雪時雨 -yukishigure-
(弐)
早朝に八軒家の京屋を出たにも係わらず、大川から淀川に出て流れを溯り、総司達が西本願寺の一角にある新撰組の屯所に着いた時には、日もすでに高かった。
どんよりと雲の多い天から、氷の破片はまだ舞っては来なかったが、余分なものを一切削ぎ取るような早春の冷気は、漏らす僅かな息をも白く濁らせる。
逸る心を抑えて渡ってきた廊下に連なる室のひとつ前で、総司は足を止めた。
今は映す清白さすら余計に寒さを思わせる障子の向こうに、僅か数日温もりに触れなかっただけで、こんなにも自分を心細くさせる人間がいる。
「ただいま戻りました」
掛けた声に戻る応えが、待つ身に長い。
「入れ」
中から返った声の低い調子は、出て行った時と寸分も変わらぬものだった。
だがずっと耳に木霊して忘れる事無かったその響きを聞いた、たったそれだけで、急(せ)いて桟に手を掛けた自分を総司は恥じた。
開けた障子の隙から静かに身を滑らせた総司を見た途端、土方の眉根が寄った。
「どうしたのだ」
声に何処か不満がある。
「・・え?」
それがどうしてなのか分からず、総司は幾日ぶりかで見る土方の顔が突然雲って険しいのに、あからさまに狼狽した。
「その顔、どうしたのだ?」
不安げな瞳に合って、漸く後先省いてしまった己の性急さに気づき、先程よりは幾分和らいだ声で土方は問いながら、前に端座した総司の頬に触れた。
「あ・・」
不機嫌の意味を承知でき、触れられている頬に笑みが浮かんだ。
「喧嘩の仲裁に入ったら殴られてしまいました」
「喧嘩の仲裁?」
指で確かめながら、土方の視線は唇の端に残る切傷から、微かに残る鬱血した部分に注がれている。
まだ痛みの残る箇所をなぞられた時、総司が僅かに身じろぎした。
「馬鹿なことを・・・」
「避(よ)ける間も無かったのです」
屈託の無い笑い顔を向けられ、土方が諦めとも付かぬ息を漏らした。
総司は刀を抜を抜くことをしなかったのだろう。
否、きっと柄に手を掛けることもしなかったのだと言うことは、土方には容易に想像できる。
そうでなければこんな傷を負う前に、相手を倒している筈だ。
総司は滅多なことでは抜刀しない。
それは本来殺生を嫌う心根から来ているものなのだということも、土方は知りすぎる程に知っている。
だが剣客としての総司には誰もその域に達することができないものがある事は、この若者を知る万人が認めるところだった。
天賦の才と言ってしまえばそれまでなのだろうが、だがもしも引き換えに天が与えたものが、総司の胸に巣喰う業病だとしたら、土方にとって何よりも呪わしく忌むものであった。
「誰にやられたのだ」
そんな詮もない事を考えながら、細い頤(おとがい)まで滑らせた指を顎にかけ、それで改めて傷の具合を確かめるように少し上向かせた。
「知らない人です」
土方と間向かう形になって、総司は浮かべた笑みをそのままに応えた。
「これは正面からやられたものだろう。相手に向かって前を見せる余裕があったのならば、避けられない筈が無い」
鋭い観察に裏打ちされた言葉に、視線は一瞬戸惑い、逸らされようとした。
何か心に隠すものがある時の、総司の癖だった。
「お前を殴ったのは知っている人間だったのか・・・、それともその相手から誰かを庇ったのか?」
いつにない、土方の執拗な問い掛けだった。
問い質しながらも、その実、多分それは後者なのだろうと土方は推測していた。
総司が誰かの前にいてその人物を庇い、それが為に暴力を受けたと考える方が自然だった。
だが知りたいのは真実では無い。
何故相手を庇ったのか、否、敢えて理不尽を受け入れ傷を負ってまで庇うその訳は何だったのか・・・・
そこまで総司を動かした者が、今ひどく気にかかる。
それは嫉妬という感情以外の何ものでもなかった。
