雪時雨 -yukishigure- (壱)
大川端天満橋の八軒家にある新撰組の定宿、京屋忠兵衛の船宿は、丁度京から下ってきた船が着いた為なのか、或いは天候の崩れを早めに読んだ旅人が、早々に足をそこで止めると決めた為なのか、どんよりと雲が多く掛かった天からはまだ微かに射す陽もあったが、表口は結構な人で混みあっていた。
「八郎さん」
明るい声が掛かる前に、奥から走り出てくるのを見止め、伊庭八郎は腕を組んでもたらせていた壁からゆっくりと体を離した。
「どうしたのです?」
突然宿の者から客が来ていると告げられ、階下に降りた途端目に入った見慣れた姿に、総司は思った疑問をそのまま口にした。
「お前も大概に愛想の無い奴だね」
呆れたような調子で揶揄されても、総司はまだ分からぬという様に少し首を傾げた。
「せっかく大坂に居ると聞いたから、せめて旨いものでも食わせてやろうと思って来てやればこれだ」
将軍警護の職にある八郎は、京と大坂を行き来しながら今は此の地にいる。
「けれど今日は仕事で・・・」
「だから何だ、そんなものは終わったのだろう?」
「それはそうだけれど・・」
確かに課せられた仕事は昼過ぎには終わり、明日は京に帰る支度もあって、今日は早めに宿に戻って来ていた。
「だったら行くぞ」
総司の困惑など知ったものでは無いと云わんばかりに、八郎はくるりと背を向け、入り口に掛かっていた暖簾を、内から潜って外に出た。
そんな強引な言い分に、総司はどうしたものか迷い暫し立ち尽くしていたが、付いて来ると疑わず、振り向きもしない後姿がずんずん離れて行くのを見ると、漸く意を決めたように追い始めた。
年が明けてすぐ、局長近藤勇が昨年秋に引き続き長州に下り、今月弥生半ばに戻って来て十日が過ぎようとしていた。
二回にわたる征伐は思うような成果を得るまでには至らず、幕府は長州一国をどうにもできない、力の衰えを世間に晒す結果だけを作ってしまった。
その勢いに乗じて最近では京に限らず、広い範囲で討幕浪士の不穏な動きが活発になり、新撰組も手の足りない伏見、大坂方面へまで警備にかり出されることも多くなっている。
総司が大坂に来たのもその例外ではなく、二月ぶりに会った近藤とゆっくり話をする暇も無く、五日前から市中の浪士取締りの任にあたっていた。
だがそれも無事に終わり、明日早朝には船で京に戻ることになっている。
今回は監察方の山崎と、総司の率いる一番隊の精鋭だけの出張ということだったが、こうして無事役目を終えれば、確かに心に気の緩むものもある。
それが前を行く背の主の勝手さに、少しは不満を面に湛えながらも、結局のところ拒みきれずに付いて来てしまった自分の行動と繋がっていると云われれば、抗う言葉は見当たらなかった。
「明日は早いのかえ?」
脇に沿う大川の川面が、時折吹く風に白くさざめき立つのを前を向いたまま見ながら、八郎が問うた。
「七つにはここを出て、船に乗らなければ」
その八郎の視線を追うように、総司もやはり自分達の行き先と同じ向きに流れる水を見ている。
この大川を上れば、やがて淀川と連なり、更にその上流に京はある。
そして其処に土方が待っている。
それを思えば、一刻も早くに帰りたいと胸が疼く。
進める歩が時折疎かになるのは、逢いたいと、情けない程に聞かぬ己の堪え性の無さがさせる所為なのか・・・
総司はそんな自分を慌てて叱り付けると、又少し距離の開いた八郎を足早に追った。
「八郎さん、どこまで行くのですか?」
川沿いに八軒の船宿が並ぶ何件かを通り過ぎた処で、遂に総司が立ち止まった。
