雪時雨 -yukishigure-
(六)
昨日。
河合清一郎の身を、田坂の診療所の裏手にあるこの家作に移すと決めてからの土方の行動は、流石の八郎も呆れる程に素早いものだった。
伝五郎という大家に借り入れる話をつけると、昨夜一晩だけは田坂の家に清一郎を預け、同じ家作にもうひとつ空いていた一番奥の家に、伝吉を住まわせる手筈を一刻も経ずに終わらせた。
三日続いて天道が顔を覗けば良いと云うこの時期の、どんよりとした空を花曇などと洒落るのならば、昔人はずいぶんと気の長い風流人だと、皮肉のひとつもあてつけたくなる寒さに、八郎は横に立つ想い人の蒼い顔を憂鬱そうに見た。
「お前、大丈夫かえ?」
「・・・何が?」
掛けられた声に、総司は怪訝に振り向いた。
「風邪でも引いた日には、また煩い人間がいるぜ」
それが土方の事だとは、云わずとも知れる。
「具合が悪いのならば・・・」
言いかけた時、後ろで戸の開く音がした。
「伊庭はん、すんませんけど手を貸しておくれやす」
更に何かを続けるつもりで口を動かしかけた八郎だったが、顔だけ覗かせて此方を見ているキヨの声に促されると、慌てて家の中に入って行った。
その背を笑って見送りながら、総司は手にしていた空の桶を新しい水で満たす為に、井戸端へと足を向けた。
国に帰った飾り職人の夫婦は長い事この家に住んでいてくれたのだと、大家の伝五郎は、もう五十を半ばも過ぎているのであろうが、艶の良い顔に穏やかな笑みを浮かべて話してくれた。
良人と二人での生活の大方を過ごしてきたこの家を離れるに、妻のお陸はずいぶんと念を入れ、其処かしこを磨き込んで行ったらしい。
それ故、手入れをするような処はほとんど見当たらなかったが、それでも新しく人が住むには、やはり拭き掃除くらいはしなければと云うキヨの言葉で、今日は朝も早くから当の清一郎は元より、総司も八郎までもが手伝わされている。
だがそれもどうやら終わりらしく、やっと手を休めて気がつけば、時折雲間から微かに射す薄陽は真上から降りて来て、もう昼が近いことを告げていた。
井戸は家作の並ぶ突き当たりにあり、その前の家には、すでに昨日から伝吉が寝泊りしている。
落とした桶を引き上げようと釣瓶を手繰っていた時、それまで静まり返っていた家の戸が軋む音を立てて開かれ、見知った姿が出てきた。
手ぬぐいを首からかけて、遅い朝に気後れするでもない風に井戸に向かって歩いて来る様は、何処か遊び人のようにも見受けられる。
「土方副長からの託(ことづけ)です」
目だけで会釈だけを交わし、叉釣瓶を引き始めた総司のすぐ脇まで来て、伝吉は囁いた。
「・・・土方さん?」
朝餉もそこそこに副長室に顔を出した時、土方は山崎と何やら談義中だったから、田坂の処に行くとだけ短く告げて出てきてしまった。
山崎の手前一応頷きはしたが、本意ではないと不満げだった顔が、総司の脳裏に過ぎる。
「終わったら田坂先生の処に来るようにと。そこでお待ちです」
土方が田坂の処に居ると云う事に総司は驚きの目を向けたが、伝吉はもうそれまでの会話など忘れたように汲んだ水で顔を洗い始めた。
土方が田坂の処へと来ているのは、昨日からの清一郎の様子を聞く為だろう。
暫らく動きを止めて、総司はその先に紡がれる言葉を待った。
だが後はもう、どんなにしても二人の間には無言の時が悪戯に流れるばかりだった。
これ以上探るのは、伝吉の仕事の迷惑になる事柄なのだと漸く諦め、仕方無しにまた水を汲む作業に戻りながら、すでに清一郎の身は、自分独りで護ろうとするには敵わない大きな画策の中にあるのだと、総司は朧気に知った。
「それより沖田さん」
