雪時雨 -yukishigure- (八)




「大概には、いい加減にしてくれろ」
うんざりとした調子の声は、脛の長い足を無造作に胡座にし、何とも行儀の悪い格好で、更に横を向いたままで掛けられた。
それでも決して品格を崩さないのは、この男の生まれ持って来たものなのだろう。
ちらりと視界の端に映す土方は、宙の一点を見据えるようにして腕を組み、一言も発しない。
「有り難くも無い仏頂面を拝みに来たわけじゃないぜ」
更に遠慮の無い言葉を投げつけざま、すらりと立ち上がった八郎を、土方は視線だけを動かして見た。
「何処へ行く」
襖へと手を伸ばした背に、やっと低い声が掛かった。
「山崎さんの処さ。とっくに伝吉とやらから繋ぎが来ている筈だ」
「知ってどうする」
「俺は新撰組じゃないよ」
八郎の苛立ちは、辛抱の際を超えていたらしい。
言葉に、辛辣ともとれる響きがあった。


すでに土方には詳細が耳に入っていたのだろう。
此処に来た時、黙って迎え入れた面は流石に強張り、秀麗な造りがいっそ冷たい程に際立っていた。
だが土方は総司を助けに行くとは言わない。
ただ不気味な程に、沈黙を守っている。
何か理由があると思いはしたが、それでも待つ身には限度がある。


「あんたが何をどう策略していようが、知った事じゃない。俺は総司を連れ戻しに行くよ」
立ち尽くしたまま見下ろす者と、座したまま見上げる者の視線が、一瞬鋭く絡み合った。
「相手は弘前藩ではない」
挑むように八郎に向けられた目は、強い苛立ちの色を隠せず、声は先程よりも更に低かった。
「何処の誰だろうと、関係は無い」
核心に触れない応えが苦衷を語っているとは百も承知で、八郎も攻める手を緩めない。
「相手から、何か言ってきたのだろうか」
それまで二人の話の成り行きを静観していた風な田坂が、漸く存在を現わにして問うた。
だが土方は又しても無言を決め込んだ。
それは言葉無き応えで是と察せよと、暗に告げるものだった。
「・・・図星か」
遣る瀬無い溜息が、八郎から漏れた。
「どうせそんなことではないかと思ってはいたが」
淡々とした口調ではあったが、視線は仰いだ天井に据えられ、双眸は見えぬ敵に挑むかのように細められた。

「相手は弘前藩では無いとの事だが、ずいぶんと不自然な言い訳だな」
「洒落にもならない戯言を並べ立てるのは、骨が折れる事だろうよ」
田坂の疑問には、土方ではなく皮肉な声が応えた。
「さて、俺は行くよ」
まるで世間話の続きのように衒い無く告げ、八郎はゆっくりと背を向けた。
だが言葉とは裏腹に、一分の隙も見せない後姿の厳しさに、己の想い人を探し出す為には、最早何事も聞き入れぬと決めた強い信念があった。

「待て」
「嫌だね」
予期していたのか、応えは間髪を置かなかった。
「相手は・・・」
「そんなものはどうでもいい」
土方の逡巡をぴしゃりと撥ねつけて、八郎の挑発とも思える強い調子だった。
「総司を、廃人にすると言って来ている」
漸く言葉にした胸の苦渋は、憂悶と云うには最早遠く及ばないのだろう。
土方の、唸るような声だった。
「廃人・・・」
脳裏に、一瞬にして熱い刻印のように焼き付けられた一言を反覆したのは、八郎の意識の外で為されたものだった。
「・・・阿片か」
低く、そして重く、今一度繰り返したのは田坂だった。

総司が気にかけ、それが河合清一郎の危険とならぬようにと案じていた薬。
河合耆一郎が弟からもたらさせれ、その後自分なりに何かを調べようとしていた薬。
そして清一郎が、未だ目的は判明せずとも、何かを企てその為に使おうとしている薬。
否、薬という隠れ蓑を外して、当初から大きな影となって存在していたものが、八郎と田坂の前に、今形となって姿を現した。