いくら役務を終えた後とは云え、一番の責任者である自分が何も言わずに宿を出てきてしまったことが、総司を逡巡させている。
できれば一度京屋に戻り、誰かに居場所をはっきりさせておきたい。
「そこの角を曲がって、所司代屋敷に行く手前だ」
事も無げに八郎の言う目的の在り処は、距離的にはそう離れた場所ではないとは言え、総司はそれでも躊躇った。
「八郎さん」
声を掛けなければずんずん行ってしまう背を、総司は慌てて呼び止めた。
その八郎が振り向くと同時に、丁度総司が立ち止まっていた一つ先の前の店で、人の賑わいとは質を違える荒い叫び声がした。
咄嗟に二人、そちらに目を遣ると、店先で問答をしているのは大柄な浪人と、一目で商家の者と分かる形(なり)をした若い男だった。
遠目で事情はわからぬまでも、どうやら二人の間には酷く険悪なものがある様だった。
だが如何にせよ、二本差し相手では若い男に分が悪すぎる。
周りの人垣は係わりを恐れて見ぬ振りを決め込んでいるらしく、助成しようとする者はいない。
浪人が、一際大きな怒号を上げた。
掴んだ相手の胸倉が引き寄せられ、総司からは其れまで人の影に隠れていた若い男の顔容(かおかたち)がはっきりと見えた。
その刹那、総司の瞳が大きく見開かれ、同時に足は弾かれたように地を蹴り、喧騒に向かって駆け出していた。
「総司っ」
叫んで、間髪を置かず後を追う八郎の視界が、二人の間に飛び込み立った総司の白い面輪に、浪人の上げた拳が振り下ろされる様を映し出した。
声というものを喉が形作る間も与えず、更に次の瞬間八郎の眸は、一瞬宙に舞った、吹く風にも翻弄されそうな頼りない身体を捉えた。
だが総司は二歩三歩後ろによろめいたものの、辛うじて其処に踏みとどまり、あとは少しも動かずに、自分に乱暴を働いた男と正面から対峙する姿勢を保った。
計れば瞬く間も無いような一連の出来事を、八郎の目は、ひとつひとつの情景を区切るようにして脳裏に焼き付けていた。
周りの者達が息を呑んだその後に、恐怖と非難とが入り混じったざわめきが、幾重にも出来た人垣の中から起こった。
「邪魔立て致すならば斬るぞっ」
どうにか正気を戻して、怒鳴り散らし威嚇する浪人は、すでに気で総司に負けている。
それを確かめて、ひとつ安堵の息を漏らした八郎だったが、流石にこのままにしておく訳には行かない。
見れば総司の唇の端には朱く滲むものがある。
それがみるみる膨らみを増し、ひとつの露となって、顎まで伝わって零れ落ちた。
口の中を酷く切っているのかもしれない。
先ほどの狼藉は、決して弱い力のものではなかった筈だ。
それでも腰にある刀に手を掛けようともせず、後ろ手で若い男を庇うように立つ総司の姿に、八郎の中に漸くおかしいと思う余裕が生まれた。
そしてそれはそのまま八郎を、次の行動へと無意識に突き動かした。
「そろそろ仕舞いにしてくれろ」
突然掛かった乾いた声に、総司を除く、其処に居た全ての人間が振り向いた。
「あんたがどうして怒っているのか、そんな事は知りたいとも思わねぇが、俺はこいつと今から飯を食いに行くところだ。その邪魔をされるのは真っ平なんだがな」
重なる人と人の間を、真っ直ぐに歩いて来ているのに、誰にも触れることなく、いつの間にか総司の隣に並び立つ八郎の口調は、気負いの欠片も無いものだった。
「貴様、俺を愚弄するかっ」
「頼んでいるんだぜ」
応えた片頬に、薄い笑いが浮かんだ。
それが男の怒りを、更に煽ったようだった。
だが柄に掛けたままの手は、鯉口を切ろうとはしない。
「こんな騒ぎになっちまえば、この宿の者にも迷惑がかかるだろうよ。他に話がなければ先を急ぐ。尤も用があったら、こいつは・・」
