雪時雨 -yukishigure-
(七)
持ち運ぶ途中で、灰が風に舞ってしまわない様に上を覆っていた油紙を取り去り、その端に重石代わりに置いてあった炭に、田坂は火を熾した。
幾度か息を吹きかけ、黒い炭が紅く変化するのを確かめると、漸く火鉢を抱くように屈めていた体を直した。
「炭が足り無くなったら又持って来る。天道が出ない今日みたいな日は、まだ冷え込むからな」
火の色が、隣の炭へと移って行く様を満足そうに見ていた田坂が、室の隅に端座している清一郎へと視線を送った。
「ご厄介をお掛けしてしもうて、すみまへん」
家の中は、外から見るよりも奥行きがあり、小さいながらも二つ部屋が続く。
それに煮炊きをする土間が付き、家作にしては珍しく広い造りだった。
尤も日当たりが良いとは言えず、特に今田坂と清一郎の居る真中の四畳半は、格子の嵌った小さな明り取りの窓が高い位置にひとつあるだけで、日中でも細かい作業はしずらいと思うほどに薄暗い。
こんな陽気ならば、ずいぶんと寒さが身に染みる。
「何をやっているんだよ」
荷物を手に立ったまま、戸口の近くから動こうとはしない総司に気づいて、田坂が声を掛けた。
清一郎は総司の姿を見た時に浅く会釈しただけで、後は避ける様に視線を合わせず、硬い表情を崩さない。
その心情は痛い程に察せられるだけに、総司も又、躊躇いから抜け出す事ができない。
「そんな隙間風の吹きさらしに立っていると、風邪をぶりかえすぞ」
心に在る戸惑いを知ってはいるのだろうが、敢えて見ぬ振りする田坂の言葉には遠慮が無い。
それでもどうしたものか、総司が今一度、清一郎を見やって思案した時、俄かに慌しい足音が聞えてきた。
咄嗟に家の中の三人が其方に視線を向けるや否や、外から遠慮がちに伺う声が掛かった。
「田坂先生は、こちらですやろか」
「此処だ」
声の主をすぐに判別できたのか、応える田坂の口調もゆったりとしたものだった。
だが言葉の終わる頃にはすっかり立ち上がり、そのまま土間に下りて総司の横を通り過ぎると、些か建て付けの悪い戸を内から開けた。
「近江屋さん、叉か?」
戸口で申し訳無さそうに待っていたのは、商家の手代風の男だった。
田坂が先回りして聞いてくれた事で、実直そうな顔に安堵の色が走った。
「えらいすみまへん。旦那様がどうしても癪の痛いのが我慢できへん、はよう田坂先生を呼んで来い言わはって」
もしかしたら急患の容態は大した事はないのかもしれない。
田坂を呼びに出されたこの男にも、主人の我侭を通す事に、申し訳なさそうな困惑があった。
「分かった。では一緒に行こう」
「おおきに、すみまへん」
幾度も頭を下げながら、だが漸く中にいた総司と清一郎に気づいて、男は視線を一度二人に等分に持って行ったが、すぐに叉若い医師に移した。
「けど先生は何か御用があったんと違いますか?」
「俺の用事は終わったさ。あとはあの二人が適当にすれば良いことだ」
事も無げに言い切って、田坂は総司を振り返った。
「キヨには少し遅くなるかもしれんと言っておいてくれ。君も寒くならない内に帰れよ」
何を返す暇(いとま)も無く、それだけを一方的に言い置くと、田坂は男の先に立って歩き出した。
その背を暫くは呆然と見送りながら、やがて二つの影が路地を曲がって見えなくなると、総司は小さな溜息をついた。
「あとの事は自分でするよって」
家の奥から掛かった声に慌てて視線を其方に向けると、まだ強張りを解けない硬い顔が自分を見ていた。
「・・・あの」
自分が清一郎にとってどんな存在なのかは、十分に承知している。
だからこそ、漸く出した声の先が、まだ行き場を探しきれずに途切れた。
「風邪、引いているんやろ?」
感情と云うものを、敢えて出さずにしている声は冷たさすら感じさせるが、思いもかけない清一郎の言葉に、深い色の瞳が大きく見開かれた。
「昨日此処を掃除してた時に、顔の色がえろう悪いと思うとった」
総司は何と応えて良いのか分からない。
まさか清一郎がそんな風に自分を気遣っていてくれたとは、俄かに信じろと言う方が無理だった。
