雪時雨 -yukishigure- (参)




西陣は二条城の北、北野天満宮の南東に位置する町である。
都が京に置かれる前から織物が盛んで、西陣織という独自の文化を長い時を経て作り出して来た町も、幾度か見舞われた大火と、近年では奢侈(しゃし)を嫌う幕府の風潮による重要の激減で、かつての隆盛の面影は無い。
それでも織物職人の町らしく、軒を連ねる間口の狭い民家からは、時折機を織る規則正しい音が聞えてくる。

「今頃の寒さって云うのは、どうにも気に入らないねぇ」
昨夜の雨湿りの残る道を行きながら、八郎は誰に言うともなしに呟いた。
そんな癇症を、横に並んで歩いていた総司が可笑しそうに見上げた。
「嫌な奴だね」
横目で見て咎めた言葉だが、さして勢いは無い。
「もうすぐに温かくなるのに・・・」
其処まで来ている季節を待てない気の短さを、総司は尚も面白そうに揶揄した。
「それが悪いのさ」
「どうして?」
「ぬくい風が三日も吹けば花が咲くかと期待する。させときながら、あっさり知らん振りして、白いものなんぞ降らせやがる」
とんでもない理屈に、遂に総司が小さな声を立てて笑い始めた。
「往来で二本差しが呆れられるぜ」
うんざりした声音が耳に届けば、余計に笑いは止まらない。
「おい、いい加減にしておけよ」
それは見映えだけではなく、こんな束の間の憩すら、容赦無く辛い時に変えてしまう咳を案じるものだった。
「・・分かっているけれど」
だが総司はそうとは受け取らず、八郎が単に武士にあるまじき自分の挙措を嗜めたのだと思っているようだった。
言い訳した声音が、まだ笑いを含んで柔らかかった。

「そろそろだろう、その旅籠」
この侭ではいつまでも尽きそうに無い総司の笑壷に釘刺すように、八郎は話題を振った。
「智恵・・・何とかという寺の近くだと言うのだけれど。・・・大きな通りに出る手前だから、行けばすぐに分かるからって」
「書いた紙を見せな」
どうにも頼りない道案内を呆れて、八郎が立ち止まった。
総司自身もそろそろ自分の記憶に曖昧になって来ていたところか、胸の袷を探り、小さく折りたたんだ白い紙を引き出すと、素直に八郎に手渡した。
広げられた紙に書かれた地図は、それが山崎の気質なのか、かなりの正確さで几帳面に旅籠の在り処を記していた。
「もう一本西の道だな」
暫し辺りの景色と紙片とを見比べていた八郎が、其方に視線を向けて呟くのを聞くと、些か不安にあったらしく、黙って様子を見ていた総司の面にも、正直に安堵の色が浮かんだ。


「ところでお前・・」
旅籠の場所の目星はついたというのに、動き出そうとしない八郎を不審げに見ながら、総司も叉行きかけた身体を止めた。
「一体何の為に、その弟に会いに行く?」
問いかけると言う形を取りながらも、声の調子にあるものは、すでに総司に何か具体的な目的があり、それを打ち明けよと促すものだった。
「俺も散歩につき合わされたと仕舞いにするには、つまらない」
逡巡するような沈黙は、それが是だと疾うに告げているのに、総司はまだ口を開こうとはしない。
「言わずばここで引き返し、渋面作らせてみるのもまた一興」
謡うような脅し文句が、土方を指しているのだとはすぐに察せられた。
「・・・印籠を、返そうと思って」
暫し間を置いて漸く聞えてきた声の、いつにない口籠もるような低さが、そんな意地の悪さを恨んでいた。
「印籠?誰の」
物言わず頷いただけの総司の仕草に、聞かずとも分かった八郎の眉根が、あからさまに寄せられた。

身内に返しに行くというのならば、印籠は河合の遺品なのだろう。
それがどういう経緯(いきさつ)で総司の手元にあるのかは知らないが、幾ら諌めても自分の想い人は、思ったままを行動に移すのを止められないらしい。
だが大坂での出来事といい、その時の河合の弟の態度といい、この件について思い起こせば、何か心落ち着かないものが八郎にはある。
総司には係わって欲しくは無い事柄と、言い切って良かった。


