたらしい。
 が、山崎は小さく首を振った。
 今の自分は、ただ、突飛もない思いつきを繰り返しているだけだ。このままでは、収集がつかなくなるだろう。勘に頼るのは苦手だった。
「さて…」
 胸に蟠る事柄に蓋をすると、止めていた足を踏み出した。
 命じられた事件の探索が先決だった。




 障子に映る影は、文机に向かっている。筆を執っているらしく、時折、微かに右の腕を引く。その影に、
「総司です」
 と声を掛けると、
「入れ」
 無愛想な声が返った。
 総司は音をさせずに障子を引き、静かに身を入れた。部屋に籠っていた暖気が、凍えた身を包む。
「…暖かい」
 思わず、小さな声が漏れた。
「寺脇はどうだった?」
 背中を見せたまま、土方が訊いた。
「寺脇さん、ですか…?」
「小浜の連中も、来たのか?」
「誰も来ませんでした。それに…」
 総司は土方の背に向かい、姿勢を正した。
「寺脇さんの任務は、藩も表向きには出来ないものだと、田坂さんから聞きました。ならば、藩からの接触は無いと思います」
 土方が筆を止め、ちらりと後ろを見た。
「土方さんは、何も教えてくれませんでした」
 その横顔を捉えて訴える声が、詰問するように硬い。が、土方は、
「田坂さんから聞いたのならば、それで良いではないか」
 総司の拘りなど歯牙にも掛ける様子はない。しかも次の言葉を断つように又背を向けてしまった。
 土方がこう云う態度を見せる時、それは論議するに能(あた)わないと云う意思表示で、こうなれば、いくら訴えても無駄だった。
 が、いつもはそう云う態度を不満に思う総司だが、今日は違った。寺脇の元に現れたくだんの侍の件を、何故か話したくなかった。
 
 土方から目を逸らせると、総司はさりげない仕草で火鉢に手を翳した。土方もそれきり黙り、書きものの続きをしている。
 そう云う静かな時がどれ程続いたものか…。総司がふと、土方の背中を見た。心に後ろめたさがあれば、何も云わない広い背が、嘘を見透かせているようで、時が経つほど落ち着かくなってくるのだ。
「そうだ」
 思い立ったような声が、とうとう振り向かない背を叩いた。
「キヨさんが、夕餉にお餅を煮てくれたのです。京では白味噌の雑煮だけれど、今日は八郎さんもいるからって、醤油で煮てくれたのです。とても美味しかった」
 和やかだった一時を思い出すように、深い色の瞳が柔らかく細められた。しかしその時だった。狙ったように、
「寺脇はいなかったのか?」
 低い響きが寸の間の回顧を断った。
「えっ…?」
「寺脇は夕餉に来なかったのか、と訊いた」
「寺脇さんは…」
 総司は口籠った。あまりに唐突な仕掛けだった。
「雑煮ひとつでも、客をもてなす為には、あれこれ用意をするだろう。そのキヨさんの気持ちを知っていて、寺脇は来なかった。…さぞ大事な用事が出来たのだろうな。とまぁ、ここまでは伊庭でも田坂さんでも、誰に聞いても分かる事だ。だがな…」
 土方は胡坐をかいたまま、座布団を軸にくるりと身を回し、そのついでのように総司の左手首を掴んだ。あっと云う間も与え無い、素早い動きだった。
「その先があるな、総司?」
 整い過ぎて冷酷な感すら与える口元が、片方だけ上がった。
「確かに、小浜藩の者は来なかった。その事について、お前は嘘をついていない」
 土方を凝視していた瞳が、大きく見開かれた。
「…見張りを、置いていたのですか?土方さん」
「犯人が寺脇の身辺に現れる事も、十分考えられる。見張るのは当然だろう」
「……」
 総司は土方を凝視した。軽い衝撃が胸にある。それは見張られていることに、全く気付かなかった自分にだ。
 自負する訳ではないが、自分は気配に敏感な方だと総司は思っている。しかし見張りに立っていた者は、微かにもその存在を悟らせなかった。
――伝吉。
 と、一瞬脳裏に過った顔を、総司はすぐに否定した。伝吉の気配なら、長い一日のどこかで気付く。では土方は翔一郎を見張る為に、新たな影を動かしたのだろうか。不快感ともつかぬ重いものが、靄のように総司の胸に広がる。

