雪明り (八)
鴨川を遡ると、やがて川は下賀茂神社を挟んで二手に分かれる。右に流れる川を賀茂川、左手に流れるそれを高野川と云う。その高野川の東、一乗寺の坂を、行商人に扮した山崎が下っている。
時折、歩みを緩めるのは、後ろを伺っているらしい。暫くそんな事を繰り返していたが、不意にその足が止まった。遠くから人の声が聞こえて来たのだ。中背の体躯が、翻るように、杉の木の裏へ回った。
近づいて来たのは男の二人連れだった。山崎には気づかず、話を続けている。
「それにしても、天林寺の仏像は災難でしたなぁ」
細面の若い男が云った。伝五郎の家作の住人、達吉だった。
「へぇ。ずっと昔から、何かがあれば掌を合わせ、里の皆が頼りにして来ましたのや。年寄り達は、いずれ帰ってきなさるやろ、などと暢気に構えておりますけどな、こないに物騒なご時世ですやろ?村の中には、古いものやから欲しい人間もおるやろ、そないな者の手に渡ってしもうたらもう戻っては来ん、いっそ新しい仏像を作った方がええのと違うか、云う者もおりましてな。それで仏師さんに来てもろうた訳ですわ。どうですやろ、同じ位の仏像を彫ってもろおたら、どれほど掛かりがしますやろか?」
老齢と云うにはまだ早い小太りの男は、不安そうに顔を曇らせた。
「さぁ…、お師匠はんと相談してみんことには、私では何とも云えんのですが…。けど村の皆さんの為と云う事は、お師匠はんかて十分に承知してはります」 「何分宜しゅうお願いしますわ」
二人は杉の木の近くまでやって来た。日陰の霜を踏む、さくさくと云う音が聞こえる。山崎は息を殺した。
「けど宜しおしたな、被害がそれだけで」
男の憂いを解くように、達吉は穏やかな笑みを浮かべた。
「あそこの寺は、ずっと無人寺なんですやろか?」
「そう聞いてます」
「そりゃ、珍しおすな」
「色々、噂もありましてなぁ」
「噂?」
「へぇ…」
男は辺りを見回し、
「ここだけの話ですけどな」
心持、声を潜めた。
「あの寺は、曼殊院の縁(ゆかり)の方々がお忍びで使う為に建てられた寺や、との話ですわ」
「と云うと?」
達吉は首を傾げた。
「曼殊院が門跡寺院とは、知ってはりますやろ?」
「へぇ。帝の御縁に繋がる方々や貴族が住職をなさる、位の高いお寺はんどすな」
「そうどす。そう云う寺院やからこそ、中には、雅やかな宮廷の暮らしを忘れられず、歌会や舞の会を開いたりして、都を離れた寂しさを紛らわせるご住職はんも居はったそうどす。けど寺と云う囲いの中では、催す宴にも限りがありますやろ?」
「それであの寺を?」
密やかに、男は頷いた。
「都を想う宮廷人は、あそこで一炊の夢を見ていましたのや」
「ほう…」
達吉が、軽い息をついた。
「そんな訳で、昔は建屋も今より大きゅうて、中の造りにも大層贅を尽くしてあったと云う事です。けど徳川様が江戸に幕府を敷かれてからは、宮中かてそないに贅沢はできんようになりました。それでお忍びも段々にのうなって来て、私が物心ついた時の天林寺は、あないな小さなお寺はんでした」
「ほなあの寺は、夢の名残…、と云う事ですなぁ」
「ほんまに」
男は感慨深そうに頷いたが、すぐに達吉を見上げた。
「けどな、その華やかな頃に納められた絵巻物や漆器なぞは、ずっと寺に残っていましたのや」
「宝物が?」
達吉は驚いたように目を瞠った。
「へぇ。時折、年寄り達が丁寧に手入れをして、大事にしてました」
「それは今も?」
「いえ、それが突然のうなってしもうて…」
「盗まれたんですやろか?」
「それとも違うのやけど…」
男は語尾を濁した。
「誰かが盗みに入った跡も無く、こう、まるで霧のようにのうなっていた…、と家の父などは云いましたけどなぁ。私は盗まれたのやろ、と思ってます。その中で唯一つ残ったのが、くだんの仏像でしたのや」
「いつの事です?」
「…はて」
男は立ち止まり、考え込むように腕を組んだ。
「そうやなぁ…。どの位前の事やろ…」
握り拳を下顎に当てた呟きが、曖昧な時を数える。その様子を見ていた達吉の視線が、ふと傍らの木に流れた。年輪を重ねた杉の幹は、山崎一人を十分隠しているが、そこに人がいるのを達吉は見破ったようである。
「五平さま、訊いておいて申し訳ない事ですけど、急に用事を思い出しました。うちはここで失礼します。仏像の事はお師匠はんと相談して、早いとこお返事します」