水を一杯に張った重い桶の底を、井戸の縁につけ両手で支えた時、不意に掛けられた声に顔を向けると、手ぬぐいで水滴を拭っている伝吉の目と合った。
「何か?」
日頃滅多に表情を顔に出さない伝吉だが、時折自分の身を案じてくれる時には、人を射竦めるような鋭い双眸が、ふと柔和な光を湛えることがある。
今の眼差しがそうだった。
「少しお顔の色が悪いようですが」
「寒さのせいだと・・・」
曖昧に笑いながら、すぐに桶を下に置く振りをして視線を逸らせたのは、少しばかり熱っぽい不調を悟られまいとする後ろめたさからだった。
正直を言えば、先程から背筋に走る震えを止めらずにいる。
油断をすれば、時折襲う眩暈は身体を覚束なく揺らす。
それ等を、地を踏む足に力を籠めて、漸く凌いでいるのが本当だった。
季節の変わり目のこの時期、いくら気を付けてはいても、激しい寒暖の差についてゆけない身体は不満を露にして総司を苛む。
今日のように今にも天から白いものが舞ってきそうな寒さは、直截に胸に巣喰う業病を刺激する。
思うにならない己の身体に、総司は伝吉に分からぬように遣る瀬無い息をついた。
きっと大した事はないのだと、少しばかり憂鬱な心を誤魔化して桶を持ち上げた時、遂に降りてきた冷たい氷の破片が、かじかんで、とっくに感覚の無い骨ばった指に触れて溶けた。
「手伝いは終わったのか?」
もう少し体裁を整えるのだと云うキヨと今日から其処に寝泊りする清一郎を残し、一足先に八郎と帰って来た総司に、田坂と何やら話しこんでいた土方が、それを途中で止めて顔を向けた。
「白いものが舞っているぜ」
ただ頷いただけの総司の後を補うように、室に居て知らぬであろう二人に、八郎は外の変化を教えた。
「どうりで冷え込んできたと思った」
応えた田坂の横で、火鉢にかかった鉄瓶が白い湯気を立てている。
その様が、凍てつくような寒さの中から戻った身には、不思議に心を安堵させるものがある。
端座しても暫く、総司は火鉢に視線を止めていた。
花も間近な底冷えは、時に極寒の季節よりも人の肌を鋭く刺す。
総司の脳裏に、つい今しがたまで居た、日当たりの良いとは云えない家の中が浮かぶ。
こんな風に人の居る賑やかな温もりに触れていれば、薄暗い深閑と静まり返った中で、独り過ごす清一郎の事が余計に寂しく思われる。
「・・・清一郎さんの処に、火鉢があったかな?」
つい零れた呟きは、そんな総司の憂いがさせたものだった。
「日がな一日布団にくるまっていれば、寒さも知らずに済むだろうよ」
八郎の応えは、素っ気無い。
「キヨさんに使っていないのを借りて、持って行ってもいいだろうか」
だが八郎の皮肉など耳には届かないらしく、すっかりそれに心捕らわれてしまったかのように、総司はこの家の主である田坂に問うた。
「火鉢の事はキヨさんに任せておけばいい」
それまで黙り込んでいた土方が、放っておけばどこまでも清一郎の面倒を見るために走り出しそうな総司を、有無を言わせぬ厳しい口調で嗜めた。
決して機嫌の良いとは思えぬ声に遮られ、まだ何か言いたそうに開きかけた唇が途中で噤がれた。
「河合の件といい、総司の見張りといい、あんたも体ひとつで大変なことだな」
揶揄するような言い回しに、土方の面が苦りきって八郎を見据えた。
「ところで。こいつは今日は此処に世話になるのだろう?」
衒いも無く続けられた言葉はあまりに思いがけなく、土方よりも総司の方が先に、八郎の顔を振り仰いだ。
「どうにも具合が良くないらしいぜ。屯所に戻ってから往診では、田坂さんも二度手間だろうに」
「どこも悪くなどない」
見透かされて食い下がりながらも、傍で見ていて気の毒な程、総司は狼狽していた。
「熱があるのは悪くは無いのか?」
偽りを許さぬ叱責が、今度は土方から発せられた。
