雪明り 十一



 昼を回ったあたりから、少し風が出てきた。それでも陽にはまだ勢があり、家々の影の先に光の溜まりを作っている。
 木戸に差し掛かると、子供たちが歓声を上げて横を走り去った。その小さな背中を、総司は笑みを浮かべて見送った。すると、視線を戻す間もなく、今度は女たちの賑やかなお喋りが聞こえて来る。春を予感させる温もりは、人々の心にも華やぎを与えているようだった。
 
 翔一郎は家にいた。春信を招き入れるように、戸を一杯に開け放ってある。
「総司じゃないか?」
 玄関の前に立つと、すぐに中から声がした。
「上がれよ」
 不意の客に驚く風もなく、上がり框まで来て笑いかけた顔に衒いは無かった。
「お邪魔では無いですか?」
「寂しい事を云うなよ」
「では失礼します」
 外の陽にも似た朗らかな声に、つられて総司も笑った。
 
「何か用だったのだろう?」
 慣れた手つきで茶を淹れながら、翔一郎は総司を見た。
「少し聞きたい事があったのです」
「はて、何だろう?」
「寺脇さんは、御用人の直江様とは親しいのですか?」
「京に来てからの付き合いだが…。直江様が何か?」
 微かに、翔一郎は目を細めた。
「先日、新撰組に見えられたのです」
「ほう」
「用件は近藤先生にだったのですが、私が応対に出ました。その時感じたのですが…」
 翔一郎は、じっと聞き入るように総司から目を離さない。だがその視線には、無言で先を促す強さがあった。
「直江様はかつて…、いえ今でも、相当の使い手なのではありませんか?」
 率直な問い掛けに、すぐに答えは返らなかった。互いを見詰め合う二人の間に、寸の間、糸を張りつめたような沈黙が出来た。が、ややあって、その緊張を解くように、翔一郎が笑みを浮かべた。
「勘違いだろう。仮に事実なら、藩内で疾うに評判になっている。だがそう云う話を、私は耳にした事が無い。お前の思い過ごしだよ、総司」
 まるで幼子に云い含めるかのように柔らかな口調だった。しかしそう語る翔一郎の双眸は、それ以上の追求を断ち切る厳しい色を湛えていた。そしてその事は図らずも、己の勘が正しかったのだと総司に教えた。
「あとひとつ、聞きます」
 総司は真っ直ぐに翔一郎を見た。問うことに、もう躊躇いは無い。
「直江様は私を見た時、一瞬、驚いた表情をなさいました」
 閃光のように、硬い何かが翔一郎の顔に走った。直江の件では不動の体を崩さなかった翔一郎だ。その動揺が、総司には意外だった。
「寺脇さん…?」
 訝しげな視線を向けると、
「お前の見間違いだろう」
 一瞬見せた綻びを取り繕うように、翔一郎は笑みを浮かべた。
「何方かお知り合いに、お前に似た方がいるのだろう」
 そう答えた時には、いつもの柔らかな口調に戻っていた。
「他に聞きたい事は?」
「いえ、ありません」
 これ以上は、何を聞いても翔一郎は答えないだろう。そう云う強靭さが、目の奥にあった。
「今日は帰ります」
 脇に置いた刀を、総司は引き寄せた。
「飯でも一緒に…と、誘いたいところだが、今から人と会う事になっていてな」
 申し訳なさそうな表情をした翔一郎に、総司は微笑んだ。
「急にお邪魔した私が悪いのです。また来ます」
 勢いをつけて立ち上がると、動きを追うように翔一郎が見上げた。冷たいとも思える静かな目だった。だがその眸の奥で、翔一郎は今、不意に乱された心の裡を鎮めているように総司には思えた。


 外の溢れるような陽射しに、総司は瞳を細めた。室内の暗さに慣れた目には、春陽の明るさが眩しい。井戸端に居た女達はいつの間にか姿を消し、長屋は真昼の静寂に包まれている。
 ことりと、後ろで小さな音がした。翔一郎が戸を引いたのだろう。それを歩き出した背中で聞きながら、自分を見送った涼やかな双眸を、総司は思っていた。
――翔一郎は、直江の事で二つの嘘をついた。
 今から会う人間。もしかしたら、その相手は直江かもしれない。いや、きっとそうなのだろう。では翔一郎にとって、直江はどう云う存在なのか…。
 次々に浮かぶ疑問に囚われながら木戸に差し掛かった時、すっと物陰に隠れた気配があった。どうやら、翔一郎についている見張りらしい。だとしたら自分の行動も即座に土方の知る所になるだろう。今度こそ叱責どころでは済まない。総司は苦笑した。
 通りに出ると、鴨川からの風が袖を浚う勢いで吹きぬけた。その冬枯れを一掃するようなしたたかさが、心地良かった。 
 


