雪時雨 -yukishigure- (五)
項にほつれ毛を乱れさせた薄い背は、荒々しい息を繰り返す度に大きく上下する。
愉悦の代償に負担を強いられた身体は、消耗の度合いが激しい。
少し落ち着くのを見計らって、肩に手を掛け仰向かせようとすると、総司はまだ惑溺の淵に漂う自分を晒すのが嫌なのか、抗う仕草を見せる。
それを許さず更に力で組み伏し此方を向かせ、半ば強引に瞳に映し出させた自分は、今どのようにこの者の脳裏に刻まれているのか。
温もりに触れてしまえば、情欲を堪える事の出来ない陵辱者を侮っているのか・・・
或いは傲慢な征服者を憤っているのか・・・
黒曜の瞳の奥はただ深く、推し量ろうとする人間の浅慮を拒む。
「・・・不安になる」
ふた夜通し、我知らず口をついて出た呟きは、常に土方の心に蔓延り、ひどく神経を落ち着かなくさせる真実だった。
堅固な擁壁の内に閉じ込め、腕に足に枷をして、何処へもやらぬのだと戒めても、ふと目を離したその隙に、いつか自分の腕をすり抜けて行ってしまうのではと、想えば想うほど、抱(いだ)けば抱くほど、底の無い不安へと浚われる。
そしてそれは共に肌を重ね、百夜千夜を過ごしたとて、決して消える事はないのだろう。
疾うに承知で、それでも少しでも確かなものをと求めずにはいられないのは、人を想えば背中合わせにある酷な因果か――――
想いの丈が籠められた言葉の意味を分かる筈も無く、総司はただ不思議そうに見上げてくる。
「そんな目で見るな、不安になる」
苦笑して見下ろす自分を映す瞳が、微かに揺れた。
「・・・もう、何も言わずには何処にも行かない、勝手な事はしない」
不安という言葉を、総司は現に形あるものと受け取ったらしい。
勝手な行動を責められているのだと思ったのだろう、遠く的外れな想い人の頑是無い応えに、遂に土方の唇から低い笑い声が漏れた。
が、更にそれが自分に対する諦めと誤解したのか、今度は隠しようも無く闇に浮かぶ白い面輪が翳った。
「きっとしない」
急(せ)いて縋りついてくる腕は、土方に厭われる事を恐れる、総司自身の不安を物語っていた。
「分かっている」
分かっていないのは、自分の身も心も振り回し、狂おしく求めるを止ませない、お前自身なのなのだと、言った処でどうにもならない己の業の深さを自嘲して、土方は骨の形をなぞれる頼りない背に回した腕に力を籠めた。
「・・・分かっている」
二度繰り返された言葉で安堵したのか、それとも更に強い言葉を欲しいのか・・・
顔を肩口に埋めたまま、総司はまだしがみ付く手を解こうとはしない。
否、そうすることで必死に何か自分を怯えさせる影から逃れようとしているようにも、土方には思える。
お前を欲する思いは、自分の方が余程に深いのだと、そう言葉にするは容易い。
だがそんなことで、この滾る想いは欠片とて語る事はできない。
それほどまでに愛しいのだと、告げる言葉を己の胸の裡にだけで留め、土方は伏せて顔を上げない想い人の髪に頬を寄せた。
堀川に掛かる二条の橋の、丁度橋桁辺りに浮かんでいた、元弘前藩藩士工藤儀作の遺骸を最初に見つけたのは、家に戻るまでに酒の酔いと、白粉の移り香を醒まそうと夜風に当たりながら、ふと下を覗いた商家の放蕩息子だった。
仏は脇腹を匕首で刺され、まだ息のあるうちに川へと落とされたらしい。
岸に上げられた顔は苦渋に歪み、開かれた目を閉じられ、漸く見る者が正視できるものになった。
最初にその報を土方にもたらせたのは、やはり山崎烝だった。
いつもは夜の明けぬ暗いうちに人目を避けて自室に戻る総司だったが、日中清一郎の件で歩き回り、慣れぬ事をした疲れが出たのだろう。
翻弄された熱い余韻を身体の一番奥に秘め、いつの間にか土方の腕(かいな)に抱かれて深い眠りに落ちてしまったらしい。
山崎自身も気配というものを極端に悟らせない男だが、肌に触れていた温もりがつと離れ、その感覚で薄く瞼が開き、漸くもたらされた意識の覚醒と同時に、初めて襖の向こうに人が居る事に気付いた総司は愕然とした。