「阿片・・・」
言葉にして呟けば、たった三つの音だけで終わるそれは、しかし何と禍々しく不吉な響を人の心に植えつけるものか・・・・
八郎は立ち尽くしたまま、其処から僅かな声も漏れる事は無いだろう程に強く唇を結び、土方の険しい横顔を見ている。
「先程相手は弘前藩ではないと言ったが・・・」
衝撃的とも言える事実に、ともすれば闇の淵へと流されそうになる己を引き止めるかのように、今一度、田坂が抑さえた声で問うた。
そうして感情というものを押し殺さねば、冷静に先を判じる思慮は戻りそうに無かった。

「いや、元はそうだ」
これに関しては、土方も隠す気は無いようだった。
「ただ弘前藩はもう係わってはいない」
「又脱藩した連中、とでも言うのかえ?」
まだ常より重くはあるが、八郎の声には、すでに立ちはだかった困難に構える強靭さがあった。
「そうでもない」
「分かるように話してくれろ」
土方の話は、この男のものとは思えぬ程に歯切れが悪い。
それが総司の身に降りかかる危険を、何とか回避したいと願う思案の末から来ているのは十分に分かる。
だが八郎も叉、相手の心情を気遣う余裕と云うものを、今は持ち合わせていない。
舌鋒鋭い催促は、言葉よりも苛立つ感情が先に立つ。


まだ語るに全ての躊躇いを捨てられない土方の苦悩は、新撰組副長としての自分にあった。
例えそれが八郎と田坂とて、新撰組が極秘で追う機密事項を、外部の人間に漏らす事は、命を賭してこの件を探っている部下への裏切りになる、憂慮は其処にあった。

だが今はこの二人の力がいる。
否、そうしなければ総司は助けられない。
二度と自分の元へと戻っては来ないのだと、初めて現に思った時、土方の全身に粟立つような戦慄が走った。
総司が我が手に還らない―――
それは、恐怖以外の何ものでもなかった。
次の瞬間、逡巡は躊躇う事無く捨て去られ、土方の思考の全ては、二つ身で一つの魂を持つ唯一の者を救い出すことだけに働き始めた。


「最初に目星をつけていたとおり、弘前藩では最近純度の高い阿片の精製を行っていたらしい」
「それはやはり武器弾薬を買い入れる為か」
土方の心中を察しながら、尚も八郎は執拗に問う。
「そうだ」
今度は間を置かずに返ってきた応えが、己の心に堰していたもの、ひとつ残らず断ち切る覚悟を物語っていた。
「阿片を精製する過程で偶然出来たのが、例の薬らしい。弘前藩ではこれを阿片と併せ、密かに売り捌く算段をつけていた。だが実行に移される直前に、この件に係わっていた一部の人間達が、出来た阿片と薬を盗み出し姿をくらました」
隠さず語ると決めた口調は、もういつもの土方のそれに戻り、整然と一度も淀みなく、事の経緯は八郎と田坂に明かされる。
「まさか弘前藩が、堂々それ等の事を、新撰組に漏らした訳ではあるまい?」
仮初めにも外様の十万石、例え新撰組の情報収集力を以ってしても、一藩の秘事がそう簡単に探れる筈は無い。
其処をついた、八郎の疑問だった。

「元勘定方の河合が、金を横領したのは知っているな」
直截には応えず、土方は全く別の事を語り始めた。
「無けりゃ、暢気にしていられるものを」
それが全ての発端だと思えば、些か恨めしいと思うのか、八郎の声がうんざりと沈んだ。
「未だ金は見つかってはいないが、その前後の河合の行動を追ううちに、奴が薬種問屋を訪ね、ある薬について聞き回っていた事が判った」
「例の、沖田君が効き過ぎると、不審に思った薬だろうか?」
応えを返しながら、自分の元へとその成分を聞きに来た総司の憂い顔を、田坂は思い出していた。
「そうだ。総司は河合から譲り受け、その薬効に疑いを持った。河合は河合で、どうやら金を横領した直後から、何かを自力で調べようとしていたらしい」

