雪明り 十



 雨戸を剥がす勢いで吹き荒れていた小夜嵐も、東雲頃には静まり、日盛りの今は、穏やかな陽が庭に降りそそいでいる。南側に面している部屋などは、障子を開け放していても十分暖かい。雪催いの曇天の下、吐いた息がたちまち白く濁った先日までの寒さが嘘のようだ。だが本当の春はまだ遠く、この麗らかな陽春は一時のものに過ぎない。それでもこうして明るい陽を浴びればていれば、重く厳しい季節に閉じ込めれていた心に華やぎが兆す。
 戯れるような光に誘われ無理をしなければ良いがと、田坂は知った顔を思い浮かべた。しかしその杞憂は、すぐに苦い笑いに変わった。総司に身体をいとえと説いたところで、徒労に終るのは目に見えている。田坂は微かに首を振ると、止めていた手を動かし、薬を挽き始めた。ところがそんな一連の様子を、キヨが見ていた。
「せんせ、何を溜息ついてはるんどすか?」
 訝しげに、キヨは口を尖らせた。
「いや、こちらのこと」
 慌てて繕ったが、もう遅い。
「あやしいわぁ…。何や悪い事を考えてはるんと違いますか?」
 益々疑いを濃くしたキヨは膝を進め、田坂の前に座り込んだ。
「キヨにも云えんことどすか?」
「そんな事は無いさ。第一、何も隠してなどいない」
「ほな、溜息の原因はなんどす?お天気がええから、なんて云うんはききまへんえ」
 合点の行くいらえを引き出すまで、キヨは動きそうに無い。格好の暇つぶしを与えてしまった己の失態に、腹の中で田坂は、今日二度目の溜息をついた。その時ふと、ある言葉が脳裏を過ぎった。日の麗らかさと気軽さが手伝って、何気なくそれを口にしてみた。
「キヨは護足衆と云うのを、知っているか?」
 もとより、いらえなど望むべきもない。田坂とて、ほんの気紛れだったのだ。
しかし世の中は、人の浅慮など到底及ばない不思議で成り立っているらしい。
「へぇ、知ってます」
 あっさり返った答えに、田坂は耳を疑い、次に驚愕の目をキヨに向けた。
「何を驚いていますのや」
 不審げに、キヨは声をひそめた。
「護足衆ですやろ?あの、お寺はんが失くさはった仏像や宝物を探してくれはる、云う」
「そうだ、それだ」
 胡坐にしていた膝を立て、勢いのまま、田坂はキヨに詰め寄った。
「いつ、どこで知った?」
「そんなん、矢継ぎ早に云われたかて…」
 キヨは迷惑そうに眉根を寄せたが、
「えっと、どこでやったやろ」
 それでも田坂の為に頬に手を当て、じっと考え始めた。
 そうして暫く、時々独り言の呟きを交じらせ記憶を辿っていたが、やがてポンと軽く手った。
「小川屋はんが、教えてくれはったんどす」
 向けた顔には、晴れやかな笑みが広がっていた。
「小川屋か…」
「もう三十年近い昔の事ですわ。うちが大先生や奥さまと京に来て、間もない頃やったから」
 柔らかな婉曲を描く目が、懐かしそうに細められた。
「しかし何故小川屋とそんな話になったんだ?」
「まぁ、落ち着きなはれ」
 先走る性急さをやんわり嗜めると、キヨは唇を湿らせた。
「四条に北座がありますやろ?あそこの裏に、小さなお寺はんがあるのは、せんせかて知ってはりますやろ?」
「土手に向かって門のある寺だな?確か、春になると、芍薬が見事な…」
 四条通を、鴨川に沿って北に折れ、芝居小屋を過ぎた所にあるその寺の地図を、田坂は脳裏に描いた。
「そうどす。三十年前の夏の夜更け、そこのお寺はんから、お使いの小僧はんが来ましたのや」
「使い?」
「大せんせいに、すぐに来て欲しい、云わはって…」
 ひそひそ話をするように、キヨは声を落とした。
「奥さまもうちも、こないに遅うにと大せんせいの身を案じたんやけど、大せんせいは、心配せなあかんのは患者や云うて往診へ行かはったんどす」
「親爺らしいな」
「へぇ」
 誇らしげな相槌が返った。
「ところが小半刻も経たんうちに、小僧はんが、大せんせいからうち宛ての文を持って来はったんどす。書いてあったんは、幾つかの薬の名前どした」
「持って行った薬では、間に合わなかったと云う事か」
「そら、怪我の手当てと病気の手当てでは、使う薬は違ごおて来ます」
 少しばかり口を尖らせ、キヨは田坂の義父を庇った。
「怪我?」
「へぇ…」
「薬はキヨが持っていったのか?」
「大せんせいの文には、小僧はんに持たせるようにて書いてあったんやけど、うちは一緒に行きました。もしかして、人手がいるかと思いましたのや」
 キヨは、少し勇壮な顔をした。
「そうか…。で、小川屋はどうして其処に登場したんだ?」
「紙に書いてあった薬をひとつ、丁度切らしてしまってたんどすわ。そんで、夜分やったけれど緊急な事やし、小川屋はんに頼る事にしたどす」
「なる程な」
 成り行きが見えてくれば、自ずと余裕も戻ってくる。また胡坐に戻した田坂に、キヨは眉を寄せた。行儀の悪い、と目が責めていた。その目に素知らぬ振りをし、
「それで小川屋も、同道となった訳か」
 からかうような声で、田坂は先を促した。
「そうどす。若いおなごはんと子供だけで夜道は危ない、云ってくれはったんどす。その途中どした。護足衆の事を教えてくれはったんは。暗い夜道でうちが怖がらないように、都の、色々な話をしてくれはって…。護足衆の話も、その中のひとつどした」
 キヨは遠い目をした。そしてすぐにその目を伏せると、
「あの頃は、うちかて若かったけど…」
 心もち小さな声になった。
「小川屋はんもお店を継いだばかりで、颯爽とお店に立っている姿がどんだけ絵になったか…。ほんま、品が良くて優しゅうて…。その小川屋はんが、キヨはん、私の後を離れてはいけませんよ云うて、ずっとうちを護ってくれはったんどす…。いやや、恥ずかしい」
 茫洋とした目で溜息を吐いたあと、娘のように、キヨは袖で顔を隠した。
 その様子を、暫し呆れて見ていた田坂だったが、やがて、キヨに分らぬようそっと視線を庭に向けた。そして片目を細めると、午下がりのまだるい光の向うに、小川屋仁兵衛の穏やかな顔を思い浮かべた。