穏やかな物言いながら、素早い話の切り方が、それ以上の追随をぴしゃりと断った。
「そうですか?お師匠はんにも、あんじょう伝えて下さい」
達吉の事情など知る由も無く、男は丁寧に頭を下げた。
杉の木を通り過ぎざま、達吉が、木の後ろへ鋭い一瞥をくれた。その挑発を遣り過ごし、寸の間時を置いて、山崎はゆっくり顔を上げた。達吉の姿は、すでに九十九折の向こうに消えようとしている。その背は威嚇するように、悠然と坂を下っていた。
「もし」
突然、背後から掛かった声に、男はぎょっと体を硬くし立ち竦んだ。
しかし恐る恐る振り向いた先に、温和な顔つきの商人を見止めると、大仰に息を吐いた。
「ああ、驚いた」
「堪忍しておくれやす。ちょっとお伺いしたいのですけど、この道は雲母坂に続きますやろか?」
「ここが、雲母坂ですわ」
「ああ、助かりましたわ」
山崎は満面に笑みを浮かべた。
「おたくはんは、叡山から来なすったんやろか?」
男は山崎に視線を這わせた。ようやっと、目の前の人間を観察する余裕が出てきたようだ。
「叡山を越えて…、ですわ」
「ほな、近江から?」
「へぇ。ようやっと、京に入れます」
やれやれと緩んだ口調につられ、
「そりゃ、大変なことでしたなぁ」
男の顏にも笑みが広がった。
「それにしても、ここは寂しい道ですなぁ…」
どちらともなく連れ立って歩き出すと、山崎は杉木立を見上げた。
「さっき休んでいる時に、聞くとは無しに耳に入って来たんですけど…、何でもこの先の寺に盗人が入ったとか?」
「そうです。こないな雛にも、物騒な風が吹き始めましたわ…」
白いものが混じった眉が、憂いを込めて寄せられた。
「さっき御一緒だったんは、仏師はんやとか?」
「仏像が盗まれましてなぁ。戻って来るかどうか分からんのなら、新しい仏像をこさえたらどうや?と云う者もおりましてな。それで来てもろうたのですわ」
「金に変えられんとは云え、村の皆さんも難儀な事ですなぁ」
「仕方があらしまへん」
商人らしい見解に、男は鷹揚に笑ったが、その足がふと止まった。傍らに大きな茅葺の家がある。男の家らしい。
「ほな、うちは此処で…」
「余分なお喋りをさせてしもうて、堪忍しとくれやす」
「いえいえ」
男は手を振ると、その手をすっと伸ばした。
「そこに、漬物屋がありますやろ?」
示した先に、緋毛氈の縁台が出ている。漬物屋と云うのは、そこの事らしかった。風景は、鬱蒼と木の生い茂る坂道から、道の両側に家が点在する里のそれに変わっている。
「あそこの先を西に折れたら、じき一乗寺ですわ。そこまで行けば、都はすぐです」
慇懃に頭を下げた山崎に、永の疲れを労わるような笑みを浮かべ、男は庄屋門を潜った。その後姿を軽く目礼して見送ると、山崎は足を踏み出した。歩みの速さは先程の比ではない。しかし逸ったその足が、漬物屋の手前で止まった。勢いを遮るように、店から道に人が出てきたのだ。しかもその姿には見覚えがある。伊庭八郎だった。
「…今日はまた、変わった格好をしているねぇ」
八郎は物珍しそうに、近づいて来る山崎を見た。
「あんたの前を行った人間なら、疾うにいないよ」
そして山崎の思惑を見透かせたように笑った。山崎は苦笑した。
「誰だい、あの人?恐ろしく足が速いな」
八郎は肩越しに、後ろに続く坂を見た。
「寺脇翔一郎を、見張っている者です。一応、達吉と云う名前があり、数珠職人と云う事ですが、今日は仏師になっています」
「……」
「私は此処二三日、彼を見張っていました。そして今、彼を追ってこの場に辿りついた訳です」
「どうしてあの人が寺脇を?」
「分らないのです」
「新撰組にも、かえ?」
悪戯そうな目に合って、再び山崎は苦笑した。が、すぐにその笑みを消すと、
「伊庭さん、歩きながら話しませんか?」
さり気なく辺りを窺った。
「見られている、とは思えないが」
「用心です」
今度は八郎が、口辺に笑みを浮かべた。
漬物屋を過ぎると、すぐに道は二手に分かれた。一方は山に入る上り坂で、もう一方は洛中に続く下り坂だった。その下り坂に、二人は歩みを進めている。
「伊庭さんの方は、寺脇翔一郎について何か収穫がありましたか?」
前を見たまま、山崎が訊いた。
「いきなりそう来るのかえ?」
「こんな処で会って、今更偶然も無いでしょう」
「あんた、土方さんに似てきたな」
八郎は嫌な顔をした。
「申し訳ありません」