己の癇症をとっくに承知しながら、だが聞かねば治まらぬ自分を、最早土方は心裡で自嘲する他なかった。
暫し、逡巡するような総司の沈黙だった。
それでも逆らう事の出来ない眼差しに真正面から見つめられれば、秘めようと心に築いた堰など、紙よりも容易に破られる。
「河合さんの弟さんが・・・」
「河合?」
不審そうに土方が声をひそめたのは、まだ記憶に新しい処罰者の名だったからなのか、叉はそんな事はとっくに過去に斬り捨てねばならない断罪者としての感情からだったのか、そのどちらとも総司には分かりかねた。
「・・・清一郎さんと言う弟さん、土方さんは覚えていますか?」
「弟・・、確かにそんな名だったな」
土方の口調は軽い響きではない。
思い起こせば決して愉快でないその名を、今一度記憶に蘇らせてしまったことを総司は後悔していた。
「河合の弟がどうした?」
だが自分の持った感傷は、杞憂のものだと言うことを総司は知らない。
想い人の胸中など知る由もなく、土方はただ傷の理由を知りたいが為に先を促す。
「その弟さんが浪人風の人に絡まれていて・・・」
「それでお前が助けたのか?」
「助けた・・・、と言うのかな」
何と説明すべきか迷う風に言葉を躊躇った総司の面輪を、まだ正面を向かせたまま、土方の眸が捉えている。
「お前が殴られたからか?」
「手を上げたその浪人と河合さんの弟さんの間に思わず入り込んで・・・、気がついたらこんな事になっていたから」
見破られるのを承知でつく下手な偽りは、紡ぐ声を弱気にさせる。
語る総司の語尾が、微かに小さくなった。
確かにあの時、振り下ろされた拳をかわす事は出来た。
が、敢えてそうしなかった自分の行動が、一体何処から来ていたのか―――
河合は自分にとって慕わしい存在だった。
そしてその人間を断じたのは、ひとつ魂を別けあった唯一無二の土方だ。
咄嗟にとった行動は、その両方の立場の間で揺れ動いていた心が為させたものだったのかもしれない。
だがそれを知れば、土方は少なからず気まずい思いをしなければならないだろう。
そんな風に思考を他所に持って行っていた目の前が、不意に翳った。
一瞬何が起きたのか分からず、瞳を見開いた刹那、唇の端にひんやりと柔らかく触れるものがあった。
瞬きもできず、息をも詰めて動けずに居る想い人の傷を、土方は己の舌でなぞり、漸く抗い開きかけた唇の微かな隙を狙い、それを滑り込ませた。
突然の愛欲の迸りは、貪欲に愛しい者を求め、更に奥深く蹂躙するを止めない。
計れば――――
それは束の間の出来事であったのだろう。
やっと解放されても暫し声も出せず、驚きが過ぎて視線を縫い付けたままの総司に、土方の双眸が酷く真剣だった。
「二度と馬鹿な事をするな」
「・・・こんな」
やっと振り絞った抗議の言葉は、だが先へとは続かなかった。
「こんな?」
黒曜石の深い色に似た瞳が、あきらかに批難の色を隠さないのを見取って、土方が苦笑した。
「土方さんはいつも・・・」
また其処で止ってしまった言葉を、土方はいとおしげに待っている。
「・・・いつもそうだ」
一度知ってしまった熱は、ある力でぶつけた怒りの勢いすらも、敢え無く削いでしまう。
胸の裡に秘めるものを悟られまいと、咄嗟に伏せた瞳を揺らすのは、悔しさとそれを遥かに超えた切なさだけだ。
心も身体も、芯から崩れてゆきそうな自分を叱咤し支えるのが、総司には精一杯だった。
「意地が悪くて卑怯だと、そう言ってもいいぞ」
どうしようもない愛しさを隠し、揶揄して告げた意地の悪い言葉に、伏せられていた顔が上げられ深い色の瞳が土方を睨んだ。
「・・・いつも強引で、ずるい」
言った途端に頬を滑るものの感触に、総司自身が驚いた。
少しも泣くような事などしていない。
されてもいない。
たったこれだけの感情の起伏で、いともたやすく自分は涙を零すような弱い人間になってしまったのか・・・