「河合自身にも不審に思える事があったのか・・・それとも」
八郎が言い掛けて止めたのは、事件の渦中にある薬を最初にもたらせ、今総司と共に居るはずの河合清一郎に、この先は必然的に触れる事になるからだった。
「河合は弟の為に、調べていたらしい」
その八郎の疑惑を、土方が先読みして応えた。
「そんな処か。・・・が、そうなれば今回の件、清一郎が全てを握っているのではないか?懸念させる事柄があったからこそ、河合は調べ始めた。そして行方の分からなくなった金は、何かしら弟に係わる事で河合が横領したのだろう。・・・いやその金、河合清一郎に渡ったか」
凡そ外れはしないだろうという八郎の勘が、筋道を立てて語る内に、確信へと変わるのに時は掛からなかった。

「河合が何を聞きまわっていたのかを探る過程で、京や大坂で、新手の商売を持ちかけられ、金だけを奪い取られると云う被害が幾つか有った事が分かった」
土方の応えは、叉も意図して的を外した。
だが遠回りしているような話の流れも、いずれは源流に戻る。
それ故土方という人間の、尋常でない殊能を承知する八郎と田坂は、今は次の言葉を待つ他無かった。
「・・・まさか、あの薬に関係のあることではないだろうな」
不意に思いついたように問うた田坂の顔が、己の憶測が違わないだろう事をすぐに察して曇った。

「強烈な痛みを、何も無かったかの様にたちどころに鎮め、一度でも恩恵に預かった人間ならばすぐさま欲する薬を売らないかと、言葉巧みに持ちかける。何かしらで効き目を目の当たりにさせられた者は、十分に利が有ると算盤を弾き、ついそれに乗る。だが手付の金を払った途端に相手は消える。大金を巻き上げられ、騙されたのだと気付いた時にはもう遅い。標的にされたのは薬種の株を持たない商人ばかりで、水面下で高値で売るつもりだったから表沙汰にはできず、みな泣き寝入りで終わる」
「もしかしたら・・・」
気の重い確信に、田坂の目線が土方に据えられた。
「そうだ、河合清一郎もそのひとりだ。そしてそれ等の詐欺を働く者達こそ、弘前藩を裏切り、今総司を囚らえている奴等だ」
苦々しげな表情を浮かべたままの土方の脳裏には、その罠に嵌った弟の為に命を落とした河合の姿があるのかもしれない。
そして清一郎を庇って拉致されている総司の姿も――――
「それならば、弘前藩では知らぬ者だと斬り捨てるだろうな」
だが土方に向けられた八郎の声には、先程とは比べ物にならない強い焦りがあった。

阿片を精製し密かに売り捌き、武器弾薬を調達していた弘前藩が、その弱みとなる証拠を盗み出し、更にそれを使って、強請りたかりを繰り返す者どもを放っておくわけが無い。
弘前藩も必死になって、裏切者達を追っている筈だ。
そして見つけ出した時には、例え人質とて機密を知る者と、容赦なく闇に葬るだろう。
八郎の思考は一瞬にして、一番に恐れなければならない状況へと辿り着いた。


「しかし、何故そいつ等は河合清一郎を?」
硬い表情を崩さないまま、田坂から発せられた疑問は尤もな事だった。
騙されたのは清一郎の方だ。
それがどうして再び被害者の前に姿を現し、拉致などしたのか。
更に人質を廃人にするとまで脅して、時を稼ごうとしているのは何故なのか。
分からぬ事を紐解くには、明かにされた事実が少なすぎる。
だが田坂には医師として、少しも早く総司を救い出さねばならない事情があった。
今は全ての謎を後回しにしても、それを優先させねばならない。
躊躇っている暇(いとま)は、一時たりとも無かった。

