雪時雨 -yukishigure-
(四)
室を覆っていた明るさが、ふいに翳った。
この季節には珍しく青く広がった空にあった天道を、流れてきた雲が隠したのだろう。
「金の行方を追って、手がかりとなるものを捜している内に、河合の持ち物の中から、多分お前の言っているものと同じ薬が出てきた」
渋い顔を隠しもしないのは、昔馴染みへの気の緩みなのかもしれない。
そんな土方を促しもせず、相変わらず火箸を遊ばせながら、八郎は次の言葉を気長に待っている。
「別段気に止めるものではなかったが、丁度河合が薬種問屋へ頻繁に行っていた事が分かったばかりだったから、それが何の薬なのかを一応調べさせた」
「結果は?」
新撰組の情報力を持ってすれば、どんなものなのかはかなり正確に判じられる筈だった。
「一粒金丹・・・、を知っているか?」
「津軽の万能薬かえ?」
暇(いとま)をおかず応えを返しながら、八郎は未だ名だけしか知らぬ縁遠い地、津軽十万石弘前藩を思い起こした。
一粒金丹とは、初め弘前藩藩主津軽家に代々伝わる秘薬だったが、痛み止め、強壮等あらゆるものに効く万能薬として、近年では市場にも出回っていた。
その成分の主だったものは阿片であり、弘前藩では昔から、芥子の花を観賞用ではなく阿片を抽出する目的として栽培していた。
古来、阿片の別名を『つがる』と称する由来でもある。
「・・・一粒金丹の色に似てはいたが」
留めていた記憶を手繰り寄せるように呟きはしたが、八郎の思考はすでに別の方向に向けられていた。
総司を殴り、河合清一郎と何らかの繋がりのありそうなあの浪人には、確かに言葉に東北の訛りがあった。
津軽・・・・・
そう口にした響きと、たったふた刻(とき)前、逃げるように走り去った男の後姿が否応無く結びつく。
そして何より、総司が浪人の語調に気付いている事が、八郎の胸の裡を重くする。
「だが一粒金丹とも違う」
憂鬱な思考を遮るように、土方の声がした。
「似て非なもの・・・、か」
「含まれる阿片がずっと多い」
「多い?」
頷く土方は腕を組み、いつの間にか体をすっかり八郎に向けていた。
「阿片は・・・、お前も知っているとおり良からぬ遊びにも使われるが、弘前藩では専ら薬の原料として用いられていた。一粒金丹という薬は、その阿片をかなり精巧に調合して作られている」
「毒をもって毒を制する薬か・・・」
「そして、一粒金丹を遥かに凌ぐ量の阿片を有しているのが、河合の持っていた薬だ。・・・確かに、阿片の鎮痛に於ける薬効たるは凄まじい。が、強いが故に、時には死に至らしめる強さをも秘める。だがそう云う危険を承知しても尚、己を苛む苦痛から逃れたいと阿片を欲する人間は、世の中には掃いて捨てるほどいる」
土方の言葉を聞きながら、効き過ぎておかしいと訴えた総司の言葉が、今八郎の耳に蘇る。
「それはそうだろうよ。例え命を削っても、解かれたい苦しさに呻吟する者は後を絶たない。欲しい奴は欲しいさ」
あからさまに指してはいなかったが、応える八郎にも、聞く土方の胸にも、総司の顔が思い浮かぶ。
誰もが嘘だと分かる蒼い顔で、大丈夫だと辛さを隠して笑う面輪は、できるのならば二度と見たくはない。
それだからこそ、救われるものあるならば、それを是が非でも求める人間の思いを、決して愚かと侮りがたいものが二人にはあった。
「望む人間ならば、幾ら高価でも欲しいと躍起になる」
湧き起こった感傷を打ち捨てるが為に、土方の声は敢えて抑揚を抑えていると言っても良かった。
そう八郎が思う程に、不自然に声が低くなった。
「それが悪いとは言えんだろう」