愕然とする思いだった。
逢いたいと、ただそれだけに心を奪われていた五日間だった。
声を聞いて、顔を見て、確かに待ち望んでいた腕の中に還ったのだと、一番にそう安堵したかった。
だがそんな想いなど一足飛びにして、何の躊躇いもなく土方は自分を溶かしてしまった。
いつもいつも、強引に手を引き戸惑いの中に翻弄させるのは土方だった。
土方の温もりを知ってから、悦びと幸いと、だがそれを凌駕する不安が常に自分を捉えて離さない。
だから心が脆くなってしまったのだ。
けれどこんな情け無い自分を見られるのはもっと嫌だ。
「・・・ずるい」
慌てて叉顔を伏せ、繰り返し咎める小さな声が震えた。
だが土方は土方で、堪え性の無い自分を律するのに、呆れるほど必死だった。
いっそ想いの滾るまま今此処で、お前の心も身体も何処もかしこもが、隈なく自分だけのものなのだと刻み込んでしまいたい。
そんな甲斐性など知りもせずに目の前で俯いたままの想い人は、思えばずいぶんと残酷な仕打を自分に課す者なのかもしれない。
つい零れた溜息の行方の先にあるものなど分かる筈も無い総司が、それを聞き止めて微かに身じろいだ。
途端に、結い上げた黒髪が揺れて横に滑った。
項垂れて露になった細い項が、叉も自分を追い詰めるだけのものだとは到底言えず、土方は遣る瀬無い二つ目の息をついた。
「土方さんっ・・・」
今日の土方は強引過ぎる。
そう抗議の声を上げたくとも、すぐに唇は塞がれてしまう。
だが激しく貪りながらも、歴然と残る傷口にだけは触れない。
「・・土方さんっ」
唇をずらして僅かに作った隙から漸く紡いで呼んだ声すら届かぬように、土方は肩に置いていた手を一気に総司の下腹にまで伸ばした。
「あっ・・」
知らず高められていた身体は、直截に惑溺の泉に触れられ、雷(いかずち)を通されたような痺れが、足の指先までをも走り抜けた。
咄嗟に口元に持って行こうとした手の甲を、土方は掴んで止めた。
「・・・いやだ」
抗って首を左右に振る度に、とっくに結わえを解かれて褥に広がった髪が、まるで意志を持ったもののようにうねる。
声を放つことを、総司は恥じた。
だが土方は下に組み伏す者の懇願など聞き入れず、片手で然も無くひとつに纏められる両の手首を褥に縫い付けた。
その瞬間、総司の面輪に怯えにも似た色が走った。
これから何をされるのか、いつもと違う土方の意図が読み取れない。
分け入られて、無残にも大きく別つことを余儀なくされた下肢に、思わず力が篭る。
「俺は意地が悪い」
耳朶を噛んで低く囁く声は、意地の悪い悪戯を解く気は無いらしい。。
それに勝気な瞳を向けた刹那、突然身体の中心を貫き一気に押し入ってきた熱さに、堪え切れない悲鳴が細く棚引いた。
額に冷たい汗を浮かべ、眉を寄せ、苦しみを遣り過ごす為に息を吐こうと開かれた唇に、まるでそれを待っていたかのように一本の指が滑り込んだ。
何が起こったのか分からず見上げた瞳から零れ落ちる雫を、己の舌先で拭い取る土方の端正な面が微かに苦笑していた。
「噛むのだったら俺の指を噛め」
少しも身体を自由にできず、唇の隙間に指を食(は)ませられたまま、濡れた瞳が大きく見開いた。
唇を噛み締めて砦を作ることを、土方は封じたのだ。
咄嗟に言葉で責めようとしたが敵わず、その困惑の中で彷徨わせた視線を戻す間もなく、更に奥深く貫かれる衝撃に、薄い胸が跳ね上がるように撓った。
思わず漏れた声は、まだ快楽の片鱗を掴んではいない。
愛しい者の声音の中に、やがて籠もる甘やかな響きを一時も早く聞き留めたい。
だが土方はその逸る思いに枷をして、殊更ゆっくりと己を刻み込む。
辛抱は――――
自分の方が余程も辛い。
性急に猛った激しさの代償のように、今度は執拗なまでにゆるい刺激は、総司の内から官能の余波を脳髄にまで送りこむ。