八郎は、脇で相変わらず後ろの者を守る姿勢を崩そうとしない総司を、顎でしゃくって指した。
「この並びの一番東外れの京屋に今晩は泊まるそうだ。悪いがそこまで来てやってくれろ」
毒気を抜かれるような淡々とした八郎の語り口だが、その姿には僅かにも打ち込む隙というものが無い。
その時この騒ぎを聞きつけたのか、此方に駆けつけてくる複数の足音が聞こえてきた。
視線を其方に遣った八郎にも、幾つか見慣れた顔がいる。
総司の急を聞いて京屋から駆けつけてきた新撰組の面々だった。
「忠義な連中だね。もう主を迎えに来やがった」
面白そうに言う八郎の声に、浪人の顔が忌々しげに歪んだ。
「畜生っ、覚えておれっ」
置かれた状況の悪さを目の当たりにして、決して良いとは言えぬ面構えが強張ったが、それでも引くに引けないありったけの強がりで罵倒すると、男は又も出来始めていた人垣を払うように掻き分け走り出した。
見届けた八郎がすぐさま横を向くと、総司はもう後ろの人間を振り返っていた。
「怪我はありませんか・・・」
「誰があんたに助けてくれ、言うたんやっ」
だが返ってきた言葉は思いもかけず辛辣なもので、八郎は一瞬若い男を見た。
几帳面そうな顔が、まだ緊張を解けずに硬い。
総司への非礼を諌めるべく、一歩前に踏み出そうとした気の短い新撰組の者の行く手を、咄嗟に遮ったのは山崎だった。
当の総司が怒りを見せるでもない様子から、何か事情があるのだと、山崎なりの判断だった。
だがその山崎自身も、相手の顔を見た瞬間眉根を寄せた。
そのまま八郎に視線を持って行くと、流石に男を見る目には険しいものを隠せないが、自分と同じ判を下したのか、総司の出方を見守るように動かない。
「余計な事を」
男はまだ誹謗を止めない。
むしろ感情が昂ぶっているだけに、浪人から受けた狼藉の怒りすらも総司にぶつけているようだった。
「新撰組になんぞ助けてほしゅう無いわっ」
最後に吐き捨てるように言い放ち、そのまま勢いに任せて身を翻すと、自分達を取り巻いていた人の輪に乱暴に分け入り、直ぐに姿は見えなくなった。
その背が視界から消えても、暫し総司は其処に立ち竦んでいたが、やがて漸く気づいたように唇の端から滴る朱の色をしたものを手の甲で拭った。
「大丈夫か?」
「・・・何とも無い」
八郎に応えた言葉ははっきりとしていたが、まだ口の中に残る血の匂いが嫌なのか、俯き加減のまま顔を上げない。
殴られた跡が、蒼白い左頬にその部分だけ紅く残る。
「沖田さん」
怪我の具合を懸念して寄ってきたのは山崎だった。
酔狂な見物人達は、事がこれ以上展開しないと知るや、波が引くように三々五々離れ行き、すでに総司と八郎を囲む新撰組の者数名しかいない。
「先程の若い男、元勘定方の河合の・・・」
「人違いです」
山崎の言葉を途中で遮って上げた総司の顔に、ぎこちない笑みが浮かんだ。
「しかし」
「私も知らない人です」
聞けばすぐに偽りと知れる嘘を必死につく総司に、山崎も何を言うべきか持て余した様に言葉を控えた。
「山崎さん、ちょいとこいつを借りるよ」
頑なに否定する総司に困惑を隠せない山崎を見かねたのか、八郎が横から言葉を挟んだ。
「このまま京屋に戻っても、こいつもつまらねぇだろう」
軽口を装いながらも、それが総司の心に大きく残っている筈の憂慮を、せめて取り去ってやろうとしている八郎の思惑だと、すぐに勘の良い男には承知できたようだった。
「それでは私達は一旦京屋に戻りますが、沖田さんは・・・」
「すみません、勝手を言いますが少し外に出ても構いませんか?」