「そうだ。だが問題は、それで得られた巨額の金が何処に流れるかだ」
「金の流れ?」
漸く確信に近づいてきた会話に、八郎が遊ぶ手を止めて土方を見た。
「お前も今までの話から察しただろうが、この薬、作ったのは弘前藩だ」
「一粒金丹の作り方に工夫を凝らしたわけか」
「どういう経緯(いきさつ)で出来たのかは知らん。が、この情勢の中、水面下で可能な限りの他藩と接触ができる京で売り捌き、藩の財源の安定を計ろうとした」
「結構なことだろうよ」
近年諸藩の経済事情は、その大半が逼迫の様を呈している。
北の果てに領地を構える弘前藩の事情は知らないが、多分にもれないだろうということは凡そ察せられる。
「弘前藩では続く凶作で屋台骨までが傾きつつあり、今はそちらの建て直しに尽力している」
「・・ほう」
土方が其処まで探索を進めていたという事実こそ、即ち河合清一郎の一件が、すでに総司の危惧を大きく越たものであると知り、八郎は気のない相槌を打った。
「更に近年蝦夷地警護の任をも命ぜられ、その出費に金は幾ら有っても足りん」
そんな八郎の様子を気にも止めず、土方の語りは続く。
「無理強いされた役務に苦労している他藩の事情に、とやかく言う筋はないだろう」
「それだけならばな」
土方の応えには、何処か物憂そうな響きがあった。
「あんまり勝手を押し付ける幕府の強引さに、叛旗を翻すとでも言うのかえ?」
渋面を作らせているものが、或いはそういう類のものかと察した上で、逆にそれを揶揄しているような八郎の調子だった。
「・・・その金で、武器弾薬を買っているらしい」
「武器弾薬?」
予期してはいたものの、それを上回るいきなり突飛でもない進み様に、流石に八郎が呆れて顔を向けた。
「蝦夷地の沿岸警備の為ではないのか?」
先ほどまでの話の流れを追えば、そう思うのが尋常だった。
「初めはそうだったらしい。だがあまりの困窮は、逆に相手に牙を向けさせる結果となることもままある」
土方にしては珍しく回りくどい言い様だったが、言葉の裏にはその確信を掴んでいると含むものがあった。
「長州征伐の二度の失敗が、諸藩の自己防衛に弾みをかけてしまった」
それが痛恨だと、まるで其処にいない幕府側の人間を罵倒するように、続けた語尾が厳しかった。
急速に力の衰えつつある幕府、力を誇示した長州、どちらに加担すべきか日和見する諸藩―――
その中にあって、いつか起こるであろう衝突の時期に備え、今どの藩も国を守る為に躍起になっている。
弘前藩もその例外では無い筈だった。
「だが弘前に力は要らない」
逡巡もせずに言い切った土方のその先を、八郎は黙ったまま待った。
「蝦夷の松前の港には異国船が今の情勢を観察しながら、多数停泊している。奴等は少しでも有利な力関係に付こうとしている。・・・もしも弘前藩が長州等倒幕派と手を結んだら、敵に回る諸外国の、海からの攻撃の抑え処が無くなる。だから弘前藩に幕府に抗える力は必要ない」
感情の欠片も見せず淡々と、一点を見据えたまま語る土方の横顔を八郎は凝視した。
土方は幕府の衰退をとっくに視野に入れ、更に先の先を読んだ手を打とうとしている。
この男は、すでに新撰組を幕閣配下の機動組織としてではなく、近い将来その中枢に置くものと画策しているのだ。
鋭利な先見、冷静すぎる判断力、それらを目の当たりにして、八郎は改めて土方歳三という英俊を見た。
「俺の顔に何か書いてあるか?」
「いや」
「分かっていることは話した。次はお前の番だ」
これだけの事を聞かせておきながら、その見返りを促す性急さに八郎が苦笑した。
「手の内はそれで全部かえ?」
「これ以上は何も出ん」