「土方さん」
真正面から見た眼差しが、ひどく厳しかった。
「阿片で駄目にすると相手は言ってきているそうだが、沖田君の場合、持っている病で肺腑や息をする器官が、元々酷く弱っている。・・・阿片と云うのはそれを吸わせたとき、そういう者の呼吸を、たった一度きりで止めてしまうことがある」
冷静な観測は、時に過酷なまでの衝撃を人に強いる。
一瞬、田坂を見た八郎の双眸が、獲物を追い詰めた獅子のように鋭く細められた。
土方は、微塵も動かない。
だがじっと一点を見つめる横顔は恐ろしい程に険しく、何人をも近づけない峻厳さがあった。

「総司は何処にいる」
八郎のそれは脅しと言っても過言で無く、見えぬ刃の切っ先を相手の咽喉元へ突きつける様な切迫さを持って向けられた。
「長州藩だ」
長州と、忌々しげに吐き捨てた様(さま)に、土方の怒りの矛先があった。
「長州?」
又も話の筋道を、遠く逸脱させる名に、八郎の眉根が訝しげにひそめられた。
「弘前藩に、客として名乗りを上げたのは長州だった。が、阿片が盗み出されたと知るや、今度はそれを手に逃げている奴らを探し出し、自藩の庇護の下に置いた。長州はその阿片を今度は異国に売ろうとしているらしい」
応えは、搾り出すように低く返された。

「・・・弘前の阿片は長州に売られ、それで武器弾薬を買い入れる。そして長州は買った阿片を更にその何倍もの値で異国に売りつけ、巨額の富を得る。更に強い、幕府に対抗しうる力をつける為か。・・・いや、倒す為か」
真相は、思いの他大きな企てだった。
からくりの筋書きを整理して語る八郎の声も、又険しい。
「だが長州藩が活動できる拠点というのは、すでにこの京では無い筈だ」
田坂が、誰に問い質すでもなく呟いた。

長州藩京都藩邸は、一昨年長州が御所を襲撃し失敗、京から撤退する際に火を放たれ焼失している。
その後長州の京都に置ける活動の場というものは、表立っては無い。
田坂はこの辺りの事情を指していた。
「嵯峨の天竜寺の中にある、焼け残った塔頭のひとつが、奴等の潜伏場所になっている。長州を援助していた材木商福田屋理兵衛の関係だ」
「天竜寺?」
土方の応えに、八郎の顔が俄かに曇った。


天竜寺はかつて長州藩が本陣を置く計画を立て、それを了承する程に繋がりが強い。
御所襲撃の際にも、長州藩兵は此処から出陣している。
だがその敗退後、寺は薩摩藩によって火を放たれ、方丈の他ほとんどの建物が消失している。
それでも寺社仏閣が所狭しと並ぶ京において、嘗て大きな勢力を有していたこの寺は、全ての力を無くしてしまった訳ではない。
更に二度の長州征伐で、思う成果を上げられなかった直後の幕府としては、なるべく刺激を与えたくは無い相手だろう。
迂闊には手が出せない、厄介と言うには、あまりに面倒な場所だった。