「余計な事に首を突っ込むなとは、さんざ言った筈だぜ」
案ずるを通り越し、声に聞かぬ者への憤りがあった。
整いすぎた眉目だけに、そういう時の八郎には一種凄みさえ感ぜられる。
「河合さんの弟さんの事情に触れるつもりは無い。けれどこれだけは返したい」
強い視線に少しも怯まず、総司はそれを跳ね返した。
言って聞く奴ではないと思っていても、こうも直截に抗われては、律する方も些か片意地を張りたくなる。
「では俺が返して来てやる」
「八郎さんが・・?」
「相手もお前では素直にはなれまい」
尤もそうに語りながら、こんな事で向きになっている己の稚気に呆れ、八郎は胸の裡で自嘲の苦い笑いを禁じ得ない。
だが総司は素直に受け取ったようで、更なる抗いの言葉は返って来ない。

言われて見れば確かにそうなのだろう。
河合清一郎にとって、兄を殺した新撰組の人間である自分は仇にも等しい。
まして河合に切腹の沙汰を下した土方は、魂も肉体も一つを二つに分つた、唯一無二の人だった。
それを思えば総司にも河合の肉親の心情に触れるには、臆するものがある。
思う侭に此処まで来てしまったが、こうして自分の考えの浅さを知ればやはり心は沈む。


「だがその印籠、それをどうしてお前が持っている?」
思惑に捉われていた総司を現に戻すように、知らねばならぬ事を八郎は問うた。
「理由を聞かねば、相手に説明できまい」
返しに行くのは、すでに自分だと決めている八郎の物言いだった。
そこまで強引に持ってゆかれて、覚悟を決めたのだろう。
やっと上げた瞳が、真っ直ぐに八郎を捉えた。
「一度河合さんと話している時に、咳が止まらなくなって・・・。それでどうにか鎮まったあと、胸が痛いのを堪えていたら、河合さんがこの・・」
腰帯に挟んでいた古い印籠を、総司は差し出した。
それは総司の持ち物にしては大振りで、華奢な体躯とは釣り合いのとれないものだった。
黒を基調とした地に、地味な螺鈿が施してある。
安いものではなかろうが、どこででも見受けられると云えばそれまでだった。

「この中に入っていた粉を、溶いて飲ませてくれたのです」
過ぎた時を思い出したのか、手のひらにある印籠に遣る視線が、懐かしそうでもあり辛そうでもあった。
「名前は教えてくれなかったのだけれど、とても良く効く薬で・・・。あんなに早くに痛みが取れたのは初めてだった」
普段は触れて欲しくない風に、自分の身体に関しては頑なに口を閉ざす総司から、薬の話題を聞くのは珍しいことだった。
否、初めてと云って良かった。
その総司がこれ程熱心に語るのは、薬の効果が驚く程のものだったからに相違無い。


「その時に印籠を貰ったのかえ」
話を途切れさせまいと、八郎は上手に先を促す。
それに総司は首を振って、否と応えた。
「その日、仕事を終えた頃河合さんにお礼に行ったら、あの薬は普通には手に入らなくて、持病の癪を持っている河合さんに、弟さんが送ってくれたものだと教えてくれたのです。けれど自分は最近あまり癪が起こらないし、沢山は無いけれどと言って印籠ごと私にくれたのです」
「印籠ごと?」
「河合さんは新しい印籠を誂えようと頼んであって、それが翌日にもできて来るから古いのは要らないからと・・」
「そりゃ豪気だな」
「・・・河合さん、武士になったから良いものを作ったのだと言っていた」
「そうか」

こちらは調子を落とさず応えながら、ふとくぐもった声の主の手にある印籠を見れば、確かにあまり品の良い作りとは思えない。
実家は播州と聞いたその国元を出立する時に、とりあえず携えた持ち物が、雅な都で武士に取り立てられた身には鬱陶しくなったのかもしれない。
そう思ってみれば、主に疎まれた印籠が不思議に寂しげに見える。
だがそれが形見となる皮肉も又、八郎には天の采配のあざとさにも思える。


