雪明り 十二
行灯の火影が、武骨な背を照らす。時刻は既に夜四ツ(十時頃)になろうとしているが、つい先程小浜から戻ったばかりの伝吉の顔に、疲労の色は無い。
「三十年前、直江は大澤一平の父半左と共に、突然行方知れずになりやした。そして半年ほど経って又姿を現した時、奴は剣を使えない体になってい、大澤家には、半左の死が伝えられやした」
「二人は無二の親友であり、城下でも評判の使い手だったと云うのは確かか?」
「へぇ」
短い応えを聞くと、土方は腕を組み目を瞑った。
直江忠兵衛の身辺を探る為、伝吉を小浜に遣ったのは、総司から直江が相当の使い手ではないかと聞いた翌日、早暁の事だった。そして二日の後、伝吉は、人々の記憶からも褪せていた遠い過去を拾い上げ戻ってきた。
「当時、直江が大澤を斬ったのでは、と云う噂は流れなかったのか?」
土方の黙考を邪魔しないよう、控えめな声で山崎が問うた。
「それには皆口を噤みやして…」
珍しく伝吉の歯切れが悪い。
「云えない、何かがあったと云う訳か」
「多分…」
頷いた顔に、真実を掴みきれなかった悔しさが滲んだ。その無念を晴らすかのように、伝吉は目に厳しさを湛え云った。
「一つ、不審な点がありやした」
「どう云う事だ?」
「半左の遺髪を届けたのは、城代家老直々の使いでやした」
「城代家老が?」
訝しげに、山崎は眉根を寄せた。
「話はそれだじゃありやせん。当時、半左の長子はまだ五歳でやしたが、その子が成長するまで、身分も禄高もそのままと云う異例の沙汰があったそうでやす」
「ずいぶん手厚い処遇だな」
軽いため息が漏れた。
「それだけに、当時の事を覚えていた者も居たわけで」
「しかし大澤の死の理由は、結局誰にも知らされなかった…、其処が分からんな」
天井を仰ぎ、山崎は唸るように云った。
その時、
「…そうせざるを得なかったのさ」
不意に土方が目を開けた。
「小浜藩は、さぞ大きな恩を大澤に作ってしまったのだろうよ」
そして誰に云うでもなく、低く呟いた。
「副長」
伝吉が呼んだ。
「大澤家への処遇も異例でやしたが、直江も又、同じように厚い処遇を受けていやす。直江の家は、元々はお目見えも出来ない下士でやした。しかし半年の空白の後、直ぐ江戸詰めになり、やがて京都屋敷に仕え、以後は、とんとん拍子で用人にまで昇りつめやした。これには流石に疑問を持つ人間もいやした。尤も、そう云うやっかみが、探索を楽にしてくれやしたが」
時の流れに沈みきれぬ人の業を、しゃがれ声が淡々と語る。
「半年も行方を晦ました後の、異例の出世か…」
謎解きの糸口を見出すかのように、山崎は、膝の上に置いた手をじっと見た。
「山崎」
「はい」
実直そうな目が、直ぐに声の方へ向けられた。
「坂田近史郎は、直江は大澤一平の後見人だと云ったのだな?」
「そうです」
「ふん」
極めて端整な顔立ちが、物憂そうに眉を寄せた。
「副長」
頬杖の上の横顔が、ちらりと、視線だけを寄越した。
「これは推測ですが」
と前置きして、心持、山崎は膝を進めた。
「直江と大澤は、藩から何らかの密命を帯びた。それは二人が剣の使い手だった事をすれば、或いは、公に出来ない暗殺の類だったのかもしれません。ところが事に及んで、大澤一人が命を落とした。その親友を思う直江の気持ちが大澤家とその息子達を守った…、そう云う風にも考えられるのですが…」
と云いつつ、山崎の表情は今ひとつ冴えない。それは彼自身、己の仮説に納得していない表れでもあった。
「大澤半左を斬ったのは、直江だ」
直裁に届いた鋭い声に、はっと、山崎は目を瞠った。
「しかもそれは、大澤にしてみれば理不尽この上ない理由だった。だからこそ直江の負い目は深く、その贖罪として、大澤家を見守ってきた。だが今度はその大澤一平をも、直江は斬らざるを得なかった。…何故だ」
闇に沈むように、土方はゆっくり声を低くした。
「…もう一つ、気になる噂を耳にしやした」
一息間を置いたあと、伝吉が口を開いた。
「五十年も昔の事ですやすが…。酒井家に双子の世継ぎが生まれたと、そんな噂が流れたそうでやす」
「双子?では前の藩主、忠義(ただあつ)公に、双子の兄弟が居たと云うのか?」