一番恐れなければならないのは・・・・
誰かに土方との関係を悟らる事だった。
咄嗟に上半身を起こし、そのまま色を失くして身じろぎしない姿を見ると、土方は立ち上がろうとしていた動きを止めて再び膝をつき、一瞬、しかし骨がきしむかと思う程に強く、身体中の神経を針のように鋭くしている者の肩を抱いた。
それでも総司はまだ戦慄から抜け出せず、触れれば悲鳴を上げて砕けそうな硬い横顔を見せている。
土方は暫くそんな想い人の様子を注視していたが、この場から山崎を遠ざけるのが良策と判じたか、静かに傍らを離れると、細めに開けた襖の隙から素早く身を滑らせ外に出た。
どのくらいの時を経たのか――――
人の気配が少しも残らず消え、全てが元の通りの、まだ夜明けぬ前の閑寂な時が戻ると、それまで微かにも動かなかった面輪に漸く安堵の色が浮かんだ。
そのまま、身体中の力が一度に抜けてゆくような感覚に、総司は思わず瞼を閉じた。
だが気が緩んだのも束の間で、すぐさま脳裏に蘇ったのは、土方と山崎がほんの一言二言、それも聞えるか聞えない程低い声のやりとりの中で交わした、『弘前』という言葉だった。
それを瞬時にあの浪人と、そして河合清一郎に結び付けたのは、勘ではなくすでに確信だった。
清一郎の身に何かが起こった・・・・
きっちりと土方が閉じていった襖の向こうを、総司は瞬きもさせずに凝視していた。
監察方の室には、昼夜というものが無いのかもしれない。
此処だけはいつも歪みの無い刻が正確に流れている、そんな錯覚に陥る静けさがあった。
その室の木枠の桟に手を掛けたまでは良かったが、やはり迷いにある心は次の行動を躊躇させる。
だが総司は思い切って、白い障子を開いた。
誰のものとは分からぬまでも、すでに訪問者の存在は察していたのであろう。
端座して執務に追われていた者が二人、顔を上げて此方を見ていた。
「あの、山崎さんは」
「出かけられましたが」
不意に現れた若い幹部の姿にさして驚く風もなく、その内の一人が応えた。
「じき戻られると思いますが、お待ちになりますか?」
「いえ・・・」
「それでは私がお伺いして、山崎さんに伝えましょうか?」
言いながら、腰を浮かせて此方に来ようとする所作を見て、総司が慌てた。
「本当に、そんなに大した用事でなはいのです」
人に隠して聞き出したい後ろめたさがあるだけに、偽りの無い好意を示されれば心は酷く狼狽する。
「すみませんでした」
急いで邪魔した事を詫び、開けていた障子を元のように閉じて踵を返そうとした足が、その先の道をすとんと切り落とされたように、ぴたりと止った。
「山崎は居ないが、用件なら俺が聞く」
背後から掛かった声は、残酷な程に予期したものと寸分も違わなかった。
振り向く事を躊躇った訳ではない。
それでも悪事を見止められた咎人のように、足は其処に縫い付けられて動かない。
だが声の主はいつまでもそうしている事を、きっと許さないだろう。
観念したように上げた視線の先に、土方は渋面を隠そうともせずに立ちはだかっていた。
「来い」
一言だけ告げて後ろを向けてしまった背を、何を応えて良いのか分からない戸惑いに臆して総司は見ている。
必ず付いてくるものと微塵も疑わない後姿は、一度も振り返らず先へと行く。
それが視界の中で消えてしまうのを恐れる心が、総司を呪縛から解き放ち、土方を追う足が一歩前へと踏み出された。
室に入ると、すでに土方は座り込んでおり、文机の上から取り上げた白い紙を手に広げていた。
何が書かれているものか、いつものように気軽に覗き込む勇気はまだ無い。
「今朝堀川に仏が上がった。名は工藤儀作、元弘前藩藩士だ。・・・お前を殴った奴でもある」
一瞬瞳を見開いた総司の表情を、ちらりと視界の端に入れただけで、土方は又手元の紙に目を落とした。
「工藤は脇腹を匕首で刺され、川へ突き落とされたらしい」
「・・・匕首」
仮初にも武士の殺され方としては、些か腑に落ちないものがある。
