雪明り (七)




 闇に、白い裸体が燐光のように浮かぶと、すぐに又、闇に沈む。それで、森閑と更け行く夜の底にも、時がひっそり流れているのだと知れる。
 その静謐に息を殺し、四肢を突っ張らせている総司の胸の突起に、土方は舌を這わせた。
「…んんっ」
 仰け反った喉が鳴り、蒲団の端を握っていた手指が、上に重なる広い胸に回された。土方は薄く笑い、
「寺脇の事では、ずいぶんと怒っていたようだが?」
 白い耳たぶを甘噛みした。すると、総司は驚いたように瞼を開けた。そして土方を見、慌てて顔を背けた。情事の最中、我に戻されれば、身体の芯に点いた熱は、猛烈な羞恥にすり変る。うなじが、みるみる濃い朱色に染まって行く。そんな硬い横顔を愉しむように、土方は己の胸板で、下に組み伏している胸をゆっくり擦り上げた。閉ざされていた唇から、あっと小さな声が上がる。それを聞きくと、土方は静かに半身を起こし、かかえたままの総司に己の膝を跨がせた。そして抗う手を力で封じ、その勢いのまま、愛しい者の核に沈んだ。刹那、闇を、鋭い悲鳴が劈いた。
 寸の間、総司は顔を伏せ、大きく息を繰り返し痛みを遣り過ごしていた。が、暫くし、土方が腰を上下させると、切なげに眉を寄せながらも、同じように動こうとする。土方の目が、柔らかく目を細められた。
 緩やかな動きが、痛みを剥ぎ、次第に強張りを解いて行く。総司は微かに吐息した。そしてその甘美な悦びに身を委ねようとした、その時。しかし突然、土方が動きを止めた。総司は狼狽し、土方を見た。しかし土方は、
「俺を動かせてみろ」
 残酷な言葉を囁き動かない。
「土方さんっ…」
 泪を滲ませた瞳が、瞋恚の色を湛える。
「動かせてみろ」
 首を振る総司のその後を、束ねた黒髪の先が追う。だが幾ら抗ったところで、熱に溶かされた若い肉体に辛抱は敢え無い。やがて土方の手の中で、頑なに動かなかった腰が小さく揺れた。そうなれば羞恥など、奔流に舞った花弁よりも儚い。ほどなく、己の内に潜む熱い塊を、総司は貪るように求め始め、そしてその総司を土方は、獲物を襲う獣のように激しく追い始めた。

 黒曜の瞳は濡れ、押し寄せる悦びに浮き沈み、流され、そして余韻を追い、茫洋と宙を見つめている。目の前の首筋に、土方は唇を寄せた。
「…寺脇の目。俺はあの目が嫌いだった」
 いらえの代わりに総司は、土方の動きに、あっと、切なげな声を上げた。その総司の頤を掴むと土方は、
「お前を見るあいつの目、指、声、どれひとつもお前から遠ざけたかった」
 己の目の位置に潤んだ瞳を持って来、囁いた。だが総司の意識は、半ば他所にある。ここまで乱れるのは珍しい事だった。
 しかし土方は語り続ける。そして、
「あいつには、人でない、何かが棲みついている」
 鋭い口調で吐き捨てるや、膝の上の身をくるりと反転させ、
「寺脇に会う事、許さん」
 灼熱の塊を更に深く、深く、総司の臓腑を抉るように奥深く、息を詰めて沈めた。瞬間、口元を押さえた指が噛まれ、整い過ぎた貌が微かに顰められた。それでも土方は、総司の朦朧とした意識に刻み込むように、
「寺脇に会う事、許さん」
 きりりと耳朶を噛んだ。
 次の瞬間、白い身体が四肢を突っ張らせて震え、やがてゆらりと、背後の胸に落ちた。