「終わった事はいい。とりあえず、そいつを返してくれば良いのだろう?」
不意に湧いた感傷ともつかぬ、らしくも無い思考を断ち切るように、八郎は総司の手から印籠を取り上げた。
その時、中でさらりと何かが動く音を、八郎の鋭敏すぎる五感は聞き逃さなかった。
「なんだ、まだその薬残っているのか?」
「河合さんがくれたその時にしか飲まなかったから・・・」
「それ以後具合が良いというのなら結構なことだが」
確かにそうだと思いながらも、総司の言い回しには何処か引っ掛かるところがあった。
それは勘だったが、総司は服用せずに済んだというよりも、敢えて使わなかったという風に八郎は捉えた。

「田坂さんに顔を立てているのかえ?良い患者だな」
軽い口調で問いながらも、返される言葉の中から、八郎は総司が心に隠すものを探ろうとした。
「・・・その薬、効き過ぎるのです」

一瞬の躊躇いの後、だが望んだ応えは意外に簡単に戻ってきた。
もしかしたらそれは、総司自身もずっと持っている杞憂なのかもしれなかった。
だからこそ誰かに話す機会を、知らず欲していたのかもしれない。
そんな事を思わせる間の短さだった。

「効きすぎる?」
繰り返して問う視線を受け、小さな顔がゆっくりと頷いた。
「田坂さんのくれる痛み止めは、効いたその時少し身体がだるくなったり・・あとに眠気が来たり。・・そうして眠ってしまって目覚めた時に痛みは無くなっているけれど、胸の重苦しい感じは暫く取れないのです。けれど河合さんがくれたのは、飲んですぐに痛みが消えて・・息をするのも楽になったのです」
「それを不審に思ったのか?」
「効きすぎて・・・、だから、あまり飲んではいけないと思った」
「それを土方さんや田坂さんには?」
言ってはいないのだろうと知りながら、敢えて八郎は問うた。
案の定、戸惑うように、総司は瞳を伏せた。
「・・・河合さんに返そうと思っていた矢先にああいう事になってしまって。・・・結局清一郎さんが来た時にも渡しそびれてしまった」

ぽつりぽつりと、時々途切れる語りを聞きながら、八郎は断罪された身内の者に、その悲しみも褪めやらぬ内に、遺品だと言って返すには忍びなかった総司の気持ちが手に取るように分かる。
だが河合の持っていたという薬の効果に何か訝しげなものを感じながら、それを土方にも田坂にも告げなかったのは、その疑惑が総司にとって如何に大きかったかに繋がる。
或いは。
この事を総司は、おぼろげながら金子横領の件と結びつけているのではないか・・・
八郎の中で、ばらばらに動いていると見えた総司の行動が、どうやら一つの線の上に置かれてきた。
だとしたら――――
どうしても、確かめねばならぬ事があった。
「八郎さんっ」
突然印籠を開け、中に僅かに残っていた黒っぽい粉を懐紙の上に落すと、総司が短く叫ぶ間もなく、八郎はその極少量を指で舌先に乗せていた。


味覚嗅覚を鋭くして、暫し思考する厳しい横顔を、総司はまだ驚きが先に立つ中で凝視している。
「阿片・・。似ているが、違うものも混じっているらしいな」
やがて一部始終を息を詰めるようにして見ていた蒼白い面輪に向かい、八郎が低く告げた。
「・・・阿片」
今度こそ、黒曜の瞳が見開かれた。
「お前も疑ったのだろう?」
それゆえ総司は一度きりの服用で異なものと疑い、誰にも告げずに持ち主に返そうとした。
八郎はそう確信している。
「普通の薬とは違うと思ったけれど・・・」
そうではないかと疑いながらも、まだ総司の中では完全に結び付けられずにいたのだろう。
八郎の手元に視線を落としながら呟いた語尾が、自信なさそうに消えた。

「けれど八郎さん」
だがすぐに見上げて、向けられた視線が強かった。
「八郎さんは、何故阿片と分かるのです」
それがとんだ方向の疑惑であったことに、八郎は一瞬面食らったように黙ったが、次には堪えられず、愉快そうな笑い声が漏れた。
「・・・八郎さん」
失笑と、流石の総司にも判じられたのか、声に咎めるものがあった。
「お前は本当に面白い奴だねぇ」
まだ含み笑いを忍ばせた調子が、真摯な怒りをやんわりと受け止めた。