 薬種問屋小川屋の歴史は古い。その祖は、遷都とともに新たな都に居を構えなおして来たと云う。其れほどに、遥かな年月を経てきた家ならば、護足衆を知っていても不思議ではない。否、小川屋なら知っている筈だ。最初に小川屋を思い付かなかった事自体、どうにかしていた。

 田坂は軽く頭を振った。このところ次々と分ってきた新たな真実に、知らず知らず、振り回されていたらしい。そんな自嘲に囚われていると、
「せんせっ」
 突然、声が上がった。見るとキヨが此方を睨んでいる。
「どうした?」
「お話は、まだ途中どす」
「そうだったな、悪かった」
 田坂は目じりを下げて笑った。すると鼻梁の通った端整な顔に、人懐こさが濃く滲む。それが、キヨの機嫌を戻す最上の顔だと、田坂も良く分っている。案の定、キヨは不満な様子を残しながらも、
「これからが大事ですのや」
 唇を湿らせた。
「怪我人の出た原因は、盗賊どす」
「盗賊?」
「しっ」
 口に人差し指を当てると、キヨは辺りを窺った。そして憚るように、声を沈めた。
「盗賊は何も盗らずに逃げたんどすけど、盗賊に入られて怪我人が出た云うのを、お寺はんは隠しておきたかったようどすわ。そんで大せんせいが秘密に、呼ばれはったんどす」
「何故?」
「怪我をされはったのは北座の若い役者はんで、芝居の跳ねた後、その寺をご贔屓はんとの逢瀬の場に使おてましたのや。せやから…」
「そう云う場に寺の一隅を提供していたのを世間にしれたら、体裁が悪いと?」
 密やかに、キヨは頷いた。
「怪我の程度は?」
「深かったと思います。うちは手当てをしてはる部屋には入らんかったけど、大せんせいが、とても厳しいお顔をしてはったんどす。声をかけるのすら躊躇うくらいどした」
「そうか…」
 田坂の知る限り、義父は常に穏やかで冷静であった。若さと云う未熟を差し引いても、事に当たり動ずる人ではない。その義父が、厳しさをおもむろに表情に出していたと云うのならば、或いは怪我人は助からなかったのかもしれない。そう推量した時、
「けど男はん云うんは、冷たいもんどすなぁ」
 キヨが不満げに呟いた。
「……?」
 意味が分らず訝しげにしている田坂を見、キヨは溜息交じりに首を振った。
「その若い役者はんのお相手、うちらが行った時にはもう姿を消してたんどすわ。大怪我の相手を放り出して、自分だけ世間様を気にして逃げ出すなんて、うちには気が知れまへん」
 そしてその憤りのついでのように、
「せんせ。もしせんせがそないな場に遭おて、相手を見捨てるような事をしはったら、神さまが許さはっても、キヨが許しまへんえ」
 確乎と厳しい目で、田坂を見上げた。
「それは…」
 どう云う意味だと、慌てて田坂が云いかけたその時、間合い良く、玄関でおとなう声が聞こえた。
「沖田はんやわっ」
 つい今しがた睨みを利かせた声とは裏腹の、若く弾んだ声が、おとないの主の名を呼んだ。
「今日は一のつく日か?」
 首を傾げた田坂に、
「何の日でもええやありまへんか」
 冷ややかな一瞥をくれると、キヨは急いで立ち上がった。
「今行きますえ」
 いそいそとした足取りで敷居を跨ぐ丸い背を、肩を竦め、田坂は見送った。