それは八郎に知らされずとも、入って来た総司の顔の色を見た瞬間、分かっていたことだった。
咄嗟に向けられた黒曜石に似た深い色の瞳が心なし潤み、正直に身体の不調を晒している。
きっと、肌に触れれば尋常とは思えぬ熱が伝わるだろう。
案じていた事を現に突きつけられ、総司を見る土方の面に、隠せぬ険しい色が浮かんだ。
「お前は暫く此処で禁足だ」
「でもっ・・」
「田坂さん」
大丈夫だと、それをどう納得しさせようか必死な総司の抗いを鋭い双眸で封じ込め、土方が田坂に顔を向けた。
「又、厄介をお掛けするが」
一度相手を正面から見据え、次の瞬間には、頭(こうべ)は深く下げられていた。
「土方さんっ」
「確かにお預かりした。キヨが又話し相手ができたと喜ぶだろう」
悲鳴のような叫び声は、だが少しも問題にされず、田坂は些か含むような笑いと共に土方に応えを返した。
「・・・明日の朝には戻ります」
田坂の家を辞すと云う二人を見送る為に、玄関に向かって歩きながら、総司は土方の背中越しに聞き辛い程小く声を掛けた。
「田坂さんが良いというまでだ」
にべもなく退けた途端、後ろに付いて来ていた足音が止まった。
それに気づいて、漸く土方が振り向いた。
「どうした?」
此方から水を向けてやらねば、俯いたまま、固く閉ざされた想い人の唇は言葉を紡ぎ出しそうには無かった。
土方の一歩前にいた八郎は、そんな様子を気配で感じ取り、ちらりと後ろを見はしたが、進める足を止める事無く遠ざかって行く。
「黙っていては分からん」
顔を上げもせず、其処に立ち尽くす総司の耳に、持て余した当惑と苛立ちが一緒になったような土方の低い声が届く。
怒ってはいないのかと、そう聞きたい。
顔を見て、そうではないのだと確かめて安堵したい。
けれどそんな事は自分自身への言い訳だ。
本当に伝えたいのは他の言葉だった。
明日戻れと――――
そう言って欲しかった。
置いて行かれるのは、土方の背を見送ることは辛いのだと、たった一言が言えない自分の頑なさ、意気地の無さに、総司は唇を噛み締めた。
「伝吉が毎日来る。他に山崎も顔を出すだろう。不便があったら言え」
見止めることが難しい僅かさで、束ねた髪の先だけを揺らして総司が頷いた。
「だが・・・」
まだ項を垂れたままの想い人の髪にある白い元結を、視界の真中に入れながら、語るでもなく漏れた土方の呟きだった。
途切れたままの言葉の不自然さに、躊躇いながらも漸く総司の顔が上げられた。
「少しも早く帰って来い」
弾かれたように首筋が伸び、大きく見開かれた瞳の主に、言葉の最後に苦く笑った、その顔を知られぬ様に、すぐに土方は踵を返した。
総司は暫し呆然と身じろぐ事も忘れたかのようにしていたが、やがて追うべき背がずんずん遠くなって行くのを見止めると、それが呪縛を解く切欠だったのか、己の足の縺れるのももどかしげに急(せ)いて駆け出した。
近くなってくる足音を聞きながら、廊下を走る行儀の悪さを叱らねばならぬと思い、だがそれ以上に、先程の縋るような瞳をもう一度見せられれば、このまま連れ帰りたい衝動に駆られ・・・・
遂に後ろまで追いついた総司の微かな息遣いさえ、聞え伝われば胸の裡が俄かに切ない。
誰が置いてなど行きたいものか。
半日離れていれば声を探して落ち着かず、一日離れていれば姿を求めてどうしようも無く苛立つ。
それほどまでに――――
お前は自分を惑わす残酷な奴なのだと、そう告げるを堪える甲斐性を保つのに、信じられぬ程難儀している己を、土方は心裡で自嘲して笑った。
「あ、さっきよりは熱が下がった」
濡れ手拭を替えようと額に触れたふっくらとした手の平が、暫くそのまま置かれ、キヨは嬉しそうに独り呟いた。