凡そ無愛想な物言いは、弱みを握られている者の空威張りか――――
今聞いた事は、多分新撰組の局長である近藤にもまだ知らせてはいない筈だ。
承知しているのは土方と、あとほんの一握り、否一人か二人・・・、この件を探索している人間だけだろう。
その機密を土方は、部外者の自分に漏らした。
唯一の想い人の危険を回避させるが、その為だけに。
八郎は先程の驚嘆すべき殊能の持ち主が、苦りきった顔を作る様を面白そうに見遣った。
多分・・・・
土方は更にもうひとつ、奥に踏み込んだ何かを握っている筈だ。
確かに今語られた事は真実に相違無いだろう。
だが自分に話したのは、そうしても良いぎりぎりの処までだ。
そう、八郎は確信している。
が、それはしかし、話さなくて総司に害為すものではないとの判断に置かれた上で、土方が取った結論なのだろう。
だとしたら八郎にとっても、これ以上の詮索は必要無いものと切り捨てて良かった。
「さっさと話せ」
促す声が、一層低くなった。
更に焦らせれば、この男は本当に怒り出すだろう。
それでも八郎は、その様子を楽しむように、殊更ゆっくりと口を開いた。
「総司は今の処、まだ河合から貰った薬が尋常では無いものだと疑っているだけだ。が・・・」
一度切った言葉の先を、このまま止めてしまうことを土方は許さないだろう。
そういう強い視線を、据えた双眸は送っている。
「自分を殴った浪人、河合の弟を庇っての件だが。その男に訛りがあったのに気付いた。奴は隠している様だったが、人間感情が昂ぶった時には、おのずと出ちまうものさ。・・・俺が覚えている限りでは、東北のものだった。そして今日、そいつは河合の弟の居る旅籠を探っていた」
途端に、土方の眉根が寄せられた。
「河合の弟がどういう事情で、そいつと通じているのかは分からない。だがあんたの今の話から、如何な経緯があるにせよ、弘前藩との関わりがあると結び付けるのが自然だろう。だがそれはこれから新撰組が明らかにしてゆけばいい。そんなものより面倒なのは、あの薬が普通のものではないと総司が疑惑を持ち、更にそれが、河合の弟の厄災になるのなら自分で防ごうとしている事だ。・・・あいつ、もうちょっとやそっとの脅しじゃ聞かないぜ」
すでにどうやって総司を説き伏せるか、考えあぐねているような土方に掛けられた声が、からかうともつかぬ笑いを含んでいた。
だが同時に、胸に重く圧し掛かる憂いを、その調子の裏に隠して知らぬ振りを決め込む、恋敵への己の矜持と負けん気をも、八郎は自嘲して笑っていた。
「待たせたな」
中庭に遣っていた視線をつと上げて、総司は声の主を見た。
「桜か?」
何を見ていたのかを察して、田坂俊介の面が微かに緩んだ。
「ここの桜はもう咲くのかなと思って・・・」
仮初めにも二本差す身が、まだ当分綻びそうに無い蕾に見とれていたのがどうにも面映いらしく、応える語尾が小さくなった。
「花を待つ心の余裕があるのはいいことさ」
言いながら腰を下ろして、脛の長い足を無造作に胡座に組んだ田坂の顔には、すでに先ほどまでの穏やかな気配はない。
それが総司の胸を騒がせる。
「田坂さん、その薬。・・・はやり何か」
不意に覆われた不吉な予感に背を押されるように、総司は急(せ)いて目の前の医師に問うた。
昼すぎに河合清一郎の宿泊している旅籠から帰って来たあと、他に用があるという八郎と屯所の前で別れ、総司は誰にも告げず、そのまま足をこの田坂の診療所に向けた。
胸の袷には、清一郎に返した印籠から、少しだけ抜き取っていた黒褐色の薬が入っている小さな紙包があった。
「東北の津軽の薬に、一粒金丹というのがある。知っているか?」