屈託の無いように笑った頬が、うっすらと紅く腫れを帯びてきたのを気に止めながらも、山崎は黙って頷いた。
先程までは時折陽も射していた空が、いつの間にか十分に重さのありそうな黒い雲に隈なく覆われ始めていた。
この分ではいずれ降りだすだろうと思われた雨は、もしかしたら季節を名残む雪になるのかもしれない。
この若者の心に、先程の男に対してどんな感情があり、どのような葛藤があるのか――――
らしくも無く探ろうとしている自分を、山崎は自嘲して苦く笑った。
「なるべく早くにお帰り下さい」
今は冷たい風が吹き込んでいるであろう総司の心に、これ以上凍てつく寒さが入り込むのを防ぐかの様に、怜悧な観察眼を持つ男は穏やかに告げた。
「お前は本当に呆れた奴だね」
うんざりとした声音で独り言のように呟くと、八郎は親指と人差し指の間に挟んで、遊びながら揺らしていた盃の酒を一気に煽った。
「どうして?」
この料理屋に上がるや否や、すぐに用意させた濡れ手ぬぐいを頬に当てながら、総司は面白そうに笑った。
殴られた処の熱はだいぶ引いている。
そうなればこの濡れ手ぬぐいも、総司にとってはそろそろ鬱陶しいものに感じるらしい。
「もう少しそのままにしておけ」
外して横に置こうとした手を、八郎は掴んで遮った。
「もう痛みも無い」
「跡が残るだろう」
「女の人じゃあるまいし」
今度こそ、総司が堪えきれないように声を立てて笑い始めた。
だがそれが切れた口の中の傷にあたったのか、すぐに顔をしかめた。
「ほらみろ」
まだ歪めている面の輪郭を形どる細い頤(おとがい)は、やはり左右の膨らみが違う。
「今晩あたりの方が痛むかもしれんな」
「そうかな?」
「多分な。・・・が、流石に俺も殴られた経験は皆無だから分からん」
八郎の、からかっているともつかない口調だった。
「土方さんに頬を張られたことはあったけれど、こんなに強くは私も初めてだ」
まだ痛みもあろうに、又笑い始めた顔にもう憂いは無い。
「あの時、何故黙って殴られた?お前なら防げた筈だ」
暫しそんな総司を黙って見ていた八郎が、まるで手酌で酒を注ぐついでのようなさり気なさで問うた。
「相手の人、もうとっくに気で負けていたから・・・。刀を抜くことは無いと思った」
「そんなことではないだろう」
浪人者が鯉口に手を掛けたのは、威嚇の為だけだとは八郎にもすぐに察せられた。
傍で見ていてもそう分かる程に、相手の技量はお粗末なものだった。
だが自分が問い掛けに含んだ意味を、総司は意識して外した。
黙って殴られた本当の訳が、あの若い男に対する総司の感情の何処かに繋がる筈だった。
それを探った八郎を、今総司は拒んだのだ。
「・・・勘定方の河合、確か山崎さんがそんな事を言っていたな」
敢えて聞き流そうとしているのか、総司は応えず俯いて箸を取った。
「先日行った時に騒動になっていたあれか?」
そんな態度など、八郎は斟酌しない。
「確か隊の金子の帳尻が合わずに腹を切らされたと、丁度俺が行った時がその真っ只中で、えらく騒々しかったが・・・」
沈黙を是と受け止めて、真実を問う手は緩むこと無い。
「その人間に繋がる者だったのか?あの若い商人風の男」
向けた視線の先に、言い当てられて、今度は貝の様に黙り込んでしまった硬質な横顔があった。
たまたまその断罪の最中に、八郎が当たってしまった訪問からは、まだ二月を経てはいない。
後で聞けば河合耆三郎の切腹は、介錯人の腕の未熟さで、惨憺たる修羅の様相を呈したらしかった。
案内された室で待っていた八郎にも、戻ってきたきり蒼ざめて口数の少ない総司の様子から、その場が如何に凄惨なものだったのかは想像できた。
「そいつの、兄弟か?」