もう土方の熱しか知ることはできない。
だが卑怯な指は、悦楽の波に翻弄されて零れ落ちる声を隠すことを許してはくれない。
噛んでしまえば愛しい人を傷つける。
そんな躊躇いも、ともすれば空ろに霞み行く。
やがてぎりぎりの瀬戸にまで追い詰められて、すすり泣くように細く空(くう)に放たれたのは、意識よりも先に本能が選び取った、耐えることのできない悦びの証だった。
吐く息と共に漏れる甘美な忍び音が、せわしく上下する白い胸が、浮き出る鎖骨の陰が、荒々しく陵辱を繰り返す侵入者を更なる昂ぶりへと導く。
戒めていた指が、いつの間にか唇から離れている事も、総司には分からない。
ただ欲情の嵐に呑まれ、逆巻く風に舞い上がる木の葉のように、宙に高く浮いた白い下肢だけが常闇の中で大きく揺れていた。
固く閉じられたままの瞳は、熱い余韻が醒めるのを嫌がっているとも、或いは乱暴すぎる所業を怒っているのだとも、土方には判じかねる。
「悪かった・・」
うつ伏せた薄い背に、己の重さを掛けずに覆い被さり、貝殻骨の辺りまで滑る髪を指で絡ませ低く囁いた声が届いたのか、総司が漸く瞳を開くのが分かった。
頬を隠していた髪を指で除(の)けると、それを厭い、更に顔を背けようとした仕草を許さず、土方は瞬時に頤(おとがい)を掬った。
「こっちを向け、不安になる」
それが先程まで有無を言わせず強引に自分を受け容れさせていた者の台詞にしては、およそ勝手極まりないとは重々承知で、土方は黒曜の瞳に問う。
「お前は酷い奴だな」
咎める言葉を選びかねている内に、先に掛けられた思いもよらない責め句に、総司が土方を不安げに見上げた。
「これ程に俺の心を乱しておきながら、尚も不安に陥れる」
見つめている白い面輪の唇の端に、似合わぬ痛々しい傷がある。
それを一体何処でどうやって、誰に付けられたのか・・・
知らぬだけで、心は千々に掻き乱される。
だが想い人は、そんな事は何でも無いと笑う。
確かにそうなのだろう。
こんなにも根深く猜疑する自分は、人が見れば呆れるに違いない。
だがこの者の全てを知り得なければ安堵などできはしない、隠しているのは許せない。
だからこそこうして極限まで追い詰めてしまう己を、最早土方は止める術を持たなかった。
「残酷な奴だ・・」
呟いて、見下ろす眸の奥が、錯覚と思える程に僅かに揺れた。
それを見取って、総司の心が俄かにざわめき立った。
こんな土方は知らない――――
理由は分からない。
けれどきっと自分が土方に、こんな目をさせてしまったのだ。
溢れ出る恋情と尽きぬ悔恨に、思わず身体を返し、両手を伸ばして強く首筋に縋った。
そうするのを待っていたように、骨も砕かんばかりに強く抱き返してくれる腕の主の心にある哀しさが総司の胸に切ない。
「・・・土方さんは・・ずるい」
喜びも幸いも―――
瞬時に底無き淵のような不安に塗り替えてしまうのは土方の方だ。
ずるいのだと、今一度瞳を合わせて告げようとした唇が、触れるか触れないかの際で重ねられ、すぐに離された。
「これ以上は、怒るだろう?」
叉も突然の愛欲の容(かたち)を受け止めかね、声を失い大きく見開かれた瞳に、もう先程見せた不安定な揺らめきの欠片も見せずに土方が笑い掛けた。
卑怯だと、責める為に解かれた唇は、だが一言も発せられる事無く、瞬時に降りてきた土方のそれに、今度こそ隙無くふさがれ、言葉は深い沈黙の淵へと封じられた。
八郎が姿を現したのは、その翌日、朝の慌しさが一段落した頃だった。
天道は漸く温い陽射しを投げかけ始めていた。
「総司なら部屋にいるぞ」
廊下に立った八郎を、文机に向かったまま顔だけを動かし、ちらりと一瞥した土方の一声はそれだった。
「今日は非番だろう?可哀想にな、折角の休みに蒼痣の残った頬では何処へも出かける気にはなれまい」