阿片は芥子の実を傷つけて取り出した乳液を乾燥させたもので、主に鎮痛剤などの薬の成分として用いらるが、一部闇における流通の方が、それが正体の怪しい未知なる物だけに人々の印象は強い。
江戸での遊びはこの若さで既に玄人の域に達していた八郎が、決して誉められない酔狂に吸った事があるのだと総司は思っているらしい。

「この位の知識は遊びなれた奴なら誰でも持っているさ。いっそ下手に知らずに嵌ってしまう前の、我が身を滅ぼさない知恵とでも言った方がいい。土方さんは・・・」
説くようにも、からかうようにも聞えた口調が、不意に途切れた。
「八郎さん・・?」
土方と、言ったその言葉ひとつで、総司の面が俄かに不安の色に覆われた。
「いや、なんでもない。あの人なら薬を商いにしていた位だから、もっと詳しく分かるかとも思ったまでだ」
確かに言っている事には筋が通る。
だがその事だけでは無く、八郎は語っている途中で何か他に引っかかるものがあって言葉を止めた。
そう思いはしたが、それ以上問い質す術も無く総司は黙した。
「田坂さんならもっと詳しいだろう」

そんな総司に更に尤もな応えを返しながら八郎は、或いは土方が河合の起した不祥事を未だ追っている理由というのは、この粉に纏わることなのかもしれないと、突然湧いた疑惑が己の裡で、揺るぎようの無い確信に変わって行くのを感じていた。
今自分の手にある褐色の粉末が妙に禍々(まがまが)しいものに映る。
そしてその先に怪訝に見つめる瞳の持ち主を、何故かこれ以上この件に係わらせてはならいと、それも同時に八郎が持った信念だった。



山崎が目安にしろと書いてくれた智恵光院は、思いのほか結構な敷地を有した寺だった。
二町も北へ行けば今出川の通りに出るという手前に、それはある。
その智恵光院の東側に面した通りを隔てて、目的の旅籠はあった。
だが総司は其処には行かず、寺の境内の一隅にある、大きな木の幹に背を預けて八郎を待っている。

時を余して見上げる空が、その前幾日かの天候不順が嘘の様に青い。
じき櫻も咲くのだろうが、花曇の多い季節の今頃にしては珍しい事だった。

だがその長閑(のどか)な時もあまり長くは続かず、突然感じた人の気配に、総司は咄嗟に木の陰に身を隠した。
そうせねばならなかったのは、それが殺気という程ではないにしろ、何か不穏なものを感じさる剣士としての習い性だったのかもしれない。
辺りを伺うでもなく、無防備に歩を進めて此方にやって来る男の顔貌(かおかたち)が、視界の中ではっきりとなった時、総司の瞳が一瞬大きく瞠られた。

確かに・・・
それはまだ記憶に新しい出来事の渦中にいる人物だった。
清一郎を庇うために中に入った自分に、拳を振るい下ろした浪人の顔を違えるはずが無い。
相手の事を、知った人間なのかと、あの時は清一郎に聞く暇(いとま)も無かったが、こうして京にまで現れ、しかも滞在している旅籠を伺うようにしている処を見れば、もう全くのゆきずりの関係だったと思う方が不自然だった。
男の腕は大した事はないと、大坂での件で承知していた。
それでも息を潜めるようにしてその挙措を見守っていたのは、清一郎との関係が分からない内は、迂闊に自分の姿を見せない方が良いとの、総司なりの判断だった。


暫く旅籠に出入りする人間を探るようにしていた男が、突然動きを止めて身構えた。
その様子に、総司も男の視線の在りかを辿ると、旅籠の暖簾を潜って八郎が出てくる処だった。
克明に覚えていたらしく、八郎の顔を認めると、男は慌てて踵を返し忌々しげに元来た道を足早に戻り始めた。
それを追って瞬時に走り出そうとした総司の肩が強い力で掴まれ、勢いのまま振り向かされた。