勘の良い詰問に、遂に総司の唇から諦めともつかぬ観念の息が微かに漏れた。
「・・・・あの人、河合さんの弟さんで・・・、河合さんが切腹した日の夜に、漸く播磨の実家から屯所に着いて・・」
もう隠し切れぬと覚悟を決めたのか、ぽつりぽつり語り始めた声が、それでもまだ躊躇するように幾度か途切れた。
「生きて見(まみ)える事はできなかったのか」
八郎に視線を移さないまま、悪戯に伸ばした箸の行方を見ていた総司が曖昧に頷いた。
あの夜。
冷たい骸(むくろ)になり果てていた兄の亡骸に、漏れる嗚咽を押し殺し取りすがっていた河合の弟の姿は、今も総司の脳裏に鮮明に焼きついている。
河合に切腹という沙汰を下したのは土方だった。
どうして半日待ってはくれなかったのだと、恨みの言葉を叩きつけた声が、未だ耳から離れない。
「確かにあの男が、兄を新撰組に殺されたと思い違(たが)えて、お前に罵声のひとつでも浴びせたい気持ちは分からないでもない。だがそれと、お前が浪人者にわざと殴られた事とはどう関係がある」
「あの時は咄嗟のことで、構えることができなかったから・・」
「下手な嘘をつくな」
「嘘じゃない」
「お前を知る者が見れば、誰もが俺と同じ事を思うだろうよ」
俄かに厳しさを増した八郎の言葉に抗うように、一度は上げた瞳を、だが総司はすぐに伏せた。
八郎に問い質されるまでも無く、何故あんな挙措に及んだのか・・・
実の処、総司は自分でも分からない思惑の中にいる。
確かにあの時、浪人者の上げた拳を避けるのは容易なことだった。
だが自分はそれを、敢えて受け入れた。
もしも―――
河合の弟というあの人物の負った痛みの欠片を、我が身で償いたいと思ったと告げたのならば、八郎はきっと怒り出すか笑うか・・・そのどちらかだろう。
そしてその思いの先にあるものが、断を下さねばならなかった土方に代わる贖罪だと言ったのならば、それを人は傲慢だと言うのだろうか・・・
そんな事を思った矢先に、唇の端に残る傷が鋭い痛みを持って苛んだ。
それが取りも直さず、すぐさま天が自分に与えた応えのように、総司には思えた。
「河合という人間の弟ならば、新撰組を恨みに思っているだろうな」
総司の沈黙に、これ以上の応えを求めたところで埒が明かないと判断し、矛先を変えた八郎の問い掛けだった。
言いながら、あの時総司を睨み付けていた、憎しみと、悲しみと、恨みと・・・そういう全ての感情が綾を織り成していたような男の目を、八郎は思い出している。
同じ事を、総司は感じている筈だった。
だとしたら知らぬ振りを決め込んで、奥深くまで踏み込み、心に蓄積されている苦い思いに敢えて触れる事で、鬱積しているもの全部を吐き出させてやりたい。
一見容赦の無い辛辣な言葉の裏には、そんな八郎の、想い人への遣る瀬無い心情があった。
「が、腹を切らされる程の不始末、どうして発覚した?」
「・・・隊の金子が足りないと、最初に気づいたのは土方さんで・・。長州に下った近藤先生からの急な文で、金子を用立てなくてはならなくなったらしいのです。それで勘定方に行った時に、その事が明るみになって・・」
「その責任を取らされた訳か」
総司がゆっくりと頷いた。
「その足り無くなった金、どうしたと、河合という人間は言ったんだえ」
「河合さんが・・・自分で使ったのだと、そう言ったのです」
「自分でねぇ・・。一体幾ら帳尻が合わなかったのだ」
「・・・五百両」
金額を聞いて、流石に八郎も溜息をついた。
「新撰組は大名に金を貸せるな」
当節五百両の金を常に右から左へ自由に動かせる新撰組という集団の勢いを、八郎は改めて知らされた思いだった。