「不満らしいな」
 土方が苦笑した。
「だがまだ話は終わっちゃいない。この先を、俺はお前の口から聞きたい、総司」
 土方はツボを心得ていて、握られている手首に痛みは無いのに、全く身じろぎできない。動きを封じられたまま、総司は無言で土方を見上げた。
「……」
「誰が、来た?」
 土方の顔には、まだ笑みが残っている。が、その目の奥には、刻々と獲物を追い詰めて行く、鋭い光がある。
 追う者と追われる者で、暫し無言の見詰めあいが続いたが、やがて負けたのは総司だった。土方を凝視していた瞳が一度瞬き、小さな吐息が漏れた。
「…訪ねて来た人がいました」
「誰だ」
「浪人…、のようでした。けれど、その人と寺脇さんがどう云う関係なのかは分かりません。寺脇さんも教えてくれませんでした。それだけです、これ以上隠しいる事はありません。でも…」
 瞳を上げた総司を、土方は無言で見ている。
「私達を見張っていたのは、誰なのですか?そしてそんな風に見張らなければならない理由が、寺脇さんにあるのですか?」
 総司は硬い面持ちで、土方を見詰めた。瞳に、瞋恚に近い色がある。が、土方は応えず、その代わりに空いている右手で火箸を手繰り、火鉢の中の炭を並び替え始めた。場違いに、長閑な仕草だった。
「土方さん」
 焦れた声が、微塵の歪みも無い整った横顔を責める。それでも土方は口を開かない。やがて炭を並び終え、火箸を灰に刺すと、漸く総司を見た。そして、
「俺は、寺脇が嫌いだ」
 吐き捨てるように云った。総司は瞳を瞠った。いらえにも何もなっていない。だが当の土方は、不機嫌そうに顔を顰めている。その渋い顔を、総司は唖然と見た。が、すぐにその口元が綻んだ。土方が、ちらりと視線を寄越した。
「何だ」
「だって…」
 総司は笑いを必死に堪えようとするが、それは瞬く間に水泡に帰す。しかも一旦滑り出た笑い声は、中々に止まらない。
「いい加減にしろ」
 渋い顔で怒られても、総司はくすくす笑い続けている。が、それが息の痞えを誘ったか、小さな咳がひとつふたつ混じった。それでも笑いを止めようとはしない。
「総司」
 土方は叱りながら、薄い背をさする。
「…土方さんが、可笑しなことを云うから…」
 瞳を潤ませた面輪が、懲りない笑みを浮かべた。
「俺は笑わせるような事など云っていないぞ」
 眉間に寄せた皺が、策に嵌るまいと盾を作る。が、そんなものなどするりと抜けて、
「ずっと、思っていたのです。だからやっぱりと思ったら可笑しくて…」
 総司はまた土方を見て笑った。
「何が、やっぱりだ」
「土方さん、寺脇さんの事嫌いだったんだな、って」
「つまらない事で笑うな」
「これでも気を遣っていたのです。試衛館にいた頃、寺脇さんが来ると、途端に土方さんの機嫌が悪くなってしまうから、いつもはらはらしていた」
「それは気遣いさせたな、だが俺の無愛想は何もあいつに限った事じゃない。伊庭にだってそうだろう?」
「八郎さん…?」
 総司は考えるように小首を傾げかけたが、すぐに、
「土方さんが寺脇さんを嫌う目は、八郎さんのそれとは違っていた」
 確信を込めて、土方を見詰めた。
 そうしながら総司は、ずっと封印してきた、ある情景を思い出していた。それは忘れてたのではなく、自ら忘れ去ろうとしたものだった。だが今土方の言葉で、総司は再びそれを思い出さずにはいられなかった。
 あれはそろそろ梅雨明けかと思われる初夏、幾日か、細い雨が降り続いた夕刻の事だった。