「節介は止めておけと言った筈だ」
視線を上げた其処に、八郎の厳しい顔があった。
「でも、あの浪人」
「河合の弟の処に来たのだろう」
「・・・来た?」
総司は八郎の言葉に籠められているものを、今一度確かめるように呟いた。
それは河合清一郎が、乱暴を働こうとした男と知り合いだと、暗に告げるものだった。
「ではやはりあの二人は・・・」
疑惑を問う総司を見ながら、要らぬ詮索をさせてしまった己の失言を、八郎は心裡で後悔していた。
が、時すでに遅かったようで、懐疑する瞳は望む応えを求め、自分を見つめたまま瞬きもしない。
係わらせたく無いと思えば、無理にでも此処で話しを打ち切る他なかった。

「他意はない、言葉の綾だ。・・・それより居たぞ、河合精一郎。あの印籠、確かに返してきた。これで良いのだろう?」
言葉には、それ以上問う事を断じる強引さがあった。
それでも総司の解かれることの無い沈黙は、まだ納得できないと八郎を責めている。
「あの弟の事を気にかけるのはお前の勝手だが、これ以上は、いずれ土方さんの知る処になるぞ」
使いたくない名を出しての止(とど)めの文句は、それでもひとまずこの場を収めるには十分だったらしい。
ぴしゃりと言い切って、後ろを向け歩き出した八郎の耳に、まだ逡巡するように立ち尽くしていた総司の、漸く諦めて追ってくる足音が聞こえて来た。


来た道を、南へと戻る道の会話は弾まない。
視界の内には二条城の偉容もある。
その手前には、寓居となっている所司代屋敷もある。
だが八郎は、その風景を鬱陶しげに見上げた。
其処を通り過ぎ、今は行かねばならないところがあった。
自分のこの思惑を、横に並んで歩きながら何やら考え込んでいる風な想い人は知る由もなかろうと、何気なく流した視線の先で総司の唇が不意に動いた。

「・・・あの浪人・・。聞き辛い訛があった」
それは総司が先程から必死に手繰り寄せようとしている記憶の中で、何かの切欠で起こったものだったのだろう。
誰に言うとも無く意識の外で呟かれたあまりに小さな声音は、行方の定まるところを知らず、射す陽の勢いに呑まれるように儚く消えた。
まだ思案の中にいる白い横顔を、八郎は応えを返さず、ただ憂鬱そうに見た。



「阿片?」
案の定、土方の顔が曇った。
「なんだ、やはり知っていたのか」
春とは名ばかりの、まだ本当の花の頃には縁遠い冷え込みが続くこんな時期は、ひとつ前の季節の置き土産のような火鉢が手放せない。
それに手を翳しながら、八郎は面白くも無さそうに土方に顔を向けた。

「追っていたのは河合という奴が横領した金ではなく、そっちの方か」
八郎は然程応えには執着していなかったのか、物言わぬ土方を放って、すぐに又視線を火箸を扱う自分の手元に戻した。
「あんたが何を探ろうと、新撰組がどうしようが勝手だが、面倒な奴が気にし始めてしまったようだぜ」
それが総司の事を指しているのだと、言わずとも察せられて、土方の端正な面が険しくしかめられた。
「伊庭」
「なんだえ」
八郎は相変わらず暇を持て余すように、炭をつついて遊ぶ手を止めず、土方を振り向かない。
「お前、何を知りたい」
「知りたいことなんざないね」
さらりと、間髪をおかずに返る応えが、土方には何とも忌々しい。


先程何の前触れも無くふらりと現れて、障子を開けて入って来たと思った途端に胡坐をかいて座り込み、いきなり新撰組が河合の事件を極秘裏に追っているのは、阿片と係わりがあるのかと、まるで世間話をするように八郎は問うた。
交わされている会話は、その続きだった。

総司が大坂で遭遇した河合の弟の件に、まだ関心を持っている事にすら渋面を隠しきれない土方だったが、今またこうして八郎から印籠を返しに行って来たとまで聞けば、もうこれ以上想い人の介入を黙認する訳には行かなかった。
総司がどの辺りまでこの件を知っているのか、更に深入りする事を予期させるような事態が河合清一郎の処に行ってあったのか・・・
それを聞き出したい土方の心中を十分に読んで、教える代わりに其方の手の内をみせろと、八郎は条件を出しているのである。
どうやら――――
今は負ける他ないだろう。
それが、瞬時にあらゆる状況を算段に入れた上で、土方の下した結論だった。