「五百両。・・・たかが一介の勘定方の隊士が一度に使い切れる額だとは思えんが」
「私もそう思った。それに河合さんはそんな事をするような人ではなかった。いつも生真面目すぎる位に仕事をしていたし・・・」
漸く総司が伏せていた顔を上げて八郎を見た。
ここにきて初めて、先ほどから抑えていた感情が、一気に溢れ出たようだった。
否、それは河合の死後、総司の内にずっと籠もっていたものかもしれなかった。
咄嗟に八郎にそう思わせる程、瞳の中には激しいまでの真摯さがあった。
「だがその本人が使ったと言ったんだろう?」
そこを突かれれば戸惑いを隠しきれずに、不承ながらも総司には頷く他ない。
「確かにその二日前に、河合さんの言うとおりに五百両を送っていたという証が見つかって・・」
「どこに送っていたのだ」
「それが京の・・何処だったかな・・」
曖昧な記憶を手繰り寄せながら、心許ない応えが返ってきた。
「頼りない奴だな」
「・・・すみません」
「謝って貰った処で嬉しかないが・・・、金は一度に送ったのか?」
話の成り行きに少しばかり興をそそられたのか、先程よりも幾分軽くなった八郎の口調に、総司は今度も顎だけを引いて頷いた。
「だとしたら、そいつは少しおかしかないか?」
「・・・おかしい?」
「だうだろうよ。考えても見ろ。五百両もの金、幾度かに分けて使い込むなら合点も行くが、一度に一箇所に送ったというのだろう?」
注がれている盃の中身は、手を付けられるのを忘れられ、すっかり冷え切っている。
だがそんなことには頓着無く、八郎は続ける。
「その金、何に使うつもりだったのかは知らないが、誰かに宛てて送ったものではないのか?」
「誰か・・って?」
「少なくとも自分で使うつもりはなかったのだろうよ」
「けれど河合さんは・・」
身を乗り出すように言いかけて、やはり傷口に障ったのか、総司の言葉が中途で止まった。
「そう急(せ)くな」
性急さを宥めて伸ばした八郎の手の先が、まだ熱を持つ左の頬に触れた。
「お前、これは今晩痛むぜ」
そのままずらして、切れた唇の端まで指を滑らせると、まだ顔をしかめている総司を見て苦笑した。
「とんだ目にあったものだな。その顔を明日土方さんが見れば何と言うか、聞いてみるのもまた一興、か。・・・俺も京に一緒に行ってもいいぜ」
満更嘘でもなさそうに笑う八郎を見る瞳が、流石に不満そうに怒っていた。
「それよりも先程の話だがな・・・」
浮かべた笑みの名残を眼差しに留めながら、八郎はまだ自分から視線を逸らさない勝気な瞳に向かって語りかけた。
「河合さんが誰かに金子を送ったのではないかという・・?」
「そうだ。河合と言う奴は、金を送った後も、新撰組に留まっていたのだろう?」
「・・・そういえば」
「お人好しのぼんやりも大概にしろよ。俺が時々お前を危なっかしく思うのはそういう処だ」
「そうかな・・」
遠慮の無い辛辣な意見にも、然してこたえる風も無く、他人事のように笑う顔が屈託無い。
それにうんざりとした息が、八郎から漏れた。
「八郎さん、証文に書いてあった河合さんが金子を送ったという日は、足りないと分かる五日も前のことだったのです。それまで河合さんはどこも変わった風もなく、いつもどおり勘定方の仕事をしていたのです」
語りながら、勘定方部屋に行けば、邪魔をして申し訳ないと詫びる自分に、どんな時も和やかな眼差しを向けてくれた河合の姿を、総司は思い出していた。
いつだったか小春日和の冬の午後に、田坂医師の診療所から戻る途中、隊の用事を済ませてやはり屯所に向かう河合と、往来で偶然に一緒になったことがある。