不意に漏れた呟きには、拭えぬ不審さがあった。
だがそんな総司の思惑の在り処など知らぬように、土方は淡々と続ける。
「下手人は河合清一郎。即座に捕らわれ、今は二条城東の番所にいる」
「そんなっ」
咄嗟に発せられた細い声が、まるで悲鳴のように室に響いた。
「落ち着け」
嗜める声は、先ほどよりは幾らか柔らかかった。
「工藤が殺されたのは昨夜の宵の口らしい。遺骸の見つかった場所へは、上から流されて来たと云う事だ。そしてその日の昼、河合清一郎の逗留先の旅籠の者が、前にある寺の境内の奥で、河合と工藤が言い争っている処を見ていた」
「言い争い?・・・けれどその位のことで清一郎さんがやったのだとは」
まだ考えが纏まらず、返した応えも自信の無さが勢いを削ぐ。
旅籠の前の寺といえば、八郎を待っていたあそこだろうか・・・
その時確かに自分の目が映した浪人は、今はもうこの世に息をしていないのだという。
それがどうにも不思議な感覚を、総司に起こさせる。
「工藤の腹に刺さっていた匕首、これが河合の弟のものだったと分かった」
「・・・匕首が清一郎さんのもの?」
「そうだ、旅籠の者が認めたらしい。河合の弟は・・・」
そこで一度言葉を止めた土方が、腕を組みなおして総司に視線を流した。
「誰かに追われていたのか、それとも身に危機が迫っているのを察していたのか、そのどちらとも分からんが、とりあえず常にその匕首を肌身離さなかったそうだ。物騒なものを持っていると、旅籠の者の印象に強かったらしい」
確かに、米問屋を生業(なりわい)にしている商人の清一郎が、匕首などという凶器を持っているという方が不自然な話だった。
だが考え方を変えれば、そこまでして身を守らなければならないという事柄が、清一郎にあったと云うことなのだろうか。
だとしたらその危険は、きっと酷く逼迫している――――
総司の思考は、結局其処に落ち着いた。
「・・・土方さん」
考え込んで伏せられていた瞳が、意を決したように上げられ土方を捉えた。
「清一郎さんに、会いたいのです」
躊躇いと戸惑いと、返る土方の応えにあるだろう憤りへの慄きと・・・
それらの全てを越えて、総司は漸く願う一言を口にした。
だが土方は、端正な面に一瞬険しい色を走らせただけで、あとは何も言わずに総司を見据た。
沈黙の時は、長ければ長いほど、ようよう搾り出した勇気を、次第に落ち着かない後悔へと変えてゆく。
また怒らせてしまった・・・
一言も発しない土方の顔を見れば、どうしようも無く沈み行く思いに、総司は必死に抗っていた。
こうなるのだと、重々承知していた筈が、いざ現になって突きつけられれば、どんな結果にも怯むまいと決めた意志は脆くも崩れ去り、後に残った動揺だけに翻弄される自分がいる。
土方の前では、こんなにも意気地の無い人間になってしまう。
その弱さを叱咤し、端座した膝に置いた手で袴を無意識に握り締めたその時、待っていた声は、揺れる心の限界を見透かしたかのように届いた。
「出かけるぞ」
全部を言い終えぬ内に突然立ち上がった土方を、何処にと掛ける言葉も失って総司が見上げた。
「二条の番所は見回組の持ち場だ。下手に足を踏み入れれば叉煩い事を言ってくる。新撰組を離れて行く他はない」
憂鬱を露に独りごちるように呟いた声は、いつもよりもずっと低い。
幾ら此処で拒んでも、総司は必ず行動に移すだろう。
だとしたら知りうる範囲で動いてくれた方が、まだ心穏やかでいられる。
この愛しい者の前では、結局折れるだけに終始してしまう自分は、如何に弱気の虫を囲ってしまったことか・・・
惚れたつけだと笑われても致し方ない情けなさを心裡で自嘲し、土方は今一度総司を見下ろした。
「行くのか行かないのか」
せめて其処が八つ当たりの持って行き場と決めたのか、促す言葉は凡そぶっきらぼうに掛けられた。
後は無言で身を翻し、不機嫌の代償のように廊下の板敷きを軋ませて渡る耳に、慌てて追って来る足音が近づく。