「今朝キヨはん、云うんやろか・・、あの人が様子を見に来てくれはった時に、教えてくれたんや。火鉢の事も、あんたがえらい気にしてるから言うて。・・・せやさかい、今日の内には用意して来ると言わはった」
端座した姿勢を崩さない清一郎の律儀な顔を、総司はまだ驚きが先に立って、声も出せずに見つめている。
「うちのことは、ほんまに構わんといてくれたらええ。風邪こじらせん内に去んでや」
声に、労わりの色が濃くあった訳ではない。
むしろ抑揚無く、愛想の無い物言だったが、それでも耳に届く言葉のひとつひとつが、総司の胸にあった重いものを、瞬く間に吹き払ってくれる。
「これ、キヨさんが作った煮しめなのです。それと味噌も少し。あとは・・・」
清一郎が作ってくれた話の切欠を必死に繋ぎ止めようと、総司の口調が早くなった。
「おおきに、そう言っておいてくれたらええ」
それ以上会話を続ける事を拒む清一郎の静かな声が、次の言葉を遮った。
だが一瞬流れた気まずい沈黙に、総司は怯まなかった。
「私はこの先の田坂さんの処に厄介になっています。・・・何か、不便があったら言ってください」
己を励まし繋げた言葉に、返る応えは無い。
一度音を無くしてしまった家の中は、足元から冷たさが這い上がって来るような静寂に包まれる。
清一郎はもう視線を逸らそうとはしないが、やはり言葉を交わす気は無いらしい。
微かにもその兆候を見せず、身じろぎしない姿が、意志の強さを物語っている。
まだ心に憂えるものに、他人に触れられるのは良しとしないのだろう。
それを思えばこうして待つことすら、清一郎には負担になるのかもしれない。
仕方の無い事と諦める心と、まだそうしたくは無いと願う心の狭間で揺れる自分を持て余すように、それでも今しばらくは其処に立ちすくんでいが、やがて清一郎に何の変化も起こりそうに無いのを見取ると、まだ留まりたいと駄々をこねる方の自分を叱咤し、一度頭を下げ、漸く総司は踵を返した。
「・・沖田はん」
戸口に手を掛けたとき、聞ける筈が無いと思っていた声が、背中から掛かった。
咄嗟に振り向いた瞳が、居住まいを正したままの姿で此方を向いている、清一郎の姿を映した。
「この印籠・・・。ほんまは、あんたが届けてくれたんやろ?」
懐からゆっくりと出し、手の平に乗せながら清一郎は問うた。
「旅籠の前の寺の境内から、伊庭はんと二人で出て来るのを見てたんや」
語る声音は、先程よりも幾分柔らかい。
「本当はもっと早くに返さなくてはと思っていたのに。・・・こんなに遅くなってしまいました」
伏せた瞳に、初めて清一郎と会った日の哀しいだけの光景が蘇る。
それは息をしない兄にとりすがり、決して顔を上げようとせず、声無き慟哭に震える背中だった。
あの時に、渡せる筈が無かった。
「兄があんたに、渡したんやろか」
清一郎は、今度は話を切り上げようとはしない。
「中に入っていた薬を、印籠ごと私にくれたのです。丁度新しく誂えたのが出来て来る処だからと・・・。その時に、薬は清一郎さんが、癪を持っている自分の為に送ってくれたのだと、そう言われていました」
だがあまりに効きすぎる薬には何か秘め事があると、少なくともあの時点で河合は気づかなかった筈だ。
もしそうならば、自分に疑惑にあるものを寄越すはずが無い。
総司は、そう信じている。
話をしてくれたとき、河合は心底弟の気遣いを喜んでいた。
出来の良い弟だと、嬉しそうに語っていた顔を、総司は忘れることができない。
清一郎の身を護る事が、死んだ河合に報いる事になるなどとは到底思ってはいないが、誰かの罠に嵌められたと知った時から、総司はそうするつもりだった。
兄の勝手を許し、稼業を継いでくれた弟の行く末を、河合は案じていた。
だから清一郎が叉穏やかに過ごせる日々に戻れたら、きっと喜ぶだろう。
人に問えば、埒もないと笑われるだろうこの感情を、理屈で説明せよと言われても、到底できるものではない。
清一郎が何をしようとしているのかは分からない。
だがそれは、命を狙われるに等しい代償を払うものだということは察しがつく。
危険に身を晒しながら、こうして京に止まっているのは何故なのか、今はまだ何も見えて来ない。