――その日、試衛館では午過ぎから皆出払い、珍しく宗次郎ひとりが留守をしていた。
 近藤も井上も、芝居見物に出かけた周斉夫妻も、もうそろそろ帰って来るだろうと思いつつ、薄暗い道場に響かせる掛け声は寂しいばかりで、宗次郎は竹刀を収めると、外に視線を遣った。
 煙るような雨に、木木は葉の緑を洗い、その傍らでは、紫陽花の花が艶やかな色を浮き出している。薄闇が忍び始めた道場の入り口で、宗次郎は、そんな庭の様子をぼんやりと眺めていた。が、その視線がふと先へ流れた。煙雨の向こうに人影を見止めたのだ。影は、傘も差さずゆっくりと近づいて来る。
「寺脇さんっ」
 呼んだ声が、思わず逸った。翔一郎は、軽く手を上げ笑った。

「寺脇さん、今日はもう仕事は終えたのですか?」
「非番だったのさ」
 懐から出した手拭で、濡れた鬢から首の後ろを押さえる翔一郎に、自分の手拭を差し出しながら、
「だったら、もっと早くに来てくれれば良かったのに」
 応えた調子が、我知らず拗ねた物言いになった。
「何だ?ひとりか?」
「もうじき帰って来る筈なのです」
 いつの間にか人恋しさに沈んでいた己を知られてしまいそうで、宗次郎は慌てて瞳を逸らせた。
「そうか。では私も骨董屋なぞ覗いていないで、早くに来れば良かったな」
「骨董?」
「そう云うのを見て回るのが好きな者がいてな、付き合わされて、神田界隈を歩いていた」
「傘も差さずに…ですか?」
「いや、出る時は持っていた」
「ではどこかで忘れて来たのですね?」
「…あの骨董屋だろう。同輩と途中で別れた後、一人で入った、美しい勾玉を置いてあった店だ」
「まがたま…?」
「大昔の人間が、首から吊るしていた装飾品だ。…あまりに美しく、暫し己を忘れる程だった」
「……」
「黒い、まるで吸い込まれるような、深い黒だった」
 翔一郎は、ほとんど呟くように云った。そしてゆっくりと宗次郎を振り向いた。
「…お前の瞳に、良く似ていた」
 氷の衣に包まれたような感触に、宗次郎は身を硬くした。翔一郎の視線を外すことが出来ない。
「私が怖いか?」
 見詰められ、微かに首を振ったが、それが精一杯だった。喉の奥に重く粘りつくように、言葉が出て来ない。
「…そうだろうな。今の私の目は、何かに憑りつかれたような色を帯びているのだろう。…まるで狂人の目のような」
「……」
「…すまない、脅してしまったな」
 凝視している宗次郎から、翔一郎はゆっくり視線を外した。しかしその刹那、翔一郎の眸に、もう一つ異な色が走ったのを、宗次郎は見逃さなかった。それは虚無にも似た、寥寥とした寂しさだった。
「寺脇さん…」
「しっ」
 思わず呼んだ宗次郎の唇に人差し指を当てると、翔一郎は、その先を止めた。
「誰かが帰ってきた」
 そして耳を澄ます仕草をしながら、邪気のない笑みを浮かべた。先ほどまでの異様な翳はどこにも無い。
 すると今度ははっきりと、宗次郎と呼ぶ声がした。近藤だった。
「土産があるらしいぞ」
 笑って立ち上がる翔一郎を、宗次郎は青ざめた面持ちで見上げた。
 心が、今あった事は忘れろと、激しく警鐘を鳴らしていた。