「今弘前藩から長州藩に、庇っている脱藩藩士どもの引き渡しを交渉させている」
激昂を必死に抑えるように、殊更抑揚の無い声で、更に土方の言葉は続く。
「させている?」
言い回しは、土方が弘前藩よりも強い立場に立ち、動かしていると取れるものだった。
「元弘前藩士工藤儀作の亡き骸が、一枚の書状を持っていた。それには弘前藩で阿片を精製し、密かに長州に売り捌こうとする画策が綿密に綴られていたと、そう使いを走らせた」
「とんだ張ったりをかましたものだねぇ」
この場に及んで、流石に呆れた風な八郎の口調だった。
「もっとも・・・、工藤が脅されていたのは本当だろうが」
だが続けた呟きは、物憂そうな響きが、真実の重さを語っていた。
「こっちを脅していた相手は、河合清一郎か」
田坂の声も同じように、低い調子を隠せない。
「河合清一郎は何かの手がかりを得て弱みを握り、工藤儀作を脅していた。いや、脅していたのは、工藤の仲間達、ひいては弘前藩そのものだろう」
それが何かまでは、土方自身にも未だ掴めてはいない風な物言いだった。
「それであんたは、その弘前藩とはどういう取引をして、長州を脅しているのだえ」
軽い風を装う裏には、だが一刻も早く動き出したい八郎の苛立ちが見え隠れする。
「阿片の栽培は幕府が禁じている事ではない。だが長州に売ろうとしていたとなれば、今の時勢、弘前藩は窮地に立たされる」
「それを黙っていてやる代わりに、長州に対し、匿っている不逞の輩どもを引き渡せ、さもなくば今後阿片は流さない、弘前藩にそう言えとでも迫ったか・・・」
土方が全部を語り終わらぬ内に、大よそを察した八郎が、鬱陶しげに後を引き取った。。


だがその八郎の胸の裡を、俄かに騒がせているのは土方が払った代償だった。
事実を明るみにすれば、今の幕府ならば弘前藩を取り潰す力はまだある。
なによりも、先日土方は弘前藩が力をつける事を警戒していた。
だとしたら、それを封じ込める格好の機会は、今を置いては無い筈だ。
が、それらの全てを放り投げて、土方は総司の保身に動いた。
新撰組副長としての責務よりも、ただ想い人を案じる己を優先した。

あらゆるものを排し、時に人を捨てて冷酷な断罪者になりきれる土方が、唯一の弱みの為に、持つ駒を惜しげもなく打ち捨てた。
それほどまでに。
土方にとって総司は唯一であり、そしてそれは又、そのまま総司にとっても同じなのだ。
そうと知れば嫉妬の焔に焼き尽くされるような苛立ちが、八郎の全身を支配する。
総司を欲する己の業の深さは、こんな瀬戸までも、自分を雁字搦めにして離さない。
これが人を想う限り果てなく続く因果ならば、逃れる事はできないのだと、とっくに承知していた筈が、こうして揺ぎ無い絆を見せ付けられれば、堪えようの無い重苦しい感情が渦を巻く。


「それで弘前の談じ込みに、長州の動きは?」
それらの思いを漸く抑え、八郎は本来判じなければならない命題に戻った。
或いは。
それがどうしようもなく苛立つ己から目を逸せる、たったひとつの術だったのかもしれない。
「申し入れて半刻」
応える土方の声が硬い。

総司と清一郎が姿を消したのが今日の夕刻。
その一報が伝吉からもたらされ、瞬時にこの謀(はかりごと)を実行に移し、すでにふた刻(とき)が過ぎた。
談判は長州藩を動かし、弘前藩は人質ごと引渡しを受ける事ができたのか―――
それさえ果たされれば、最小限総司の身の安全だけは図れる。
だがその吉報を持って来る筈の山崎は、まだ自分の前に姿を現さない。
交渉は難航しているのか・・・
生身を裂かれるような辛苦の内に、このまま焦れて待ち続ける位ならば、いっそ猛り狂うままに唸り声を上げ、総司を囚えている者どもの中に斬り込んでしまいたい。
今土方は、ともすれば迸る怒りに突き立てられ動き出そうとする自分を、死にも狂いで律していた。


夜更けた闇が、物音ひとつさせず、深閑と辺りを覆っている。
誰もが口を閉ざせば、不気味なほどの静けさが、途端に室を支配する。
一度は座りなおした八郎が、再び衣擦れの音ひとつさせずに立ち上がった。