 総司は薄く目を開けた。夜はすっかり明けた訳ではなかったが、雨戸から漏れる青白い光には朝の凛とした華やぎがある。しかしその明るい息吹を厭うように、総司は寝返りを打つと、蒲団の中で身を丸めた。
 何時の間に、自分はこんなに弱い人間になってしまったのか――。
 それは土方と身体を重ねた後、独りになると、必ずやってくる感情だった。
 土方を内に抱き、灼熱の塊に焼かれ、溶け、やがて人膚の温もりに恍惚とつつまれる。しかしその幸福は、今だけなのだ。いつか醒める夢に過ぎないのだ。幸いに埋もれ、己を見失ってはならない。土方の邪魔になる前に、壊れた身はこの手で処さなければならない。だがどんなに云い聞かせても、土方を追う心は、己を裏切り走り出す。想えば、愛欲だけに引き摺られる自分に、総司は小さく吐息した。が、その時だった。ふと脳裏に鈍い光のようなものが走った。それは、なすり付けるように、記憶の片隅に刻まれていた。
――寺脇には、人でない何かが棲みついている。
 土方の声だった。
「…人でない、何か…?」
 親爪の先を無意識に噛みながら呟いた途端、霧がかかったように重い頭の中で、影が揺らめいた。その影を見定めるように、総司は瞳を細めた。
 佇む姿は、翔一郎だった。そして祥一郎の前には、自分がいる。あれは、試衛館での出来事だ。
 あの時、翔一郎の眸の奥底に潜んでいた、鋭い光。まるで金縛りにあったかのように、微塵も身動きできなかった強い光。しかし同時に、その目にあったのは、見る者の胸に虚空を抱かせるような、重く寂しい色だった。
「人でない、何か…」
 今一度言葉にし、暫く天井の一点を見詰めていたが、あまりに漠然とした問に、答えは見つかりそうに無かった。総司は勢い良く蒲団を剥ぐと起き上がり廊下に出た。
 雨戸を手繰った途端、氷のような冷気が一斉に膚を刺した。だがその冷気が心地良かった。胸の奥深くまで吸い込んだ、冴え冴えと澄んだ気は、土方の傍らを離れる時への恐怖も、翔一郎に抱いた重い塊も、全ての負の感情を、鋭い刃で切り取るように削いで行く。
 総司は、静かに息を吐いた。天を見上げた視線の先に、白々明けの月が、薄く影を潜めようとしていた。




「沖田さん」
 道場を出るのを待っていたように、渡り廊下で山崎の声が掛かった。滅多に感情と云うものを表に出さない男だが、今の山崎は違った。目に、厳しさがある。
「何かあったのでしょうか?」
 人気の無い場所へ移動しながら、総司は面輪を硬くした。
「たった今、永倉さんの隊から知らせが届きました。九条に実章院と云う尼寺があります。老齢の庵主と下働きの老女が二人で住んでいる小さな寺ですが…」
「まさか…」
「やられました」
 山崎は、吐き捨てるように云った。

――ここ十日程の間に、既に二軒、寺が襲われている。これで三軒目だった。賊の手口は残虐で、被害に遭った寺の者達は悉く落命している。そして事件は遂に、新撰組の持ち場でも起こったのだ。

「賊が押し入ったのは、いつ頃の事でしょうか?」
「夜更けだろうと云う報告でしたが、取り敢えずの一報で、まだ調べに当たっている永倉さんが戻られていないので、詳細は不明です」
「そうですか」
「後程、副長から皆に沙汰があるでしょう」
「……」
「それから…、調べには、田坂先生の手をお借りしたそうです」
 少し間を空けて、山崎は云った。
「そう云う事情で、この一件は、田坂先生から、伊庭さんの耳にも入っている筈です」
「分かりました」
 総司が頷いたその時、山崎の視線が、つと後ろに流れた。
「二番隊が、戻ったようです」
 静かな語り口が、新たな緊張を張った。
「では、失礼します」
 軽く目礼し、山崎は慌ただしい気配に包まれ始めた玄関へ向かった。その後姿をじっと見詰めていた総司だったが、やがて山崎の背が廊下の角に隠れようとした時、突然、まるで前を阻むように、寺脇翔一郎の姿が脳裏を過った。あまりに唐突な出来事に、一瞬、総司は目を瞬いた。すると幻影は消え、目の前には、朝の慈光が照らす眩い光景だけが広がった。
「…人で、ない」
 掠れた声が、思わず唇を零れ出た。しかしその先を慌てて拾い、喉の奥に仕舞い込むと、総司は急いて足を踏み出した。
 これ以上其処に佇んでいると、胸に膨れ上がる、正体の分からぬ闇に、押し潰されてしまいそうだった。