それでも総司は、自分の意志を貫き通すと決めていた。
「兄はほんまに、武士になりたかったんや」
清一郎の、独り語りともとれない小さな声が、総司を現に戻した。
「・・・この印籠は、兄が京に上る時に、その場しのぎで家にあったのを持って行ったもんや」
清一郎は総司を見ず、自分の手にある印籠に視線を落としている。
「兄が寄越す手紙は、あの几帳面な人が、いつも踊るような字で書いてきた。京に来て、あないに望んでいた武士になれて、そんで新しい印籠を誂えて。・・・兄は余程に嬉しかったんやろなぁ」
目を形見から離そうとしない清一郎の言葉には、大切な者を失った諦めと、だが其処に落ち着いてしまうのを嫌う響きがあった。
「癪によう効くからと、兄に薬を渡したんは確かにうちや。それがこの中に入っていたもんや。・・・・兄には送ったんやのうて、うちが京まで来て手渡したんや」
疑惑の、一番の核心に清一郎自身から触れられて、総司は一瞬息を飲んだ。
「兄は最近では癪も出んから心配するなと、そんなん言うて笑っとった。けどそれからすぐに、近くであの薬が要る人がおるからあるだけ欲しい、そないな文を寄越した。なんや胸の痛みに難儀してる人やからと・・・・。それ、あんたの事だったんやな」
今清一郎が向ける眼差しには、憎悪も憤りも無い。
亡き者を偲ぶような、静けさだけがあった。
だが新たに告げられた事実に、総司の瞳が見開かれた。
河合はあの後自分の為に、清一郎に文を送って薬を調達しようとしてくれた。
少しでも苦しみから救われるようにと、案じてくれていたのだ。
それは掛け値無い、心の赴くままの好意に他ならない。
知らなかったと、そう言えば一言で終わるものなのかもしれない。
だが総司は不意に瞼の奥を熱くするものを遣り過ごす為に、幾度か目を瞬いた。
「河合さん、清一郎さんの事を、とても自慢していました。自分はこんな勝手をして家を出てきてしまったから、継いでくれた清一郎さんに申し訳がないとも」
それを慌てて隠して繋げた言葉が、微かに震えるのが、自分だけに分かった。
河合の最後が、切腹という形の断罪であったことは、血を分けた肉親にしてみれば、幾ら本人が望んだ士道を貫く結果になったとは言え、到底納得出来る筈が無い事実なのだろう。
そして自分への河合の親切は、形を結ぶことなく、この弟に哀しみだけを与えてしまった。
「・・・すみません」
我知らず唇からついて出た言葉が終わろうとしたとき、総司の頭(こうべ)が、一連の所作の続きのように下げられた。
何がすみませんなのか、総司自身にも分からない。
断罪が下されるのを、ただ黙って見ているだけしかできなかった自分の無力さへか。
それとも我が身が、清一郎から兄の命を取り上げてしまった側の者だからか。
或いは。
それは弟の話をしながら向けた、あの陽の差すような笑い顔を、もう二度と清一郎には見せることはできないのだと、他人の自分だけが知り得るものにしてしまった、申し訳なさがさせたものだったのか・・・・・
案外に、全ての事情を超えた、ただそれだけの感情だったのかもしれない。
否、きっとそうなのだろう。
我知らず握り締めた掌に食い込む爪の痛みが、河合の好意を、今の今まで知らなかった事への痛恨と重なり合う。
深閑と音の無い冷たさが、今更ながらに礼を言うべき相手はもういないのだと、総司に知らしめた。
「何であんたが頭下げるんや」
暫く沈黙が二人の間を包みこんでいたが、その静けさに沿うような低い調子で掛かった声に総司が顔を上げた。
「誰のせいでもあらへん。・・・馬鹿はひとりで十分や」
視線の先に、自嘲するようにぎこちなく笑った顔があった。
何を言っているのか、そして誰の事を指してそんな風に言うのか。
もしかしたらそれは清一郎自身の事なのか。
閃きにも似た勘に裏づけされ生じた懸念に、総司がつと歩み寄ろうとしたその時、清一郎の視線が不意に違う方向へと流れた。
が、それよりも総司の方が一瞬早く振り向き、戸口に目をやった。
誰かがこの家を伺っている、肌で感じると同時に身構えた刹那、清一郎が立ち上がった。