まだ手を離さないキヨを、総司の瞳がその下から申し訳無さそうに見上げている。
あれから土方と八郎を見送って、夜具に横にさせられた途端、張り詰めていた緊張の糸が切れてしまったようで、大したことは無いと思っていた熱はそこそこにまで一気に上がった。
だが少しまどろんで目が覚めた時には、その直前に飲まされた薬が効いたのか、それまであった気だるさも頭の痛みも大方消えていた。
「ほんま、知らんまま帰してしもうてたら、えらいことになってたわ・・。今度は若せんせいがええと言わはっても、キヨがもうよろしやろ、思うまで此処にいてもらいますえ」
キヨは清一郎の家の掃除につき合わせてしまったことが、総司の不調の原因になったと思い込んでいるようで、とことん面倒をみる覚悟らしかった。
言葉尻に、抗いを言わせぬ強さがある。
「そやった、こないに落ち着いておられへんかったわ。お粥さん作らんと」
結局昼から何も食べさせていない事に気づいて、キヨは慌てて立ち上がろうとした。
「キヨさん・・・」
障子の桟に手を掛けた時、後ろから遠慮がちな声が掛かった。
「清一郎さんはどうしていますか?」
振り向いたキヨに問うた総司は、いつの間にか片肘で支えて半身を起こしていた。
「起きはったらあきまへん」
まずきつく叱り、その勢いに気圧されて大人しく夜具の中に身体を戻すのを見届けると、キヨはようやく満足そうに頷いた。
「あの人なぁ・・・。ほんま礼儀正しい几帳面な人やわ。帰りがけにうちにも、えろう申し訳なさそうにお礼言ってくれはって」
慌てて室を出て行こうとした自分の行動などすっかり忘れたように、キヨはもう一度総司の枕辺まで戻って座りなおした。
「あんなぁ、沖田はん」
キヨは清一郎のひとつひとつの言動から、その人柄を思い起こすように、ゆっくりと言葉を続ける。
「河合はんは、沖田はんにお礼言いたかったんと違いますやろか。・・・キヨにはご事情まではよう分からんけど、何やそないな気がしますのや」
思いがけない憶測に、総司は咄嗟には応えられず、視線を逸らせた。
キヨは清一郎の兄、河合耆三郎の件を知らない。
兄を新撰組に殺されたと信じ込んでいる清一郎が、自分に対して、例え礼にせよ好意の感情を持つとは思えない。
それを話す事も出来ず、どうキヨの誤解を解こうか、総司が迷っている間にも更にキヨは続ける。
「片付けている最中、あのお人は沖田はんや伊庭はんと一言も口を聞こうとはしまへんどしたやろ?せやけど時々、お二人に目を止めている事がありましたのや。そんでうちがそれを見ているのに気づかはると、慌ててまた手を動かしはって・・・。キヨにはそれがどうしても憎い人間を見ているもんとは思えませんでしたのや」
「・・・そうでしょうか?」
「そうです」
そんなに簡単なものではないだろう清一郎の心を思えば、憂いは尽きないが、キヨの断言するような強い物言いは、総司の心にひとつ灯りをともしてくれる。
「そうだと良いけれど」
まだ躊躇いはあったが、そう言って笑った総司に、キヨはそれで良しとするように、更に大きく頷いた。
昨日とは打って変わった小春日和に恵まれた日中も、日が傾き始める頃ともなれば、はやり吹く風は肌にひんやりと冷たい。
結局一時的なものだったのか、それとも田坂の早い処置が功を為したのか、今朝方起きた時にはもう熱も引いていた。
それでも一度消耗した体力は身体に休息を欲していたようで、昼を過ぎた後、まどろむに任せてひと刻(とき)は眠ってしまったようだった。
開け放っておいた障子が、目が覚めた時にはきっちりと閉じられていた。
眠りを妨げないようにと、田坂かキヨがそうしてくれたのだろう。
だがその人の気配にも、気づかなかったのだろうか?