「何故知っている」
「その場に居たからさ」
漸く体を回し見上げた土方に、衒(てら)う事無い応えが戻ってきた。
「お前が?」
「いちゃ悪いかえ」
怪訝と言うよりも、すでに不機嫌という域の感情にいる恋敵の様子を、八郎は面白そうに見ている。
「殴ったのは誰だ」
「知らん」
低い声の詰問に、八郎の応えもおよそ素っ気無いものだった。
「お前は見ていたのだろう?」
「だが知らん奴だった。総司も相手の事は知らないだろうよ」
「知っているのなら話せ」
知っていると、すでに決め付けた風な強い口調だったが、八郎は殊更気負う風も無く室の真中まで来ると腰を下ろした。
どうにも面白く無さそうな土方の目の前で、まるでそれを揶揄するように脛の長い脚が行儀悪く組まれた。
「本当に知らない奴だったらしい。俺も飯を食いに誘った処だったしな」
「お前は余程に暇らしいな」
忌々しさ隠そうともせず、土方の物言いはいつもより更にぶっきら棒なものだった。
「あんたと違ってな」
それに怒るでもなく、八郎は開け放たれた障子の向こうの中庭に視線を遣った。
「ところで・・・」
とっくに後ろを向けて書き物の続きを始めた背に、八郎も外に目を向けたまま声を掛けた。
「ここの元勘定方の・・・、先日切腹した奴」
「河合か」
すぐに名が返って来たのは、土方の記憶にも残る事件なのだと判じ、八郎も漸く視線を室の中に戻した。
「総司がその河合の弟を庇って殴られたと言っていた」
いつの間にか八郎を見ていた端正な面が、遣る瀬無くしかめられた。
「なんだ、ちゃんと知っているじゃないか。あんたも意地が悪いね」
「お前程じゃないさ」
皮肉を軽く聞き流しながら、すでに其処までは総司も土方に話しただろうと、八郎にはある程度予想できていた。
あの場には山崎も、他の新撰組隊士も居た。
他の人間に口止めをするような器用な真似は出来そうに無い総司が、人の心の奥底までも冷徹に見極める土方に隠し通せと云う方が無理だろう。
だがせめてその位の嘘を、自分自身にこそつくことができれば、総司はもう少し上手に生きる事ができるのではないかと、そんな風に詮無く思う己の老婆心を八郎は心裡で笑った。
「嫌味の次は独り笑いか?」
土方の顔が今度こそ鬱陶しそうに歪んだ。
「楽しいことを考えていたのさ」
「それなら余所でやってくれ。俺は忙しい」
「こんな居心地の悪い処はとっくに願い下げと決めていたさ。が、その前にひとつ聞いておきたい事がある」
「何だ」
「河合って奴は誰を庇った」
再び背を見せて硯箱から筆を手に取ろうとしていた主に掛けられた声からは、それまで含んでいた笑いが消えていた。
ゆっくりと振り向いた土方の面も又、新撰組副長として他を寄せ付けない厳しいものに戻っていた。
「誰に聞いた」
八郎の意図を承知して、前後を容赦無く省いて返された応えだった。
「誰にも。話を追ってゆけばそんな事はすぐに分かることさ。・・・が、総司は気づかなかったようだがな」
苦笑した声には、それを良しとする響きがあった。
「まだ調べているのだろう?河合という奴が起こした件・・・いや、真相はこれからか」
渋面を崩さない土方に、更に八郎は笑いを残して問う。
が、その直前に総司の事に触れた時のような慕わしい調子はない。
花の季節を彷彿させる柔らかな風が不意に一陣起こり、剣呑な空気が支配する室の中を吹き抜けた。
一瞬の内に頬を嬲って過ぎ行くそれを、八郎は目を細めて遣り過ごした。
「調べている」
暫し対峙するように相手を見据えていた土方だったが、やがてひと言だけ発すると、後は何も応えず三たび後ろを向けた。
取った筆を動かし始め、もう其処に八郎の存在を意識せぬ伸びた背筋の厳しさが、これ以上の詮索を仮借せずと無言で告げていた。
それを見取ると八郎は静かに立ち上がり、これも叉室の主を、一向もせずに出て行った。