「行くよ」
辛抱は―――
もう疾うに我が身に過ぎた。
気負う風も無い物言いだったが、邪魔する者は許さぬ強靭さが、座す土方を見た双眸にあった。
又も止めるか、それとも見ぬ振りをするか。
恋敵の動きを見届ける為に、一瞬だけ足を止めた八郎の横に、意外にも同じ背丈の影が立ち上がった。
「薀蓄(うんちく)は聞き飽きたよ」
対峙するように目線が合った土方に、八郎は唇の端だけを歪め、揶揄して笑った。
「お前にする説教する暇なぞ、生憎持ち合わせていない」
一言、皮肉を返した強気の言葉が終わらぬ内に、八郎に先んじるように、土方は敷居を跨ぎ廊下に踏み出した。

「新撰組も大きくなって、大変なことだな」
独りごちた呟きは、前に行く背にではなく、やはりすぐ脇にまで来ていた田坂に向けられたものだった。
「その分、走る馬はあるだろう」
「大方得は、そんな処か」
だが憂鬱そうな声音に似合わぬ急(せ)いた歩みが、この男達の偽らざる心裡を現していた。




「・・・大丈夫」
覗き込む清一郎の顔が、薄闇ででも青いのが分かる。
それを慰撫する為に、漸く一言だけを告げるのに、総司は身体に残っている力の全てを振り絞らなければならなかった。
先程蹴り上げられた鳩尾が、息をする度に顔をしかめる程に痛む。
もしかしたら衝撃は、骨にまで届いているのかもしれない。
だがそれよりも、むせ返って起こった酷い咳の名残の方が、身体にはこたえているようだった。
未だ半身を起こす事もできず、こうして横たわったままが続いている。
時折小さな咳が零れ、喉の奥が笛を鳴らすような細く不快な音を出す。
額に滲む冷たい汗が目に入るのを、もう手を翳して拭う気力すら無く、総司は幾度か瞬きすることで遣り過ごした。

あれから――――
どの位の時が経たのか。
外の気配を欠片も感じさせないこの牢の中では、何もかもが分からない。


元は弘前の藩士と見受けられる浪人達について清一郎と家作を後にし、四半刻も行かない内に見えてきた小さな神社の鳥居を潜らされると、すぐに社の中に引き入れられた。
腰の大小を渡すようにと命じられ、それを果たした直後、二人とも目隠しで視界を塞がれ、手を後ろで戒められたまま駕籠に乗せられた。
やがて駕籠から降ろされ、意外にも縄が解かれ、漸く身体に自由が戻り瞳にものを映すことが出来た時には、すでに辺りの景色は夜の闇に沈み、着いた処が何処なのか、周りの状況で判別する事は叶わなかった。

その後無理矢理押し込められた室が、どうやら座敷牢のような造りになっているという事は、柱に掛けられた蝋燭の火の朧な灯りでかろうじて分かった。
だが連れてきた男達は最初から一言も発せず、一度香炉のようなものを持ってくると、再び後ろから羽交い絞めにして、総司と清一郎の自由を奪った。

清一郎が嗅がされようとしたそれを、僅かな隙を突いて背後の人間の腹部に肘鉄を当て、相手が怯んで力を緩めた刹那、空いた左手で香炉を弾き飛ばし阻んだのは、むせ返るような異臭ばかりでは無く、それが危険なものだと五感で察した、総司の本能のようなものだった。
壁に当たった香炉が砕け散る鋭い音を聞きはしたが、安堵するのも束の間で、一瞬嗅いでしまった煙に誘われ、間断なく強い咳を繰り返し始めた総司に男達は舌打ちすると、その仕置きのように、苦しさから前に傾いだ身体を、苛立ち紛れに蹴り始めた。
床に崩れ、もう呻き声も出ないようになっても暴力は続き、その幾度目かに、骨を割る鈍い音がした。