その失態に少しばかり愕然としながら、しかしこんな風に神経が緩むのを許されるこの家は、もう自分にとっては安堵できる場所なのかもしれない。
そんな事を思って総司は障子の白を、まだすっかりとは醒めない意識の中でぼんやりと見ていた。
掛けていた夜具を剥いで少しばかり大儀そうに起き上がり、見回した室の隅には障子の影が長く伸び、すでに夕刻の気配が忍び寄っている。
西の空が茜色に染まり始めるこんな頃合は、何とはなしに人恋しくさせる。
・・・丸一日。
声を聞かず、顔も見ていない。
土方と、言葉にしてその名を呼べば、きっと弱気に傾く心を止められなくなる。
だから唇も動かさず声にもせずに、逢いたいと、胸の裡だけで形にして、総司は夜具の端を握り締めた。
「キヨさん、何か手伝うことはありませんか?」
台所の土間で、青菜を洗っていたふっくらとした背に、総司は上がり框(かまち)から声を掛けた。
「いや、沖田はん、起きたらあきまへん」
吃驚したように振り向いたキヨが、後ろに立っている総司を見止めるや否や、怖い顔になった。
総司は夜着ではなく、来た時に付けていたものに着替え、きちんと袴までつけている。
「もう治ったから」
機嫌を取り繕うかのような声は、自然と言葉尻が小さくなる。
「治った言うんは、キヨが決めることです」
キヨはやはり自分が納得するまで、今回は面倒を見るつもりらしかった。
「・・・けれど。動かなければ、何も食べる気が起こらない」
子供じみた言い訳を、果たして聞き入れてくれるとは思わなかったが、総司は他に良い思案も浮かばず、キヨの顔色を伺った。
「少しぐらいなら動いた方が、確かに腹は減るな」
助け舟は意外にも、いつの間にかやって来ていた田坂から出された。
「せんせい。せんせいが沖田はんの駄々を聞かはったらあきまへんやろ」
「本当を言っただけだ」
振り返った総司の横を、気の抜ける程にあっさりと応えた田坂の長身が通り過ぎた。
そのまま身軽な所作で土間に下りると、其処にあった下駄を突っかけてキヨの隣までやって来、竈にあった鍋の中を覗き込んだ。
「美味そうな匂いだが・・・叉、ずいぶんと沢山だな」
「河合はんの分もありますのや」
鍋の中には季節の野菜をふっくらと炊いた煮しめが、はみ出さんばかりにある。
誉められて、総司の事は暫し忘れたのか、キヨは嬉しそうに頬を緩ませて応えた。
「それではこれを沖田君に届けてもらえばいい」
「あきまへん、ご病人にそないなことさせられますかいな」
だがそれとこれとは別の様で、途端にキヨの眉根が寄せられ、田坂を睨んだ。
「もう病人ではありません」
「病人どす」
自分が話題の真中に置かれていると知り、慌てて後ろから掛けたその一言を、キヨが素気無く退けた。
「俺も一緒に行こう、それならば問題はあるまい?」
「せんせいも?」
笑って向けられた眼差しに、キヨはキヨなりに、何か田坂の思う処があるのを察したのか、暫し考え込むようにして顔を見上げていたが、やがて不承不承頷いた。
「仕方がありまへんなぁ。せやけどお早ようお帰りやす」
声に、聞かぬ者達への諦めがあった。
「それ、落すなよ」
横を歩きながら田坂の目には、重箱の包みを持つ総司の手元がどうにも危なっかしく映る。
「田坂さんも重くはないですか?」
聞く総司の視線が、田坂の持ち物へと向けられた。
結局河合清一郎の元へと届ける事になったものは、先ほどの煮しめの他に、キヨが作り置いてあった漬物やら何やらで、重箱は二段になってしまった。
それに加えて今朝総司がキヨに、使わぬ余分があったら貸して欲しいと願い出ていた火鉢を、田坂が抱えて運んでいる。
「・・・でも」
総司がなにやら思い出したように呟き、すぐに小さく笑い始めた。
「何だよ、変な奴だな」
咎めながらも、邪気無い笑い声を聞きけば田坂の口調にも勢いは無い。
「キヨさんは策士だなと、そう思って」
「亀の甲より何とやら、と云う奴だろう」
失礼な言葉の筈が、うんざりとした響きが先に立ち、総司の笑いも止まらない。
キヨに頼み込まれ最初田坂は、大の男が、例え僅かな距離とは言え火鉢を抱えて往来を行く様を見っとも無いと拒んだ。