「痣にならずに良かったな」
俯いて見せている横顔に、一昨日の理不尽の名残の無いのを確かめながら、からかうように掛けた声に総司が振り返った。
「何処かに行くのか?」
「今日は非番だから」
総司は袴を替えたところだったらしい。
問いに対するものとは到底思えないちぐはぐな返事に苦笑しながら、八郎は細い指が器用に最後の紐を結び終えるのを見ている。
「先日の、河合の弟とか言う奴。そいつが京にいるのかえ?」
指先がぴたりと動きを止めるのに視線を留めたまま、まるで世間話のように語る八郎に、黒曜の瞳が大きく瞠られた。
「驚くほどのことじゃあるまい」
その様子に可笑しそうに笑う八郎だったが、総司はまだ驚愕と困惑の中にいる。
「頼まれたのは・・、山崎さんか。お前のお節介につき合わされてあの人も災難だったな」
「お節介だなんて・・」
全てを承知して山崎に同情する風な八郎に、漏らした声に不満が籠もるのを隠せない。
「それじゃ何だというのだえ?俺には何処から見ても立派なお節介に見えるがな」
「私はただ・・・」
「ただ?」
問う八郎の声が、いつの間にか真剣なものを含んでいた。
想い人は、時折無茶を無茶と思わず己の意図するままに行動へと移す。
それは土方にとっても一番頭悩ます処らしいが、八郎にしてみてもそのまま危惧だった。
だが目の前で、どう言い繕おうか思案の中にいる総司の決めた先は、すでに自分の憂いを疾うに超えてしまっているようだった。
「京の、何処にいるって?」
此方から切欠を作ってやらねば何時までたっても埒のあきそうにない沈黙に、半ば諦めた八郎の物憂げな言い様だった。
その声に、やっと総司が伏せていた瞳を上げた。
「・・・西陣の旅籠にいるのを、今朝山崎さんが教えてくれて」
「其処に行こうとしていた訳か」
促さねば止めてしまうだろう語りの先回りをして八郎が呟いた。
「土方さんは」
その名を出すや、一瞬弾かれたように上げた瞳に揺れるものがある。
「・・・知る訳がないか」
それを確かめて、自分で付けた応えの調子が憂鬱だった。
総司が土方に言う筈がなかった。
それは多分自分と同じように、余計な事に足を踏み入れるなと、厳しく諌められるのが目に見えているからだけでは無いのだろう。
総司は河合の弟という人間に、何か憂えるような事柄が生じていると直感し、動こうとしている。
まだ正体の欠片も見えない内に。
そしてそれはそのまま土方の下した判で切腹しなければならなかった河合の事に直接通じる。
だから総司は土方に自分の行動を、決して知られまいとしている。
だがその土方が河合の件に関しては、未だ探索を続けている事を総司は知らない。
そんな図式を脳裏に浮かべながら、思えば苦笑を禁じえないのは、総司に頼み込まれ、土方からも探索を任されているだろう山崎の苦衷だった。
一方は隊務と間違えは許されず、一切の感情を斬り捨て鋭利な神経で物事を判断せねばならぬ立場に置かれ、もう片方ではその捨てねばならぬ情に触れて、断りきれず探索を頼まれ・・・・
さりとて知っている事の全部を知らせる訳にも行かず、その胸中は推し量れるものがある。
「さても、板ばさみで苦しい事だったことだろうよ・・・」
呟きと言うには小さすぎて聞き取れなかった独り語りに、総司が怪訝に八郎の顔を見上げた。
「何でもない。行くのだろう?西陣、そいつのいる旅籠へ」
言いおえるが早いか、八郎が衣擦れの音ひとつさせず踵を返した。
自分が共に行くのが当然のように、広い背は総司を待たずに先をゆく。
その姿を総司は逡巡する視界の中で暫し見ていたが、やがて覚悟の息をつくと、少しだけ急ぎ足で後を追い始めた。
事件簿の部屋 雪時雨(参)
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