 もしかしたら土方は、そう云う翔一郎の翳の側面を鋭く感じ取っていたのかもしれないと、今総司は思う。土方の人の好き嫌いの激しさは、動物の闘争本能に似ている。
「もう問い質さないのか?」
 そんな昔の出来事に心を奪われていた隙を狙ったように、耳元で声がした。驚いて瞳を上げると、間近に土方の顔があった。
「訊いても、教えてはくれないのでしょう?」
「分かっているじゃないか」
 整い過ぎた口元の端が、にやりと吊り上った。そして次の瞬間、すっと細めた目に厳しい光が走った。
「寺脇翔一郎には、近づくな」
「それは命令ですか?」
「俺が、そう云った」
「……」
「寺脇翔一郎に近づくこと、罷りならん」
 総司は黙って土方を見詰めた。
 土方は今、沖田総司個人として会うなと、命じたのだ。そしてその言葉から総司は、土方の、翔一郎への疑惑の深さを知った。
 握っていた手首を放すと、ゆっくりとした所作で、土方は机に向かった。
 その広い背が、立ちはだかるように翔一郎の影を隠した。





 丁度同じ頃、五条の伝五郎の家の奥の部屋に、薄く火が灯った。
「二つ目の裂(きれ)は、松庵寺はんにあったんか…」
 伝五郎は、目を宙に向けた。
「用心に用心を重ねていはったようですが…」
 伝五郎の前に畏まっている男が云った。
 まだ若い。痩せているが、細面の輪郭と穏やかな目元が、大人しげな印象を与える。
「くだんの裂を忠篤様が何処に隠されたかは、うちらかて分からん。それより達吉、松庵寺はんの被害はそれだけか?」
「古い曼荼羅が一つ盗られました。けどこれは裂の目隠しでしょう。…あと、用心棒に雇っていた浪人者が、抵抗した際に斬られました」
「死んだんか?」
 達吉と呼ばれた男は、無言で頷いた。
「そうかぁ…、それが一番の災難やったな。物はいつか戻ってくる事もある、けど人の命は戻ってこん」
 大きな吐息と共に、柔和な顔が濃い愁いに染まった。
「達吉、寺脇は浮島と会って、もう長屋に帰っているんか?」
「少し前に、帰って来ました。今、やゑが、見張ってます」
「けど浮島も昼日中、堂々と顔を出したもんやなぁ。…それだけ、大きく動き出した、ちゅうこんか…」
「お頭(かしら)、これ以上奴らを野放しにして置くわけには行きまへん」
「分かっとる。…寺脇翔一郎と浮島克利。この二人の兄弟は、確かに不憫な境遇を送ってきた。小浜藩、いや、叔父の忠義(ただあつ)公と、その周りの者らを恨む気持ちは分かる。けどそれを逆手に取った奴らの為す事は、許せるもんと違う。最後の裂を奪いに現れた時が、対決の時やな」
 伝五郎は、太い指をこめかみに当てた。そのまま、物思いに耽るように目を瞑った。
 暫しそうして黙考していたが、ふと顔を上げ達吉を見た。
「なぁ、達吉?」
 そう呼んだ時、頬には悪戯げな笑みが浮かんでいた。
「浮島を見て、あの勘のええ沖田はんが、なんも感じなかったとは、うちは思えんのや。おまえは一部始終をずっと見ていたんやろ?沖田はんの様子はどやった?そりゃ、訝しんでいたやろうなぁ」
「…はぁ」
 どう答えて良いのか困り、達吉は曖昧に言葉を濁した。だが伝五郎のお喋りは止まらない。
「あれは誰やろう?寺脇は何かを隠している、そう思うたやろうなぁ。その秘密を、土方はんなら知っているかもしれへん思うて、土方はんに問い詰めた気がするのや?そうなると、土方はんは面倒がるでぇ。けど一辺見てみたいもんやな、土方はんの苦り顔っちゅうのを」
 襟巻きから出した顎を引き、伝五郎は楽しげに喉の奥を鳴らした。



事件簿の部屋        雪明り(七)