声に驚きを隠さず、山崎が問うた。
「へぇ。ただ、その噂はほんの僅かな間の事で、その後は、藩の目を恐れたか、人の口の端に上ることは無かったそうでやす」
「だが火のない処に煙は立つまい。その噂の出所は何処だ?」
山崎は伝吉へ体を回した。
「城に奉公に上がっていた呉服問屋の娘でやす。宿下がりの時、親に、臨月を迎えた御方様の腹が異常に膨れて、あれはもしかしたら双子ではないかと漏らしたそうで…」
「その話が、外にも漏れたのか」
「へえ」
伝吉は頷いた。
「そうこうする内、娘が急死したから亡骸を取りに来いと、呉服屋に城から使いが来たそうでやす」
「急死?」
不審を露に、山崎は眉を顰めた。
「流行病で呆気なくと云う事でやしたが、納得の出来ない親は、娘は世継ぎが双子だと知ったから殺されたのだと、雨の夜、城の門を叩き続けたとか…」
「その後、店はどうなったのだ?」
痛ましげな響きを含んだ声が、先を促した。
「跡継ぎも無く、藩の用も断たれ、娘の両親が死ぬと、あっと云う間に潰れたそうでやす」
伝吉が口を閉じると、また静寂が戻った。土方は腕を組みなおし、もう一度目を瞑った。
閉じた瞼の裏には、濃い霧が立ち込めている。やがてその霧は一つの渦となり、黒い塊になった。塊は人の形を成し、じっと此方を見詰めている。目を細め、正体を見極めようとしたが、そうされる事を嫌うように、影は背を向けた。すると辺りはたちまち深い霧に覆われ影を隠し、後には闇だけが残った。
――あれは、寺脇翔一郎だったのか、それとも直江直兵衛だったのか…。
土方は細く目を開けると、消えた影を追うように薄闇の向こうを睨んだ。
若狭酒井家の京屋敷は、二条城とは、東町奉行所を隔てた南側に位置する。四方を城の濠を水源とした水路に囲まれており、これは西堀川にまで下る。土方らが伝吉の報告を聞いていた丁度同じ頃、その京屋敷の一室に灯が点った。
「直江」
外に漏れるのを憚るように、翔一郎は低く呼んだ。
「人払いはしてあります。ご心配めされるな」
その憂いを、直江は笑みを浮かべて払った。
「今の私達にとって、この屋敷こそが一番安全な場所なのです」
「我々に、安堵する場など無かろう」
低い苦笑が漏れた。
「確かに、内も外も皆敵。しかし貴方様が京屋敷に出入りする事は、新撰組も護足衆も、そして克利様とて不審には思いますまい」
「克利も敵、か」
翔一郎は微かに笑った。しかしそれはどこか自嘲めいて乾いていた。
「そうです、克利様こそが本当の敵なのです」
その翔一郎を見、直江は厳しい面持ちで頷いた。
「私達の行動を一番に気付かれてはならないのは、克利様なのです。私達は裏切り者なのですから」
「……」
「翔一郎様、お分かり下さい。これ以上、克利様の暴挙を見過ごす訳には行かないのです。克利様は、ただの殺戮者になってしまわれたのです」
掠れ声で説きながら、直江は翔一郎ににじり寄った。
「弟君を討たねばならぬ貴方様の苦しみは分ります。ですが克利様は、他の誰の手にかけてもならぬのです」
直江は膝の上の翔一郎の手を握った。
「分っている、直江」
「いえ、貴方様は迷っておられます。それは、双子に生まれながらも、克利様は辛く寂しいばかりの歳月を送り、貴方様はお母上の姿を眼(まなこ)に刻み、温もりに触れ育ったと云う、その引け目なのでしょうか?それとも、貴方様の、克利さまへの、兄としてのご心情が、決心を鈍らせているのでしょうか?もしそうならば、既に正気ではない克利様に、貴方様のお心は届かないのですよ」
「それ以上は云うな」
伏せた切れ長の目の端に、逡巡が走った。その一瞬を、直江の鋭さは見逃さなかった。
「…まさか」
はっと見上げた目が、翔一郎を凝視した。
「貴方様は、全ての罪をご自分で被り克利様を逃すおつもりでは…」
「直江…、克利は、私のただ一人の弟だ」
翔一郎は視線を上げ、直江を見た。それは、風もそよがぬ湖(うみ)のように静かな眼差しだった。
「なりませぬっ、それはなりませぬっ、克利様はどのような事があっても、私達の手でお命を頂戴せねばならぬのです」
「何故だ」