「沖田はん、すまんけど奥の部屋に隠れていて欲しいんや」
言いながら土間に降り立ち、無防備に戸口に向かおうとした清一郎の腕を、総司は咄嗟に掴んで止めた。
外の気配は一人ではない。
まだ日が落ち切らない明るさの中、家作の人間の目もあるのに堂々姿を見せていることを考えれば、ある程度自分達の存在を晒しても仕方が無いとしているのか・・・・
行こうとする者の袖を掴んだまま、瞬時に其処まで思考を巡らせた総司の手を、清一郎はやんわりと外した。
「もう後戻りすることはできんのや」
「・・・あともどり?」
意味を判じかた唇は、無意識に同じ言葉を反復していた。
「うちが、・・・ここを教えて呼んだや」
見開かれた黒曜石の深い色に似た瞳に、清一郎は微かに笑いかけた。
「敵を、おびき寄せたんや」
真っ直ぐに総司を捉えた双つの眸が、強張りにある表情の中で、唯一強い意志の色を湛えていた。
「あんたには何も関係はあらへん。このまま見ない振りをして欲しいんや」
淡々と語る風を装っても、清一郎の横顔は張り詰めた緊張で蒼ざめている。
「それを抜くんは勘弁してや」
鯉口に掛けていた総司の左手に視線を落として、清一郎は静かな口調で拒んだ。
「うちがこれから会わないかんのは、新撰組の・・・」
言いかけた言葉が、一度途切れた。
だが新撰組と言った時、その唇の端に微かに笑みが浮かぶのを、総司は見逃さなかった。
「新撰組が追っている事と、きっと関係してる。せやから此処であんたに外にいる奴らを斬られてしもうたら、うちから目を離さんことで相手の出方を待っている、土方云う人の策略かて元も子ものうなる」
きっと精一杯の脅しなのだろう。
土方という言葉を出した寸座、一目で無理に作ったのだと分かる、不釣合いに不敵な笑いが広がった。
清一郎は新撰組が、否、土方が何を探ろうとしているのかを知っている。
総司にとって、それは驚愕すべきことだった。
逡巡する間など無い筈のこの危険迫る時、土方の名を出され、戸惑いに思考を奪われている総司の腕に清一郎の手が触れた。
「手出しせんといて欲しいんや。うちを邪魔せんといてくれ」
先程までの調子と違い、今聞く声には何処か懇願するような響きがあった。
其れほどまでに、清一郎の裡で事態は切羽詰って来ているのだろう。
「・・・待って。ずっと待って、やっと掴んだんや」
それが何かとは、清一郎は言わない。
ただ無言で総司の脇を離れ、吸い寄せられるように戸口へと踏み出そうとした。
「清一郎さん、私も行きます」
その足が地に付かない内に、躊躇い無く放った声は、いつもの総司のそれよりも遥かに大きく、射られた矢のように醒めた空気を鋭く別ち、真っ直ぐに清一郎の背に向けられた。
これで外で待っている人間には、十分聞えただろう。
そして・・・
すでにこの状況を遠くから把握し、監視しているに違いない伝吉にも届いた筈だ。
だから伝吉から、きっと土方にも伝わる。
それが総司に為しえる限りの策略だった。
だが突然のその言動に、清一郎が慌てて振り返った。
「何を言うてんのやっ、邪魔せんといてくれっ」
向けられた顔は青く、声は怒りで震えていた。
「一緒に行きます」
憤怒が形なしたとも思える視線を、総司は更に強い瞳の色で跳ね返した。
「あんたなんかにっ・・」
衝動のままに、清一郎の手が総司の胸倉を掴んだ瞬間、外にいた人影が、半分障子の戸の向こうに揺れた。
一瞬の気配に二人同時に其方を見た時、まるでそうされるのを嫌がるような軋む音をさせて、戸が開かれた。
籠めていた清一郎の力が緩み、襟元を掴んでいた手が離され――――
その勢いの反動で自分の身体が少しだけ後ろに揺れ、漸く全部開かれた戸口から、いつの間にか晴れ間が広がった夕暮れの、茜色した陽があふれんばかりに射し込み・・・・
それらの全てが、ゆっくりと移ろいで行ったのは、本当は瞬きもできぬ束の間の出来事だったのかもしれない。
西日を背負い、その逆光で影しか映さない相手を瞳を細めて視界に入れながら、総司は何故かそんな取り留めのない事を思っていた。
「河合清一郎殿であられるか」
意外にも、声の主は慇懃な物言いだった。