だがキヨは、それならば総司と自分が二人で持つから、田坂には重箱の方を持てと言い出した。
見るからに頼りない総司と、女のキヨに重い火鉢を持たせ、その後ろを自分が風呂敷包みひとつ持って歩く訳には流石に行かない。
仕方なく言うなりに従わざるを得なかった田坂の憂鬱そうな横顔を、総司は漸く笑いを堪えて、それでもまだ可笑しそうに見ていた。
「策士というなら土方さん、あの人も中々のものだぜ」
必死に封じ込めていた名を突然に聞かされ、総司の胸の裡が一瞬の内にざわめき立った。
心の臓の音が俄かに昂ぶる。
たった一日逢わずにいるだけで、こんなにも切なく苦しく想う自分を、だが総司はすぐに叱咤した。
「・・・土方さん?」
動揺を悟られまいと、繰り返した声が呟きとも似て小さかった。
「人に一番荷厄介な事を押し付けて行った」
田坂が何を言わんとしているのかを分かりかね、総司の瞳が横を行く長身を見上げた。
「君の見張りを俺にしろってことさ」
「・・・見張り?」
つと見下ろした、田坂の視線に合っても、まだ意味する処が見えてこない。
「君のことだから、屯所に戻ったところで、足は自然とあの河合とか言う人物の元へと向かうだろう?自分の知らない処で隠れて奔走されるならば、いっそ目の届く範囲に置いて見張りを付けて置こうと、あの人は考えたのさ。伊庭さんだって同じだろう」
「そんな・・・」
土方の深慮を初めて知って、総司の顔に正直に驚きの色が浮かんだ。
「そんなもこんなも無いだろう?実際こうして君は行きたくてうずうずしていたから、俺の言葉に渡りに舟と乗って来た。感謝してもらいたいものだな」
前を向いたまま、口元に笑いすら浮かべて言う少しばかり意地の悪い図星に、総司が不満げに田坂の横顔を見遣った。
だが土方の本音を知れば、勝手ばかりを通している我が身の聞き分けの無さが情けない。
清一郎に係わる事を、土方は決して良しとはしていない。
それでも我侭に目を瞑り、自分の心を慮ってくれた優しさを思えば、目の奥がひどく熱くなる。
このまま駆け出してしまいたいと思う程に、今無償に土方に逢いたい。
胸に逆巻く切ない狂おしさをどうにもできず、そんな自分を田坂から隠すように、総司は目を前に据えた。
並んで歩きながら、自然と会話は総司の方から途切れがちになる。
夕景の中で、前に長く伸び行く己の影が、歩くたびに右へ左へと落ち着かない。
それがまるで土方恋しさに揺れる、自分の心の有様のようだと、総司はぼんやりと思った。
そう世帯数も無い家作の入口に来ると、不意に隣を行く者の足が止った。
「どうした?」
逡巡するように動かない総司に、田坂が訝気に声を掛けた。
「私は行かない方が良いと思う」
躊躇った末に応えたものではなかった。
初めからそう決めて来たかのように、口調はしっかりとしていた。
「相手に気を遣うか?」
田坂は土方から河合清一郎について、大方の事は知らされているのか、問う言葉は全てを省いて直截に向けられた。
「その逆です」
「河合という人物が気にすると?」
田坂を見上げたまま、総司は無言で首を振った。
「そうではない・・・。けれど清一郎さんは私を見れば、きっと心穏やかではいられない」
ふと沈んだ声の調子が、総司の心にある憂いの深さを物語っていた。
「まあ、君がどう思おうが勝手だが、俺はこれ以上の荷物は持てないぜ」
清一郎に会うことを臆している心情に触れて、総司の胸の裡にある重いものを取り去る言葉を、さり気無く変えて伝えた田坂の文句だった。
だがそれは、半ば本当でもあった。
手には決して軽いとは言えない陶器の火鉢を抱えている。
元々がなめらかな丸い曲線を描いているものだから、滑るし、片手で持つと言う訳にも行かない。
「とりあえず手にしているものだけは運んでくれよ」
まだ立ち止まったままの総司に、言うだけ言うと、田坂は後は振り返らず先に歩き出した。
それでも暫らく総司は戸惑いの中にいたが、田坂の姿が清一郎の住む家の戸口に手を掛けるのを見て取ると、漸く其処から思い足を踏み出した。
事件簿の部屋 雪時雨(七)
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