雪明り (九)
八郎と山崎が、西堀川の心形刀流坂田道場に着いたのは、昼八ツ(午後二時頃)も過ぎようとした頃合だった。幸い、道場主の坂田近史郎は在宅していた。
坂田家は東西に細長い敷地を有し、門近くに拵えた道場の掛け声も、母屋の奥の客間までは届かない。その代りのように、時折、塀の向うから、規則正しい機織りの音が聞こえて来る。周囲は織物の町、西陣だった。
「…大澤が、一乗寺にある寺の事を、何か云っていなかったか?…、と云う御質問ですな?」
坂田は、しばし沈黙した。己の記憶に漏れはないか、もう一度丹念に手繰っていると云う風だった。が、ややあって顔を上げると、
「私の記憶の限りでは、無かったと思います」
落ち着いた目で八郎を見た。そして、続けた。
「大体が、何故、大澤が斬られたのか…、それが分らないのです。彼は軽率に刃傷に及ぶような若者ではありません」
剛毅な気質を思わせる濃く太い眉が寄せられ、眉間に憂いを刻んだ。
その時、障子に影が差した。坂田が、
「しおりか?」
と問うと、
「はい」
と、控えめな声が返った。一人娘しおりが、茶を替えに来たのだった。
静かな所作で、しおりが茶を替え終わるまで、寸の間、男達の話は中断された。
白い指が己の茶器に伸びた時、八郎は、目の端でしおりを捉えた。娘は、整った横顔をしていた。しかしその美しさに寂しさを覚えるのは、しおりが、突然婚約者を亡くした痛手に、未だ喘ぎ続けている所為なのだろう。新たに置かれた茶器は、季節を先取る桜模様だった。そのあざやかな彩を見た刹那、八郎の胸の奥深く、不意に何かが兆した。それは、この娘の傷を癒してくれる花の季節の到来を願う、思いがけない感傷だった。そんな己を苦く笑いつつ、八郎は、もう一度花の茶器に目を落とした。
しおりが再び障子脇まで戻り、一礼をした。そのまま出て行くのだろうと、誰もが思った。が、しおりは中々立ち上がろうとはせず、不審に思った坂田が、しおり、と促すと、一寸目を伏せた。しかしすぐに、しおりはその目を上げ、
「一平様は…」
と、八郎と山崎に向け声にした。
「しおり、はしたないぞ」
些か強い調子の嗜めに、細い首が項垂れる。それを庇うように、
「いえ、構いません」
八郎はしおりに体を向けた。
「しおり殿、と仰いましたな。婚約者の大澤殿は、残念な事でした」
真摯な眼差しを向けた八郎に、しおりは慌ててこうべを低くした。そして俯いたまま、素早く目じりを指で押さえた。ようよう堪えているものに、不意に優しい温もりで触れられ、細い堰が切れた、と云う風情だった。
「…しおり」
「お赦し下さいませ」
気遣う坂田に、しおりは小さく微笑んだ。そして八郎に眸を向けると、
「失礼を致しました」
もう一度、丁寧にこうべを下げた。
「大澤殿の事について、貴女は何か御存知なのですね?」
「はい」
毅然といらえを返した時、しおりの眸を潤ませるものは、既に無かった。
「あのような事が起こった前の日、一平様は、朝早くから、何処かへお出かけになられました」
「前日…。行き先は分かりますか?」
「……」
しおりは寂しげに首を振った。が、すぐに、
「ですが、途中までは分かります」
急き込むようにして続けた。
「と云うと?」
「あの日は、茶の稽古がございました。その途中、偶然、一平様のお姿を見たのです」
「それは、どの辺りです?」
「…お城の南側の、酒井様のお屋敷近くでございます」
「二条城の南…、小浜藩酒井家の京屋敷でしょうか?」
訊いたのは山崎だった。胸に、軽い驚きがある。寺脇祥一郎との繋がりを思ったのだ。
「はい」
性急に問われ、しおりは瞬きをした。
「しおり」
そんな娘を、坂田が呼んだ。
「その時何故、お前は大澤に声をかけなかったのだ。大澤の様子をあれ程案じていたお前だ。もしそうしていれば、今回の件の手掛かりを得たかもやしれぬ」
「……」
しおりは顔を伏せた。
「坂田どの」