「珍しいじゃないか、君から診察に来るとは」
 揶揄され、総司は困ったような笑みを浮かべた。
「近藤先生の使いで、九条まで行って来たのです」
「うちはそのついでか?」
「すみません」
「ま、そんな処だろうさ。で、用事は済んだのか?」
「はい。先方に文を渡すだけだったから」
「渡されたり、渡したり…、今日は文の話を聞く日だな」
 小首を傾げた総司に、いやこちらの事、と田坂は苦笑した。
「田坂さん」
「何だ、急に?」
 不意に真顔で問われて、田坂も笑いを引っ込めた。
「相手の気配を読んでいるのに、そうであると分らせないようにするのは、難しい事だと思いますか?」
「そう云う術に、嵌ったのか?」
 微かに、総司は首を振った。
「だろうな。でなければ、この質問は成り立たない」
 難しい顔で腕組みをしたものの、田坂の口元は緩んでいる。話に興をそそられた様子だった。
「其処までになると相当な鍛錬を積んだ者だが…、誰だ?相手は」
「小浜藩の御用人です」
 一瞬の沈黙のあと、総司はいらえを返した。その僅かな間が、直江への配慮と躊躇だった。
「小浜藩の、用人?」
 しかしそれを聞いた、田坂の眉根が寄った。
「直江…、直江忠兵衛とか云わなかったか?その御仁」
 今度は総司が瞳を瞠った。
「どうして知っているのです?」
「伊庭さんの話の中に出てきたのさ」
「八郎さんが?」
 田坂は浮かぬ顔で頷いた。
「昨日、伊庭さんが、例の仇討ちの件で、その依頼人の処へ行ったそうだ」
「姿勢だけ見せる…、と云っていた話の事ですか?」
「そうだよ」
 田坂は苦笑した。悪気の無い率直さは、案外辛辣だ。
「当初はそれで済ますつもりが、あの人、又悪い癖が出て、仇討ちよりも、その裏にある何かに興味を持ったらしい。熱心な訪問は、そっちの探索の為さ」
「……」
 田坂の口調は軽かったが、不謹慎を責めるように、総司は眉根を寄せた。そうして表情を冷たくすると、造りの端麗さが際立つ。本人は気づいていないであろうその貌を楽しみながら、田坂は先を続けた。
「そこで、斬られた男…、名を大澤一平と云うが、彼が、事の起こった前日、直江忠兵衛の後をつけるのを見たと、許婚が打ち明けたそうだ」
 一杯に見開かれた双つの瞳が、田坂を凝視した。その瞳に映る己を見ながら、無理も無いと、田坂は思う。八郎から話を聞き、今又総司の口から同じ人物の名を聞き、田坂自身、大きな驚きに居るのだから。しかし総司は別の方向へ思考を動かしたようである。
「…それならば」
 ゆっくりと、色の薄い唇が動いた。
「どう云う事情があってつけられていたのかは分りませんが、斬ったのは直江さんではありません」
「どうして分る?」
 確かな声音に、田坂は総司を見た。
「直江さんは、応対に出た私の気配を察したのにも関わらず、声がかかる一瞬前に構えを崩し、振り向いた時には隙だらけでした。…いえ、もし其処で私が斬りかかっても、交わす事もしなかったろうと思う程、あまりに無防備すぎた…」
 直江と接した僅かな時の記憶を、ひとつひとつ思い起こしながら、総司は慎重に言葉を選んだ。
「それほどに己を捨てている人が、他人を斬るとは思えません」
「待ってくれ」
 語るうち、揺るがぬ確信になったような勢いの総司を、田坂は片手を上げて止めた。
「それは君の憶測に過ぎないだろう?無論、直江が犯人では無い可能性もある。だが状況は、彼に分が悪すぎる。しかも、だ」
 瞬きもせず唇を閉ざしている面輪を、田坂はじっと見詰めた。
「大澤を、小浜から呼び寄せたのは直江だ」
 総司は息を呑んだ。驚きが、青みかかった白い頬に、薄く血の色を透かせた。
「その後も、直江は親身になって大澤の面倒を見、大澤も又、直江を慕っていたそうだ。が、その良好な関係に、何かが起こった。少なくとも大澤一平に関しては、容易ならざる出来事だった…。そうでなければ、直江の後をつけるなどと云う真似はしないだろうからな」