聞かれて総司は首を傾げた。
「鎮痛、卒中、あらゆるものに効くと言われる万能薬だ。だが一番の薬効はやはり鎮痛だろう。主に阿片を成分に使っている。これはその一粒金丹に香り、味、酷く良く似ているが、多分・・・阿片の量が遥かに多い」
「・・・阿片」
言葉の中から、その一言だけを取り出して繰り返した呟きに、頷いた田坂の面持も流石に曇っていた。
それはこの、あまり歓迎すべきではない薬を持ち込んだ主が係わろうとしている事への、漠然と田坂の胸に湧いた憂慮がさせたものだった。
果たして、そこまで総司に教えた自分の判断は正しいものだったのか・・・
それすら田坂を迷わせる。
だが目の前で、何か思案するように黙り込んでしまった総司は、一度は偽りを承知するかもやしれないが、疑問が尾を引けば、きっと探り当てようとするだろう。
自分の想い人は、止めて聞くような者ではない。
だとしたら今は全てを明かすことで、その動きを把握しておく方が気が休まる。
どうにも後手後手に回り気味の結論を、田坂は心裡で苦笑した。
「ところでその薬、一体何処で手に入れた?」
今度は田坂が問い質す番だった。
「こっちは聞かれたことにちゃんと応えたぜ」
一瞬怯んだ総司に、飛ぶ声が容赦無い。
「・・・貰ったのです」
「誰に?」
声が、俄かに厳しいものになった。
こんな薬を普通の人間が常備しているとは思えない。
「先日亡くなった人なのですが・・・勘定方の人で。その人の前で咳き込んだ後、胸に痛みが走ったのです。・・・その時自分の癪の時の痛み止めだと言って、それを飲ませてくれたのです」
ひとつひとつ言葉を選びながら、総司の応えは慎重だった。
「痛みは?」
「それが驚くほど効く薬で」
間髪を置かず問うた田坂に返って来たのは、およそ見当違いな応えだった。
「俺は今もその痛みが続いているのかと、聞いているんだぜ」
まだ言葉の意味を判じかね、不思議そうに見るかの想い人は、どうやらすでにこの薬に係わる件だけに心を奪われているらしい。
もう黒曜石の深い色に似た瞳を覗き込んでも、他には何も出てきはしないだろう。
呆れるよりも先に漏れた苦笑いを、総司は益々分からないとでも云う風にしていたが、仕舞いにはそんな田坂を咎めるように細い縁で細工された面輪が怒っていた。
「その分じゃもう痛みはないようだな」
声に笑いを籠めて問う主治医に、総司は漸く自分の身体の事を案じてくれていたのだと気付いた様で、みるみる内に、項までもが朱に染まった。
それでも不承不承頷く仕草が、からかわれた事への拘りを捨てきれないと、形(なり)に似合わぬ頑固さを物語っていた。
すぐ隣に立ち止まっている次なる季節は、時折その存在を誇示するような悪戯をする。
突然、座敷まで無遠慮に吹き込んだ東からの風に、総司の束ねて結い上げた髪の先が乱された。
「じき春だな・・・」
田坂は腕を組み、少しの間何事かを考えているように無言だったが、視界にはその様をちゃんと映していたらしく、それを切欠に漸く会話が戻った。
「何を考えていたのです」
問う瞳が、探る心の後ろめたさを隠して、少しだけ揺れていた。
「今年の花は何時頃かと、風流を囲っていた」
外に目を遣って、凡そらしくも無い言い訳に、可笑しそうな柔らかな笑い声が室に零れた。
きっと耽っていた思案とは別のものだと心裡で察しながらも、それ以上問う術も無く、やがて其処だけが穏やかに移ろいを刻んでいるような中庭に、総司も視線を送った。
だが何とは無しに向けたそれと、時を合わせるように、思いもかけずキヨが遠くから田坂を呼ぶ声が聞えてきた。
「さてもうちの忙しさは、一年中変わらんな」