父娘の間に流れる重い空気を、山崎は静かな声で払った。
「しおり殿は、声を掛けられぬ状況に居たのではありませんか?例えば、彼が人と一緒であったとか、或いは、人の後をつけているようだったとか…、そう云う事情が、しおり殿を躊躇わせたのではありませんか?」
しおりは眼(まなこ)を大きく見開き、山崎を凝視した。
「当たり、のようですね?」
「…仰るとおりでございます」
しおりは息を呑むように頷いた。
「私が一平さまのお姿を見つけた時、一平さまは、お屋敷の裏口の前にある、松の木の後ろに隠れるようにしていました。私は声をかけようとしました。その時です、裏口が引かれ、中から、頭巾で顔を覆ったお武家様が出ていらっしゃいました。その方を、一平様は待っておられたようです」
「何故分りましたか?」
「すぐに、その方の後を追い始めましたから」
「だから貴方は、その後姿を見送る他無かったのですね?」
「侍女がおりましたので…」
しおりは残念そうに俯いた。
「その日、大澤殿が戻ってきたのは何刻頃です?」
「…夜四ツ(午後十時頃)が回った頃でした」
「帰って来た彼に、貴女は昼間見た出来事を話し、あれは誰だと聞いたのでしょうか?」
今度は八郎が、問うた。
しおりの表情が硬くなった。
男の身を案じる女と、女に隠し事を質された男。互いを想う若い二人の間で、ささやかな云い争いがあったのかもしれない。
「しおり、お前の知る全てを隠さず、この方達にお話しなさい。大澤の無念を晴らしてやれるのは、お前だけかもしれぬ」
そう云う事情を察したか、坂田が静かに先を促した。痛手を負った娘を労わる、父の声だった。
「はい」
しおりは小さく頷いた。
「あの方は何方なのですと、私は尋ねました。すると一平様は、酒井様の京屋敷御用人、直江忠兵衛さまだと仰いました」
「…直江?」
「ご存知だろうか?」
思わず声を上げた山崎を、坂田は訝しげに見た。
「いえ…、失礼をしました」
山崎は曖昧に言葉を濁したが、胸中は驚きに揺れている。
今回、新撰組に寺脇祥一郎の援護を依頼した人間の名を、まさかここで聞く事になろうとは、思いもよらなかったのだ。
「私は一度だけ、直江殿にお会いしています」
「……」
重なる衝撃に、山崎は息を呑んだ。
「いつの事です」
代わりに問うたのは、八郎だった。
「私の知人が、門弟に推挙する男がいると連れて来たのが、大澤でした。その時、直江殿も御一緒でした。直江殿の事を大澤は、早くに父を亡くした彼の親代わりのような存在だと、私に紹介しました」
「……」
八郎は、山崎を見、山崎も八郎を見た。
直江が、大澤と縁深い存在だったとは予想外だった。しかもその直江を、大澤は、殺される前日に尾行していたのだ。
「ああそう云えば…」
が、そんな懐抱など知らず坂田は、
「彼を京に呼んだのも直江殿だと、大澤から聞いた事があります」
ふと思い出したと云うような口調で、更に二人を驚愕させた。
「大澤一平を京に呼んだのが、直江殿…」
「間違いはありませぬ」
坂田は、強く頷いた。
また一つ、異な彩りの糸が結ばれた。
だがその端は、濃い霧の中に隠れ、どこに、どのように結ばれているのか、或いはまだ結ばれていないのか、それすらも分からない。しかし必ず端はある。
山崎は、幻の糸の行方を追うように眸を細め、そして己の膝の手を拳にした。
そしてその隣で八郎は、大澤一平が、一太刀で絶命している事を思っていた。
目を瞑ると、早春の陽が瞼の裏を紅くした。しかしすぐに、その紅を背に、黒い人影が揺らめき立った。 (…ただ一太刀)
胸の裡で呟くと、影は明るみ、やがて姿容(すがたかたち)を克明にして、八郎の瞼一杯に広がった。
寺脇祥一郎だった。
八郎と山崎が、一乗寺から坂田道場へと手掛かりを求めたその日。
時を遡り、朝四ツ(午前十一時頃)、西本願寺の寺領の一隅を借用している新撰組に客があった。客は、小浜藩京屋敷用人、直江忠兵衛と名乗った。