「河合耆三郎が横領した金の行方を調べて行く内に、事件を起こす前後から頻繁に薬種問屋を訪ねていることが分かった」
「・・・薬種問屋ねぇ」

八郎の脳裏に、印籠に残っていた黒褐色の薬が蘇る。
薬種問屋を探っていたとなれば、総司に与えはしたが、その薬効はやはり尋常ではないと、後に河合自身も判断したのだろうか。
何よりも、それは血を分けた弟が寄越したものだった。
八郎の疑惑は、やはり今日会った河合清一郎へと行き着く。

「そいつは、どこか具合でも悪かったのかえ」
知っていながら外して問う意地の悪さに、遂に土方が苛立ちの息をついた。
「お前が欲しい情報はくれてやる。その代わり総司が何処までこの件を知っているかを話せ」
「正直になったもんだね、あんたも」

揶揄するように笑いながら、それが土方の総司を案じる想いの丈から来ていると思えば、八郎の胸の奥にちくりと棘さすものもある。
できれば総司とのやりとりは、自分の裡だけに仕舞っておきたい。
たったそれだけを秘め事と自惚れる己の心に、八郎は苦笑した。

「笑っていないでさっさと話せ」
そんな思惑など知る由も無い土方の無愛想な声が、後ろから掛かった。
「河合が横領した金、それで見つかったのかえ?」
相手を焦らすように、殊更ゆっくりと振り向いて八郎が問うた。
「まだだ」
返事は悉く素気無い。
「新撰組にしちゃ、ずいぶん手ぬるい探索だな」
皮肉な筈の言葉は、面白そうな言い回しの影に隠れた。

きっと追っている途中で横領された金自体よりも、それを遥かに凌駕するような大きな事柄に繋がる何かを掴んだからこそ、金の探索は後回しになっているのだろう。
それを察しながら、八郎は尚も続ける。

「総司が以前河合から、妙に効く薬を貰ったそうだ」
「薬?」
途端に土方の眉根が寄った。
それは訝しむというものではなく、すでに懸念していた何かの中枢に触れられて身構える、という言い方のほうが当たっていたのかもしれない。
それ程までに、土方の表情が硬いものになった。

「それがあいつ、何を河合から気に入られたのか、薬を入れてあった印籠ごと貰い受けたそうだ。結局形見になったそれを今日返しに行ったのは、そういう経緯(いきさつ)があったらしい」
「係わるなと、あれほど言い聞かせたのに」
聞かぬ想い人の行動は、時に土方を尽きぬ不安と焦燥に陥れる。
「言って聞く奴ではないのは、あんたも知っているだろう。まぁ、それは仕方がないと諦めるんだな」
声音には、土方の憂慮を揶揄する響きがある。

「だが、問題は・・」
衰えてきた火勢を気にして、一度火鉢の内に赤く熾る炭に、八郎がちらりと視線を投げかけた。
「その中に残っていた薬だが。・・・黒っぽい粉だった。総司が言っていた事から察して、俺は咄嗟に阿片に似たものかと思った」
「あいつは何と言っていた」
「一度咳の後、酷い胸の痛みに襲われた時に、丁度河合が居合わせて、そいつを溶いて飲ませてくれそうだ。その時あまりに効く薬で驚いたと言っていた。が、それがどうやらあいつの不審を買ったようだ」
「河合もつまらぬ事をしてくれた」
そう言う土方の口調には、何処か勢いが無い。
自分の身体の辛さを、絶対と言って良いほど口にしない総司の、その苦しみを救ってくれたと思えば、憎まれ口にも憚るものがあった。


「阿片だけでは無さそうだったが・・・」
「確かめてみたのか?」
「みたよ」
声音は淡々と、気負う風も無い。
「土方さん、あんたもう知っているんだろう?その薬の件」
だが次に向けた視線は、射抜くような鋭さがあった。
「河合の持ち物の中から見つかったのかえ?」

更に応えを求める八郎の、嘘を断ずる強い双眸が、正面から土方を見据えた。










             事件簿の部屋     雪時雨(四)