やがてすぐ後ろに来た気配を感じながら土方は、想い人の節介の先を、どうやって適当な処で折らせるべきか・・・・
果たしてそれを納得させられるのか・・・・
今は、ただその思案に暮れていた。
新撰組副長としての自分でいる限り、どう云う経緯を辿った処で、きっと頭悩ますであろう結末を思えば、射す陽の明るさにも遣る瀬無い息が零れた。
二条の番所は二条城の東側、西本願寺から行けば城まで行かぬ手前にある。
だが土方は其方に折れるべき辻を曲がらず、そのまま通り過ぎようとする。
「土方さんっ・・」
前を行く背の主が、道を違えるなど到底ある訳が無いとは思いつつ、だが総司は思わずその名を呼んだ。
漸く立ち止まり振り向いた土方だったが、辻の真中で怪訝に立ち尽くす総司の元までは戻らない。
「伊庭の処に行く」
「・・・八郎さん?」
当たり前のように言い切るその意図が、総司には益々分からない。
「俺が表立ってこの件に首を突っ込む事はできないだろう、此処は見回組の持ち場だ」
歩を止めて往来で為す問答を早く切り上げたいのか、土方の口調が早まった。
この辺りを管轄とする見回組は、昨今力をつけてきた新撰組を酷く敵対視するきらいがあり、小さな諍いはすでに幾度か起きていた。
その新撰組の副長が、見回組の差配する番屋の取り扱う事件に係わったとなれば、相手を刺激するだけでは終わらないだろう。
今の言葉は、其処の事情を指したものだった。
それ故新撰組とは関係が無く、尚且つ見回組に拮抗できる、将軍家奥詰と云う八郎の立場に土方は頼ろうとしたのだ。
「伊庭の元へは伝吉を走らせてある。あいつが四の五の言わずに上手くやっていれば、河合清一郎の身柄はすでに譲り受けている筈だ」
面白くなさそうな口ぶりは、恋敵に借りを作るのを厭う土方の矜持だった。
そんな土方を、総司は立ち竦んだまま言葉を失くして見ている。
ただ清一郎の事だけを気に止め、何の考えも無く思うが侭に行動を起こしていた自分は、土方の仕事の邪魔になっていた事に少しも気づいてはいなかった。
重荷には決してなるまいと誓い、土方の行く先を塞ぐ者は例え我が身であっても許せない筈だった。
だが知ってみれば、いつもこうして足を引っ張るばかりの自分でしか無い。
自分自身への苛立ちと、情けなさと、遣る瀬無さと・・・・・
罵倒してもし切れない激しい悔恨が、総司を苛む。
この傲慢さを、強く頬を張って叱ってほしかった。
そうでもしなければ土方に顔を合わせることが出来ない。
「・・・すみません」
それだけを言うのが精一杯で、あとは俯いて固く手を握り締めた。
「そうやっていつも素直でいて欲しいものだな」
からかうような声音さえ、優しさだと知れば今の総司には辛い。
「だがしおれるのはもう少し後にしろ。あまり伊庭を待たせると碌な事が無い」
冗談とも本当とも付かぬ物憂そうな声に、やっと伏せたままだった顔が上げられるのを見届けると、土方は一瞬安堵の色を走らせはしたが、それを隠すようにすぐに身は又前を向き、進める歩調は先程よりもずっと早くなった。
ついて来いと云わんばかりに振り返らぬ広い背に、このまま縋り付きたい衝動を漸く堪えて、総司は遠くなる姿を追って駆け出した。
「遅いねぇ」
路地の突き当たりにひっそりとある、多分知った客しか上げないのだろう料理屋の二階の、それも一番奥の座敷に案内されて、襖が開かれた途端に掛かった八郎の一声はそれだった。
だが室の隅に端座していた河合清一郎は、入ってきた土方と、その後ろに総司の姿を見た途端顔を強張らせ、次には怯む心の裏返しのように、憎悪を露骨にした目を向けた。
あれから――――
八郎達奥詰の宿舎となっている、二条所北側の所司代屋敷に行くのだと思っていた予想を裏切って、土方はそれが最初からの決め事だったらしく、この料理屋へまっすぐに足を向けた。
店の前で立ち止まり、不思議そうに見る総司に、土方は見回組を抑える事のできる会津本陣へと先に手を回し、河合清一郎の身柄の解き放ちを画策し、その請け人に八郎を番所に遣ったと、事も無げに告げた。