生憎、近藤、土方の両名が外出中で、最初に応対した者は、相手の身分を考慮し、取り急ぎ一番隊の組長である総司に報告した。
話を聞いた総司は、自分より年上の隊士に労いの笑みを浮かべると、軽い身ごなしで立ち上がった。
直江忠兵衛は、道場からの声と音に耳を傾けるようにし、玄関の三和土の中央に佇んでいた。
衝立の向こうにその姿を見止めた時、総司は、思わず初対面の人間に対する緊張を解いた。そんな柔和な横顔だった。
「お待たせを、致しました」
声に驚いたように、直江は振り向いた。しかしその刹那、総司は奇妙な違和感を覚えた。声をかけてから直江が此方を見るまで、微妙な、それこそ錯覚とも思えるような、一瞬の間があったのだ。
言葉にするのなら、すでに総司の気配を察していたが、そう分らせないよう敢えて気付かぬ振りをした、そんな感だった。だがもしそうならば、目の前の侍は、よほど鋭い勘の持ち主と云う事になる。訝しさを胸に、総司は、今は隙だらけの直江を見詰めた。
直江の眸が、ゆっくりと細められた。明り取りの窓の光に行っていた目が、すぐには奥の暗さに慣れないのだろう。それでも直江は総司を見、笑いかけようとした。が、次の瞬間だった。突然、直江の顔から笑みが引き、愕然と強張った。
「どうなされましたか?」
声を掛けても直江は応えず、総司を凝視している。その目は、遠い幻を見ているかのように、大きく見開かれている。
「あの…」
再び呼びかけると、
「…いや、申し訳ない」
漸く、直江は慌てた。しかし顔には、まだ醒めない驚愕がある。その様子を怪訝と思えど、近藤の客を、玄関に立たせたままにしておく訳には行かない。
「じき、近藤は戻ります。どうか中でお待ち下さい」
総司は衝立の前に端坐した。その動きを眼(まなこ)に映した事で、夢幻に居た直江の魂は、完全に現へ戻ってきたらしい。実直そうな口元に、静かな笑みが湛えられた。
「いいえ、今日は帰りましょう」
「それでは私が叱られます」
「なに、私は暇人です」
困惑する総司に、直江は悪戯な目をした。
「ところで…。卒爾ながら、貴方の名をお伺いしても宜しいか?」
直江の問いに、総司は赤くなった。名乗る時を逸していたのだ。
「失礼しました。私は沖田総司と申します」
「ほうっ、ではあの、洛中一と名高い剣士の…」
「強い人は沢山います」
素直な驚きに、応えた声が硬くなるのを、総司は禁じえなかった。
面と向かって褒め讃えられる事には、幾つになっても慣れない。余裕を持って、軽くやり過ごすと云う事ができないのだ。何時までも子供のような自分に、総司は消え入りたい思いだった。しかし直江に、総司の機微は伝わらなかったようだ。
「そうですか、あなたが沖田さん…」
感慨深げに総司を見詰めている。
どうにも居たたまれず、総司は目を伏せた。その時だった。俄かに外が賑やかになり、馬の嘶きが聞こえた。近藤達が、帰って来たらしい。
総司は直江に瞳を向けると、
「戻ったようです」
安堵した心そのままに、逸った声で告げた。
「そのようですな…」
直江は緩やかに、外に首を回した。
その、皺の目立ち始めた横顔を、総司は見詰めた。視線を、直江は感じている筈だった。しかし彼は微動だにせず、玄関に差し込む伸びやかな陽の向こうを見ている。
「直江殿」
近藤の、大きな声がした。すると、直江の足元に戯れていた陽が、跳ねるように散った。近づく近藤に、直江も足を踏み出したのだ。
その近藤の後ろに、人影が見えた。一際背の高いそれが、光の中ではっきり姿を現した時、総司は全身から力が抜けるのが分かった。直江との会話は、思っていたよりもずっと神経を使ったらしい。そんな情けない自分が可笑しくもあり、また、客を迎え上機嫌の近藤の後ろで、いつもと変わらぬ不機嫌面の土方が可笑しくもあり、総司は口辺に小さな笑みを浮かべた。
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