「やめろっ」
一瞬目の前に火花を散らしたような蒼い閃光が飛び交い、すぐにそれが濃い闇に変わろうとした寸座、清一郎の怒声ともつかぬ叫び声が、総司の遠ざかりかけた意識を呼び戻した。
「やめろっ、この人に手ぇ出したら、おまえ等何も分からずじまいやでっ」
次第にその声すら現のものとは思えぬ程心許無くなり、ともすれば途切れかける意識の狭間で、不意に視界が暗くなった。
それが人の影で、清一郎が自分を庇って男達の前に立ちはだかった為だと判じられたのは、朧に霞む瞳が映し出すものが、もう少しはっきりと像を結ぶようになってからだった。
「これ以上手ぇ出したら、舌噛み切ってやるっ。そしたらほんまに何も分からずに終わりやっ。それでもええんかいっ」
清一郎は必死に相手に脅しをかけているのだろうが、言葉尻は無残に震え、きっとその顔は誰が見ても酷く強張っているに違いない。

床に伏し、目線を上げることも出来ず苦しい息の下で、唯一総司の視界に入る清一郎の足袋の白さだけが、薄闇に不釣合いに清々しく浮かんでいたのが、総司の最後の記憶だった。



「・・・本当に・・大丈夫です」
まだ自分を見ている清一郎に、総司は今度は笑いかけようとして、だがすぐにそれは小さな呻き声に変わった。
「あばら、折ったんと違うやろか」
声を掛けるのすら憚るようにしながら、清一郎は恐る恐る手を伸ばした。
やがてそれが横たわる薄い肩に触れると、次には少しづつ骨ばった背を摩り始めた。
余裕と云うものが、削ぎ取らそうになる辛苦の中で、総司の瞳が驚きに見開かれた。
「・・・すみません」
ようよう声を絞り出せば、すぐさま胸の傷に響く。
「・・・ありがとう」
それでも総司は言わずにはいられなかった。
そうしてくれることで、痛みも苦しさも和らぐわけではなかったが、今は清一郎の気持ちが何よりも嬉しかった。

「痛みが消えることはあらへんけど、よく兄が・・・・」
言葉は、一度躊躇うように途切れた。
その意味するところを、総司は知っている。
兄の一生を凄惨な修羅で終わらせた組織の人間に語れるほど、兄弟の思い出は過去にはできていないのであろう。
否、それはもしかしたら清一郎が一生を終えるまで続くのかもしれない。

「河合さんは・・・癪が・・酷かったのですか・・?」
喘ぎながら、それを承知で尚話を終わらせたくは無いと、総司は瞳を上げた。
「持病、言うほどのもんでもなかったけど、たまに。半刻もすれば治まるよって、心配することあらへん、そう言うて笑ってたわ。けど痛む時はそら青い顔して、声も出せんように唸って。そういう時、背中を押さえたり、摩ってやると幾らか良うなったらしくて、苦しいながらも・・・ちょうど」
それまで背を摩る手を止めず語りながらも、何処か一点を見つめたままだった清一郎が、やっと総司を見た。
「丁度、あんたみたいに、おおきに、そう言うてくれた」
それはあまりにも僅かな瞬間浮かべられたものだったが、初めて総司に向けられた柔らかな笑い顔だった。
だが呆然と見上げる瞳から隠すように、清一郎はすぐに叉横を向いてしまった。

「あんた、さっきうちを庇ってくれたんやろ?」
総司はもう声を出すのも辛いのか、荒い息のまま瞬きもせずに見上げている。
「あれ、阿片や。・・・あんたそれに気づいて、うちが吸わせられるのを、庇ってくれた」
背に置かれた手の動きが、少しだけ、これから言う言葉を躊躇う清一郎の心をそのまま映して緩慢になった。
「・・・おおきに」
清一郎は一瞬だけ総司に視線を落としただけで、違う方に顔を向け、又ゆっくりと摩り始めた。
それが今の精一杯の気持ちなのだろう。
慌てて首を振って起こそうとした総司の上体が、無理を強いられたのを不満のように前に傾いだ。
「動いたらあかん」
支えてくれたのは、今度は両の手だった。

静かにもう一度横に倒されながら、総司は清一郎の手のぬくもりが、どうしてか今泣きたい程に切なかった。










          事件簿の部屋    雪時雨(九)