患者が来たのではないのかと総司が慌てて田坂を振り返った時には、素早く立ち上がった長身は、すでに廊下との敷居を跨ごうとしているところだった。
田坂が広い背を見せるよりも、キヨが廊下を小走りに来る姿の方が、総司の視界に一瞬早く飛び込んで来た。
「せんせ、若せんせい、伝五郎はんとこの六助はんが挨拶に来はってくれましたえ」
賑やかで、それでいておっとりとしたキヨの声が、田坂を見つけて逸った。
「今から発つのか?」
「へぇ。片づけが漸く終わって、これから荒神口まで行かはって、そこで今日は泊まって、明日早ように若狭に発たれはるそうですわ。それで今二人で挨拶に来てくれはって・・」
そこまで言って、やっとキヨは、立っている二人を事情が分からず等分に見つめている総司に気がついたようだった。
「いやや、うち沖田はんが居はるのも気ぃつかんと・・・堪忍でっせ。せやけど沖田はんもそないに大人しゅうしてはらんと、ここに居ます、言うてくれはったらええのに・・」
自分で言っておいて、それが余程に面白かったのか、キヨが可笑しそうに笑い始めた。
「何処かに行かれる方なのですか?」
キヨの話から、凡その検討をつけて総司が聞いた。
「へぇ。小川屋はんが懇意にしてはる、伝五郎はん言う大家はんがいますのや。丁度家作がうちの裏にあるんですわ。そんで六助はん言うんは、その伝五郎はんとこの店子はんで、そりゃもう誰もが認める腕のええ簪作らはる飾り職人ですのや」
キヨはそれが、あたかも自分の身内の事のように嬉しそうだった。
「けどそのお内儀の陸はんが、最近少し体が弱わくならはって・・・。二人とももうええ歳になったし、そろそろ国の若狭に帰ってのんびりする言うことになったんですわ」
六助夫婦は良い人柄だったのだろう。
語る内に、キヨの声音も顔も隠し切れない寂しさに包まれた。
「おいおい、沖田君が面食らっているぞ。それより六助さんは玄関か?」
いつまでもお喋りの尽きそうに無いキヨを促して、田坂が横から問うた。
「へぇ、お玄関どす」
「悪いな、少し待っていてくれるか?」
上から総司を見下ろしながら、田坂は話の終わらない内に中座することを気に止めているようだった。
「私の事なら気にしないで下さい。もうそろそろ帰らなければならかったし・・・」
微かに語尾が気弱になったのは、告げずに来てしまった土方の顔が俄かに浮かんだからだった。
だがそう思い描いた途端、総司を次に襲ったのは怯む心だった。
もしかしたら怒らせてしまっているかもしれない・・・
一度芽生えた思いは、心に負い目を持つ者をひどく落ち着かなくさせる。
「田坂さん、やはり今日はもう帰ります」
言った途端に立に立ち上がった総司を、キヨが止めた。
「そないに急がんと・・・、六助はんから貰ろうた餅菓子がありますのや。一緒に食べてからでもええですやろ?」
「・・・すみません、急に用事を思い出してしまったのです」
ぎこちない偽りを、或いは田坂もキヨも見破ったかもしれない。
けれど浮き足立った心は、もう止める事などできはしない。
「叉来ますから」
「ほな頂いた餅菓子、お土産に持って行っておくれやす。すぐに包みますよって」
これ以上引き止めても無理だと知ったのか、キヨが残念そうに総司を見た。
土産を用意してくれるという僅かな時すら惜しむ思いを隠して、総司はキヨの好意に笑みを浮かべて頭を下げた。
「真っ直ぐに帰れよ」
そんな二人のやりとりを見ていて掛けた田坂の声が、少しばかり低くなった。
それがこの想い人を恋敵の元へと返す己の裡にある嫉妬なのか、それともその直前まで交わしていた会話の中で生まれた懸念からなのか・・・