 土方は胡坐をかき、火鉢の猫板の上に片肘をついて、壁の一点を見ている。行儀が良いとは、凡そ云い難い。その土方に山崎は、事件の経緯を淡々とした口調で報告している。が、時折、土方が視線をくれると、その部分に関し、まだ確かではありませんが、と前置きした上で、調べ得た限りを話す。それが山崎の、土方への、報告の形だった。
 先に余計な事を云えれば、先入観が邪魔をする。が、伝え忘れれば、取り返しのつかない事にも成り得る。その釣り合いが難しい。しかし例えそれが砂塵のように寡少な情報であっても、与えられた中で必要なものを選り分ける土方の嗅覚は、類まれな能力だと山崎は思っている。それ故、どのように大きな事件であろうと、山アの最初の報告は、事実だけを伝えるに止まるから素っ気無い程短い。

「もう一度聞くが、尼寺が襲われたその刻限、寺脇は家に居たと云うのだな?」
「伝吉が見張っていました。寺脇翔一郎は、昨夜から今朝にかけて、一歩も外に出ていません。正確には寺々が襲われたこの十日、殆ど家から出ていません。尋ねて来る者もありませんでした」
「浮島も、だな?」
「はい」
 浮島克利には、彼が寺脇の元に現れた時に尾行をつけ、居場所を突き止めている。浮島は、下賀茂神社の北東にある廃屋を、住処としていた。
「副長」
 山崎が呼んだ。
「寺脇と浮島には…」
 一瞬云い淀んだ先を、土方は視線で促した。
「他にも、見張りの目がありました」
「……」
頬杖の上の顎を、土方は無造作に指で摩った。
「浮島には、物乞い。そして寺脇には、彼の向いの家に住む、数珠職人の夫婦。亭主は達吉と云い、女房の名は、やゑ。この者達が、終始浮島と寺脇から目を離さないと云う事です」
「乞食はともかく…、その夫婦は、以前から其処にいたのか?」
「いえ、寺脇が住み始めて直後に越して来ました。明らかに、寺脇を見張る為と思われます。しかし何故、寺脇を見張るのか…、その理由が分かりません。家作の持ち主である伝五郎殿に、どのような経緯のある夫婦なのか聞いてみますか?」
 心もち、山崎の膝が前に出た。しかし土方は、
「伝五郎は、何も云わんだろうさ」
 ふんと笑うと、その提案をあっさり退けた。そしてそのまま何かを模索するように無言でいたが、やがて、
「…奴ら、焦り始めやがった」
 苦々しげに、宙を睨んだ。
 



 
 まだ日も昇って間もないと云うのに、診療所には、ちらほらと患者が集まって来ている。待合所から、時折、キヨの漲りのある声が聞こえてくる。
「ふぅん、じゃ、大原の下手人は、賊の中には居そうも無いな」
 火桶の傍らに陣取り、八郎は呟いた。その背後で、手際よく白い被布を羽織りながら田坂が、
「賊の腕は大した事無い。奴らは抵抗のできない弱い者を相手に、幾度も刀を振るっている、…犬畜生だ」
 ややくぐもった声に、怒りを沈めた。

――夜の色が濃い明け方、田坂家の門を叩く者がいた。新撰組の隊服を着たその者は、田坂を見ると、一緒に近くの尼寺まで来て欲しいと、組長である永倉の言伝を、息荒く伝えた。
 教えられた場所に尼寺が在ることは、田坂も知っていた。冬になると、庵までの僅かな道の両側を山茶花が彩り、其処を通る人の目を楽しませてくれた。田坂も往診の行き帰り、幾度か目を留めたことがある。その尼寺で、惨事は起こった。田坂を待っていたのは、二人の老女の無残な姿だった。