 その何かを探るように、田坂は宙に視線を向けた。しかしその思索は、直ぐに凛と澄んだ声に遮られた。
「それでも、直江さんは斬ってはいません」
「何故そう云い切る事が出来る?」
「勘です」
 一徹ないらえに、流石に田坂が眉を顰めたその時、
「その勘って奴が、一体何処から来ているのかを教えて欲しいもんだな」
 短気な声が、穏やかな庭に響いた。八郎だった。
 庭から回って来た八郎は、靴脱ぎ石に草履を脱ぐと、むっすり部屋の中に入ってきた。そして無言で火鉢の前に陣取るや、横柄な目で総司を見た。その八郎を、瞳に勝気な色を湛え、総司は見返した。
「八郎さん」
「何だ」
「いつから聞いていたのです。盗み聞きなどせず、姿を見せればいいのに」
「聞こえてきたんだから、聞いてやってたんだ」
「…なら、そのまま聞いていれば良いのに」
 ぽつりと零した不満の声を、八郎は聞き逃さなかった。
「俺とてそうして居たかったね、だがな、このままじゃ一向話は進まない。いくら藪とて、田坂さんもそうそう暇じゃない、そこで親切を買って出てやったんだよっ」
 とんだとばっちりを受け、田坂が嫌そうに顔をしかめた。
「ならば、その親切をお伺いします」
 不器用な気性は、受け流す事も、癇症を隠す事も出来ない。真っ直ぐな怒りを、顔を硬くして総司はぶつけた。
「では聞く。お前が直江を庇う理由は何だ?庇う、と云う言葉が適切でなければ、直江に大澤は斬れないと思った理由は何だ?どこかに根拠が無ければ、勘も及ばぬ筈だ」
「確かに、伊庭さんの云う事も一理ある。君なりに、理由はあるのだろう?」
 田坂に促され、総司は頷いた。
「さっき私は、直江さんに斬りかかっても、直江さんは交わすこともしなかったろうと云いました。何故なら、直江さんは、刀を抜けないからです」
「抜けない?」
 田坂は訝しげに呟き、八郎はちらりと視線を動かした。
「あの人はきっと強い。相当の修練を積み重ねた人です。けれどそう云う自分を、厳しく封じている。それでも咄嗟に斬りかかられれば、体は自然に動いてしまう。だから人と立ち合わない為には…」
「まさか」
 声は、八郎だった。
「そうです、鞘の中身は刀ではないのです」
 微かに表情を硬くし、総司は頷いた。
「だが相手は小浜藩の用人だ。刀が飾りだったと分れば、武士の面目どころか、背負っている藩の面子も立たない」
「では八郎さんはどうなのです?」
「どう、とは?」
「刀を離さざるを得ない事情が出来た時です」
「……」
 八郎の沈黙に、総司は小さな笑みを浮かべた。
「ほら、八郎さんだってそうでしょう?刀を帯びて事に遭遇すれば、考えるよりも早く手が刀に行きます。それを封じるには、刀を体から離す他無いのです」
「俄かには、信じ難いが…」
 八郎は軽く首を振った。その横で、田坂がゆっくりと腕組みを解いた。
「刀の事はともかく、直江と云う人物、色々に訳がありそうだな。そう云えば、寺脇さんは、直江と親しいのだろうか」
「…寺脇さん」
 微かに呟いた刹那、総司の裡で、翔一郎に会いたいと思う衝動が突き上げた。

 会ったからと、直江の抱える理由を、翔一郎が知っているとは限らない。否、仮に知っていたとしても、それを語る事を拒むかもしれない。だがあの時の、驚愕に我を失った直江の顔は、総司の心に黒い澱を沈ませている。そこには恐怖に似た色すらあった。

 総司は外に目を向けた。
 春近い陽は、華やいだ陰影を庭に刻んでいる。天道はまだ高く、日が落ちるには間がある。翔一郎の家は、帰る道すがらだ。居なければそれでもいい…。
 そこまで思えば、決断は早かった。一瞬耳の奥に響いた土方の声を振り切るように、総司は立ち上がった。
「帰ります」
 呆気に取られて見上げる田坂と八郎に一礼をし、勢い良く廊下に出ると、踏みしめた床には陽の温もりが籠もっていた。
 その春信の兆に鼓舞されるように、総司は足を急がせた。



事件簿の部屋        雪明り(十一)