素直に頷く顔を見ながら、そのどちらも是と揺れる心を、田坂は持て余していた。
田坂の家を辞し、路地を曲がるとすぐに駆け出し、戻る道のほとんどを走り通して、屯所に着いた時には、流石に息は上がり額には汗が浮いてた。
だが門を潜った途端、あれほど急いでいた足が、其処に縫い止められたように止った。
自分の前に突如現れた影の主を、正面から見ることが出来ない。
いずれ掛かるだろう声に、身体中の神経が強張る。
だが裁きは容赦なく、すぐに下された。
「その汗を拭いたら来い。言い訳はそれから聞く」
漸く瞳を上げ、物言えず立ち尽くしたままの総司を、土方は厳しい目で見据え、たった一言告げるとすぐに後ろを向けた。
土方は怒っている――――
いつもに増して低い声が、険しい視線が、それが違いないものだと如実に告げていた。
何か声を掛けなくてはならない、離れてゆく背を追わなければならない・・・・
だがそのひとつも形にすることは出来ず、総司はすでに建物の中に入ろうとしている土方の姿をぼんやりと視界に入れていた。
室に入っても、暫くは閉めた障子の際に立ち、掛けられる言葉を待っていたが、やがてそれも適わないと知ると、物言わず熱心に書き物をしている背の主の後ろに、総司は戸惑いながらも端座した。
「汗は引いたのか」
幾ばくか、気まずい無言の時を経て、漸く土方が振り向かずに声を掛けた。
ずっと項垂れていたのであろう、咄嗟に顔を上げるのが気配で分かった。
そんな想い人の仕草を胸の裡だけで苦笑し、だがまだ戒めの顔を緩める事はできない。
「・・・すみません」
耳に届く声には、力も勢いも無い。
「何処へ行って来た」
胡座の姿勢のまま、ぐるりと体を動かし正面向いた双眸が、射すくめるように総司を捉えた。
聞いたものの、その答えは疾うに知っている。
だがそれを総司自身の口から言わせなければ、土方は承知できなかった。
「・・・田坂さんの処です」
伏せていた顔が上げられ、応えがもたらす結果にしり込みするように、土方を映していた瞳が微かに揺れた。
寸分も違う筈が無いとは思ってはいたが、やはり真実を聞けば、諦めとも怒りともつかぬ感情が覆う。
どうしてこの愛しい者は、掴んでいる筈の手をすり抜け、己が心の思うがままに動き、自分をこれほどまで不安にさせるのか・・・・
それが土方を、無償に苛立たせる。
「その前には?」
問う声が、鎮まり処の無い憂憤に更に低くなる。
「・・・前って」
「伊庭とだ」
一言の偽りも許さぬと、逃れる術は無いのだと、土方の厳しい眼差しは告げていた。
「西陣の旅籠に・・」
「どうしてそんな処に用があった」
追い詰める手は少しも加減しない。
だが次の言葉を、総司は躊躇った。
河合清一郎の処に行ったのだと言えば、もう捨てて置きたい事柄を、土方は否応無しに思い出すだろう。
「河合の弟の処に、節介をしに行ったと言えないのか」
逡巡する間も与えぬ意地の悪い言葉に、弾かれたように上げられた白い面輪が瞬時に硬いものになった。
自分の行動は、何もかも土方には分かっていたのだと知った衝撃に、暫し物言えず、凍てたように総司は凝視していたが、やがてそれまで不安定に揺れていた瞳から怯えの色が消え、代わりに勝気な光が宿った。
「・・・知っていたのなら」
それでも咎める声はまだ小さい。
「聞くなと、そう言うのか?」
更に容赦無い責め句に、総司の唇が固く結ばれた。
だがそうして見せる抗いの所作は、土方に酷く癇性の虫を起こさせる。
「言訳の出来ない事をしてきたのか」
「そうじゃない、けれど・・」
「けれど、何だ。河合の身内に係わることで、俺に気を遣ったか?」