そして同時に、清一郎の逗留していた旅籠に潜伏させていた伝吉から、工藤儀作が殺された夜、清一郎は一歩も外へは出なかったという報告が届いていたことも、併せて告げた。
自分の知らない処で、全ては時を止めずに刻々と動いていたのだと云う事実に、驚きが先に立ち物言えぬ総司を残し、土方は独りさっさと格子のはまった木戸を開けた。
「案外に、すんなり渡したようだな」
清一郎の敵意など視界の端にも入れない風に、土方は八郎に言葉を掛けた。
「そうでもなかったさ。俺も気は長い方じゃない、短気の虫を抑えるのに難儀した」
「それは修行になってよい事だったな」
「礼を言う気はないのかねぇ」
皮肉を返す乾いた声の裏には、昔馴染みへの気の置けなさがある。
だが土方と八郎の会話を耳に入れながら、こうして清一郎の姿を眼に刻み込んでも、未だ総司は現のものとは俄かには信じられない戸惑いの中にいる。
「総司、いつまでも其処に突っ立っていられちゃ、折角の温(ぬく)さが外に行っちまう。さっさと入ってくれろ」
促されてやっと気づいたように、総司が慌てて襖を閉めた。
「あんたが何を思っていようが、そんなことはどうでも良いが・・・」
とっくに腰を下ろして胡座をかいた土方が、漸く八郎から話題の主に視線を移した。
「今死なれては困る」
細められた双眸が、清一郎を怜悧に見据えた。
「うちが死のうが生きようが、あんたらにとやかく言われる筋合いはあらへんっ、大きなお世話やっ」
唾棄しかねない清一郎の激昂を、土方は眉ひとつ動かさずに見ている。
「あんたにはまだ聞かなければならない事がある。それが終わらぬまでは残念ながら生きていてもらう」
聞く者にとってはおよそ冷酷とも受け取れる言葉に、顔色を変えたのは総司だった。
「土方さんっ・・」
思わず腰を浮かしかけた総司を、鋭い一瞥を投げて制したのは八郎だった。
それはまだ土方を遮るなと告げていた。
その総司の挙措も土方には取るに足らないものだったらしく、清一郎への辛辣な言葉は更に続く。
「後は死のうが生きようが、勝手にしてくれれば良いが・・・・。が、あんたもまだ終わってはいない筈だ」
何が、とは土方は言わない。
だが突きつけられた一言に、思いもかけず清一郎は、それまで向けていた激しい視線を逸らせた。
背けた顔は、これ以上心を読まれまいとする強い意志の表れか、二度と此方を向こうとはしない。
しかしその頑なな態度こそが、先程の憶測が、的を得たものであったと如実に物語っていた。
語るに陥ちた、とまでも云わないまでも、清一郎にとって土方との駆け引きは荷が重すぎたようだった。
「あんた達の思惑こそ、俺にはとんと関係のないことだが・・・、それよりこの先どうするつもりだい?この人」
それまで黙って二人の会話の行方を追っていた八郎が、漸く土方に声を掛け、清一郎に向けて顎をしゃくった。
「どうやら狙われているらしいが、新撰組に置くって訳にも行かないだろうよ」
「分かっている」
八郎が言外に籠めているものは、見回組との間で確執が生じる事への憂慮だった。
そしてそれは土方にとっても、頭を痛める処であったらしく、そのまま何かを考え込むように黙して語らない厳しい顔を、総司は不安げに見ている。
確かに八郎の言うとおり清一郎を屯所に匿えば、今はどうにか抑えが効いている見回組を、悪戯に触発する事になるだろう。
寝た子を起こすような結果になるのは、土方とて本意ではない筈だ。
それに兄を新撰組に殺されたと思っている清一郎が、その仇の庇護を受けてまで我が身を護りたいと欲するとは、今までの経緯からは到底思えない。
だが総司の心配は、もうひとつ別の処にあった。
清一郎は誰かに狙われ、罠にまで嵌められかけた。
先程土方の、まだ終わってはいないだろうという言葉には、貝の様に口を閉ざした。
―――終わらぬものとは
否、これからしようとしている事は一体何なのか・・・
未だ見えぬ糸の端は、しかし清一郎が確かに握っている。