並んで帰る道の徒然に、弟が勝手をした兄の後をついで実家の米問屋を切り盛りしてくれているのだと、嬉しそうに話してくれたことがあった。
きっと仲の良い兄弟なのだろう。
そう思いを馳せ、何とはなしに胸の裡が穏やかに満たされて行った感覚を、総司は昨日の事のように思い出せる。
だが皮肉にも、その弟という人物との初めての出会いが、河合の亡骸を安置してある部屋への案内の時で、次に偶然にも再び見(まみ)えたのが先程の騒動だった。
あの時自分に向けられた憎悪に燃えた目の色を、生前の河合の姿と重ね合わせて思い起こせば、総司の心はやはり沈む。
「普通だったら金子を横領し、どこかに送ったのならばその日に姿を消すだろう」
八郎の声が、暫し耽っていた物思いから総司を現(うつつ)に戻した。
「・・えっ?」
咄嗟に何を応えて良いものか分からず、思わずぼんやりとした声を漏らした後、すぐに赤面した。
「暖簾に腕押しってのはお前みたいな奴の事を言うのだろうな。まぁいい。今日の処はさっさと帰って休んじまいな。一晩寝れば下手な考えも忘れるだろうよ」
そんな総司の様子に呆れ、憎まれ口を叩きながらも、唇の端に残る紫色の傷を八郎は憂鬱そうに見た。
何を思って総司がなされるがままに暴力を受け容れたのかは判じかねる。
しかしそれが、後ろに庇っていた河合の弟の為にあったとは知る事が出来た。
だが総司のそういう他人への、時に無鉄砲なまでの感情の移入を八郎は危惧する。
無論それは見返りを求める行為ではないが、それでも苦い思いだけを残す結果に終わることも儘ある。
が、捨て置けと言う言葉は、この目の前の想い人には通じないだろう。
それを承知で尚説教じみた事を言い出しかねない自分を、八郎は胸の裡で苦笑した。
「八郎さん今言ったこと・・」
八郎の思惑など知らず、総司は総司なりに先ほどからひとつ考えを纏めていたらしい。
「つくづく惚けた奴だねぇ、お前は」
振り出しに戻した総司の問い掛けに、些か諦めたような八郎の物言いだった。
「金を着服しようと云う魂胆のある奴が、いつまでも其処に留まっているか?考えなくても分かるだろう」
「では河合さんは」
「返すつもりだったんだろうよ。その当てがあったからこそ新撰組に居たのさ」
「それでは返す予定よりも、分かってしまった方が早かったから・・・」
弾かれたように上げた顔が、俄に強張った。
それは、もしかしたら外に降り始めているのかもしれない氷の破片を、八郎に思い起こさせるような凍てついたたものだった。
「運が悪かったのさ」
そんな様子が痛ましいと、ふと思った感情から目を背け、八郎が漸く盃に残っていた酒を飲み干した。
「土方さんは知っていたのだろうか・・そのこと」
更に重ねて問う総司の瞳に、縋るような色がある。
もしも知っていながら、敢えて咎を下さねばならぬとしたら・・・。
川合は土方も信頼していた勘定方だった。
それを思えば総司の胸の裡も辛く苦しい。
「その位の憶測は簡単にする人さ」
だが何事でも無いように語る八郎の唇から、ゆっくりと離れる盃の行方を、総司は呆然と見ていた。
まるで流れの続きのような所作で、何の不自然も無く八郎は立ち上がると、小さな格子窓の際まで来て立ち止まり、指一本分だけ細く開けた。
急に冷え込んできた気配に違わず、其処には確かに白いものが風に舞っていた。
それを独り思案の沈黙の中に籠もってしまった想い人の面輪と重ね合わせて、八郎は物憂そうに狭い隙から天を見上げた。
事件簿の部屋 雪時雨(弐)
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