抑え切れない憤りのまま、勢いに任せて伸ばした手で掴んだ腕を、総司は一瞬身じろいで引こうとした。
だがそんな抵抗など敢え無く封じ込め、土方は強引に自分の元へと引き寄せた。
「言った筈だ。余計な事には首を突っ込むなと」
利き手の右腕を拘束され、更に頤を浚われて、顔も背けられないままの総司に土方が向ける視線は強い。
「河合さんの弟さんの事を聞けば、土方さんが不愉快な思いをすると思った・・・」
だから本当は、誰にも言わずに形見の印籠を返して、それでもう係わりは断つつもりだった。
だがそれだけでは終わらない何かに胸が騒ぎ、こうして動き始めてしまった自分を責められれば、やはり返す言葉はない。
「俺はお前が黙って河合の弟に会いに行ったから怒っているのではない。俺が怒っているのは、そうして独りで走り出す勝手だ」
己の裡だけに収めて全てを解決しようとした行動が、自分に余計な負担を掛けまいと思う心から来ているものだと知れば、土方の胸にも切ない程に愛しさが込み上げる。
が、今はその感傷は、総司から危険を遠ざける為に、打ち捨てなければならないものだった。
「お前が田坂さんの処に行ったのは、河合の持っていた薬の事を聞きにいったのか?」
思いもかけず言い当てられた真実に、総司の瞳が大きく見開かれた。
「・・・土方さんは・・知っていたのですか」
脱力するように、掴まれていた腕から力が抜け、引っ張られ膝が立ち上がりかけていた身体がすとんと落ちるのを、土方が片手で支えた。
「・・・どうして、お前は俺の言う事を聞かないのだろうな」
張り詰めていた神経が一気に緩んで、まだ狐につままれたように不思議そうに自分を見上げる瞳に見つめられれば、それまでの苛立ちが不思議に引いて行くのを感じながら、土方の唇から苦い笑いが零れた。
そのまま頤を更に上向かせ、何かを問いたげな唇を一瞬の内に塞いだ動きは、もしも誰かがそれを見ていたならば、何の不自然にも映らなかっただろう。
それ程までに、流れるような一連の所作だった。
だが突然の予期せぬ挙措に、総司は逃れようと身を捩る。
それを、拘束する力は少しも許さない。
蹂躙者の強引さに溶けてゆく我が身を厭いながらも、やがて唯一自由の利く総司の左手が、何かを探しておずおずと伸ばされかけ、すぐに恥じるように引こうとしたのを土方は瞬時に掴み、己の首筋に回させた。
抱(いだ)く頼りない身体の持ち主は、もう抗う事すら諦めたのか、縋る片手に少しだけ力が籠められた。
漸く解放され、乱れて漏れる息はどこか甘美な忍び音を孕み、咎める言葉にまだ辿り着けず微かに開いた唇は濡れて扇情的でもある。
「・・・土方さんは」
そんな土方の思惑など知る由も無く、熱い余韻を残す唇を震わせて訴えようとする筈の非難は、其処で止まったまま出てこない。
紡ごうとしているのは・・・
いつも一瞬の間に、自分を翻弄する気侭への怒りだ。
だがそれよりも己の裡に秘める真実を、総司は知っている。
責めたいのは・・・
身の裡に官能の火種をつけただけで去って行く、むごい仕打ちだった。
そんな本当の心を知られるのを、総司は極端に怯えた。
こんなに土方を求める自分を、瞳を合わせればもうどう隠して良いのか分からない。
だから今は顔を見ることなど、出来はしない。
俯いたまま無言を決めてしまった想い人の心を測りかね、己の堪え性の無さを自嘲して笑い、さりとてどうやって機嫌を取り繕うか・・・・
思いあぐねて土方は、ひとつ吐いた遣る瀬無い息の行方を追っていた。
事件簿の部屋 雪時雨(五)
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