そしてそれは土方の知りたい事柄であり、何よりも河合の死に通じる事に違いない。
朧に霞んでいたもののひとつが形を見せ、疑惑が確信に変わった時、総司が顔を上げた。
「私が清一郎さんと一緒にいます」
突然の言葉に、土方と八郎が視線を向けたのが同時だった。
「屯所には置けまいと言ったのが、お前には聞えなかったのかえ」
呆れたような口調の八郎に、土方も同様の息を吐いた。
「係わらんといてくれっ」
ただ一人、清一郎だけが吐き捨てた。
「係わらないと、そう言いきれりゃ、この人も涼しい顔をしていられるものを」
揶揄する響きを十二分に籠めて、八郎は苦りきった顔の土方を見遣った。
「いっそのこと、田坂さんの処にでも置いてもらうかえ?そうすりゃお前も療養がてら一緒にいられるぜ」
思いつきににしては満更でも無いと思ったのか、総司に向けられた八郎の目がからかうように笑っていた。
「田坂さんには迷惑はかけられん」
土方が忌々しげに、その案を退けた。
だが田坂の名を聞いた途端、総司の脳裏に一条の光が宿った。
「田坂さんの処の裏の家作がひとつ空いたそうなのです。そこに暫く居たらどうだろう?」
「お前は何処でそんな話を聞き耳立てて来るのやら」
うんざりとした物言いに、総司が不満そうに八郎を見た。
「けれど・・・、そういう処の方が人の目を欺けると思う」
段々に言葉に力が無くなって行くのは、一言も応えぬ土方の思惑が見えず、心に大きく広がる不安がさせたものだった。
「総司」
待っていた声は、暫しの沈黙が室を支配したあとに、組んでいた腕をゆっくり解きながら発せられた。
弾かれたように向けた瞳に、決して機嫌の良いとは思えない土方の顔が映った。
「その家作は、田坂さんの家に近いのか?」
「キヨさんは裏だと言っていたけれど・・・」
勢い込んで言った割にはおよそ心もとない調子に、呆れるを通り越した顔がしかめられた。
だがともすれば無鉄砲に走り出す想い人の発言に渋面を作りながらも、土方の思考は案外にこの事を妙案と認識し、すでに其方の方向へと段取りを進めつつあった。
田坂の診療所の界隈は、見回組を離れて新撰組の持ち場になる。
何より五条ならば、西本願寺の一角にある屯所からも比較的近い距離にある。
地理的には良い条件と言えるだろう。
それに確かに総司の言うように、世間に出るを憚る身としては、家作の一隅の方が、人の出入りが多い旅籠あたりに隠れるよりも適しているかもしれない。
そして今、ある事柄を阻止する為にどうしても河合清一郎の挙動を、新撰組は監視しなければならなかった。
それらを算段に入れて、決断は一瞬の内に下された。
「家作が空いていれば、あんたには其処にいてもらう」
向けられた鋭い双眸に、清一郎の喉が音を立てずに上下に動き、一度息を呑んだのが分かった。
「冗談やおへんっ、あんたらに勝手に・・・」
「あんたの身柄の受け人は俺だぜ。それとももう一回牢に繋がれるかい」
どこか楽しげな八郎の脅し文句が、やんわりと、それでいてこれ以上の憤りが迸るのを、ぴしゃりと遮った。
「・・・土方さん」
内に籠められてしまった怒りで体を硬くし、押し黙ってしまってしまった清一郎から視線を移して、総司の唇が動いた。
「お前の寝起きする場は屯所だ」
その先に紡がれるであろう懇願など、疾うに承知していたかのように、寸座に撥ね付けた土方の強い語調だった。
「これでお前も暫らくは大人しく田坂さんの処へ通うな。結構な事だ」
八郎の眼差しに、合わせる総司の瞳が真摯に怒っていた。
だがその八郎の眸も、仏頂面を崩さない土方の視線も、すでに捉えているのは、これから対峙しなければならない見えぬ敵だった。
そして総司も叉、清一郎の身に及ぶ危険をどうやったら回避できるのか・・・
未だ何も判らない常闇の中で、その糸口となる光を必死に模索していた。
事件簿の部屋 雪時雨(六)
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