「うちや」
呼応した清一郎の声は、ひどく硬かった。
その背を見ながら、総司は再び鯉口に掛けていた手を、僅かな逡巡の後外した。
相手の正体を清一郎は知っていて、何かを為そうとしている。
更に仕掛けられたかもしれぬ罠に、自分から飛び込もうとしている。
そして清一郎のしようとしていることは、いずれ土方の追うものと結びつく。
それだけの符号が一致すれば、後は清一郎の身を護る為に、自分もまた引き返すことはできない。
深く思考している暇はなかった。
自分の下した断に躊躇せず従う事が、今総司には唯一だった。
「後ろにいる人も、あんたのお仲間か」
「違う、この人はっ」
「仲間です。貴方方を、清一郎さんと一緒になって脅している人間です」
否定する言葉を無理矢理遮って、総司は清一郎を庇うように一歩前に進み出た。
「・・ほう。物騒な事を言われる」
初めて相手の声に、感情というものが籠められた。
それは予期したものを寸分も違えず、決して好意的なものではなかった。
「違うっ」
更に体を乗り出そうとした清一郎を、総司は前を向いたまま、左の手で遮り止(とど)めた。
「・・・東北の藩、弘前藩の方でしょうか」
問う声に気負いは無い。
「さて、何処の者か・・・」
応えに、忍ぶような苦い笑いが含まれていた。
外から見る者の暗、内から見る者の明、それにも馴れて顔形がはっきりしてくると、互いに相手の力を値踏みした構えが出来てくる。
二本差しではあるが、見た目にとても頑強とは言えぬ、むしろ頼りない風情の若者に、清一郎の招いた訪問者は、たかをくくったようだった。
だが総司の方にも、相手の様子がはっきりしてきた。
今応えているのは、多分一番力のある者なのだろう。
身形は悪いとは言えぬが、何処か持ち崩した感を否めない。
藩から扶持を貰う日々は、疾うに捨てているのかもしれない。
ただ厳(いかめし)い顔に相応しく、眼光に独特の鋭さがある。
殊更出すまいとはしているようだが、話す言葉に僅かに混じる訛りは隠せない。
それは――――
確かに聞いた事があった。
この世の者では亡くなって、初めて姓名を知りえた、あの工藤儀作という浪人者と同じものが、目の前の男にもあった。
そして更に、後ろに二人。
視線を動かさないように注意しながら、勘で探った数は予想した範疇のものだった。
あまり沢山の人数では、この家作の者に不自然に映り不審を買う。
さりとて一人では、清一郎拉致に失敗する恐れがある。
全部で三人、これがぎりぎり仕立てられる人数と踏まえたのだろう。
「何処の誰と名乗るのが礼儀というものらしいが、すでに此方の事はそこの河合殿が良く承知の筈。知りたければ聞けば良い」
総司の存在は、迎えるは清一郎ひとりと踏んで来た相手から、余裕と言うものを削ぎとってしまったらしい。
少しばかり苛立ち出した早口な物言いは、今度は隠せない国の言葉で向けられた。
「が、貴方にも同行して頂かねばなるまい。脅されている当方としてはな」
唇の端だけに浮かべられた笑いが、皮肉に歪んだ。
「元よりそのつもりで此処にいました」
静かに語る瞳の奥に、だが思いのほか強靭なものがあるのを見取って、相手の目が細められた。
「案外に・・・。聞き分けて頂くには、少し時がかかるかもやしれんな」
未だ土の上は白いもので覆われているだろう北国の、季節の重さそのもののように、相手の声が低く、くぐもった。
これから行く先が何処なのか、その目的は何なのか・・・
清一郎を後ろ手で隠しながら、全ては霧中ある事柄に立ち向かう心を励ますように、総司は正面の男に勝気な瞳を向けた。
男の立ち姿は無防備とも見せて、だがもしも打ち込めば袖をかすりもさせずかわすだろうと思わせる、隙の無いものだった。
いざとなった時、清一郎を庇いながら、この者と、更に後ふたりでは分が悪い。
些かも視線を逸らせず対峙したまま、それらを図り巡らせた時、この家の前を横切る人影が戸口の隙から見えた。
職人を装った伝吉は、決して此方を見ようとはしなかったが、ほんの一瞬姿を見せる事で、総司に安堵するようにと伝えていた。
「ここで問答を繰り返す時も無い。そろそろ来て頂こうか」