殊勝な詫びが返ったが、しかしその声には何処か楽しげな響きがあった。それにふんと息をついた後、
「先日あそこの漬物屋の爺さんが…」
八郎は、来た道を目で振り返った。
「気になる事を云った。それをもう少し詳しく聞こうとかと思って来たのだが、爺さん、今日は親戚の婚礼で留守だった」
「それは残念でした。で、伊庭さんの気になる事とは?」
「俺は尋問されているのかえ?」
眉を寄せた八郎に、
「失礼しました。お伺いしたいのです」
懲りる風も無く、山崎は笑った。
「臍を曲げたところで、あんたが相手じゃ無駄か」
「すみません」
「この先の寺に賊が入り、仏像が盗まれたそうだ」
「そのようですね」
「それも知っていたのかい?」
八郎はつまらなそうに、薄く雲が張ってきた空を見上げた。そろそろ昼が近い。
「つい今しがたの事です。達吉と村長(むらおさ)らしき人物の会話を聞いて、知りました」
「その仏像が帰って来ると、爺さんは云ったのさ」
「…ほう」
「護足衆、とやらが取り戻すとな」
八郎は、並んで歩く山崎の横顔を垣間見、
「知っているのだろう、護足衆?名前くらいは」
意地の悪い笑みを片頬に浮かべた。
「…知らない、とは云わせない顏ですね」
「素直じゃないねぇ」
「副長に、似てきましたか?」
山崎を一瞥した八郎の顔が、苦く歪んだ。聞きたくもない名を聞いた、と云う顔だった。
「申し訳ありません」
幾度目かの詫びが、遂に苦笑になった。
「護足衆の名は聞いた事があります。ずいぶん昔ですが、何かの会話の中で知りました」
「それだけかぇ?」
「隠し事は、できませんか?」
「したければ、すればいいよ」
「いえ、そのつもりはありません」
山崎は笑みを浮かべた。
「盗難にあった寺社の宝物を取り返す為に結束された集団、護足衆。…が、この話は、私にとって今ひとつ現実味に欠けるものでした。事実その後は思い出す事もありませんでした。ところが今回、寺社ばかりを狙う盗賊の探索を続けて行くうち、我々と同じように、被害に遭った寺々の周辺を探っている者達がいる事が分かりました。それを知った時、ふと護足衆と云う言葉が脳裏を過りました。無論、すぐに打ち消しました。当然です、何の根拠も無いのですから。しかし頭から離そうとすればする程、護足衆は、私の中でどんどん存在を大きくして行くのです」
云い終えて、山崎は小さく吐息した。この男にしては珍しく、行き詰まっている風だった。
「どう云う経緯か知らんが、その仲間が、達吉だと思ったのかえ?少しばかり短絡的すぎないか?」
「いえ、私もそこまでは思いません。あまりに確証が無さすぎる。実際、護足衆そのものも、まだ存在が不明なのです」
「だがあんたは、こうして達吉を追ってきた」
八郎は、剃刀のように鋭く、そして風のようにしなやかな動きで坂を下って行った背を思い起こした。
坂はほどなく終わり、人の行き交う道に出た。このまま南西に下れば洛中に行く。あれから山崎は、何かを考え込むように、黙々と足を進めている。その山崎に八郎が声を掛けた。
「山崎さん、あんたこの後の予定はどうなっている?」
「……」
「もし空いているようなら、俺に付き合わないか?」
「伊庭さんはどちらへ?」
「西堀川にある心形刀流道場へ行く。俺が京に来た本来の目的…、仇討ちの助っ人だが、その依頼主に会いに行く」
雲間から射した陽に眸を細め、山崎は八郎を見た。
「護足衆、達吉、寺脇祥一郎…。今から俺が行くところは、それらとは何の関係も無い。が、斬られた男は小浜の出身だった。その前日、くだんの空き寺が荒らされた。そしてその寺の一件を調べに、達吉と云う男が現れた」
山崎は己の思考を整理するように、じっと無言でいる。
「今までそれぞれに繋げ結んで来た糸を、もう一度解いてばらばらにする。すると、今度は違う結び目が見つかり、他の糸に繋がる」
八郎は立ち止まり、山崎を振り向いた。
「行くか否かは、あんたが決めればいい」
涼しげな双眸が、悪戯をしかけたように笑った。
「ご迷惑ではありませんか?」
が、いらえは間をおかず返った。
「迷惑なら誘わないよ。が…」
天を仰いだ声が、
「探索を邪魔したと、どっかの人に文句云われるのは御免だよ」
少しばかり渋った。
「それなら大丈夫です。私はただの行商人ですので」
その後を、衒いの無い笑い声が追った。
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