「昼間、寺脇の処へ行ったそうだな」
「はい」
 険しい双眸から目を逸らさず、総司は頷いた。
 翔一郎の処へ寄ろうと決めたその時から、叱責は覚悟の上だ。
「会う事は許さない、と云った筈だ」
「承知しています」
「ほう、では何故だ」
 顎を上げ、土方は目を細めた。声は怒気を含んでいる。
「小浜藩の御用人、直江忠兵衛様の事を聞きたかったのです」
「直江…?」
「先日、直江様が新撰組に来られました。その時応対に出た私を見て、直江様は、一瞬、ひどく驚いた表情をなさいました。それが何故なのか、寺脇さんなら何か知っているのではないかと思ったのです」
「お前には関係の無いことだ」
 吐き捨てるように、土方は云った。端整が過ぎる顔が、みるみる表情を失くして行く。怒りが過ぎると見せる、土方の癖だった。が、総司は怯まない。
「それにあの方は、かなりの使い手です」
 土方はむっつり押し黙ったままだ。
「寺脇さんは、直江さまとは京に来てからの付き合いだと云いました。でも…」
 語りを止めない口元を、土方は冷めた目で見ている。が、ふとそれにも厭きたように、右手を伸ばした。最初緩慢に見えた動きは、しかし総司が咄嗟に身体を引いた刹那、突然、獲物に襲い掛かる獣のような鋭さに変わった。
 気付いた時に、総司は左の手首を掴まれていた。敏捷さにかけては上の総司が、気迫で負けた。
「土方さんっ」
「俺はな」
 ゆっくりといざりながら、土方は総司に近づいた。
「直江がどんな過去を持ち、お前を見てどんな感傷に耽ようが、そんな事はどうでもいい。俺が許さないのは…」
 そして互いの頬が触れ合うほどに近づくと、凝視する瞳に己の顔を刻み、
「寺脇に会った、その事だ」
 憤怒を押し出すように、低い声で呻った。が、その激しい苛立ちを跳ね返す強い色を、総司は、土方を映す瞳に湛えた。
「私は、寺脇さんが、土方さんの云うような人だとは思えない」
 土方の眉根が寄った。
「寺脇さんと居るとき、何かの切欠で、不意に、まるで他の人のように冷たい表情になったのを、私も見た事があります。けれどそうした後の寺脇さんは、とても苦しそうだった」
 表情を豹変させた後、翔一郎の横顔に浮かんだ、胸を抉られるような寂しさ。見る者を、荒涼とした哀しみに沈める寂寞感。それは一体何なのか…。その疑問が、総司を捉えて離さない。
「総司」
 重い声が呼んだ。
「この件には関わるな」 
 見上げた先にあったのは、威圧するような厳しい目だった。
「これは副長命令だ」
 土方は、ゆっくり手首を離した。そのまま文机に戻った背は、二度と振り向かなかった。




 花の季節を思わせる暖かな陽気は昼間の事だけで、日が傾くや、冷たい風が吹き始めた。そしてその風は、日が沈むと、颪のような激しさになった。

 ゆったりとした仕草で、伝五郎は煙管の灰を落とした。
「…そうか、雪子姫は生きて、大原におったんか」
「事件から五年、大原の奥の寺でひっそりと」
「寂しいな…」
 目を閉じ腕を組んだ伝五郎を、仄かな灯が照らし出す。皺を刻んだ顔が、憂いを帯びた。
「お頭(かしら)」
 その感傷を邪魔しないよう、静かに達吉が呼んだ。伝五郎は視線を回した。
「その寺ですが…。二十年程前の冬の夜、子供を連れた侍が訪ねて行ったそうです。寺の一番近くに住む村の者…、今は隠居をしている老人ですが、その者が、くだんの寺に急ぐ二人を偶然見、覚えていました」
「寒い夜更け、寂しい道を行く者は珍しかったんやろ」
「けど覚えていたのはそれだけやありませんでした。子供が雪で足を滑らせそうになった時、咄嗟に男が、翔一郎様と呼んだそうです」
 伝五郎の目の端に鋭い光が宿った。
「侍は、直江忠兵衛か?」
「多分」
 達吉は頷いた。
「その翌日、寺から弔いが出ました。おそらく、雪子姫でしょう」
「…そうか」
「雪子姫と二人のお子は、酒井直篤(なおあつ)様と一緒に死んだ事になってます。けど実際には三人は生きて、京に逃れたんです」
「誰が助けた…、か」
 伝五郎は難しげに眉根を寄せると、こめかみに指を当てた。
「あの時それが出来たんは、母子を討つ命を帯びた、直江忠兵衛と大澤半左の二人だけです。大澤は、事件の直後に死にました。理由は分らしまへん。けど嫡男がまだ幼少やったのにも関わらず、大澤家は取り潰しを免れました」
「直江が大澤を斬り、母子の命を助けた、と云うのが自然やろな。無論、藩には極秘、直江が一存でした行動や。せやから、直江は大澤も斬らざるをえんかった。何故、直江がそんな事をしたかは、本人に聞いてみんことには分らん。…大澤家の存続に走り回ったのも、直江やろ。それは直江の、大澤への贖罪や」
 淡々とした口調で語ると、伝五郎は目を瞑った。
 閉じた瞼の闇の向うに、ぼんやり灯りが点る。その灯の先に、子供と、その子の手を引く男の背が浮かんだ。
 雪明りの道を、男は子供を庇うように前かがみに歩き、子供は、転びそうになる体を立て直しながら先を急ぐ。辿る先には重篤の母が待っている。その母の今際の言葉を、子供は聞くことが出来たのだろうか…。
 
「綺麗な人やったなぁ。せやから、幸薄かったんやろか」
 伝五郎は、かすかに目を瞬いた。
 



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