ついて来るものだと疑わぬ確信が、相手にはあるのだろう。
丁寧を装う物言いには、その実相手を見下した無礼があった。
「何処へでも」
言って見上げた時、総司の瞳に、もう揺らぎ無い強い光が宿された。
何処に行こうと、きっと土方に自分の居場所は伝わる。
そう信じる、たったそれだけで、少しも怯まず前に進める自分がいた。
外に出た時、吹く風が、隠れつつある天道のせいか、急速に冷たさを増していた。
こうして日が落ちれば、未だ冬は往き切ってはいないのだと、身に刻んで知る事ができる。
この都でも花が咲くのは、まだずっと向こうなのかもしれない。
最後に戸口を閉め、敵と名乗る者達に囲まれ歩き出した時、今日最後の残照が強烈な光を投げかけ、稜線と空(くう)の際を朧にした。
眩しげに瞳を細めた総司の唇が、その方角にいる人の名を一度だけ、声にはせずに形作った。
「で、その男達の人相風体、少しは覚えているのかい?」
八郎の語りかけは、この男にしては珍しくゆっくりと柔らかい。
相手の記憶を少しでも多く呼び起こさせるには、まず警戒を解いてやらねばならない。
総司と清一郎が、浪人風の男達と一緒に出て行った時、家作の人間は皆出払っていて、この老婆ひとりがそれを見ていた。
八郎が田坂の診療所までやって来た時、すでに辺りは夕闇に濃く包まれていた。
だが其処にいる筈の総司はおらず、留守を守っていたキヨは、田坂も戻らないのだと、憂い顔を隠しもせず早口で告げた。
急く心に追いつかない足に苛立ちながら辻を曲がった時、急患の診療を終えて、もう一度清一郎の元へ向かおうとしていた田坂と偶然出会った。
そのまま二人走り続けて此処まで来たが、建て付けの悪さを勢いに任せて開けた戸の内は、もう人の気配など何処にも無く、恐ろしくひんやりとした空気だけが其処にあった。
「・・・あまり聞かん言葉を使おてはりましたけどなぁ」
老婆の語りは、ずっと昔に時を止めてしまったかのように、恐ろしくゆったりと紡がれる。
「聞かないとは?」
それに焦れる心を抑えて、殊更構える風も無く促すのは中々に気骨が折れる。
「一度も、聞いたことがないのか?」
横から口を挟む田坂も、叉心裡は同じなのだろう。
穏やかな声の調子の割には、向けられた横顔に湛えられているものは硬い。
「・・へぇ。一度も。・・・けど中の人、若いお人やったけど、なんや、ひろ・・なんとか言われはったわ」
「ひろ・・・、弘前か?」
逸る声を、八郎はもう隠さない。
「はて・・ひろさき言われたんか、よう覚えてませんけどなぁ。けど『ひろ』だけは覚えてます。うちの名がひろ、言いますねん」
老婆は心持嬉しそうに語った。
それは年老いて、親から貰った名で呼ばれることがとっくになった自分の今を、少しだけ哀しむ風でもあった。
「ひろさん、ありがとうよ」
総司の足取りを追う道が開けた僥倖を、老婆の感傷に付き合うことで感謝し、八郎は素早く立ち上がった。
「すでにあの人は追っている筈だ」
無言の内に家作を抜けた処で、八郎は一緒に並び足を急がせていた田坂に、横を向いたままで初めて声を掛けた。
「土方さんか。伝吉という使いの姿も見えなかった」
すぐに土方へと、田坂の思考も行ったようだった。
「河合清一郎の元に来たのは、浪人風が三人だといっていたな」
「沖田君が立ち向かえない数でもなかった」
田坂の言い回しは、総司が自ずと相手に従ったと告げるものだった。
「あの人の不機嫌に付き合う気は無いが」
「西本願寺なら、駕籠の方が走るよりは早いだろう」
ふたつとも、それぞれ相手に返す応えというには、ずいぶんと掛け離れたものであったが、それで十分互いには通じたらしく、田坂の視線が往来の先にある木の看板を捕らえ、顎をしゃくった。
「今度見つけたら、いっそ足に枷でもしておくか」
気楽に流す風に言いながら、だが八郎の足は先ほどよりも更に急(せ)いて、掻き手の男達が慌しげに出入りする店先に向けられた。
事件簿の部屋 雪時雨(八)
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