「浮島克利と云う存在を、最初からこの世に無かった事にする為です。克利様をこのままにする事は、雪子様を穢す事になるからです」
毅然とした目で、直江は翔一郎を見詰めた。
「それは克利が正気を逸してしまったからか?狂って、あのような行状に走ってしまった所為か?」
「……」
「ならば私とて同じだ。狂気と正気の狭間で苦しみぬいた父の血は、この私の中にも流れている。私が克利にならない理由は何処にも無い」
「翔一郎様」
直江の声は悲壮であった。
「貴方様が父上の血に、ずっと怯えて来られたのは私も知っています。しかし貴方様は、雪子様の血も…、あのたおやかで澄んだ御心の持ち主であられた雪子様の血をも、確かに受け継がれておられるのです」
翔一郎の膝を掴んだ直江の耳に、じりっと、油芯が焼ける音がした。それは彼にとって、何を排してもこの若者を思い止ませねばならぬ、焦燥の音だった。
翔一郎が、ゆっくりと唇を開いた。
「…父が己の心に狂気の兆しを見たのは、酒井家を継いでからだと云う。だとしたら私にも克利になる可能性は、まだ残されているのだ」
翔一郎の手を握りながら、直江は、ただただ首を振り続ける。
「父にとって、正気の時とは、刻々と狂気に陥る己を正面から見詰めなければ成らぬ苦しい時だったのだろう。だが父は母と巡り合い、救われ、最後まで母の慈愛に包まれ安らぎの中にいた。…私にはそう思える」
翔一郎は静かに笑った。
「そんな風に思えるのは、直江のお陰だ。直江が常に傍らで守ってくれたからこそ、私は迷い苦しみながらも、父の心を察するまでに成長できた」
「翔一郎様っ…」
苦しげに、直江は顔を背けた。
「直江は、母に恋をしていた。だから藩命に背き、私達母子を救ってくれた。そしてその為に手にかけてしまった、大澤半左の家をも見守り続けた」
じっと俯いたままの直江の横顔に皺が目立つ。そのひとつひとつが、己の恋を貫いた男の煩悶のように、翔一郎には思える。
「だがもう、直江は直江の道を歩んでくれ。これ以上私達の犠牲になる事は無い。浮島克利は、密命を帯びた寺脇翔一郎に討たれ、そして同時に、寺脇は浮島によって斬られて死ぬ。…直江はそれを見届けてくれれば良い」
翔一郎の双眸が、柔らかく細められた。が、直江は顔を上げると、
「お言葉ではございますが…」
その視線を撥ね退けるような、強い光を目に湛えた。
「直江忠兵衛、まだ雪子様への思慕、捨ててはおりませぬ。この想いは、例え翔一郎様にも、邪魔されるものではありませぬ」
「直江…」
「翔一郎様」
翔一郎の膝に置いていた手に、直江は力を込めた。
「己の思慕に勝てなかった私は親友を斬り、雪子様を助けました。しかし同時に、あまたの人の行く末をも変えてしまった。貴方様も克利様も、そして一平も…。皆、私の犠牲になってしまったのです。私は、他人の人生を変えてしまった事への責めを、負わねばならぬのです」
そして低く静かに、しかし強い声で云うと、
「もう、負うた荷の重さに、耐えられそうにないのです」
直江は目を細め笑みを浮かべた。その顔が、翔一郎の心の奥深くを切なく抉る。それは、雪明りだけが先を照らす細い坂道で、膚の感覚すら無くなる冷たさの中、転びそうになった自分を咄嗟に支えてくれた手の先に笑っていた顔だった。お母様は待っていて下さいますよと、急を知らされ心細さに震える心を励ました顔だった。
だがその直江の心中を、今まで計った事があっただろうか――。
自分達母子を助けたが為に、直江もまた、人生を狂わせてしまったのだ。
傍らで支え続けてくれながら、直江は、常に己を終らせる時を探していたのだ。
それに気付かなかった身勝手に、今更ながら後悔が襲う。同時に、胸に何かが込み上げ目の奥を熱くする。
堰を切って溢れたそれを、ようよう、
「直江」
翔一郎は言葉に代えた。
「はい」
「あの世で見える時は、克利と直江と三人で無ければ、父も母も叱るだろうな」
笑って頷いた直江の目が、微かに湿った。その感傷に引き摺られまいと、細くした双眸を灯に向け、
「急がねばなるまい」
努めて平坦な口調で、翔一郎は告げた。
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