「盗られたものは?」
「分からん、土方さんに聞いてくれ」
 見ぬ敵へ憤怒をぶつけるように、田坂は乱暴に障子を開けた。その背に、
「あんた護足衆…、と云うのを知っているか」
 火箸を灰に衝き立て、八郎が訊いた。
「ごそくしゅ?」
 行き掛けた足を止め、田坂は振り返った。
「知らんのならいい」
「教えろ」
 開けた障子をもう一度閉め直し、田坂は八郎の前に胡坐をかいた。
「患者が待っているぜ、名医」
「あんたが要領良く話せば、さして問題はないさ」
「俺のせいにするつもりか?」
「そうされなくなければ、早く教えろ」
 八郎は眉を寄せ、仕方無いと云った風情で田坂に体を向けた。
「先日、一乗寺に行っただろう?」
「手がかりを求めてとか、云っていたな」
「そうだ。尤も端から期待して行った訳じゃない。大体が雲を掴むような話だからな。ぶらりと、物見遊山の気もあった」
「不謹慎な助太刀だな」
「義理に縛られた頼まれ事だ、その位は良いだろう」
 八郎は首を竦める真似をした。
「そこで耳にしたのか?ごそくしゅ、とやらを」
 待合所の声が、賑やかになって来た。田坂は先を急がせる。
「漬物を、土産に持ってきただろう?」
「酒粕につけてあった奴か?」
「そこの店の隠居爺さんが話し好きで、暫しの間世間話をした。その話の中に出てきた」
「どんな存在だ」
「まぁ待て」
 八郎は田坂の勢いを片手で制すると、横の盆にあった茶を口に含んだ。そして、
「大澤一平が斬られた日の前日、里の奥にある寺に賊が入ったそうだ」
 焦らすような笑いを含んだ目で、田坂を見た。
「今までの、一連の賊と同じか?」
「分からん。だが幸い、寺は無人寺だった。が、里の者達が大事にしていた小さな仏像を盗まれた。古いもので、それなりの由緒もあるらしい」
「……」
「ところが漬物屋の爺さんは、なに仏様はすぐ帰って来なさると、のんびりした顔で云った。面白半分に何故だと聞いたら、護足衆が取り返して下さると云った」
「何者だ」
「古くからの、云い伝えだそうだ。人々が崇める仏像や寺宝が盗まれた時、それ等を取り返してくれる影の者達がいると。…元々は、都が京に移る遥か昔、藤原京の時代に、遷都の混乱に紛れて盗まれたり行方不明になった、寺社仏閣の宝を探し出すために結成された集団だそうだ。それ故、神仏を護(まも)る足、護足衆と呼ばれているらしい」
「まるで年寄りが子供に聞かせるような話だな。今ひとつ、現実味に欠ける」
 田坂は膝を立てた。そろそろ診療を始めないと、今日は昼餉にありつけそうも無い。
「稼げよ、名医」
 ぴしゃりと閉じられた障子に声を飛ばすと、八郎は再び火鉢に目を戻した。

 鉄瓶の下の熾火が、灰の合間から蛇の舌のように、ちろちろと赤い色を見せる。
 それを見詰める八郎の胸の内を、ふと禍々しく覆うものがあった。不快なその感情を追うと、やがて一つの影が浮かんだ。寺脇翔一郎だった。
 初めて竹刀を合せたあの瞬間、翔一郎の目の中に燃えた色。射すくめるように冷たく、そして、執念の塊のように赤い、焔の色。その時受けた印象は、未だ忘れ得ない。
 八郎は、一度目を瞑り、ゆっくり開けた。そして、
「寺脇…、か」
 遠く、霧沓に見え隠れする影を捉えるように、眸を細めた。



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